王宮診療所の朝は、
必ず引き継ぎから始まる。
詰所の中央に置かれた長机を囲み、
夜勤を終えた看護師あるいは医師と介護人、
これから入る日勤の者たちが集まる。
この時間帯の引き継ぎは、
基本的に看護師と介護人が担う。
夜勤が医師だった場合のみ、医師も同席する。
「じゃあ、夜間の分、いきますね」
夜勤の看護師マルタが紙束を手に取り、淡々と読み上げる。
感情は挟まない。
評価もしない。
事実だけを、同じ順序で並べる。
「発熱者なし」
「痛み止めの追加対応、二名」
紙を一枚めくる音がした。
「新規入院、一名」
「昨日の昼、王宮庭師」
「名前、タンバ・グレン、四十歳」
その場の空気が、わずかに変わる。
「梯子から落下」
「腰部を強打」
「骨折なし」
「ただし――」
マルタは一拍置いた。
「左下肢に、麻痺としびれあり」
誰かが、小さく息を吸う。
「昨日は応急対応のみ」
「安静指示」
「排泄は介助あり」
「感覚、鈍麻」
「左下肢の自発的な運動は、ほぼなし」
「痛みは?」
桜が、初めて口を開いた。
「腰部は動作時にあり」
「左脚自体の痛みは、ほぼなし」
「ただ、本人の訴えとして――」
マルタは視線を上げる。
「『動かない』という認識が、かなり強い」
桜は頷いた。
「私、今日、この方の担当をしてもいいですか?」
「お願いします」
引き継ぎは終了した。
病室に入ると、
タンバは既に目を覚ましていた。
上半身を少し起こし、
毛布の下にある左脚を、
何度も確かめるように見ている。
「タンバ・グレンさん」
声をかけると、男は顔を上げた。
「……はい」
低い声。
だが、落ち着いている。
「今日、担当の看護師です」
名乗りはそれだけだった。
桜はいきなり触れない。
椅子を引き寄せ、
目線を合わせる位置に座る。
「昨日のこと、覚えていますか」
「覚えてます」
即答だった。
「落ちた瞬間のことも?」
「ええ」
「梯子が、少し滑って」
「腰を打ちました」
「そのあと、左脚は?」
タンバは、少し間を置いた。
「……最初から、変でした」
「立とうとしたら、力が入らなかった」
「今も、同じ感じですか」
「同じです」
桜は、うなずくだけで次に進む。
「しびれは、ありますか」
「あります」
「ずっと、鈍い感じが」
「触られた感じは?」
「分かります」
「でも、はっきりじゃない」
桜は、ここで初めてベッドに近づいた。
「少し、触りますね」
同意を待ち、
足先、足首、ふくらはぎと、
反応を一つずつ確かめる。
「自分で、動かそうとすると?」
タンバは、視線を左脚に落としたまま、
小さく首を振った。
「……ほぼ動きません」
その言葉は、
もう何度も頭の中で繰り返したものだった。
「医師からは、何と言われましたか」
「骨は大丈夫だって」
「でも……」
タンバは、言葉を探すように一度息を吸う。
「神経でしょう、って」
それだけで、
この世界では十分だった。
「もう、治らないですよね……」
そして、続ける。
「庭仕事は、
立ったり、しゃがんだりが多い」
「この足じゃ……」
諦めの言葉だった。
嘆きではない。
怒りでもない。
ただ、
現実を先に受け取ってしまった声。
桜は、口に出す言葉を選ぶ。
「前のようには難しいかもしれません」
「ただ、一つだけはっきりしていることがあります」
「最初から、あきらめないでください」
タンバが、初めてきちんと桜の顔を見る。
「元通りになるとは、言えません」
桜は、静かに続ける。
「でも」
「動かなくても、
どうか、動かそうとすることは、やめないでください」
「……動かなくても?」
「はい」
「今は、動かなくて当然です」
「それでも、
意識を向けることはできます」
男は、しばらく黙っていた。
「……やって、意味はあるんですか」
「意味があるかどうかは、
積み重ねないと分かりません」
桜は、視線を逸らさなかった。
「ただ」
「何もしないよりは、
なくさずに済みます」
長い沈黙のあと、
タンバは、小さく頷いた。
その日の午後、
桜はエルンストを訪ねた。
「庭師のタンバさんの件で、
ご相談があります」
エルンストは書類から視線を上げ、
短く頷いた。
「概要は聞いている」
「腰部打撲、骨折なし」
「左下肢に麻痺と感覚鈍麻」
桜は一つ、息を整える。
「はい」
「可動域の確保は、当然行います」
「その先だな」
「……はい」
桜は、慎重に言葉を選んだ。
「神経が戻る、と言い切るつもりはありません」
「この世界では、
神経損傷は不可逆と考えられていることも、承知しています」
エルンストは腕を組み、黙って聞く。
「ただ」
「使わなければ、
使えなくなる可能性が高い状態です」
「逆に、使い続ければ」
「完全でなくても、
戻る余地は残ります」
エルンストは、視線を逸らさない。
「痛みは出るだろう」
「はい」
桜は即答した。
「動作に伴う痛みは、前提です」
「ただし」
「その日の反応と、翌日の変化は必ず確認します」
「具体的には」
「痛みの残り方」
「しびれや麻痺の範囲が、広がっていないか」
「新しい症状が出ていないかです」
「悪化があれば?」
「その時点で、負荷は落とします」
「中止も含め、現場で判断します」
しばらくの沈黙。
「判断は、誰が担う」
「判断基準については、
医師の指示を明確にしていただければ」
「それを、現場で共有します」
「その上で、現場での中止判断は、
看護師と介護人で共有し、
その日の担当が行います」
「方針の見直しが必要な場合は、
必ず報告します」
エルンストは、短く息を吐いた。
「……分かった」
一拍置いて、続ける。
「この世界では」
「神経を理由に、
あきらめる選択をする者が多い」
「わかっています」
「ですが、“何もしない”ことで」
「最初から可能性を閉じる判断は、したくありません」
沈黙ののち、
エルンストは口を開いた。
「術後などの“動作訓練”として扱え」
一拍。
「行うと決めた以上」
「患者に、途中でやめさせるな」
必ず引き継ぎから始まる。
詰所の中央に置かれた長机を囲み、
夜勤を終えた看護師あるいは医師と介護人、
これから入る日勤の者たちが集まる。
この時間帯の引き継ぎは、
基本的に看護師と介護人が担う。
夜勤が医師だった場合のみ、医師も同席する。
「じゃあ、夜間の分、いきますね」
夜勤の看護師マルタが紙束を手に取り、淡々と読み上げる。
感情は挟まない。
評価もしない。
事実だけを、同じ順序で並べる。
「発熱者なし」
「痛み止めの追加対応、二名」
紙を一枚めくる音がした。
「新規入院、一名」
「昨日の昼、王宮庭師」
「名前、タンバ・グレン、四十歳」
その場の空気が、わずかに変わる。
「梯子から落下」
「腰部を強打」
「骨折なし」
「ただし――」
マルタは一拍置いた。
「左下肢に、麻痺としびれあり」
誰かが、小さく息を吸う。
「昨日は応急対応のみ」
「安静指示」
「排泄は介助あり」
「感覚、鈍麻」
「左下肢の自発的な運動は、ほぼなし」
「痛みは?」
桜が、初めて口を開いた。
「腰部は動作時にあり」
「左脚自体の痛みは、ほぼなし」
「ただ、本人の訴えとして――」
マルタは視線を上げる。
「『動かない』という認識が、かなり強い」
桜は頷いた。
「私、今日、この方の担当をしてもいいですか?」
「お願いします」
引き継ぎは終了した。
病室に入ると、
タンバは既に目を覚ましていた。
上半身を少し起こし、
毛布の下にある左脚を、
何度も確かめるように見ている。
「タンバ・グレンさん」
声をかけると、男は顔を上げた。
「……はい」
低い声。
だが、落ち着いている。
「今日、担当の看護師です」
名乗りはそれだけだった。
桜はいきなり触れない。
椅子を引き寄せ、
目線を合わせる位置に座る。
「昨日のこと、覚えていますか」
「覚えてます」
即答だった。
「落ちた瞬間のことも?」
「ええ」
「梯子が、少し滑って」
「腰を打ちました」
「そのあと、左脚は?」
タンバは、少し間を置いた。
「……最初から、変でした」
「立とうとしたら、力が入らなかった」
「今も、同じ感じですか」
「同じです」
桜は、うなずくだけで次に進む。
「しびれは、ありますか」
「あります」
「ずっと、鈍い感じが」
「触られた感じは?」
「分かります」
「でも、はっきりじゃない」
桜は、ここで初めてベッドに近づいた。
「少し、触りますね」
同意を待ち、
足先、足首、ふくらはぎと、
反応を一つずつ確かめる。
「自分で、動かそうとすると?」
タンバは、視線を左脚に落としたまま、
小さく首を振った。
「……ほぼ動きません」
その言葉は、
もう何度も頭の中で繰り返したものだった。
「医師からは、何と言われましたか」
「骨は大丈夫だって」
「でも……」
タンバは、言葉を探すように一度息を吸う。
「神経でしょう、って」
それだけで、
この世界では十分だった。
「もう、治らないですよね……」
そして、続ける。
「庭仕事は、
立ったり、しゃがんだりが多い」
「この足じゃ……」
諦めの言葉だった。
嘆きではない。
怒りでもない。
ただ、
現実を先に受け取ってしまった声。
桜は、口に出す言葉を選ぶ。
「前のようには難しいかもしれません」
「ただ、一つだけはっきりしていることがあります」
「最初から、あきらめないでください」
タンバが、初めてきちんと桜の顔を見る。
「元通りになるとは、言えません」
桜は、静かに続ける。
「でも」
「動かなくても、
どうか、動かそうとすることは、やめないでください」
「……動かなくても?」
「はい」
「今は、動かなくて当然です」
「それでも、
意識を向けることはできます」
男は、しばらく黙っていた。
「……やって、意味はあるんですか」
「意味があるかどうかは、
積み重ねないと分かりません」
桜は、視線を逸らさなかった。
「ただ」
「何もしないよりは、
なくさずに済みます」
長い沈黙のあと、
タンバは、小さく頷いた。
その日の午後、
桜はエルンストを訪ねた。
「庭師のタンバさんの件で、
ご相談があります」
エルンストは書類から視線を上げ、
短く頷いた。
「概要は聞いている」
「腰部打撲、骨折なし」
「左下肢に麻痺と感覚鈍麻」
桜は一つ、息を整える。
「はい」
「可動域の確保は、当然行います」
「その先だな」
「……はい」
桜は、慎重に言葉を選んだ。
「神経が戻る、と言い切るつもりはありません」
「この世界では、
神経損傷は不可逆と考えられていることも、承知しています」
エルンストは腕を組み、黙って聞く。
「ただ」
「使わなければ、
使えなくなる可能性が高い状態です」
「逆に、使い続ければ」
「完全でなくても、
戻る余地は残ります」
エルンストは、視線を逸らさない。
「痛みは出るだろう」
「はい」
桜は即答した。
「動作に伴う痛みは、前提です」
「ただし」
「その日の反応と、翌日の変化は必ず確認します」
「具体的には」
「痛みの残り方」
「しびれや麻痺の範囲が、広がっていないか」
「新しい症状が出ていないかです」
「悪化があれば?」
「その時点で、負荷は落とします」
「中止も含め、現場で判断します」
しばらくの沈黙。
「判断は、誰が担う」
「判断基準については、
医師の指示を明確にしていただければ」
「それを、現場で共有します」
「その上で、現場での中止判断は、
看護師と介護人で共有し、
その日の担当が行います」
「方針の見直しが必要な場合は、
必ず報告します」
エルンストは、短く息を吐いた。
「……分かった」
一拍置いて、続ける。
「この世界では」
「神経を理由に、
あきらめる選択をする者が多い」
「わかっています」
「ですが、“何もしない”ことで」
「最初から可能性を閉じる判断は、したくありません」
沈黙ののち、
エルンストは口を開いた。
「術後などの“動作訓練”として扱え」
一拍。
「行うと決めた以上」
「患者に、途中でやめさせるな」
