Scene 1
朝の通学路は、いつもと変わらない景色が広がっていた。坂道を登り切ったところで見える桜の木は、もう葉桜になっていて、四月も後半に差し掛かり、新学期の慌ただしさもようやく落ち着き始めた頃だった。私——桜井楓は、スマホの画面を確認しながら校門をくぐり、今日の時間割が数学から始まることを思い出して、少しだけ憂鬱な気分になった。
週末が明けた月曜日。いつもと変わらない朝のはずだった。
下駄箱で上履きに履き替え、いつものように校舎へ入る。階段を上がり、二階の廊下を歩く。窓から差し込む朝日が、廊下を明るく照らしていて、いつもならこの光を浴びながら、二年B組の教室へ向かうはずだった。
二年A組の前を通り過ぎる。次は私のクラスのはず——そう思いながら歩を進めた瞬間、足が止まった。
二年A組の隣には、二年C組の教室がある。その隣が二年D組。私は何度か瞬きをして、もう一度廊下を見渡した。二年A組、二年C組、二年D組……何かがおかしい。いつもならA組とC組の間にあるはずの、二年B組の教室がない。
いや、正確には教室自体は存在している。だが、扉に掲げられているプレートが違う。いつも見慣れた『二年B組』の文字の代わりに、『資料室』という札が掛かっていた。
悪戯だろうか。誰かが朝早く来て、プレートを付け替えたのかもしれない。そう思いながら、私は扉に手をかけた。ノブを回すと、軽い音を立てて扉が開く。中に足を踏み入れた瞬間、息が詰まった。
教室の面影はどこにもなかった。机も椅子も黒板もない。代わりに、段ボール箱が積み上げられ、古びた実験器具や使われなくなった備品が雑然と置かれている。窓際には埃を被った棚が並び、奥には誰も使わないであろう古い教材が山積みになっていた。部屋の中には、長い間人が出入りしていないような、埃っぽい空気が漂っている。
ここは確かに、先週まで私たちが使っていた二年B組の教室だ。金曜日の授業が終わるまで、私たちは確かにここにいた。窓の位置も、教室の広さも、全て記憶と一致している。だが、中身は完全に別の部屋に変わっていた。まるで何年も前から、ずっとこの状態だったかのように。
背筋に冷たいものが走る。これは悪戯の域を超えている。週末の二日間でこれほど大規模に教室を入れ替えることなど、できるはずがない。机や椅子を全て運び出し、段ボール箱や古い備品を運び込み、しかもそれらに埃まで積もらせるなんて、物理的に不可能だ。
私は廊下に飛び出し、周囲を見回した。登校してきた生徒たちが、何事もなかったように教室へ向かっている。誰も異変に気づいている様子はない。いつもと同じ朝の風景が、当たり前のように流れている。
どうなっているんだろう。混乱する頭で、私は最も近くにいた女子生徒に声をかけた。彼女は同じ学年の生徒のようだったが、顔は見覚えがなかった。
「ねえ、二年B組って、どこにあるか知らない?」
彼女は不思議そうな顔で私を見た。まるで、変なことを聞かれたという表情だ。
「二年B組? そんなクラス、うちの学年にあったっけ?」
「え……?」
「うちは二年生、A組とC組とD組の三クラスだよ。B組なんてないけど」
彼女はそう言うと、不思議なものを見るような目で私を一瞥し、自分の教室へと歩いていった。私はその場に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見送ることしかできなかった。
三クラス? そんなはずはない。この学校の二年生は四クラス編成のはずだ。私が所属していた二年B組は、確かに存在していた。先週の金曜日まで、間違いなく。春野美咲も、中村陽菜も、田中健人も、みんな確かにそこにいた。私たちは同じ教室で授業を受け、昼休みには一緒に笑い合い、放課後には部活動や委員会の話をしていた。
それなのに、なぜ。なぜ誰も覚えていないのだろう。
私は再び資料室になってしまった教室の前に立った。ドアノブに手をかけ、もう一度中を確認する。やはり、そこは資料室だった。金曜日まで私の机があった場所には、埃を被った段ボール箱が置かれている。春野さんがいつも座っていた窓際の席には、古びた地球儀が転がっていた。
夢なんだろうか。それとも、私の記憶がおかしくなってしまったのだろうか。でも、記憶は鮮明すぎるほど鮮明だ。先週の金曜日、春野さんと一緒に図書室へ行った。彼女は新刊の小説を借りると言っていて、私は宿題のための資料を探していた。別れ際、彼女は「また週明けにね」と笑顔で手を振った。あの笑顔を、私は確かに見た。
私はポケットからスマホを取り出し、連絡先を確認した。春野美咲の名前を探す。だが、そこにはなかった。中村陽菜も、田中健人も、二年B組のクラスメイト全員の名前が、連絡先から消えている。
心臓が早鐘を打った。これは、ただの記憶違いなんかじゃない。何かが起きている。何か、とんでもないことが。
Scene 2
職員室へ向かう足取りは、自分でも驚くほど速かった。廊下を走り、階段を駆け下りる。息を切らしながら職員室の扉を開けると、何人かの教師が準備をしているところだった。コピー機の音、書類をめくる音、教師たちの雑談の声——いつもの朝の職員室の風景が、そこにはあった。
「先生!」
私の声に、担任の吉岡先生が振り向いた。四十代半ばの、いつも穏やかな表情を浮かべている女性教師だ。彼女は二年B組の担任で、いつも生徒の話をよく聞いてくれる、優しい先生だった——少なくとも、先週まではそうだったはずだ。
「桜井さん? どうしたの、そんなに慌てて」
吉岡先生の声は、いつもと変わらず優しかった。だが、私を見る目には、何か違和感があった。まるで、私のことをよく知らないかのような、少し距離のある視線だった。
「二年B組が……二年B組の教室が、資料室になってるんです!」
吉岡先生は首を傾げた。困ったような、それでいてどこか戸惑ったような表情だ。
「二年B組?」
「はい! 私たちのクラスです。先生が担任の。先週の金曜日まで確かにあったのに、今朝行ったら教室が資料室に変わっていて……」
「桜井さん」
吉岡先生は困ったような笑みを浮かべた。その笑顔が、私にはひどく冷たく感じられた。
「落ち着いて。うちの学年は、A組とC組とD組の三クラスしかないわよ」
「でも……」
「あなたは二年C組でしょう? ほら」
吉岡先生は机の上にあった出席簿を手に取り、私に見せた。表紙には『二年C組』と書かれている。ページを開くと、確かに『桜井楓』という名前があった。出席番号は十五番。私の名前の上には見知らぬ名前が並び、下にも見知らぬ名前が続いている。
そんなはずはない。私は二年B組だ。出席番号は十八番で、吉岡先生が担任で、クラスメイトは三十五人いて——
「先生、二年B組の担任は先生ですよね?」
「私? 私は二年D組の担任よ。二年C組は田村先生が担当してる」
吉岡先生は、隣の机に座っている男性教師を指さした。田村先生——確かにこの学校の教師だが、私は彼と話したことがほとんどない。なのに、彼が私の担任だというのだろうか。
「そんな……おかしいです。確かに二年B組はあったんです。春野さんも、中村さんも、田中くんも……みんな、いたはずなんです」
「春野さん? 中村さん?」
吉岡先生は記憶を辿るように視線を宙に向けた。その表情には、本当に心当たりがないという様子が滲んでいた。
「ごめんなさい、その名前に心当たりがないわ。うちの学年にそういう生徒はいないと思うけど……」
そのとき、隣の机にいた別の教師が口を挟んだ。体育教師の佐藤先生だ。
「吉岡先生、今年の二年生って何人でしたっけ?」
「えっと……A組が三十六人、C組が三十五人、D組が三十四人だから、合計百五人ね」
「そうでしたね。去年より少し減りましたよね。一年生のときは四クラスあったのに」
「ええ。今年は三クラス編成になったのよ」
会話を聞きながら、私は愕然とした。もし二年B組が存在していたら、生徒数はもっと多いはずだ。三十五人分が加わって、合計百四十人ほどになるはずなのに。だが、教師たちは当然のように三クラス分の人数だけを数えている。しかも、一年生のときは四クラスあったと言っている。それなのに、二年生になって三クラスに減ったと、何の疑問もなく話している。
待って。一年生のときは四クラス? それはおかしい。私たちは一年生のときも二年生のときも、ずっと四クラスだったはずだ。一年A組、一年B組、一年C組、一年D組。そして二年生になって、そのままクラス替えがあって、二年A組、二年B組、二年C組、二年D組になった。
それなのに、なぜ教師たちは「一年生のときは四クラスで、二年生で三クラスに減った」と言っているのだろう。
「桜井さん、もしかして寝不足とか、体調が悪いんじゃない? 保健室で休む?」
吉岡先生の優しい声が、どこか遠くから聞こえた。彼女は本当に心配してくれているのだろう。だが、その心配が、私にはひどく辛かった。私のことを心配してくれているのに、私が訴えていることは全く信じてもらえない。
「いえ……大丈夫です。失礼しました」
私は職員室を出た。廊下に立ち尽くし、深呼吸を繰り返す。冷たい空気が肺に入り、少しだけ頭が冷えた気がした。
これは何かの間違いだ。きっと何かの手違いで、みんなが記憶を失っているだけだ。そう自分に言い聞かせても、胸の中の不安は消えなかった。むしろ、職員室での会話で、不安はさらに大きくなっていた。
教師たちの記憶も書き換わっている。出席簿も書き換わっている。学校の記録も、おそらく全て書き換わっているのだろう。二年B組という教室が、最初から存在しなかったかのように。
二年B組は、本当に消えてしまったのだろうか。そして、あのクラスにいた三十五人の生徒たちは、どこへ行ってしまったのだろう。
私は廊下の窓から外を見た。校庭では、体育の授業を受けている生徒たちが見える。いつもと変わらない、平和な学校の風景。だが、その風景の中に、二年B組の姿はどこにもなかった。
Scene 3
一時間目の授業は、まるで夢の中にいるような感覚だった。教師の声も、黒板に書かれる文字も、全てが現実味を欠いているように感じられる。私は二年C組の教室にいた——そう周りの全員が言っているし、教室のドアにもそう書いてある。だが、私の記憶では、私は二年B組の生徒だ。
隣の席に座っているのは、見知らぬ女子生徒だった。彼女は授業が始まる前、私に気さくに話しかけてきた。
「ねえ楓、週末何してた?」
楓——私の名前を、彼女は当然のように呼んだ。まるで、ずっと友達だったかのように。
「あ、うん……特に何も」
「そっか。私はずっと寝てたよー」
彼女は私のことを、親しい友人のように扱っている。だが、私には彼女の名前も顔も記憶にない。いや、もしかしたら廊下ですれ違ったことくらいはあるかもしれない。でも、こんなに親しげに話したことは、絶対にないはずだ。
授業中、私は何度も周りを見回した。教室の中には、三十五人の生徒がいる。そのうちの何人かは見覚えがあった。一年生のとき、同じクラスだった生徒や、委員会活動で一緒だった生徒。だが、大半は見知らぬ顔だった。
そして、春野美咲も、中村陽菜も、田中健人も、ここにはいなかった。
昼休みになると、私は中庭へ逃げるように向かった。人気のないベンチに座り、膝を抱える。頭の中が混乱していて、何も考えられなかった。ただ、一つだけ確かなことがある。
私の記憶は、間違っていない。
二年B組は存在していた。春野美咲も、中村陽菜も、田中健人も、みんな確かにそこにいた。先週の金曜日、私たちは確かに一緒にいた。それなのに、なぜ誰も覚えていないのだろう。なぜ私だけが、あの教室の記憶を持っているのだろう。
誰も信じてくれない。誰も覚えていない。二年B組という教室も、そこにいた三十五人のクラスメイトも、まるで最初から存在しなかったかのように、世界から消えていた。
私の記憶がおかしいのだろうか。でも、それにしては鮮明すぎる。春野美咲の笑顔も、中村陽菜の声も、田中健人の冗談も、全て先週のことのように思い出せる。彼らの顔も、性格も、癖も、全て覚えている。そんなに詳細に覚えているのに、それが全て私の妄想だというのだろうか。
「君も、覚えてるんだな」
突然、声が聞こえて顔を上げた。
目の前に立っていたのは、見覚えのある男子生徒だった。柊蒼太——二年B組のクラスメイトだ。黒縁の眼鏡をかけた、どこか冷静な印象を与える彼は、いつも図書室で本を読んでいた。成績優秀で、特に数学や情報系の科目が得意だと聞いていた。クラスではあまり目立つタイプではなかったが、質問されれば丁寧に答えてくれる、誠実な性格の持ち主だった。
「柊くん……!」
私は思わず立ち上がった。彼の姿を見た瞬間、胸の奥から何かが溢れ出しそうになった。自分だけじゃない。自分だけが狂ってしまったわけじゃない。この人も、覚えている。
「やっぱり、覚えてるんだ。二年B組のこと」
「ああ」
蒼太は隣のベンチに腰を下ろし、私も再び座った。彼の表情は、いつもと変わらず冷静だったが、その目には確かに、戸惑いと困惑が浮かんでいた。
「今朝、教室が消えてるのに気づいて、色々調べてみたんだ。でも、誰も覚えてない。出席簿にも、学校の記録にも、二年B組の痕跡が一切ない。ホームページの学年紹介も確認したけど、二年生は三クラスだけになってた」
「私も……誰に聞いても、そんなクラスはないって言われて」
「不思議なのは」
蒼太は慎重に言葉を選ぶように続けた。
「なぜ、僕たち二人だけが覚えているのか、ということだ」
その疑問は、私も抱いていた。なぜ私たちだけが、消えた教室の記憶を持っているのだろう。他のクラスメイトたちは、みんな記憶を失ってしまったのだろうか。それとも、どこか別の場所で、同じように混乱しているのだろうか。
「他のクラスメイトも、どこかで同じように混乱してるのかな」
私の問いに、蒼太は首を横に振った。
「それは考えにくい。もしそうなら、朝の時点でもっと騒ぎになってるはずだ。でも、学校は平穏だった。ということは、記憶を保持しているのは、本当に僕たち二人だけかもしれない」
「どうして……どうして私たちだけなんだろう」
「わからない。でも、何か理由があるはずだ。偶然じゃない。僕たちが選ばれた理由が、きっとある」
蒼太はそう言って、少し考え込むような表情を浮かべた。しばらく沈黙が続いた後、彼はゆっくりと口を開いた。
「桜井、君は週末、何か変わったことはなかった? 夢を見たとか、奇妙な体験をしたとか」
「夢……」
私は記憶を辿った。週末、確かに夢を見た。だが、それは朝になったら忘れてしまうような、曖昧な夢だった。
「よく覚えてないけど……誰かが、何か言ってたような気がする。『忘れないで』って」
「忘れないで……」
蒼太は何かを考えるように、視線を宙に向けた。
「僕も、似たような夢を見た。暗闇の中で、誰かの声が聞こえた。『真実を見つけて』って」
私たちは顔を見合わせた。二人とも、同じような夢を見ていた。それは、ただの偶然なのだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか。
「クラスメイトたちは、どこに行ったんだろう」
私の問いに、蒼太は少し考えてから答えた。
「わからない。でも、完全に消えてしまったわけじゃないと思う。どこかに、必ず痕跡が残っているはずだ」
「痕跡……」
「そう。人間が三十五人も同時に消えるなんて、物理的にありえない。もし本当に消えたなら、家族や友人が大騒ぎになるはずだ。でも、そんな様子はない。ということは、彼らは消えたわけじゃなく、記録や記憶から『削除された』んだ」
蒼太の冷静な分析に、少しだけ心が落ち着いた。彼の言う通りだ。もし本当に三十五人が消えたなら、ニュースになるはずだ。警察が動くはずだ。でも、そんなことは起きていない。ということは、彼らは消えたわけじゃない。ただ、誰も覚えていないだけ。
「記録や記憶から削除……それって、可能なの?」
「現実的には不可能だ。でも、実際に起きている。だから、何か超常的な力が働いているか、あるいは僕たちが認識できない何かのシステムが存在しているか……どちらにせよ、常識では説明できない現象だ」
蒼太はそう言って、少し考え込むような表情を浮かべた。彼の指が、無意識に眼鏡のフレームを触っている。考え事をしているときの癖だ。
「でも、完璧なシステムなんて存在しない。どんなに精巧に作られたものでも、必ずどこかに綻びがある。バグがある。それを見つければ、真実に辿り着けるかもしれない」
「その綻びを見つければ……」
「クラスメイトたちを取り戻せるかもしれない」
蒼太は立ち上がり、私に手を差し伸べた。その手は、少し震えていた。いつも冷静な彼も、本当は動揺しているのだろう。それでも、こうして前を向こうとしている。
「一緒に探そう。二年B組の真実を。そして、みんなを取り戻そう」
私はその手を取った。彼の手は、意外と温かかった。
「うん。一緒に探そう」
私たちは中庭のベンチから立ち上がった。午後の日差しが、私たちを照らしている。この世界は、何も変わっていないように見える。でも、確かに何かが変わってしまった。そして、それを元に戻すのは、私たちしかいない。
「まずは、何か手がかりを探そう。記録が残っている場所から調べるのが、いいと思う」
蒼太が言った。
「記録が残っている場所……図書室とか?」
「そう。図書館の貸出記録は、システムに残る。もしかしたら、そこに痕跡が残っているかもしれない」
私たちは校舎へと歩き出した。これから何が待っているのか、まだわからない。でも、一人じゃない。そう思うだけで、少しだけ勇気が湧いてきた。
Scene 4
放課後、私たちは図書室へ向かった。蒼太の提案で、まずは何か記録が残っていないか調べることにしたのだ。
「春野さんは、よく図書室に来てたよね」
歩きながら、蒼太が言った。
「うん。本を読むのが好きだって言ってた。特にミステリーが好きで、よく新刊をチェックしてたよ」
「そうだったんだ。僕も図書室にはよく来るんだけど、あまり話したことがなくて……」
蒼太の声には、少しだけ後悔のような響きがあった。もっと話しておけばよかった。そんな思いが、言葉の端々に滲んでいる。
「でも、今からでも遅くないよ。みんなを取り戻せたら、ちゃんと話せるよ」
「……そうだな」
図書室のドアを開けると、静かな空間が広がっていた。窓際の席では数人の生徒が勉強をしている。本棚の間を歩く生徒の姿も見える。いつもと変わらない、平和な図書室の風景だった。
カウンターには、図書館司書の白石さんが座っていた。三十代半ばくらいの、落ち着いた雰囲気を持つ女性だ。彼女はいつも静かに本を整理していて、生徒たちからも慕われている。私たちが近づくと、白石さんは顔を上げた。
「あら、桜井さんに柊くん。いらっしゃい」
「こんにちは」
蒼太が言った。
「あの、貸出記録を見せていただけませんか? 春野美咲さんという生徒が、最近借りた本を調べたいんです」
「春野……美咲さん?」
白石さんは首を傾げた。だが、その表情には他の教師たちとは違う何かがあった。完全に否定するのではなく、記憶の奥底を探るような、不確かな様子だった。彼女の目には、何か引っかかるものがあるような、そんな光が宿っていた。
「その名前……どこかで聞いたような気がするんだけど」
「覚えてるんですか?」
私は身を乗り出した。もしかしたら、白石さんも記憶を保っているのかもしれない。そんな期待が、胸の中に湧き上がった。
「いえ、はっきりとは……でも、何か忘れてる気がして。最近、ずっとそういう感覚があるの。大切な何かを忘れているような……夢の中で誰かと話していたような……そんな、曖昧な感覚」
白石さんは困ったように笑い、パソコンの画面を操作し始めた。キーボードを叩く音が、静かな図書室に響く。私と蒼太は、息を詰めてその様子を見守った。
「春野美咲さん、ね。検索してみるわ」
しばらくして、白石さんが小さく息を呑んだ。
「あった……記録が残ってる」
「本当ですか!」
私と蒼太は、同時に画面を覗き込んだ。そこには、確かに『春野美咲』という名前があった。学年、クラス、そして貸出履歴。全て、そこに記録されていた。
学年:二年 クラス:B組 氏名:春野美咲
その文字を見た瞬間、胸が熱くなった。ここに、証拠がある。二年B組が存在していた証拠が。春野美咲が存在していた証拠が。
「でも、おかしいわね。この生徒、今年の二年生の名簿にはいないはずなのに……」
白石さんは画面を見つめたまま、戸惑いを隠せない様子だった。
「システムのバグかしら。それとも、卒業生のデータが混ざってしまったのかしら……いえ、でも卒業生なら『卒業』って記録が残るはずなんだけど……」
「いえ、彼女は確かに今年の二年生です」
蒼太が落ち着いた口調で言った。
「最後に借りた本はなんですか?」
「最後に借りた本は……『星空の記憶』。返却日は四月二十二日、つまり今日になってるわ。でも、まだ返却されてないみたい」
「その本、今どこにありますか?」
白石さんは書架の方を指さした。
「あちらの小説のコーナーにあると思うけど……貸出中なら、棚にはないはずね。でも、もし棚にあったら……」
白石さんの声が、途中で途切れた。まるで、何か言いたいことがあるのに、言葉が出てこないような、そんな表情だった。
私たちは小説のコーナーへ向かった。五十音順に並べられた本の中から、『星空の記憶』を探す。蒼太が慎重に棚を見ていき、やがて一冊の文庫本を手に取った。
「あった」
青い表紙に、夜空の星が描かれている。美しい装丁の本だった。春野さんが最後に借りた本——彼女は、どんな気持ちでこの本を読んだのだろう。
本を開くと、途中のページに何かが挟まっていた。栞ではない。白い紙切れに、黒いインクで描かれた奇妙な模様——それは、規則正しく並んだ正方形の集まりだった。
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■□□□■□■□■□□□■
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「これって……」
蒼太はすぐにスマホを取り出し、カメラアプリを起動した。
「二次元コード、だよね」
「こんなところに……誰が?」
「わからない。でも、これは偶然じゃない。誰かが、意図的に残したんだ」
スマホのカメラを紙にかざすと、画面が一瞬光った。そして、ブラウザが自動的に開き、あるウェブサイトが表示される。URLは https://kieta-kyoushitsu.com/memory/01 と表示されていた。画面には、黒い背景に白い文字が浮かび上がっていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【#消えた教室 真相ファイル】
ようこそ、記憶の探偵へ。
ここには、彼らが遺した「最後の言葉」が
眠っています。
あなたがこのページに辿り着いたということは、
あなたもまた、「記憶を保持する者」なのでしょう。
世界は書き換えられました。
しかし、全てを消すことはできませんでした。
彼らの想いは、まだここに残っています。
五つの記憶のカケラを集めてください。
そうすれば、真実が見えるでしょう。
[記憶のカケラ 01/05 解放]
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
私と蒼太は顔を見合わせた。記憶の探偵? 彼らが遺した最後の言葉? この謎めいたメッセージは、一体何を意味しているのだろう。そして、五つの記憶のカケラとは、何なのだろう。
「誰が、こんなサイトを……」
「わからない。でも、これは僕たちに宛てられたメッセージだ。『記憶を保持する者』——つまり、僕たちのような、二年B組を覚えている人間に向けて作られたサイトだ」
蒼太が画面をタップすると、新しいページが開いた。そこには、SNSの投稿のような形式で、文章が表示されていた。日付、時刻、そして投稿者の名前。
【記憶のカケラ #01】
投稿者:春野美咲
日時:4月19日 23:47
「もう疲れた。
完璧な私を演じるのに疲れた。
誰も本当の私を見てくれない。
今夜、私は消える。
きっと誰も気づかない」
#消えたい
文章を読み終えた瞬間、背筋が凍りついた。投稿日時は四月十九日——金曜日の深夜だ。春野美咲が、こんな言葉を遺していたなんて。
「美咲が……これを?」
私の声は震えていた。いつも明るく笑っていた春野美咲。クラスの人気者で、誰とでも仲良く話し、成績も良く、スポーツも得意で、完璧に見えた彼女が、こんな言葉を遺していたなんて。誰にも見せなかった、彼女の本当の気持ち。
「『完璧な私を演じる』……彼女、辛かったんだな」
蒼太の声にも、普段の冷静さとは違う感情が滲んでいた。彼もまた、春野さんのことを知っていた。同じクラスで過ごした時間は、決して長くはなかったけれど、それでも彼女の笑顔を見ていた。その笑顔の裏に、こんな苦しみがあったなんて。
「私、気づいてあげられなかった……いつも笑ってたから、幸せなんだって思ってた」
「誰も気づけなかったんだ。彼女は、それだけ上手に隠していた。でも……」
蒼太は画面を見つめたまま、言葉を続けた。
「だからこそ、僕たちが真実を見つけなきゃいけない。彼女が、みんながどうして消えたのか。そして、どうすれば取り戻せるのか」
画面をスクロールすると、投稿の下に、いくつかのコメントが表示されていた。だが、そのコメントは全て削除されていて、「このコメントは削除されました」という文字だけが残っていた。まるで、春野さんとやり取りをしていた人たちの存在までが、消されてしまったかのように。
さらにスクロールすると、最後にメッセージが表示された。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
記憶の探偵へ
あなたは、最初の記憶のカケラを見つけました。
彼女の言葉を、心に刻んでください。
[次の記憶のカケラを見つけるには、
「彼女が想いを残した場所」へ行きなさい]
ヒント:
• 夕焼けが美しく見える場所
• 禁じられた場所
• 彼女の想いが残された場所
次のカケラは、そこで待っています。
進行状況:[●○○○○] 1/5
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
私たちは顔を見合わせた。彼女が想いを残した場所——それはどこだろう。春野さんは、消える前、どこにいたのだろう。何をしていたのだろう。
「夕焼けが美しく見える場所……禁じられた場所……」
蒼太が呟いた。彼の目が、何かに気づいたように光った。
「もしかして……」
「わかるの?」
「美咲のSNSを確認してみよう。何か手がかりがあるかもしれない」
私たちは本を元の場所に戻し、図書室を出た。白石さんに会釈をすると、彼女は不思議そうな顔で私たちを見送った。その目には、まだ何か引っかかるものがあるような、そんな光が残っていた。
「白石さんも、何か感じてるみたいだったね」
廊下を歩きながら、私が言った。
「ああ。完全には記憶を失っていないのかもしれない。もしかしたら、他にも記憶の断片を持っている人がいるのかもしれない。ただ、それを思い出せないだけで」
私たちは、誰もいない階段の踊り場に立ち止まった。蒼太がスマホを取り出し、SNSアプリを開く。
「アカウント名は?」
「haruno_misakiだったと思う」
蒼太は検索し、すぐにアカウントが見つかる。プロフィール画像は、満面の笑みを浮かべた美咲の写真だ。フォロワー数は五百人を超えていて、投稿も頻繁にされていた。
だが、アカウントを開いた瞬間、違和感があった。フォロワー数が表示されているのに、フォロワーのリストを開こうとすると、エラーが出る。投稿へのいいねやコメントも、全て消えていた。まるで、このアカウントだけが、世界から切り離されてしまったかのように。
「これ……おかしいな。フォロワーのデータが全部消えてる。コメントも、いいねも……」
「世界が書き換えられたとき、春野さんに関する記録も一緒に消されたんだ。でも、完全には消せなかった。だから、こうして痕跡が残ってる」
投稿を遡っていくと、最後の投稿が見つかった。四月十九日の夕方、夕焼けの写真。オレンジ色に染まった空と、その下に見える校舎。キャプションには、こう書かれていた。
「夕焼けって、なんでこんなに切ないんだろう」
蒼太が写真を拡大し、細部を確認した。
「この角度……高い場所から撮影してる。校舎の形、フェンスの一部……そして、夕焼けが美しく見える場所、禁じられた場所……」
「わかったの?」
「ああ。多分……」
私たちは顔を見合わせた。
「今から行く?」
蒼太は腕時計を確認し、首を横に振った。
「もう五時を回ってる。下校時刻まで十分もない。今日は月曜で生徒会が見回りを強化してる日だ。立入禁止の場所に入ろうとして見つかったら、面倒なことになる」
確かに、廊下の向こうから生徒会の腕章をつけた生徒たちの声が聞こえてくる。今日は月初めの安全点検週間で、放課後の校内巡回が厳しいのだ。
「明日なら、委員会活動で遅くまで残れる理由がある」
蒼太が続けた。
「明日、放課後。そこで次の記憶のカケラを探そう」
夕日が、窓から差し込んできた。オレンジ色の光が、廊下を染めている。春野さんが最後に見た夕焼けと、同じ色。
私たちは、明日への決意を胸に、それぞれの帰り道へと向かった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【読者への挑戦】
もし、あなたがこの物語を読んでいるなら——
次の場所を推理してください。
「彼女が想いを残した場所」
「夕焼けが美しく見える場所」
「禁じられた場所」
それは、どこでしょうか?
#消えた教室 のハッシュタグで
あなたの推理をシェアしてください。
次の章で、答えが明らかになります。
特設サイト:https://kieta-kyoushitsu.com/memory/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【第1章 完】
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朝の通学路は、いつもと変わらない景色が広がっていた。坂道を登り切ったところで見える桜の木は、もう葉桜になっていて、四月も後半に差し掛かり、新学期の慌ただしさもようやく落ち着き始めた頃だった。私——桜井楓は、スマホの画面を確認しながら校門をくぐり、今日の時間割が数学から始まることを思い出して、少しだけ憂鬱な気分になった。
週末が明けた月曜日。いつもと変わらない朝のはずだった。
下駄箱で上履きに履き替え、いつものように校舎へ入る。階段を上がり、二階の廊下を歩く。窓から差し込む朝日が、廊下を明るく照らしていて、いつもならこの光を浴びながら、二年B組の教室へ向かうはずだった。
二年A組の前を通り過ぎる。次は私のクラスのはず——そう思いながら歩を進めた瞬間、足が止まった。
二年A組の隣には、二年C組の教室がある。その隣が二年D組。私は何度か瞬きをして、もう一度廊下を見渡した。二年A組、二年C組、二年D組……何かがおかしい。いつもならA組とC組の間にあるはずの、二年B組の教室がない。
いや、正確には教室自体は存在している。だが、扉に掲げられているプレートが違う。いつも見慣れた『二年B組』の文字の代わりに、『資料室』という札が掛かっていた。
悪戯だろうか。誰かが朝早く来て、プレートを付け替えたのかもしれない。そう思いながら、私は扉に手をかけた。ノブを回すと、軽い音を立てて扉が開く。中に足を踏み入れた瞬間、息が詰まった。
教室の面影はどこにもなかった。机も椅子も黒板もない。代わりに、段ボール箱が積み上げられ、古びた実験器具や使われなくなった備品が雑然と置かれている。窓際には埃を被った棚が並び、奥には誰も使わないであろう古い教材が山積みになっていた。部屋の中には、長い間人が出入りしていないような、埃っぽい空気が漂っている。
ここは確かに、先週まで私たちが使っていた二年B組の教室だ。金曜日の授業が終わるまで、私たちは確かにここにいた。窓の位置も、教室の広さも、全て記憶と一致している。だが、中身は完全に別の部屋に変わっていた。まるで何年も前から、ずっとこの状態だったかのように。
背筋に冷たいものが走る。これは悪戯の域を超えている。週末の二日間でこれほど大規模に教室を入れ替えることなど、できるはずがない。机や椅子を全て運び出し、段ボール箱や古い備品を運び込み、しかもそれらに埃まで積もらせるなんて、物理的に不可能だ。
私は廊下に飛び出し、周囲を見回した。登校してきた生徒たちが、何事もなかったように教室へ向かっている。誰も異変に気づいている様子はない。いつもと同じ朝の風景が、当たり前のように流れている。
どうなっているんだろう。混乱する頭で、私は最も近くにいた女子生徒に声をかけた。彼女は同じ学年の生徒のようだったが、顔は見覚えがなかった。
「ねえ、二年B組って、どこにあるか知らない?」
彼女は不思議そうな顔で私を見た。まるで、変なことを聞かれたという表情だ。
「二年B組? そんなクラス、うちの学年にあったっけ?」
「え……?」
「うちは二年生、A組とC組とD組の三クラスだよ。B組なんてないけど」
彼女はそう言うと、不思議なものを見るような目で私を一瞥し、自分の教室へと歩いていった。私はその場に立ち尽くしたまま、彼女の背中を見送ることしかできなかった。
三クラス? そんなはずはない。この学校の二年生は四クラス編成のはずだ。私が所属していた二年B組は、確かに存在していた。先週の金曜日まで、間違いなく。春野美咲も、中村陽菜も、田中健人も、みんな確かにそこにいた。私たちは同じ教室で授業を受け、昼休みには一緒に笑い合い、放課後には部活動や委員会の話をしていた。
それなのに、なぜ。なぜ誰も覚えていないのだろう。
私は再び資料室になってしまった教室の前に立った。ドアノブに手をかけ、もう一度中を確認する。やはり、そこは資料室だった。金曜日まで私の机があった場所には、埃を被った段ボール箱が置かれている。春野さんがいつも座っていた窓際の席には、古びた地球儀が転がっていた。
夢なんだろうか。それとも、私の記憶がおかしくなってしまったのだろうか。でも、記憶は鮮明すぎるほど鮮明だ。先週の金曜日、春野さんと一緒に図書室へ行った。彼女は新刊の小説を借りると言っていて、私は宿題のための資料を探していた。別れ際、彼女は「また週明けにね」と笑顔で手を振った。あの笑顔を、私は確かに見た。
私はポケットからスマホを取り出し、連絡先を確認した。春野美咲の名前を探す。だが、そこにはなかった。中村陽菜も、田中健人も、二年B組のクラスメイト全員の名前が、連絡先から消えている。
心臓が早鐘を打った。これは、ただの記憶違いなんかじゃない。何かが起きている。何か、とんでもないことが。
Scene 2
職員室へ向かう足取りは、自分でも驚くほど速かった。廊下を走り、階段を駆け下りる。息を切らしながら職員室の扉を開けると、何人かの教師が準備をしているところだった。コピー機の音、書類をめくる音、教師たちの雑談の声——いつもの朝の職員室の風景が、そこにはあった。
「先生!」
私の声に、担任の吉岡先生が振り向いた。四十代半ばの、いつも穏やかな表情を浮かべている女性教師だ。彼女は二年B組の担任で、いつも生徒の話をよく聞いてくれる、優しい先生だった——少なくとも、先週まではそうだったはずだ。
「桜井さん? どうしたの、そんなに慌てて」
吉岡先生の声は、いつもと変わらず優しかった。だが、私を見る目には、何か違和感があった。まるで、私のことをよく知らないかのような、少し距離のある視線だった。
「二年B組が……二年B組の教室が、資料室になってるんです!」
吉岡先生は首を傾げた。困ったような、それでいてどこか戸惑ったような表情だ。
「二年B組?」
「はい! 私たちのクラスです。先生が担任の。先週の金曜日まで確かにあったのに、今朝行ったら教室が資料室に変わっていて……」
「桜井さん」
吉岡先生は困ったような笑みを浮かべた。その笑顔が、私にはひどく冷たく感じられた。
「落ち着いて。うちの学年は、A組とC組とD組の三クラスしかないわよ」
「でも……」
「あなたは二年C組でしょう? ほら」
吉岡先生は机の上にあった出席簿を手に取り、私に見せた。表紙には『二年C組』と書かれている。ページを開くと、確かに『桜井楓』という名前があった。出席番号は十五番。私の名前の上には見知らぬ名前が並び、下にも見知らぬ名前が続いている。
そんなはずはない。私は二年B組だ。出席番号は十八番で、吉岡先生が担任で、クラスメイトは三十五人いて——
「先生、二年B組の担任は先生ですよね?」
「私? 私は二年D組の担任よ。二年C組は田村先生が担当してる」
吉岡先生は、隣の机に座っている男性教師を指さした。田村先生——確かにこの学校の教師だが、私は彼と話したことがほとんどない。なのに、彼が私の担任だというのだろうか。
「そんな……おかしいです。確かに二年B組はあったんです。春野さんも、中村さんも、田中くんも……みんな、いたはずなんです」
「春野さん? 中村さん?」
吉岡先生は記憶を辿るように視線を宙に向けた。その表情には、本当に心当たりがないという様子が滲んでいた。
「ごめんなさい、その名前に心当たりがないわ。うちの学年にそういう生徒はいないと思うけど……」
そのとき、隣の机にいた別の教師が口を挟んだ。体育教師の佐藤先生だ。
「吉岡先生、今年の二年生って何人でしたっけ?」
「えっと……A組が三十六人、C組が三十五人、D組が三十四人だから、合計百五人ね」
「そうでしたね。去年より少し減りましたよね。一年生のときは四クラスあったのに」
「ええ。今年は三クラス編成になったのよ」
会話を聞きながら、私は愕然とした。もし二年B組が存在していたら、生徒数はもっと多いはずだ。三十五人分が加わって、合計百四十人ほどになるはずなのに。だが、教師たちは当然のように三クラス分の人数だけを数えている。しかも、一年生のときは四クラスあったと言っている。それなのに、二年生になって三クラスに減ったと、何の疑問もなく話している。
待って。一年生のときは四クラス? それはおかしい。私たちは一年生のときも二年生のときも、ずっと四クラスだったはずだ。一年A組、一年B組、一年C組、一年D組。そして二年生になって、そのままクラス替えがあって、二年A組、二年B組、二年C組、二年D組になった。
それなのに、なぜ教師たちは「一年生のときは四クラスで、二年生で三クラスに減った」と言っているのだろう。
「桜井さん、もしかして寝不足とか、体調が悪いんじゃない? 保健室で休む?」
吉岡先生の優しい声が、どこか遠くから聞こえた。彼女は本当に心配してくれているのだろう。だが、その心配が、私にはひどく辛かった。私のことを心配してくれているのに、私が訴えていることは全く信じてもらえない。
「いえ……大丈夫です。失礼しました」
私は職員室を出た。廊下に立ち尽くし、深呼吸を繰り返す。冷たい空気が肺に入り、少しだけ頭が冷えた気がした。
これは何かの間違いだ。きっと何かの手違いで、みんなが記憶を失っているだけだ。そう自分に言い聞かせても、胸の中の不安は消えなかった。むしろ、職員室での会話で、不安はさらに大きくなっていた。
教師たちの記憶も書き換わっている。出席簿も書き換わっている。学校の記録も、おそらく全て書き換わっているのだろう。二年B組という教室が、最初から存在しなかったかのように。
二年B組は、本当に消えてしまったのだろうか。そして、あのクラスにいた三十五人の生徒たちは、どこへ行ってしまったのだろう。
私は廊下の窓から外を見た。校庭では、体育の授業を受けている生徒たちが見える。いつもと変わらない、平和な学校の風景。だが、その風景の中に、二年B組の姿はどこにもなかった。
Scene 3
一時間目の授業は、まるで夢の中にいるような感覚だった。教師の声も、黒板に書かれる文字も、全てが現実味を欠いているように感じられる。私は二年C組の教室にいた——そう周りの全員が言っているし、教室のドアにもそう書いてある。だが、私の記憶では、私は二年B組の生徒だ。
隣の席に座っているのは、見知らぬ女子生徒だった。彼女は授業が始まる前、私に気さくに話しかけてきた。
「ねえ楓、週末何してた?」
楓——私の名前を、彼女は当然のように呼んだ。まるで、ずっと友達だったかのように。
「あ、うん……特に何も」
「そっか。私はずっと寝てたよー」
彼女は私のことを、親しい友人のように扱っている。だが、私には彼女の名前も顔も記憶にない。いや、もしかしたら廊下ですれ違ったことくらいはあるかもしれない。でも、こんなに親しげに話したことは、絶対にないはずだ。
授業中、私は何度も周りを見回した。教室の中には、三十五人の生徒がいる。そのうちの何人かは見覚えがあった。一年生のとき、同じクラスだった生徒や、委員会活動で一緒だった生徒。だが、大半は見知らぬ顔だった。
そして、春野美咲も、中村陽菜も、田中健人も、ここにはいなかった。
昼休みになると、私は中庭へ逃げるように向かった。人気のないベンチに座り、膝を抱える。頭の中が混乱していて、何も考えられなかった。ただ、一つだけ確かなことがある。
私の記憶は、間違っていない。
二年B組は存在していた。春野美咲も、中村陽菜も、田中健人も、みんな確かにそこにいた。先週の金曜日、私たちは確かに一緒にいた。それなのに、なぜ誰も覚えていないのだろう。なぜ私だけが、あの教室の記憶を持っているのだろう。
誰も信じてくれない。誰も覚えていない。二年B組という教室も、そこにいた三十五人のクラスメイトも、まるで最初から存在しなかったかのように、世界から消えていた。
私の記憶がおかしいのだろうか。でも、それにしては鮮明すぎる。春野美咲の笑顔も、中村陽菜の声も、田中健人の冗談も、全て先週のことのように思い出せる。彼らの顔も、性格も、癖も、全て覚えている。そんなに詳細に覚えているのに、それが全て私の妄想だというのだろうか。
「君も、覚えてるんだな」
突然、声が聞こえて顔を上げた。
目の前に立っていたのは、見覚えのある男子生徒だった。柊蒼太——二年B組のクラスメイトだ。黒縁の眼鏡をかけた、どこか冷静な印象を与える彼は、いつも図書室で本を読んでいた。成績優秀で、特に数学や情報系の科目が得意だと聞いていた。クラスではあまり目立つタイプではなかったが、質問されれば丁寧に答えてくれる、誠実な性格の持ち主だった。
「柊くん……!」
私は思わず立ち上がった。彼の姿を見た瞬間、胸の奥から何かが溢れ出しそうになった。自分だけじゃない。自分だけが狂ってしまったわけじゃない。この人も、覚えている。
「やっぱり、覚えてるんだ。二年B組のこと」
「ああ」
蒼太は隣のベンチに腰を下ろし、私も再び座った。彼の表情は、いつもと変わらず冷静だったが、その目には確かに、戸惑いと困惑が浮かんでいた。
「今朝、教室が消えてるのに気づいて、色々調べてみたんだ。でも、誰も覚えてない。出席簿にも、学校の記録にも、二年B組の痕跡が一切ない。ホームページの学年紹介も確認したけど、二年生は三クラスだけになってた」
「私も……誰に聞いても、そんなクラスはないって言われて」
「不思議なのは」
蒼太は慎重に言葉を選ぶように続けた。
「なぜ、僕たち二人だけが覚えているのか、ということだ」
その疑問は、私も抱いていた。なぜ私たちだけが、消えた教室の記憶を持っているのだろう。他のクラスメイトたちは、みんな記憶を失ってしまったのだろうか。それとも、どこか別の場所で、同じように混乱しているのだろうか。
「他のクラスメイトも、どこかで同じように混乱してるのかな」
私の問いに、蒼太は首を横に振った。
「それは考えにくい。もしそうなら、朝の時点でもっと騒ぎになってるはずだ。でも、学校は平穏だった。ということは、記憶を保持しているのは、本当に僕たち二人だけかもしれない」
「どうして……どうして私たちだけなんだろう」
「わからない。でも、何か理由があるはずだ。偶然じゃない。僕たちが選ばれた理由が、きっとある」
蒼太はそう言って、少し考え込むような表情を浮かべた。しばらく沈黙が続いた後、彼はゆっくりと口を開いた。
「桜井、君は週末、何か変わったことはなかった? 夢を見たとか、奇妙な体験をしたとか」
「夢……」
私は記憶を辿った。週末、確かに夢を見た。だが、それは朝になったら忘れてしまうような、曖昧な夢だった。
「よく覚えてないけど……誰かが、何か言ってたような気がする。『忘れないで』って」
「忘れないで……」
蒼太は何かを考えるように、視線を宙に向けた。
「僕も、似たような夢を見た。暗闇の中で、誰かの声が聞こえた。『真実を見つけて』って」
私たちは顔を見合わせた。二人とも、同じような夢を見ていた。それは、ただの偶然なのだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか。
「クラスメイトたちは、どこに行ったんだろう」
私の問いに、蒼太は少し考えてから答えた。
「わからない。でも、完全に消えてしまったわけじゃないと思う。どこかに、必ず痕跡が残っているはずだ」
「痕跡……」
「そう。人間が三十五人も同時に消えるなんて、物理的にありえない。もし本当に消えたなら、家族や友人が大騒ぎになるはずだ。でも、そんな様子はない。ということは、彼らは消えたわけじゃなく、記録や記憶から『削除された』んだ」
蒼太の冷静な分析に、少しだけ心が落ち着いた。彼の言う通りだ。もし本当に三十五人が消えたなら、ニュースになるはずだ。警察が動くはずだ。でも、そんなことは起きていない。ということは、彼らは消えたわけじゃない。ただ、誰も覚えていないだけ。
「記録や記憶から削除……それって、可能なの?」
「現実的には不可能だ。でも、実際に起きている。だから、何か超常的な力が働いているか、あるいは僕たちが認識できない何かのシステムが存在しているか……どちらにせよ、常識では説明できない現象だ」
蒼太はそう言って、少し考え込むような表情を浮かべた。彼の指が、無意識に眼鏡のフレームを触っている。考え事をしているときの癖だ。
「でも、完璧なシステムなんて存在しない。どんなに精巧に作られたものでも、必ずどこかに綻びがある。バグがある。それを見つければ、真実に辿り着けるかもしれない」
「その綻びを見つければ……」
「クラスメイトたちを取り戻せるかもしれない」
蒼太は立ち上がり、私に手を差し伸べた。その手は、少し震えていた。いつも冷静な彼も、本当は動揺しているのだろう。それでも、こうして前を向こうとしている。
「一緒に探そう。二年B組の真実を。そして、みんなを取り戻そう」
私はその手を取った。彼の手は、意外と温かかった。
「うん。一緒に探そう」
私たちは中庭のベンチから立ち上がった。午後の日差しが、私たちを照らしている。この世界は、何も変わっていないように見える。でも、確かに何かが変わってしまった。そして、それを元に戻すのは、私たちしかいない。
「まずは、何か手がかりを探そう。記録が残っている場所から調べるのが、いいと思う」
蒼太が言った。
「記録が残っている場所……図書室とか?」
「そう。図書館の貸出記録は、システムに残る。もしかしたら、そこに痕跡が残っているかもしれない」
私たちは校舎へと歩き出した。これから何が待っているのか、まだわからない。でも、一人じゃない。そう思うだけで、少しだけ勇気が湧いてきた。
Scene 4
放課後、私たちは図書室へ向かった。蒼太の提案で、まずは何か記録が残っていないか調べることにしたのだ。
「春野さんは、よく図書室に来てたよね」
歩きながら、蒼太が言った。
「うん。本を読むのが好きだって言ってた。特にミステリーが好きで、よく新刊をチェックしてたよ」
「そうだったんだ。僕も図書室にはよく来るんだけど、あまり話したことがなくて……」
蒼太の声には、少しだけ後悔のような響きがあった。もっと話しておけばよかった。そんな思いが、言葉の端々に滲んでいる。
「でも、今からでも遅くないよ。みんなを取り戻せたら、ちゃんと話せるよ」
「……そうだな」
図書室のドアを開けると、静かな空間が広がっていた。窓際の席では数人の生徒が勉強をしている。本棚の間を歩く生徒の姿も見える。いつもと変わらない、平和な図書室の風景だった。
カウンターには、図書館司書の白石さんが座っていた。三十代半ばくらいの、落ち着いた雰囲気を持つ女性だ。彼女はいつも静かに本を整理していて、生徒たちからも慕われている。私たちが近づくと、白石さんは顔を上げた。
「あら、桜井さんに柊くん。いらっしゃい」
「こんにちは」
蒼太が言った。
「あの、貸出記録を見せていただけませんか? 春野美咲さんという生徒が、最近借りた本を調べたいんです」
「春野……美咲さん?」
白石さんは首を傾げた。だが、その表情には他の教師たちとは違う何かがあった。完全に否定するのではなく、記憶の奥底を探るような、不確かな様子だった。彼女の目には、何か引っかかるものがあるような、そんな光が宿っていた。
「その名前……どこかで聞いたような気がするんだけど」
「覚えてるんですか?」
私は身を乗り出した。もしかしたら、白石さんも記憶を保っているのかもしれない。そんな期待が、胸の中に湧き上がった。
「いえ、はっきりとは……でも、何か忘れてる気がして。最近、ずっとそういう感覚があるの。大切な何かを忘れているような……夢の中で誰かと話していたような……そんな、曖昧な感覚」
白石さんは困ったように笑い、パソコンの画面を操作し始めた。キーボードを叩く音が、静かな図書室に響く。私と蒼太は、息を詰めてその様子を見守った。
「春野美咲さん、ね。検索してみるわ」
しばらくして、白石さんが小さく息を呑んだ。
「あった……記録が残ってる」
「本当ですか!」
私と蒼太は、同時に画面を覗き込んだ。そこには、確かに『春野美咲』という名前があった。学年、クラス、そして貸出履歴。全て、そこに記録されていた。
学年:二年 クラス:B組 氏名:春野美咲
その文字を見た瞬間、胸が熱くなった。ここに、証拠がある。二年B組が存在していた証拠が。春野美咲が存在していた証拠が。
「でも、おかしいわね。この生徒、今年の二年生の名簿にはいないはずなのに……」
白石さんは画面を見つめたまま、戸惑いを隠せない様子だった。
「システムのバグかしら。それとも、卒業生のデータが混ざってしまったのかしら……いえ、でも卒業生なら『卒業』って記録が残るはずなんだけど……」
「いえ、彼女は確かに今年の二年生です」
蒼太が落ち着いた口調で言った。
「最後に借りた本はなんですか?」
「最後に借りた本は……『星空の記憶』。返却日は四月二十二日、つまり今日になってるわ。でも、まだ返却されてないみたい」
「その本、今どこにありますか?」
白石さんは書架の方を指さした。
「あちらの小説のコーナーにあると思うけど……貸出中なら、棚にはないはずね。でも、もし棚にあったら……」
白石さんの声が、途中で途切れた。まるで、何か言いたいことがあるのに、言葉が出てこないような、そんな表情だった。
私たちは小説のコーナーへ向かった。五十音順に並べられた本の中から、『星空の記憶』を探す。蒼太が慎重に棚を見ていき、やがて一冊の文庫本を手に取った。
「あった」
青い表紙に、夜空の星が描かれている。美しい装丁の本だった。春野さんが最後に借りた本——彼女は、どんな気持ちでこの本を読んだのだろう。
本を開くと、途中のページに何かが挟まっていた。栞ではない。白い紙切れに、黒いインクで描かれた奇妙な模様——それは、規則正しく並んだ正方形の集まりだった。
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「これって……」
蒼太はすぐにスマホを取り出し、カメラアプリを起動した。
「二次元コード、だよね」
「こんなところに……誰が?」
「わからない。でも、これは偶然じゃない。誰かが、意図的に残したんだ」
スマホのカメラを紙にかざすと、画面が一瞬光った。そして、ブラウザが自動的に開き、あるウェブサイトが表示される。URLは https://kieta-kyoushitsu.com/memory/01 と表示されていた。画面には、黒い背景に白い文字が浮かび上がっていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【#消えた教室 真相ファイル】
ようこそ、記憶の探偵へ。
ここには、彼らが遺した「最後の言葉」が
眠っています。
あなたがこのページに辿り着いたということは、
あなたもまた、「記憶を保持する者」なのでしょう。
世界は書き換えられました。
しかし、全てを消すことはできませんでした。
彼らの想いは、まだここに残っています。
五つの記憶のカケラを集めてください。
そうすれば、真実が見えるでしょう。
[記憶のカケラ 01/05 解放]
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
私と蒼太は顔を見合わせた。記憶の探偵? 彼らが遺した最後の言葉? この謎めいたメッセージは、一体何を意味しているのだろう。そして、五つの記憶のカケラとは、何なのだろう。
「誰が、こんなサイトを……」
「わからない。でも、これは僕たちに宛てられたメッセージだ。『記憶を保持する者』——つまり、僕たちのような、二年B組を覚えている人間に向けて作られたサイトだ」
蒼太が画面をタップすると、新しいページが開いた。そこには、SNSの投稿のような形式で、文章が表示されていた。日付、時刻、そして投稿者の名前。
【記憶のカケラ #01】
投稿者:春野美咲
日時:4月19日 23:47
「もう疲れた。
完璧な私を演じるのに疲れた。
誰も本当の私を見てくれない。
今夜、私は消える。
きっと誰も気づかない」
#消えたい
文章を読み終えた瞬間、背筋が凍りついた。投稿日時は四月十九日——金曜日の深夜だ。春野美咲が、こんな言葉を遺していたなんて。
「美咲が……これを?」
私の声は震えていた。いつも明るく笑っていた春野美咲。クラスの人気者で、誰とでも仲良く話し、成績も良く、スポーツも得意で、完璧に見えた彼女が、こんな言葉を遺していたなんて。誰にも見せなかった、彼女の本当の気持ち。
「『完璧な私を演じる』……彼女、辛かったんだな」
蒼太の声にも、普段の冷静さとは違う感情が滲んでいた。彼もまた、春野さんのことを知っていた。同じクラスで過ごした時間は、決して長くはなかったけれど、それでも彼女の笑顔を見ていた。その笑顔の裏に、こんな苦しみがあったなんて。
「私、気づいてあげられなかった……いつも笑ってたから、幸せなんだって思ってた」
「誰も気づけなかったんだ。彼女は、それだけ上手に隠していた。でも……」
蒼太は画面を見つめたまま、言葉を続けた。
「だからこそ、僕たちが真実を見つけなきゃいけない。彼女が、みんながどうして消えたのか。そして、どうすれば取り戻せるのか」
画面をスクロールすると、投稿の下に、いくつかのコメントが表示されていた。だが、そのコメントは全て削除されていて、「このコメントは削除されました」という文字だけが残っていた。まるで、春野さんとやり取りをしていた人たちの存在までが、消されてしまったかのように。
さらにスクロールすると、最後にメッセージが表示された。
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記憶の探偵へ
あなたは、最初の記憶のカケラを見つけました。
彼女の言葉を、心に刻んでください。
[次の記憶のカケラを見つけるには、
「彼女が想いを残した場所」へ行きなさい]
ヒント:
• 夕焼けが美しく見える場所
• 禁じられた場所
• 彼女の想いが残された場所
次のカケラは、そこで待っています。
進行状況:[●○○○○] 1/5
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
私たちは顔を見合わせた。彼女が想いを残した場所——それはどこだろう。春野さんは、消える前、どこにいたのだろう。何をしていたのだろう。
「夕焼けが美しく見える場所……禁じられた場所……」
蒼太が呟いた。彼の目が、何かに気づいたように光った。
「もしかして……」
「わかるの?」
「美咲のSNSを確認してみよう。何か手がかりがあるかもしれない」
私たちは本を元の場所に戻し、図書室を出た。白石さんに会釈をすると、彼女は不思議そうな顔で私たちを見送った。その目には、まだ何か引っかかるものがあるような、そんな光が残っていた。
「白石さんも、何か感じてるみたいだったね」
廊下を歩きながら、私が言った。
「ああ。完全には記憶を失っていないのかもしれない。もしかしたら、他にも記憶の断片を持っている人がいるのかもしれない。ただ、それを思い出せないだけで」
私たちは、誰もいない階段の踊り場に立ち止まった。蒼太がスマホを取り出し、SNSアプリを開く。
「アカウント名は?」
「haruno_misakiだったと思う」
蒼太は検索し、すぐにアカウントが見つかる。プロフィール画像は、満面の笑みを浮かべた美咲の写真だ。フォロワー数は五百人を超えていて、投稿も頻繁にされていた。
だが、アカウントを開いた瞬間、違和感があった。フォロワー数が表示されているのに、フォロワーのリストを開こうとすると、エラーが出る。投稿へのいいねやコメントも、全て消えていた。まるで、このアカウントだけが、世界から切り離されてしまったかのように。
「これ……おかしいな。フォロワーのデータが全部消えてる。コメントも、いいねも……」
「世界が書き換えられたとき、春野さんに関する記録も一緒に消されたんだ。でも、完全には消せなかった。だから、こうして痕跡が残ってる」
投稿を遡っていくと、最後の投稿が見つかった。四月十九日の夕方、夕焼けの写真。オレンジ色に染まった空と、その下に見える校舎。キャプションには、こう書かれていた。
「夕焼けって、なんでこんなに切ないんだろう」
蒼太が写真を拡大し、細部を確認した。
「この角度……高い場所から撮影してる。校舎の形、フェンスの一部……そして、夕焼けが美しく見える場所、禁じられた場所……」
「わかったの?」
「ああ。多分……」
私たちは顔を見合わせた。
「今から行く?」
蒼太は腕時計を確認し、首を横に振った。
「もう五時を回ってる。下校時刻まで十分もない。今日は月曜で生徒会が見回りを強化してる日だ。立入禁止の場所に入ろうとして見つかったら、面倒なことになる」
確かに、廊下の向こうから生徒会の腕章をつけた生徒たちの声が聞こえてくる。今日は月初めの安全点検週間で、放課後の校内巡回が厳しいのだ。
「明日なら、委員会活動で遅くまで残れる理由がある」
蒼太が続けた。
「明日、放課後。そこで次の記憶のカケラを探そう」
夕日が、窓から差し込んできた。オレンジ色の光が、廊下を染めている。春野さんが最後に見た夕焼けと、同じ色。
私たちは、明日への決意を胸に、それぞれの帰り道へと向かった。
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【読者への挑戦】
もし、あなたがこの物語を読んでいるなら——
次の場所を推理してください。
「彼女が想いを残した場所」
「夕焼けが美しく見える場所」
「禁じられた場所」
それは、どこでしょうか?
#消えた教室 のハッシュタグで
あなたの推理をシェアしてください。
次の章で、答えが明らかになります。
特設サイト:https://kieta-kyoushitsu.com/memory/
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【第1章 完】
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