ユートピアに、珈琲を添えて


 もう、だいぶ前から気づいていたことだった。

 それは、サンタクロースの正体や、夜に口笛を吹いても蛇は現れないということより後か先だったかは思い出せないけれど、結構早かったと思う。

 でも、いざ自由に飛び回れるとなったら、確かめざるを得なかった。

 茶色いマントを靡かせるアンパンのヒーローでもなければ、頭に黄色いプロペラをつけた猫型ロボットでもないけれど、遠山(とおやま)ひかるの体はぷかぷかと空を浮かんでいる。

 結論から言おう。

 だめだった。

 ひかるはとうとう、雲を掴むことは出来なかった。ひんやりとした湿気が手を包むだけで、結果は目に見えていたものの少し残念だ。

 さすがに、そろそろ帰ろう。

 下に向かって、泳ぐように足をばたつかせる。

 しばらくすると、雲の裂け目からオレンジ色の外壁のアパートが見えてきた。だいぶ年季が入っており、こうして空から俯瞰(ふかん)すると、埃をかぶったがらくたにしか見えない。それでも、ひかるにとっては唯一の憩いの場所である。

 十分ほど前に出てきた開け放たれた窓から、部屋に戻ろうとしたその瞬間――。

「えっ」

 ひかるは、窓の外から部屋を見下ろした。

「……え、えっ?」

 テーブルを浸すコーヒー、濡れたパソコン、割れたマグカップ。
 そして、作業用チェアとともに床に伏すひかる自身の体。

「もしかして……」

 部屋に充満したコーヒーの香りのせいか、無駄に頭が冴える。

 ひかるは意を決して窓から部屋に入り込み、自分の体にそっと手を伸ばした。そして、体に触れると同時に、びりびりっと電流のようなものが全身に走る。

「いった!」

 あまりの衝撃に、その場に尻もちをついた。

 しかし、床で割れているマグカップの破片は、ひかるの手には刺さらない。

 当たり前だ。なぜならいま、ひかるは幽体離脱の真っ最中なのだから。

 しかし、自分の体に戻れないのは初めてのことだ。いつもは苦しみながらも、気づけば目が覚めているのだけれど。
 いや――そもそも、なぜこんなに意識がはっきりしているのだろう。
 よく考えてみれば、このようにして自分自身を見下ろしたことはいままでにない。

「…………」

 目の前に広がる部屋の惨状から、おのずと事情が見えてくる。

 それが確信に変わったのは、こうして意識が抜けだす前に自分が何をしていたかを思い出したからだ。

「わたし、もしかして――」

「やっと帰ってきたか」

 ひとりきりの部屋の中に、低く渋い声が響く。

「……誰?」

 部屋を見渡してみても、声の根源らしき姿は見えない。

「うしろだよ。うしろ」

 呆れているのか苛立ったような声が後頭部に降りかかり、ふと振り返る。
 背筋がぞくっと凍り、喉から「ひぃ」と情けない声が漏れた。

「カ、カラスっ」

 鳥類全般は、ひかるの天敵だ。特に、鳥嫌いのきっかけを作ったカラスは、大人になったいまでも見かけるだけで肝が冷える。

 そんなカラスがいま、窓の桟に止まっているのだ。そして、咎めるような鋭い視線をひかるに送っている。

「勝手に飛び回りやがって……どれほど待たされたと思っている」

「しゃ、喋ってる。カラスが、カラスが」

「そんなことはどうだっていい。いいか、よく聞け」

 ぴょん、と跳ねて倒れた作業用チェアのレッグフレームにカラスが乗っかった。予期しない接近に肩をびくつかせながらも、吸い込まれるようなカラスの瞳をじっと見つめてしまう。

「遠山ひかる。お前は死んだ」

「えっ」

 なんとなくそんな予感がしてはいたけれど、いざ口に出して伝えられてしまうと驚くことしかできなかった。

 でも、死んだって――どうして?

「わたし、病気も何もしてませんけど。昨日までぴんぴんだったし、何ならいまもぴんぴんです」

「急性心不全だ。若者でも稀になる」

 確率の低いものを引いてしまったということか。どうせなら、宝くじの特等を引き当てたいところだったけれど、もともと運がいい方ではない。

 それにしても、なぜこのタイミングで――と、ひかるはさぞかし悔しそうに唇を噛んだ。

 やっと始まったひとり暮らし。自分の時間を自分だけのためにたっぷりと使えることに、またとない幸福を感じていたというのに。

 神様は意地悪だ。こんな仕打ち、あんまりじゃないか。

「もう時間はない。とっとと説明したいんだが」

 先ほどからぶっきらぼうな態度をとるこのカラスに、「あなたには人の心がないのか」と怒りそうにもなるも、相手が人間の言葉を巧みに使いこなすだけのカラスに過ぎないということに気づく。

 人間は、優しすぎるのかもしれない。相手の気持ちを(おもんぱか)りすぎて悩む人もいるくらいだから、このカラスのようなマインドで生きていた方が楽かも――なんて考えたところで、もう死んでいるから意味はないか。

 ひかるの顔に雑念の色を感じ取ったのか、カラスは突然すらすらと自己紹介を始めた。

「俺は、未練解消案内()35号。突然死で誰にも別れを伝えられなかった死者に、未練解消のチャンスを与えている」

「……未練、解消?」

「ああ。死んでから二十四時間が経つまでは、未練解消の時間に充てられる。それなのに、あんたが勝手にどこかへ飛んでっちまうもんだから残された時間は少ない」

「そんな長い間空を飛んでいたつもりはないけど」

 カラスが、長く深いため息をつく。

「生きている人間の二十四時間と、死んだ人間の二十四時間は体感がまるで違う。あんたに残されているのは、せいぜい十二時間だ」

「そんな……」

「とにかく、時間がない。単刀直入に聞くが、最期に会いたい人間はいるか?」

 突然そんなことを言われても、おいそれと名前が出るわけない。

 家族、友人、恋人。こういうとき、ほかの人たちは誰を思い浮かべるのだろう。ひかるの頭の中には、どれも浮かんでこない。

「一人だけ、ですか」

「それで事足りるのか? 二十四年も生きてきたんだろ」

 胸がじんわりと熱くなった。同時に、やはり自分は死んでしまったのかという実感が湧いてくる。

「……何人でもいいの?」

「時間に限りはあるから約束はできないが、とりあえず言ってみろ」

 そう促され、ひかるはいくつかの名前を伝えた。

 家族でも、友人でも、恋人でもないその人たちの名前を伝えると、カラスの目はさらに鋭くなる。

「本気で言っているのか?」

「はい。……ダメ、ですか?」

 無理を言っているのはわかっていた。でも、それ以外に未練など思い浮かばない。未練というよりは、責任に近いのだけれど。

 意外にもカラスは否定することなく「あんたがそこまで言うなら」と、納得してくれた。

「ありがとうございます。……えっと、」

「何だ?」

「なんて呼べばいいですか? あなた、名前は?」

「名前など、未練解消案内烏に存在しない。俺には、35号という番号が振られているだけだ」

 うら悲しい雰囲気を漂わせるカラスに、勝手に同情してしまう。名前がないだなんて、存在を拒否されているようなものだ。

「35――『サンゴ』なんてどうでしょう」

「……好きにしろ」

「じゃあ、サンゴさん。ひとつ聞きたいんですけど、わたしの遺体はこのあとどうなりますか?」

「未来のことなんざ知ったことか。そのうち、連絡を取れないことを不審に思った家族やら友人やらが発見するんじゃないか」

 その言葉を聞き、ひかるはあからさまに肩を落とした。

「きっと、腐っちゃいますよ。異臭を放って、遺体は溶けて、誰かが気づいたときには骨になってるかも」

 友人だけに限らず、家族の連絡先もブロックしている。このアパートに越してきたと同時に、それまでの人生を一度リセットしたのだ。ネットで調べてみたら、こういった行為をドアスラムというらしい。何度かその扉を開け閉めする人もいるようだけれど、扉のノブは壊したつもりだ。少なくとも、ひかるからその扉を開くことはない。

 サンゴは、悲観的なひかるを面倒くさがるように首をひねった。

「そりゃ、ご愁傷様。俺には、このアパートの上に仲間を集めて、一日中鳴き続けることしかできない」

「昔、母が言ってました。カラスが建物の上で鳴くと、近いうちにその建物から死人が出るって」

 本当だったんですね、とひかるが感心する。

「人間どもがそんな迷信を作ったもんだから、俺たちが合わせてやってるんだ。まぁいまどきは、スマホに夢中で空を見上げてるやつなんていないからな。俺たちが鳴いたところで、あんたが死んだことに誰も気づかないかもしれない」

「それでもいいです。……お願いできますか?」

 たどたどしく訊くひかるに、サンゴは「ったく、仕事増やしやがって」と翼を激しく動かした。

「すみません。ありがとうございます」

「まぁ……任せとけ。とりあえず、あんたにはいますぐにでも未練解消に移行してもらわなきゃならない。目を閉じろ」

「えっ」

「いいから、目を閉じるんだ」

 サンゴの黒い翼が、促すようにひかるの瞼に触れる。不思議と嫌な気はせず、ひかるはおとなしく目を閉じた。

 次の瞬間、瞼を貫くほどの強い光に包まれる。温かさを伴ったその光に、ひかるはそのまま身を委ねた。



 *



 まばゆい光はいつの間にか収まり、草木のにおいが鼻腔をくすぐる。ちゅんちゅん、という小鳥の鳴き声がどこからか聞こえてきて、ひかるはやっと瞼を開いた。

 開いた視界の先には、壮大な森林が広がっていた。木の葉の隙間からは、太陽が顔を覗かせている。自然に濾過(ろか)された空気は、都会の濁った空気と違っておいしい。
 大きく吸い込んで、吐く。繰り返し、体内に溜まっている空気と入れ替えていく。そんなことをしていれば、自分自身も洗浄されていく気がした。

 自然の恩恵を心身に目いっぱい受けると、ひかるは視線を前へと移す。
 先ほどから、ちらりと視界に入っていたものだ。

「小屋……?」

 そこには、絵本の中に出てくるようなログハウス風の平家があった。瀟洒(しょうしゃ)に佇むその平屋には赤色の屋根が被さっており、軒先にはアンティーク調のランタンが対称の位置に二つ吊り下げられている。

 人の手が入っていないようなこの場所には少々不釣り合いな気もしたが、ひかるの体は吸い寄せられるように平屋に向かっていた。

 アプローチの階段前にはブラックボードが立てられている。そこには【遠山珈琲店 OPEN】と記されており、その下にはコーヒーカップのイラストが描かれていた。

「サンゴさんが用意してくれたのかな……?」

 おそるおそる入口扉のノブに手をかける。それを捻り引いて開けると、中から木材とコーヒーが混ざった香りが漂った。

 入って左手にカウンター席が五席あり、右手には二人掛けのテーブル席が二組。店内にはやはり小さなランタンがいくつもぶら下がっており、そのひとつひとつが健気に光を放っている。

「うわぁ、すごい」

 ひかるはカウンターの中に入ると、調度されたマシンに触れていった。趣のある内装から勝手に手動のものだと思っていたのだが、ここにあるものはほとんどが電動式のようだ。よく見てみれば、ひかるがカフェ併設の飲食店で働いていたときに使っていたものが揃えられている。

 電気が通っているとは思えなかったけれど、電源を入れるとマシンは何の問題もなく動き出した。まさか動くとは思っていなかったため、ひかるは驚いて周囲を見渡した。やはり、コンセントらしきものは見当たらない。

 では、なぜ――と考え始めたところで、はたと気づく。

「……そっか。関係ないか」

 ひかるはすでに、死んでいるのだ。

 そしてここは、サンゴが提供した未練解消の場。現実世界の理屈や仕組みは、ここでは意味を持たないのだろう。

 状況を理解したところで、開け放たれていた窓から一羽の黒い鳥が顔を覗かせた。

「時間がなかったんだ。細かいところは気にするな」

「サンゴさん!」

「本当に時間がない。早速、一人目の来客が来る」

「えっ」

 ぶっきらぼうな声でそう言われ、ひかるは狼狽える。

「ここで守ってほしいのはただひとつ。客人に自分が死んだことを話してはならない。ここに来る人には初めて会ったように接し、あくまであんたはここの喫茶店で働くひとりの店員として振る舞う。――いいな?」

 矢継ぎ早に説明され、とりあえず「はい」としか答えられなかった。

 サンゴが横を向き、何かに反応したように翼をばたつかせた。

「噂をすれば、ってやつだ」

「えっと、あの――」

「質問は後回しだ。うまくやれよ」

 そう言い残し、サンゴは窓から飛び去っていく。ひかるは窓に駆け寄り、上空に視線を向けた。しかしそこには青い空が広がるだけで、あの禍々しい黒はどこにも見当たらない。

 はぁ、と一息つく。

 とりあえず、サンゴに言われた通りにやるしかないか。

 そう心に決めたその瞬間、背後の扉がギィ、と音を立てて開いた。

 驚いて振り向くと、扉の前には黒髪をひとつに括った女性が立っている。スーツの上にトレンチコートを羽織ったスマートな見てくれは、あまりこの場に馴染んでいない。

「あの……、」

 唖然とするひかるに困惑した様子の彼女の声で、ようやく意識が引き戻された。

 じわりと視界が滲みそうなのを必死に抑え、ひかるは飲食店で働いていたときのような満面の笑みを彼女に向ける。

「いらっしゃいませ……!」

 彼女はカウンター席に座り、手近にあったメニュー表を見始めた。

 鼓動が速まる。

 以前働いていた飲食店でカフェのバリスタとして働いていたが、それももう二年前の話だ。いくら同じマシンを用意されているからといえ、滞りなく作れるだろうか。

「アメリカンコーヒーのM」

 心のうちを悟られたのか、彼女は比較的簡単なものを選んでくれた。

 ミルは、ポルタフィルターをセットすると自動的に豆が挽かれる仕様になっている。抽出口が一つのシングルスパウトと、二つになっているダブルスパウトのうち、前者を手に取ってミルにセットした。ウィーンという音を立てながらコーヒー粉が姿を現す。それをレバー式タンパにーにセットして、押し固めた。

 ひかるは一連の動きをしながら、意外にも体が覚えていることにほっとした。

 最後にエスプレッソマシンにポルタフィルターをセットし、カウンター内の棚から、大きさが二種類あるうちの小さいサイズのマグカップを手に取る。セットしたポルタフィルターの抽出口がマグカップの内側に触れるようにしてから抽出ボタンを押すと、エスプレッソが落ちてきた。クレマ(エスプレッソの表面を覆う、きめの細かい泡)を壊さないようにと、先輩バリスタに散々言われたこの工程には少し手が汗ばんだ。
 抽出を終えると、お湯を淹れ終えたマグカップをカウンターテーブルに置く。そこから立ち上る湯気からは、フルーティーな香りが立ち上っている。コーヒー豆も考慮されているとしたら、エチオピアとグアテマラのブレンドだろう。

 ひかるも一杯頂戴したいところだったが、目の前に座る彼女の浮かない表情を見て、そんなのんきな考えは一瞬にして吹き飛んだ。

 コーヒーを堪能するためにここにきたわけじゃない。いまからひかるは、彼女に対しての未練を解消しなければならないのだ。

「……どうか、されました?」

 あくまでも他人。
 それを念頭に置き、気遣いのできる店員として彼女に声を掛けた。

「いや……いただきます」

 彼女は、首を横に振るとマグカップにそっと触れる。口が硬いのは、きっと彼女の職業に関係しているのだろう。

 しかし、ここで黙ったまま彼女が飲み終えるのを見届けるわけにはいかない。

「お客さん、コーヒーにはお詳しいですか?」

「えっ」

 唐突な質問だったのか、彼女は打たれたように顔を上げた。目を大きく見開き、不思議そうにひかるを見つめている。

「コーヒーは歴史的に、社交の中心にあったものなんです。十七世紀のロンドンに、パスカ・ロゼという人物がコーヒーハウスを開業したことをきっかけに、多くの人に愛されてきました」

「は、はあ」

 何が言いたいんだと訝しむような眼で見つめられ、思わず背筋が凍った。まわりくどい説明はしないほうがよさそうだ。

「とにかく、コーヒーは人と人とを繋げる、媒介みたいなものです。迷惑でなければ、それを飲んでいる間だけでも、わたしとお話をしてくれませんか」

「……わかった」

 束の間の沈黙に冷や汗が出そうになったけれど、彼女は頷いてくれた。

 第一関門を突破し、ひかるは胸を撫で下ろす。

 まずは自己紹介からということで、ひかるから名乗った。すると彼女は、鞄の中から取り出したステンレス製の名刺入れを開く。そこから一枚、ひかるへと差し出された。

【警視庁捜査一課 巡査部長 辰巳(たつみ)有希(ゆき)

 ひかるは差し出されたその名刺を見て、初見のようなリアクションで「警察の方だったんですね」と申し訳なさそうに肩をすくめて見せた。

「職業柄、人を疑う性分なんだ。気を悪くさせていたら申し訳ない」

「いえ、お気になさらず」

 もらった名刺をポケットの中に入れながら、ひかるは有希の顔色を窺った。

 暗い。もともと、そこまで明るい人間でないことは知っているけれど、いまの有希からは黒いオーラが見える。その理由もひかるの知るところではあるのだが、初対面を装っている以上、やすやすと踏み込むわけにはいかない。

「辰巳さんは、どうしてこの店に来られたんですか? 森に囲まれていて、普通だったら通りかからないと思うんですけど」

「いろいろあってな。静かなところに行きたいと思って歩いていたら、ここに辿りついた」

 言いながら、有希は自分の腕を抱くように掴んだ。

 彼女の癖を間近で見て、やはり彼女は辰巳有希なのだと心が躍る。
 ずっと会いたかった有希が、こうして目の前にいるのだ。上がりそうになる口角を必死に抑えて「わたしでよかったら、話聞きますよ」と優しく声をかける。それでもなお、話すことを躊躇(ためら)っているようだ。

「ここには、あなたとわたししかいません。防犯カメラもないし、誰にも話を聞かれる心配はありませんよ」

 押し黙る有希に心が折れかけたところで、突然「実は――」と口が開かれた。

「警察官を続けるか、悩んでいる」

 そうだよな、とひかるは思う。しかしここでもまた「どうしてですか」と白を切った。

「守秘義務で詳細は話せないが……殺された。わたしのせいで、何の罪もない、善良な市民が」

「殺された……」

 事情がわかっていたとしても、実際に耳にしてしまうとその言葉はあまりにも強烈で、呆然としてしまう。

「信頼できる上司からは、続けるべきだと言われている。わたしは、過去のことはあまり引きずらない。正直、この事件で犠牲者が出てしまったことも、必然的だったのではないかとさえ思ってる」

 他者に感情移入せず、あっさりとしすぎている性格は、あまりに有希らしい。とはいえ、今回のことに限っては少々無理をしてそんなことを言っているような気がした。

「そう思っているなら、辞める必要はないんじゃないですか?」

「そう思ってしまうからこそ、やめるべきだと思うんだ。わたしは、他人の命を自分の命と同等に背負えない。責任感がないから、たとえ自分のせいで人が死んだとしても、何も感じない」

 状況を知らない第三者からしてみると、有希の発言は不適切極まりないだろう。SNSで拡散してしまえば、あっという間に火がつくはずだ。

 しかし、ひかるは知っている。有希が無感情に近い人間になってしまった理由には、過去のトラウマが関係しているということに。そしてそれが、有希を警察官という道に導いたということも。

「引きずってしまう刑事よりかは、いいんじゃないですか」

 思い出して。なぜあなたが、警察という道を選んだのか。

 そんな思いを込めて発したひかるの言葉に、有希はおもむろに顔を上げた。そして、弱々しく微笑む。

「わたしの上司と、似たようなことを言うんだな。もしかして、主任の回し者か?」

「……えっ」

 まずい。彼女のことを知っているということがバレてしまう。

 ――いや。
 それでも、自分には彼女を誘導する責務がある。向かうべき場所へ、きちんと歩けるように。

「辰巳さん。あなたには、責任感があると思いますよ。他人の命と自分の命を同等に背負えない――そんなの当たり前です。人間みんな、結局は自分が一番かわいいんですから。それを隠して、みんな偽善で生きているんです」

「……」

「その偽善を振りかざさないあなたは、とても素直な人間ですよ。そしてその姿勢は、自分の言動に責任を持っている証拠です」

 充足感で、胸がいっぱいになる。

 面と向かって言葉を掛けられているこの状況に、ひかるは感涙を零しそうになった。そして、自身の言葉に瞳が揺らいだ有希を見て、涙腺はさらに刺激されてしまう。

 それを誤魔化すように、ひかるはポルタフィルターに残った粉をダストボックスに放り込む。有希に背を向けたところで、すでに頬は濡れていた。

「……さあ、早く上司のところへ行ってください。そして言うんです。警察官を続けると――。コーヒーのお代はいりませんから」

 少しの沈黙。

 これでいい。これが、望んだ結末だ。「辞めてもいいのではないか」と助言することもできたけれど、やはり彼女には警察官であり続けてほしい。たとえ、自分が辰巳有希の警察官人生を見届けられなくても。

「感謝する」

 背後で、ギギッと椅子が引かれる気配がした。「ごちそうさま」という声に振り向くと、すでに有希は小屋を出たあとだった。

 ひとりの空間に安堵すると、余計に涙があふれ出てくる。拭っても拭っても、止まらない。

 そこへ、サンゴがバサバサと音を立てながら小屋の中へと入ってきた。

 先ほど、有希のために淹れたコーヒーのすぐ横に止まる。ひかるの異変に気付いたのか、サンゴは顔を覗き込むように小さな頭を傾けている。

「泣いているのか」

 馬鹿にされるかと思い、急いで頬を拭った。不思議と、涙は潮のように引いていく。

「ごめんなさい。あまりにも再現度が高くて、びっくりしただけです」そんなことより、と話を転換する。「あっちは本当にわたしのことを知らないんですね。どうやって呼んできたんですか?」

「それは教えられないな」

「まあ、そうですよね」

 ここであっさりネタバラシをされても、興ざめしてしまう。余計なことは考えずに、自分の未練をひとつひとつ解消することに集中するとしよう。

 ひかるがそう心に決めたところで、サンゴが「ひとつ聞いてもいいか」と首を傾げた。

「どうして、上司のところへ行くように言ったんだ」

 その質問に、体中から血の気が引いていく。

 頭が真っ白になった。

 とてつもなく残酷なことをしているということに気づいて、自分が嫌になる。それでももう、運命は変えることができない。

 咎めるようなサンゴの視線から逃れるように、窓の外に顔を向けた。

あんたが殺した上司を(・・・・・・・・・・)辰巳有希に発見させるためか(・・・・・・・・・・・・・)

 サンゴの言葉はまるで鈍器のようで、それを振りかざされたひかるの頭はじくじくと痛んだ。

「わたしが殺した、か……」

「ああ、あんたが殺した。そうだろ?」

「そう訊かれて、はいそうですっていう犯人がいると思いますか?」

 サンゴは、ふっと鼻で笑った。

「いないな」

「……サンゴさんは、わたしのこと、怖いと思わないんですか?」

「思わない」

 サンゴが、窓の桟へと飛んでいく。黒い羽根が一枚、小屋の床にゆらゆらと落ちた。

「あんたは弱い人間だ」

 そう言い残し、ふたたび窓から飛び立っていく。

 サンゴから突きつけられた言葉に動揺する暇もなく、扉がギィ、と音を立てて開いた。

 次の来客が、やってきた。
 ひかるに、答えを求めて――。