役目を終えたはずの巫女でした

騎士が運び込まれたのは、朝方だった。
腹部外傷。
出血量は多く、重症。
だが搬送は早く、患者は一名だった。

王宮診療所で対応する。
エルンストは、迷わずそう判断した。

手術は午前中に行われた。
損傷部位は限定的で、止血も確実だった。
夜勤明けの医師見習いユリウスが補助につき、看護師には、結界の修正を終えたばかりの桜が入った。

――術後1日目。

詰所で、いつものカンファレンスが行われる。

「発熱なし。腹部所見も落ち着いている」

エルンストが、カルテを見ながら言った。

「疼痛はあるが、薬草でコントロールできている。安静時は問題ない」

クラウスが続ける。

「本人は、動きたがっています」

それを聞いても、誰も驚かなかった。
騎士は、早く現場に復帰したいがために、無理な動作を自己判断で行ってしまうことが少なくない。

ただ、タンバの経過を見て以降、「動かすこと自体が悪ではない」という感覚は、診療所の中に、少しずつ根を下ろしていた。
エルンストも、その一人だった。

タンバの件では、彼は何度も桜に質問を重ねてきた。
エルンストは、年齢や立場に関係なく、知っている者がいれば、ためらいなく話を聞いた。

「どこからが、無理になる?」
「やらせない方がいい動きは?」

桜は、その都度、自分が把握している範囲で答えてきた。
日本のリハビリの本を読み、リハビリ科の理学療法士に、短い時間だが話を聞いたこともある。

いつもの勉強会の場で、早期の動作訓練が回復を促す助けになる場合がある――という知識は、すでに共有されていた。
ただ、タンバの症例以来、他の患者には、まだ導入していなかった。

エルンストは、カルテを閉じる。

「今回は、腹部損傷で、全身状態が安定している例だ」

視線を上げる。

「何より、本人に、早く動きたいという明確な意思がある」
「タンバとは、まったく状況が違う。同じやり方は、もちろん使えない」

だからこそ、と続けた。

「この症例では、早期の動作訓練を、慎重に、試験的に導入する」
「もちろん、患者へ説明し、同意を得たうえでだ」
「クラウス。同意を取るのは、お前に任せる。取れ次第、訓練を開始しろ」

騎士が断ることはないだろう――そうした前提のもと、具体的な指示が続く。

クラウスはそれを受けて言った。

「では、前提条件を確認します。出血兆候なし。感染兆候なし。腹部の緊張が、許容範囲であること」
「その上で、今日は立位保持までということでどうでしょうか?」

エルンストは、短く頷いた。

「移動はどうしましょう?」と看護師のマルタ。
「必要最低限で。トイレまでに限定しよう」とクラウス。

そこに、エルンストが付け加える。

「必ず付き添いをつけろ。腹圧がかかる動作は禁止で」

桜が補足する。

「動作は分解します。立つ。向きを変える。座る。一つずつです」

エルンストは、それを受けて言った。

「この症例で、回復がどう進むかを見る」
「経過が良ければ、腹部損傷で状態が安定している患者の、早期の動作訓練の指針とする」

「この内容は、全員に共有しますね」

マルタのその言葉に、その場にいた全員が、静かに気持ちを新たにした。


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クラウスは、カンファレンスのあと、病室を訪れた。
ベッドの上の騎士――グンターは、上体を少し起こして待っていた。

「体調はどうだい」
「悪くありません。……正直、もう少し動けそうです」

その言葉に、クラウスは頷く。
だが、すぐに続けた。

「今日から、動作訓練を始めるよ」

グンターの表情が、はっきりと明るくなる。

「ただし」

クラウスは、声の調子を変えなかった。

「自由に動いていい、という意味ではない。
 こちらで決めた手順に、必ず従ってもらうからね」

一瞬の間。
だが、騎士は迷わなかった。

「従います。
 立てるだけでも、十分です」

「条件がある、守れるかい?」
「痛みが強くなったら、即中止」
「腹に力を入れる動きは禁止」
「勝手な判断はしない」

「分かりました」

喜びは滲んでいる。
だが、軽率さはなかった。

「説明は以上だ。
 同意するかい?」

「はい」

それで話は終わった。

――病室を出たあと。

詰所の一角で、クラウス、桜、そして看護師のマルタが顔をそろえた。
マルタに呼ばれ、ロッテも合流する。

「今回の症例も、
 最初の動作訓練はサクラが入ることにしよう」

クラウスが言う。

「今いちばん詳しいのは、サクラだからね」

マルタが頷いた。

「最初はサクラの訓練を見学します。
 私かロッテ、それと介護人を一人」

「二日目以降は、
 サクラがいる日はサクラ。
 いない日は、私かロッテが主で」

「多角的に見た方が、分かりますから」

ロッテが補足する。

桜は、短く頷いた。

「しばらくは、その形がいいと思います」

「もし、今後新しい症例が出たら、
 まずサクラが入る」

クラウスが続ける。

「その動きをもとに、
 マルタかロッテが資料をまとめて、
 全員に共有する」

「統一しますね」

マルタが、きっぱりと言った。
誰も異論はなかった。

最初は、人を見る。
動きをそろえる。
それから、広げる。

診療所としての運用が、
静かに決まった。

――その流れのまま、
術後一日目の動作訓練が始まった。

病室には、桜、マルタ、介護人が一名いる。

「今日は、立てるかどうかを確認します」

桜は、そう前置きしてから続ける。

「歩きません。
 立つところまでです」

グンターは、静かに頷いた。

「まず、座ります」

ベッドの背をゆっくり起こす。
腹部に余計な力が入らないよう、
桜は声をかけながら動きを区切った。

「そのまま、足を下ろしましょう」

グンターの足が、床に触れる。
一瞬、表情がこわばった。

「大丈夫ですか」
「……問題ありません」

桜は、すぐには次へ進まない。
患者の様子を慎重に確認する。

「では、ここで少し待ちます」

数秒。
十秒。

「立ちます」

「前に倒れすぎないで。
 お腹に力を入れなくていいです」

手は添えるだけ。
引き上げることはしない。

ゆっくりと、立位になる。

「……立てています」

「そのままです。
 動かないでください」

数十秒。
長くても、一分ほど。

「めまいは?」
「ありません」

「お腹の痛みは?」
「少し張る感じはありますが、我慢できる程度です」

「では、ここまでです」

名残惜しそうな表情。
だが、グンターは従った。

同じ手順で、座位へ戻る。

「今日は、これで十分です」

桜が言う。

「立てたかどうかを見る日です。
 歩く話は、明日以降にしましょう」

グンターは、素直に頷いた。

「……それでも、動けたのは、嬉しいです」

その日の訓練は、
それだけで終わった。



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■グンターの独白


任務は、最初から決まっていた。
第4師団は二人。
警備に紛れ、一人が外に残る。
異変があれば、そちらが引き受ける。

中に入るのは、一人だけ。
俺が中に入る。
相棒は、警備の列に残る。

単独なら巡回に見える。
二人なら、不自然になる。

対象は、
処刑されたと公表された宰相、
ヘルマン・シュトラウス。

やることは一つ。
生きているかどうかを、
この目で確認する。

接触はしない。
救出もしない。

内部は静かだった。
警備はいるが、過剰ではない。
死んだことになっている男に、
手間はかけていない。

――対象を見た。
生きていた。

拘束は最低限。
鎖はある。
拷問の痕はない。

自由ではないが、
急いで処分する様子もない。

こちらを見た瞬間、
彼は理解した。
救出ではない。
生存確認だけだ。

彼は何も言わない。
身振りもしない。

生かされている理由を、
理解している人間の態度だった。

確認は終わった。
ここでやることは、もうない。

俺は引き返す。
撤収する。
それだけだ。

路地へ戻る途中、
空気が変わった。

――露見した。

相棒が、外で動く。
警備の注意を引き受ける。
視線が、一斉にそちらへ流れる。

その瞬間、
腹に衝撃が走った。

刃は深い。
だが、致命傷じゃない。

切られた瞬間、
分かった。
殺す気なら、
この深さでは済まない。

――捕まえるつもりだ。

誰の密偵か。
単独か。
どこまで知っているか。

生かしたまま、
吐かせるための一撃。

ここで捕まれば、終わりだ。

気力で、
のたうち回りそうな痛みに耐える。

「引け」

特別師団の男の声が聞こえる。
魔力は、ほとんど感じない。
俺も、相棒も、
あの男も、抑えている。

ここで魔力を使えば、
正体が割れる。

特別師団の男は、
剣技だけで前に出た。

倒さない。
追っ手の足を止め、
進路をずらす。
深追いさせない。
混乱だけを残す。

その隙で、
俺は相棒に体を支えられつつ、
距離を取る。

しばらくして、
特別師団の男も追っ手を振り切り、
別の路地から現れた。

三人が揃う。
それで十分だ。

俺たちは、
そのまま撤退に入る。

追撃はない。
撒けた。

腹の中で、
血が広がる感覚がある。
だが、意識は保っている。

任務は、すでに終わっている。

名前。
場所。
拘束の状況。
監視の人数。

確認したのは、俺だけだ。

密偵が入り込んだ以上、
今後、監視は確実に強化される。
見つかったのは痛手だ。

それでも、
第4師団の仕事は変わらない。
見たことを、
事実として持ち帰る。

それだけだ。