■火曜日 帰り道で
火曜日の結界調整は、特に問題なく終わった。
いつも通りの手応えで、いつも通りの帰路。
隣を歩いていたクロトが、ほんのわずか歩幅を落とした。
それに気づいたのは、桜のほうが先だった。
「……サクラ様」
呼ばれて、足を止める。
「はい」
クロトは一度、視線を落とした。
結界や警備の話をするときとは、明らかに違う間だった。
「もしよろしければですが、明日、前回と同じく水曜日のお昼ごろ、読み書きの練習をなさいますか」
桜は、すぐには答えられなかった。
断る理由は、ない。
けれど、軽く頷いてしまうほど、気楽な話でもなかった。
「……はい」
少し間を置いてから、そう返す。
「お願いします。でも、本当に……お時間、大丈夫ですか?」
忙しいはずだと分かっているから、つい、そう確認してしまう。
「問題ありません」
クロトはそれだけ答えた。
距離も、声の調子も、いつもと変わらない。
「では、水曜日の昼頃で。ご都合が悪ければ、いつでも仰ってください」
「……ありがとうございます」
それで話は終わった。
部屋に入って一人になると、桜は自分の足取りが、少しだけ早くなっていることに気づいた。
――落ち着こう。
そう思ったけれど、理由の分かっているざわつきは、なかなか静まらなかった。
――――――――――
■水曜日 落ち着かない昼
休みの日。
普段なら、勉強会までの時間を、特に何をするでもなく過ごす。
結界の仕事を終えたあと、二度寝をしたり、ぼんやりと窓の外を眺めたり。
それで十分だった。
けれど今日は、落ち着かなかった。
理由は、分かっている。
クロトが来るからだ。
毎回こうやって緊張するのも、そろそろどうにかならないかな、と思う。
だからといって、何かを期待しているわけではない。
ただ、少し長く話す時間がある。
それだけのことだ。
それなのに、何もしないでいることができない。
桜は、机の上に、町で買ったノートとペンを置き直した。
少し前から使い始めたものだ。
――まだ、時間はある。
そう思ったところで、扉を叩く音がした。
桜は一度、息を吸ってから答える。
「どうぞ」
――――――――――
■水曜日 静かな時間
「失礼します」
クロトが部屋に入る。
その瞬間、胸の奥が、きゅっと音を立てた。
――来る前よりは、落ち着いている。でも、平気なわけじゃない。
机に向かい合って座る。
クロトの視線が、机の上で止まった。
「……ノートとペンが、変わりましたね」
「え? あ……はい」
少し驚いてから、頷く。
「この前、町に出たときに買いました」
「そうでしたね。報告は受けています。どうでしたか?」
「はい。短い時間ですけど」
話し始めると、自然と声が軽くなる。
「連れて行ってもらったお店の料理が、すごく美味しくて」
「どのような料理でしたか」
「煮込みです。香辛料の使い方が、日本と全然違っていて」
思い出して、少し笑う。
「町の雰囲気も、日本とはまた違っていて、歩いているだけで面白かったです」
クロトは、静かに聞いていた。
「それは、良い経験ですね」
「はい。ここで生活してるんだなって、実感しました。仕事も大分慣れてきて、案外、こちらでもやっていける気がします」
深い意味はなく、思ったことをそのまま口にした。
クロトが一瞬、動きを止めたことには気づかなかった。
桜はノートを開く。
新しい紙の感触が、少しだけ心を落ち着かせる。
「では、始めましょうか」
「はい、お願いします」
読み書きは、いつも通り、丁寧に進んだ。
大分時間が経ってから、クロトがふと思い出したように言う。
「……では、発音も練習しますか?」
「え?」
「この間、ゼフィーリア語を話されていたので。もしよろしければ」
正直、クロトに完ぺきではない発音を聞かれるのは、少し恥ずかしい。
けれど、せっかく言ってくれたのに、断ることはできなかった。
「……お願いします」
「どの言葉にしますか?」
「ありがとうございました、でお願いします」
「理由を伺っても?」
「よく使いそうなので」
それだけは、迷わなかった。
クロトが発音する前に、意識が「ゼフィーリア語を習う」ほうへ切り替わる。
クロトが発音する。
自動翻訳されるのではない、クロト自身のゼフィーリア語が、耳に入ってくる。
不思議な感じがした。
難しいはずなのに、耳ごこちがいい。
桜は、少し遅れてなぞった。
「……『ありがとうございました』」
すぐに分かる。
形は似ているが、同じではない。
もう一度。
それでも、完全には重ならない。
何度か繰り返して、ようやく、わずかな手応えが返ってくる。
クロトは、すぐには評価しなかった。
耳を澄ませるようにしてから、静かに言う。
「……大分、良いと思います」
少し、うまくなったことに、ほっとする。
「この国の言葉は、本当に発音が難しくて。まだまだ、先は長いですね」
時計を見る。
――もう、二時間近い。
終了の時間だ。
あっという間だった。
桜は、最近、少し気になっていたことを口にした。
「あの……」
クロトが視線を向ける。
「最近、診療所で、お隣の大国の様子がおかしいっていう噂を聞きました」
医療関係者同士の、断片的な話だ。
確かな情報ではない。
それでも、聞き流せなかった。
クロトは、すぐには答えなかった。
否定も、肯定もせず、黙って桜の言葉を聞いている。
「……大丈夫でしょうか」
桜は、最近、胸の奥が少しざわついた理由を、そのまま問いにした。
クロトは、一拍置いてから口を開いた。
「現時点で、サクラ様の生活に影響が出るような状況ではありません」
断言でも、安心させるためだけの言葉でもない、落ち着いた声だった。
「診療所や王宮としても、過度に警戒を促す段階ではありません」
「……そうですか」
それだけで、肩の力が少し抜ける。
「噂が出やすい時期、というだけです」
「そうなんですね」
桜は、それ以上は踏み込まなかった。
聞きたいのは、世界情勢そのものではない。
自分が、ここで普通に暮らしていけるのか。
ただ、それだけだった。
「何か変化があれば、必ず共有されます」
「……はい」
クロトは立ち上がり、いつもの距離で一礼する。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
扉の前で、桜は一瞬だけ迷ってから、小さく息を吸った。
「……『ありがとうございました』」
ゼフィーリア語だった。
クロトは、ほんのわずかに目を瞬かせてから、静かに頷く。
「ええ」
それだけで、十分だった。
扉が閉まる。
桜は、しばらくその場に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。
――――――――――
■水曜日 いつもの時間
クロトとの時間が終わり、桜は部屋を軽く整えた。
水曜日の夕方。
この部屋で行うのは、もう何度目になるだろう。
王宮診療所の、ささやかな勉強会だ。
集まったのは、内科医のクラウス、看護師のマルタとロッテ、そして桜の四人。
薬草については一年かけて、勉強会で知識を深めてきた。
その後は、各々の経験や知識を共有する場へと変わっていった。
「では、今日の共有から始めようか」
クラウスの一言で、勉強会が始まる。
ロッテが、手元の紙に目を落とした。
「タンバさんの件です。自宅に戻ってからも、経過は順調です」
桜は、自然と顔を上げていた。
「麻痺はまだ残っていますが、疼痛はほとんどなくなったそうです。歩行も、まだぎこちないですが、軽い仕事は再開しています。本人も、動作訓練を頑張っているようです」
淡々とした報告だったが、内容は明るい。
「神経損傷があった割には、回復が早いですね」
マルタがそう言うと、クラウスが小さく頷いた。
「ああ。正直、ここまで戻るとは思っていなかった」
少し間を置いてから、クラウスは桜を見る。
「実は、今日この勉強会をお願いしたのは、それも理由の一つなんだ」
桜は、姿勢を正した。
「エルンスト先生から、今後、動作訓練の方針をまとめていく役を、任されてね」
マルタとロッテが、驚いたように顔を上げる。
「先生が、ですか」
「ああ。診療所としても、毎回方針がばらつくのは良くないだろう、という話になってね」
重々しい言い方ではなかったが、本気なのは伝わってくる。
「その第一歩として、サクラの世界で行われている動作訓練について、教えてほしい」
桜は、少し考えてから口を開いた。
「専門的なことは、私も詳しく説明できるわけではありません」
「それで十分」
クラウスは、即座に答えた。
「考え方を知りたい。今後、診療所でも似た症例では、なるべく統一した動作訓練を取り入れていきたいと思っている」
桜は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「日本では、神経を傷めた場合でも、完全に断たれていなければ、回復する可能性があると考えられています」
マルタが、静かに頷いた。
「ただし、何もしなければ、その可能性は使われません」
ロッテが、少し身を乗り出す。
「動かす、ということですか?」
「はい。痛みや危険がない範囲で、少しでも動かします。今回のタンバさんのように」
桜は続けた。
「治ってから動かす、ではなくて、動かしながら治す、という考え方です」
クラウスは、腕を組んだまま聞いている。
「寝たきりが続くと、筋力が落ちたり、関節が固まったりします。それに、動く感覚そのものを、体や頭が忘れてしまうこともあります」
マルタが、小さく息を吸った。
「だから、日本では、術後でも、状態が許せば、翌日から動作訓練を行うことが多いです」
桜は、少し声を落とした。
「もちろん、全員に当てはまるわけではありません。傷が開く、出血する、命に関わる場合は、絶対にやりません」
ロッテが、ゆっくり頷く。
「タンバさんは、それを実践した、ということですね」
その言葉に、部屋が少し静かになる。
クラウスが、考えるように言った。
「つまり、あの回復は、動作訓練を頑張った成果も含まれている、ということなのか」
桜は、はっきりとは断言しなかった。
「可能性は、あると思います」
少しの沈黙のあと、クラウスは頷いた。
「悪いが、サクラ。あちらに行ったときに、動作訓練の知識を、可能な範囲でいいから持ち帰ってくれないか。神経損傷から始めるのは大変だから、まずは術後や外傷後の動作訓練についてだけでいいから」
「わかりました。私の世界で行われている動作訓練について、本なども調べて、皆さんと共有できるようにします」
「頼むよ」
クラウスは短く、感謝を込めて言った。
「これから、もっと良くなるわね」
マルタが笑みを浮かべる。
ロッテも、その言葉に力強く頷いた。
勉強会は、新たな目標を定めて、終了した。
そのあと、簡単な食事を囲み、少し雑談をしてから解散する。
水曜日の、いつもの流れだった。
大きな変化ではない。
それでも、確かな一歩だった。
火曜日の結界調整は、特に問題なく終わった。
いつも通りの手応えで、いつも通りの帰路。
隣を歩いていたクロトが、ほんのわずか歩幅を落とした。
それに気づいたのは、桜のほうが先だった。
「……サクラ様」
呼ばれて、足を止める。
「はい」
クロトは一度、視線を落とした。
結界や警備の話をするときとは、明らかに違う間だった。
「もしよろしければですが、明日、前回と同じく水曜日のお昼ごろ、読み書きの練習をなさいますか」
桜は、すぐには答えられなかった。
断る理由は、ない。
けれど、軽く頷いてしまうほど、気楽な話でもなかった。
「……はい」
少し間を置いてから、そう返す。
「お願いします。でも、本当に……お時間、大丈夫ですか?」
忙しいはずだと分かっているから、つい、そう確認してしまう。
「問題ありません」
クロトはそれだけ答えた。
距離も、声の調子も、いつもと変わらない。
「では、水曜日の昼頃で。ご都合が悪ければ、いつでも仰ってください」
「……ありがとうございます」
それで話は終わった。
部屋に入って一人になると、桜は自分の足取りが、少しだけ早くなっていることに気づいた。
――落ち着こう。
そう思ったけれど、理由の分かっているざわつきは、なかなか静まらなかった。
――――――――――
■水曜日 落ち着かない昼
休みの日。
普段なら、勉強会までの時間を、特に何をするでもなく過ごす。
結界の仕事を終えたあと、二度寝をしたり、ぼんやりと窓の外を眺めたり。
それで十分だった。
けれど今日は、落ち着かなかった。
理由は、分かっている。
クロトが来るからだ。
毎回こうやって緊張するのも、そろそろどうにかならないかな、と思う。
だからといって、何かを期待しているわけではない。
ただ、少し長く話す時間がある。
それだけのことだ。
それなのに、何もしないでいることができない。
桜は、机の上に、町で買ったノートとペンを置き直した。
少し前から使い始めたものだ。
――まだ、時間はある。
そう思ったところで、扉を叩く音がした。
桜は一度、息を吸ってから答える。
「どうぞ」
――――――――――
■水曜日 静かな時間
「失礼します」
クロトが部屋に入る。
その瞬間、胸の奥が、きゅっと音を立てた。
――来る前よりは、落ち着いている。でも、平気なわけじゃない。
机に向かい合って座る。
クロトの視線が、机の上で止まった。
「……ノートとペンが、変わりましたね」
「え? あ……はい」
少し驚いてから、頷く。
「この前、町に出たときに買いました」
「そうでしたね。報告は受けています。どうでしたか?」
「はい。短い時間ですけど」
話し始めると、自然と声が軽くなる。
「連れて行ってもらったお店の料理が、すごく美味しくて」
「どのような料理でしたか」
「煮込みです。香辛料の使い方が、日本と全然違っていて」
思い出して、少し笑う。
「町の雰囲気も、日本とはまた違っていて、歩いているだけで面白かったです」
クロトは、静かに聞いていた。
「それは、良い経験ですね」
「はい。ここで生活してるんだなって、実感しました。仕事も大分慣れてきて、案外、こちらでもやっていける気がします」
深い意味はなく、思ったことをそのまま口にした。
クロトが一瞬、動きを止めたことには気づかなかった。
桜はノートを開く。
新しい紙の感触が、少しだけ心を落ち着かせる。
「では、始めましょうか」
「はい、お願いします」
読み書きは、いつも通り、丁寧に進んだ。
大分時間が経ってから、クロトがふと思い出したように言う。
「……では、発音も練習しますか?」
「え?」
「この間、ゼフィーリア語を話されていたので。もしよろしければ」
正直、クロトに完ぺきではない発音を聞かれるのは、少し恥ずかしい。
けれど、せっかく言ってくれたのに、断ることはできなかった。
「……お願いします」
「どの言葉にしますか?」
「ありがとうございました、でお願いします」
「理由を伺っても?」
「よく使いそうなので」
それだけは、迷わなかった。
クロトが発音する前に、意識が「ゼフィーリア語を習う」ほうへ切り替わる。
クロトが発音する。
自動翻訳されるのではない、クロト自身のゼフィーリア語が、耳に入ってくる。
不思議な感じがした。
難しいはずなのに、耳ごこちがいい。
桜は、少し遅れてなぞった。
「……『ありがとうございました』」
すぐに分かる。
形は似ているが、同じではない。
もう一度。
それでも、完全には重ならない。
何度か繰り返して、ようやく、わずかな手応えが返ってくる。
クロトは、すぐには評価しなかった。
耳を澄ませるようにしてから、静かに言う。
「……大分、良いと思います」
少し、うまくなったことに、ほっとする。
「この国の言葉は、本当に発音が難しくて。まだまだ、先は長いですね」
時計を見る。
――もう、二時間近い。
終了の時間だ。
あっという間だった。
桜は、最近、少し気になっていたことを口にした。
「あの……」
クロトが視線を向ける。
「最近、診療所で、お隣の大国の様子がおかしいっていう噂を聞きました」
医療関係者同士の、断片的な話だ。
確かな情報ではない。
それでも、聞き流せなかった。
クロトは、すぐには答えなかった。
否定も、肯定もせず、黙って桜の言葉を聞いている。
「……大丈夫でしょうか」
桜は、最近、胸の奥が少しざわついた理由を、そのまま問いにした。
クロトは、一拍置いてから口を開いた。
「現時点で、サクラ様の生活に影響が出るような状況ではありません」
断言でも、安心させるためだけの言葉でもない、落ち着いた声だった。
「診療所や王宮としても、過度に警戒を促す段階ではありません」
「……そうですか」
それだけで、肩の力が少し抜ける。
「噂が出やすい時期、というだけです」
「そうなんですね」
桜は、それ以上は踏み込まなかった。
聞きたいのは、世界情勢そのものではない。
自分が、ここで普通に暮らしていけるのか。
ただ、それだけだった。
「何か変化があれば、必ず共有されます」
「……はい」
クロトは立ち上がり、いつもの距離で一礼する。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
扉の前で、桜は一瞬だけ迷ってから、小さく息を吸った。
「……『ありがとうございました』」
ゼフィーリア語だった。
クロトは、ほんのわずかに目を瞬かせてから、静かに頷く。
「ええ」
それだけで、十分だった。
扉が閉まる。
桜は、しばらくその場に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。
――――――――――
■水曜日 いつもの時間
クロトとの時間が終わり、桜は部屋を軽く整えた。
水曜日の夕方。
この部屋で行うのは、もう何度目になるだろう。
王宮診療所の、ささやかな勉強会だ。
集まったのは、内科医のクラウス、看護師のマルタとロッテ、そして桜の四人。
薬草については一年かけて、勉強会で知識を深めてきた。
その後は、各々の経験や知識を共有する場へと変わっていった。
「では、今日の共有から始めようか」
クラウスの一言で、勉強会が始まる。
ロッテが、手元の紙に目を落とした。
「タンバさんの件です。自宅に戻ってからも、経過は順調です」
桜は、自然と顔を上げていた。
「麻痺はまだ残っていますが、疼痛はほとんどなくなったそうです。歩行も、まだぎこちないですが、軽い仕事は再開しています。本人も、動作訓練を頑張っているようです」
淡々とした報告だったが、内容は明るい。
「神経損傷があった割には、回復が早いですね」
マルタがそう言うと、クラウスが小さく頷いた。
「ああ。正直、ここまで戻るとは思っていなかった」
少し間を置いてから、クラウスは桜を見る。
「実は、今日この勉強会をお願いしたのは、それも理由の一つなんだ」
桜は、姿勢を正した。
「エルンスト先生から、今後、動作訓練の方針をまとめていく役を、任されてね」
マルタとロッテが、驚いたように顔を上げる。
「先生が、ですか」
「ああ。診療所としても、毎回方針がばらつくのは良くないだろう、という話になってね」
重々しい言い方ではなかったが、本気なのは伝わってくる。
「その第一歩として、サクラの世界で行われている動作訓練について、教えてほしい」
桜は、少し考えてから口を開いた。
「専門的なことは、私も詳しく説明できるわけではありません」
「それで十分」
クラウスは、即座に答えた。
「考え方を知りたい。今後、診療所でも似た症例では、なるべく統一した動作訓練を取り入れていきたいと思っている」
桜は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「日本では、神経を傷めた場合でも、完全に断たれていなければ、回復する可能性があると考えられています」
マルタが、静かに頷いた。
「ただし、何もしなければ、その可能性は使われません」
ロッテが、少し身を乗り出す。
「動かす、ということですか?」
「はい。痛みや危険がない範囲で、少しでも動かします。今回のタンバさんのように」
桜は続けた。
「治ってから動かす、ではなくて、動かしながら治す、という考え方です」
クラウスは、腕を組んだまま聞いている。
「寝たきりが続くと、筋力が落ちたり、関節が固まったりします。それに、動く感覚そのものを、体や頭が忘れてしまうこともあります」
マルタが、小さく息を吸った。
「だから、日本では、術後でも、状態が許せば、翌日から動作訓練を行うことが多いです」
桜は、少し声を落とした。
「もちろん、全員に当てはまるわけではありません。傷が開く、出血する、命に関わる場合は、絶対にやりません」
ロッテが、ゆっくり頷く。
「タンバさんは、それを実践した、ということですね」
その言葉に、部屋が少し静かになる。
クラウスが、考えるように言った。
「つまり、あの回復は、動作訓練を頑張った成果も含まれている、ということなのか」
桜は、はっきりとは断言しなかった。
「可能性は、あると思います」
少しの沈黙のあと、クラウスは頷いた。
「悪いが、サクラ。あちらに行ったときに、動作訓練の知識を、可能な範囲でいいから持ち帰ってくれないか。神経損傷から始めるのは大変だから、まずは術後や外傷後の動作訓練についてだけでいいから」
「わかりました。私の世界で行われている動作訓練について、本なども調べて、皆さんと共有できるようにします」
「頼むよ」
クラウスは短く、感謝を込めて言った。
「これから、もっと良くなるわね」
マルタが笑みを浮かべる。
ロッテも、その言葉に力強く頷いた。
勉強会は、新たな目標を定めて、終了した。
そのあと、簡単な食事を囲み、少し雑談をしてから解散する。
水曜日の、いつもの流れだった。
大きな変化ではない。
それでも、確かな一歩だった。
