きみの声がいちばん好き。

  通学中の電車の中、イヤホンを耳に挿してネットラジオのアプリを開く。今日は推しの芸人の最新回が配信される日だ。お気に入り欄のページが更新されているのを確認してから、サムネをタップした。

『そういえば先日のライブの話してなかったね……』

 流れ始めた推しの声にきゅっと肩が縮まる。

 はぁ、最高。

 耳から入ってくる低音ボイスが気持ちよくって、思わずとろけそうになった体に力をこめた。たんたんと続く話に集中する。相方さんの声は少し高いからバランスがよく、つまり低いのが強調されてなおよいのだ。

 学校の最寄までは三十分ほどある。ラジオも同じくらいの尺。しっかり堪能して電車を降りるとクラスメイトに挨拶をされたので「おはよう」と返した。

「いきなりテストとかないよな、貴也は復習してきた?」

「ううん、できなかった。でも俺は授業ちゃんと聞いてるし自信あるよ」

 他愛もない話を続けながら改札を抜ける。ほかの友人たちも加わってきて、話し声も大きくなってきた。そうすると、俺は自分のコンプレックスを強く実感して少しだけ落ち込む。

 みんなは声変わりをしているから、男性らしい低い声だ。バリトンというやつ。でも俺は声変わりをたぶん失敗してしまって、みんなよりもいくらかトーンが高い。

 だからこうして話していると自分の声がよく目立った。声優みたい、とかアニメみたい、なんて言われることはあるがまったく嬉しくはなかった。

 伊野貴也(いのたかや)のたかは高音のたか。大きい声を出すとその分だけ耳がキンキンする。

 ……──女みてーな、変な声!

 頭を横に振って嫌な記憶を追い出した。

 男性らしい声がよかった。さっき聞いていた推しの芸人みたいに、腹の底に響く低音、バス。うらやましがっても、喉を潰してみたところで手に入らないものだ。落ち込むから普段は気にしないようにしている。身長が小さくて、首も短いし喉仏も小さい。男としての魅力のなさの塊だ。せめて特徴がいかせないかと合唱部に入ったものの、劣等感は拭えなかった。

「そういえば合唱コンクールの練習っていつから始まるんだっけ」

「来週から。流浪の民だなんて難しい曲、学生に歌わせるもんなの?」

「ソロパートとかありえんよな。でもテノールは絶対貴也がやるじゃん」

「あぁ、」と辟易しながらうなずいた。

「それもやなんだよ。合唱部だからってソロなんてやったことないし」

 まぁまぁと友人たちに肩を叩かれた。彼らは面倒くさいことを押し付けられて気軽なのだ。

 そうこうしている内に学校に着いた。何人かは別れて別の教室に入っていく。あいつらとは一年生のときは同じクラスだったが、二年生になって別々になってしまった。物悲しさを廊下に置いて、俺も教室に入った。

 席に着くなり、隣に「おはよう」と挨拶を送る。机に突っ伏していた黒髪の生徒がもぞ、と動いて起き上がる。

「おはよう……」

 寝ぼけながら帰ってきた返事に思わず耳を集中させた。うん、今日も良い声持ってるじゃん。ニヤつきそうになったのを我慢してカバンから教科書を出した。

「伊野は朝から元気だね」

「藤原が元気なさすぎるんだよ」

「だってここまで一時間くらいかかるししょうがねぇの。あー、眠い」

 ささやくような低音に内心はドキドキしっぱなしだ。ふぅん、と相槌をして再度突っ伏した藤原のつむじを眺めた。

 隣の席の藤原景大(ふじわらけいた)とは二年生になって一緒のクラスになった。

 初めて声をかけたとき、あまりに理想の低音ボイスで椅子からずり落ちたのはまだ記憶に新しい。少しこもるところとか、首が長くて喉仏もしっかり大きくて、身長も百九十を超えているから出せる低音にメロみを感じて仕方がない。

 だから聞きたくってたくさん声をかけるようにしている。どうせ隣だし、新しい友人を作りたいようにしか思っていないだろう。もちろん友人になれたのは嬉しい。いっぱい話しかけたのをうざがられなくてよかった。藤原は優しい巨人だから、俺を友人として認めてくれたのだろう。

 生徒もそろってきたのか、クラス委員長が黒板にでかく「合唱コンクール」と書いたのが目の端に見えた。

「パートわけしてきたので、希望があったら伊野くんかわたしまで教えてください」

 あ、忘れてた。昨日委員長と割り振ったんだった。俺はもちろんテノールで、藤原はバスにした。ふと隣から気配がしたので顔を向ければ藤原がまた起きていた。

「伊野と離れた」

「はい?」

 どこか寂しそうにつぶやかれ、こっちは素っ頓狂な反応をしてしまう。

「いやいや、俺と藤原じゃ絶対一緒にならないって。なんだ、さびしいの?」

「俺の声が低いせいだよな」

 いじけたように藤原はまた寝始める。

 なに、いまの。冗談には聞こえなくて動揺した。低いせいって、それが藤原のいいところじゃないか。俺と一緒のパートになりたいってのも意味わかんない。だって明らかに声のトーンが違うのだから、考えなくてもわかることだ。藤原は寂しがり屋なのかとちょっと意外だった。

 彼は友達は多い方だと思う。身長を生かしてバスケ部でエースをやっているし、女子からもモテているからたまに呼び出されているのを見かける。俺と仲良く話してくれるのも教室にいるときだけで、放課後も昼休みもお互いに一年からの友達のところに集まる。
 さっきはからかってみたけど、そこまで俺と友達だって意識があるとは知らなかった。もしかして、誘ったら一緒に遊びに行ってくれるんだろうか。

 チャイムが鳴って教師が入ってきたおかげで、意識がハッと帰ってくる。まさかね、と自分に呆れて考えを端に放っておいた。

 * * *

 合唱コンクールは六月の終わりに開催になる。合唱部もエキシビションみたいなものをやるから準備には力が入っていた。

 クラスの方は頑張らなくてもいいかと思っていたが、どうやらやる気がある人たちが集まったらしく朝練もやると言い出す始末だった。さすがにそれはみんなの通学事情もあるからやめようとまとまったけれど、自主的に始める子もいるようだ。歌い方を教えて欲しい、とか頼まれることもあるので快く協力している。

 学校内での最優秀賞、学年での優秀賞が用意されているのも大きいだろう。選ばれると賞状がもらえる。去年、一年のときは別のクラスが優勝していて黒板の上にほこらしく飾っていたのが、たしかにちょっとうらやましくはあった。

 パート振りの意見が出なくて安心した。部活のおかげでこういうときばかりは信頼してもらえるらしい。少し承認欲求が満たされて鼻が高くなってしまう。練習も順調に進んでいてとくに問題もなく、平和なものだ。

 それにしても、と藤原を横目でちらっと確認した。テノールとバスの一列めに俺たちは並んでいる。背が高いんだから後ろに行けよ、とつっこまれていたのをなぜかわがままで押し通していた。

「やだ。俺はここがいいの」

「でもそのせいで後ろに人が立てないから、変な隙間ができちゃうよ」

「高いのがさらに高くなる方がバランスが悪くなる」

 ということらしい。しかしおかげで俺と藤原の段差がとんでもないことになっている。なにせ身長差が二十五センチもあるからだ。ついでに横目で見たものの、胸元あたりしか把握できていない。

 低音が綺麗だとあこがれていたけれど、藤原は歌も抜群にうまかった。声がとにかくきちんと通る。筋力があるからコントロールが自然とできているのだろう。普段はのんびりしているから力強い歌声に耳が幸せ、じゃなかった、パートの頼りになる。もちろんソロにも選ばれていた。練習が追加で必要になってしまい大変そうだ。

 放課後の練習も終わると、みんな部活に向かったり帰りの準備をしたりとさまざまに動いている。俺も合唱部に行くためにカバンをひっかけたところで藤原に引き留められた。

「な、なに?」

 振り返れば、藤原が困り眉で腕を伸ばしていた。

「あのさ、伊野って合唱部だよな」

「うん。それがどうかした? あ、なにか聞きたいことがある感じ?」

「話が早くて助かる。実はソロに選ばれたけど自信がなくって」

「藤原はうまいから大丈夫だよ。声も良く出てるし」

「でもソロが……。どうやって練習すればいいかわからないんだよ。だから伊野に助けて欲しいんだ」

「助けてと言われても、俺はテノールだから、わっ」

 ぎゅうっと手を握られていた。大きな手に驚いてカバンを落とす。なんか妙に積極的じゃない?

 もしかしてクラスのみんなが真剣だから、やりたくないのに受け入れちゃったんだろうか。だったらまだ交代できるはずだ。そう提案しようと口を開いたが、藤原の次に出てきた言葉で開けたまま固まった。

「時間があるときでいいから、俺と一緒に練習してくれない?」

 たっぷり間を置いてから、俺は渾身の「はぁ!?」を藤原に浴びせていた。腹から出たから声量が大きかったのと、油断していたから高音になってしまい、藤原もびっくりしたのか耳を押さえた。やっちゃった、こういうことが起きないようにトーンには気をつけていたのに。

「ごめん」と謝りつつ、こいつ本気かと呆れる。

 助けて欲しいと言われるのはみんなにもお願いされていたから予想は出来た。まさか一緒に練習して欲しい、とは。そもそもパートも別なんだから、アドバイスくらいしかできることはない。

 でも、待てよ。よく考えてみたら藤原とマンツーマンで練習するってことなら、もしやチャンスなのでは。

 藤原の歌声はいまのところみんなの声に混ざったものしか聞いていない。ソロといっても実は二人で担当するので(だから藤原も相方の足を引っ張りたくないのだろう)、どれだけ聞きたくってもちゃんと聞ける機会はなかった。今後もたぶん。

 それが二人で練習するとなれば聞き放題ってことじゃないか!

 なんてこった。藤原の声はいまのところ俺の推しボイス一位なのだ。二位は推し芸人。身近でいつも聞けるメロボイスとして今年度から君臨しているわけで。

「だめだよな、やっぱ。いきなりだし、めいわ──」

「いいよ」

「く?」

 藤原の言葉をさえぎって、スマホを取り出し連絡先画面を表示する。俺の変わり身にまた驚いたようで、藤原は猫背になったまま目を丸くした。

「メッセ交換しよ。明日からなら付き合ってあげられるけど」

「いいの?」と藤原の顔がぱっと明るくなった。

 大型犬みたいな笑顔に思わず胸が跳ねて、ズキっと傷んだ。なにせこっちは下心ありありで承諾しようとしているから罪悪感がちょっとだけ芽生えたのだ。しかしチャンスを逃したくはない。唾を飲みこんでから、微笑んでうなずく。

「貢献したいんだろ。それとも恥じかきたくない方? どっちでも友達なんだから協力するに決まってんじゃん」

「お礼は絶対するから! ありがとうな、伊野~!」

「いいよいいよ。俺もクラスが優勝出来たら嬉しいから。頑張ろうね!」

 爽やかに拳をにぎって顔の前に掲げれば、藤原も何度も首を振って拳を掲げた。

 ごめん、藤原。俺はきみの声をひとり占めして聞きたいだけだ。しかもできれば録音しておきたい。そんなの普通のときにしたら犯罪感が強いけど、練習なら言い訳になるじゃん?

 * * *

 そして始まった藤原との合同練習は、一緒に帰ることから始まった。部活の終わる時間はだいたい一緒で、駅までの帰り道に見つけた公園に行き、一時間くらい発声とリズムキープ、歌唱を行う。コンビニでスナックだったりカップラーメンを買ったりして小腹を満たしてから練習を始める。

「まずまっすぐ立って。顎はあんまり前にだしすぎない。お腹に力を入れる」

「こう?」

「もうちょっとまっすぐ」

 起立している藤原の背中を叩いて伸ばす。でかいなぁ。顎をひいてもらおうと指先でつつけば、彼の体がビクッと跳ねた。
「あ、ごめん。でもそれでいいよ。そんなに緊張しないで、体の力は抜いて」

「お、おう」

「腕も後ろに組まないで、気をつけの姿勢のときと一緒の位置。指揮者をちゃんと見るように」

「わかった」と汗を拭うようにズボンで手を拭いた。

 基本の姿勢はこれで十分だ。よし、とボイスアプリを起動すると藤原がさすがに焦ったように止めてくる。

「ちょっと待って。まさか録る気かよ!?」

 チ、と舌打ちを軽くしてから何食わぬ顔でスマホを振る。うわずった声が新鮮でラッキーと思うけれど、さすがに録音はできていなかった。

「練習なんだから録らないと。俺が聞くようだからいいよね?」

「え。う、うーん……。そうか、それならまぁ、いいのか」

 そうそう、気にしなくていいのだ。今度こそ開始ボタンを押して、藤原に発声をしてもらった。

 やっぱりいい声なんだよなぁ、と惚れ惚れしてしまう。ビリビリと耳の奥が痺れるほどの低音が最高だ。芸人はラジオや映像媒体でしか聞けないから、生の声を聞けたことはなかった。スピーカーを通すと音が変わるらしいから、本当は思ってる声と違うのかも。だから藤原の声が一番になったのだ。迫力があって、喉が震えてるのもよく見える。

 俺もこんなかっこいい声だったらよかったのに。

 背も大きくて、みんなから頼りにされて、運動部のエース。勉強はちょっと苦手でも長い手足や爽やかな雰囲気が女子からもモテる。ううん、モテてるのは女子からだけじゃない。男子からも好意を寄せられているのを知っている。

 だってたまたま見かけたことがあるのだ。渡り廊下を歩いているとき、体育館のそばで俺みたいに背が小さいかわいいめの男子生徒から告白されているところ。藤原はすごく困っていた。

『俺、好きな子いるから。ごめんなさい』

 そういえばそんな風に断っていたっけ。なんでいまこんなことを思い出したんだろう。そうだ、うらやましさからいろいろ芋づる式に出てきたのか。頭を振って頭から追い出す。

「やっぱり声出てるから心配することなんてないのになぁ」

「伊野のも聞かせてよ」

「俺はいいの。できるから」

「やだ。お手本を見せてってば。で、俺もそれを録音する」

「やだじゃない。必要ないでしょ、パートが違うんだから参考にはならないよ」

「え~」

 危なかった。まさかそんな横暴な提案をしてくるなんて思ってもみなかった。させてたまるか。

 ごほん、と咳払いをしてからピアノの伴走を流そうとして、思わず手が画面の上で固まった。あれ、これだと藤原の声、録れなくないか。

「伊野?」と藤原が心配して声をかけてきたので、慌てて笑顔を取り繕う。いけないいけない。怪しまれるようなことをしたら録画データを消せと訴えられるかもしれない。

「ソプラノとアルトは歌詞読み上げて、テノールパートから歌うから、藤原はそれに合わせてくれる?」

「了解。はー緊張する」

「意外と緊張しいなんだな。シュート決めた後はあんなにかっこいいポーズとかするのに」

「え、見たことあるんだ? あれはテンション上がってるからついやっちゃうというか。てか伊野も試合見に来てくれてたの、なんで言ってくれないんだよ」

「わざわざ言うことでもないし。偶然なんだよ。新歓の準備してるときに通りかかってさ。ほら、練習するよ」

 無理やり話題を切って伴走を流せば、藤原も文句を垂れていたがしっかりと姿勢を正して歌い始める。録音できないのが悔しいほど歌がうまい。なにを心配しているかも理解できないくらいしっかりとした安定感のある歌声に耳が幸せになってしまう。

 今度からボイスレコーダーは別で持ってこようかな……。

 * * *

 練習は順調に進んでいる。毎日とはいかなくても、週に三回も一緒にいると自然と仲がよくなるものだ。たとえば藤原はリスを飼っているのを教えてくれたり、好きなものはシュークリームだと知ったり。小さくて可愛いものが好きだと恥ずかしそうに明かしてくれた。俺も推し芸人を語ったり、好きな漫画をおすすめした。見たよ、って言ってもらえたら嬉しかった。たった二週間なのに驚異的なスピードだと我ながら感心してしまう。そして藤原の成長も。

 音もリズムも安定してきた。自信もついてきているようで、背筋が伸びて声もはっきり出せるようになった。俺とのハモりも綺麗になったし、ソロをやるのが楽しみにもなってきているらしい。

「早くみんなに練習の成果を聞いてもらいたいわけ」

「さすが運動部だなぁ。結果が出るまでちゃんとやるんだから。褒められてたじゃん」

「へへ」と藤原がはにかむ。それから俺の顔をじっと見つめて、「先生の腕がいいんだな」と頬をつつかれた。

 邪魔くさい手を払いのけてゴミ箱にペットボトルを投げる。枠にぶつかって外れた。最近シュートの仕方を藤原から教わっているのに、根っからのノーコンなのか一度も入ったことがない。

「俺はからっきしうまくならないよ。だから藤原のセンスがよかったんだ。コンクールが終わったらもう聞けないなんてちょっともったいないや」

 ペットボトルを拾い直して藤原もシュートする。まっすぐ飛んで行って、綺麗に入った。拍手を送ればまた照れたみたいに笑う。髪が短いからわずかに寄った眉間のしわも、細められた目じりもばっちりぶつかってきて、ハッと顔が熱くなる。手で扇いで冷ました。

 だめだ、ちょっと意識しちゃうな。

 ンン、と喉を整えて自分のパートを口ずさんだ。藤原がユニゾンしてくる。こっそりレコーダーのボタンを押した。こんな犯罪じみた真似してるのバレたらどうなるんだろう。

 藤原の声を聞く習慣がついた。なんなら睡眠導入にしているくらいだ。毎夜お気に入りの低音ボイスを鑑賞して幸福に酔いしれる。いや、わかってる。キモいよ。キモいんだけど、俺はすごく幸せなのだ。なりたかった声を堪能するのも、それが友人の声だっていうのも幸運だと思っている。朝には同じ声が生で聞けるんだから。

「伊野に声かけてよかった」

「うん?」

「本当に自信なかったんだ。ソロやるの。断るのはやだったから、どうにかしないとってダメもとでお願いしてさ」

「突然どうしたんだよ。まだ一週間あるだろ」

「言いたくなっただけ。俺ももったいないなって思ってるよ。せっかく秘密の特訓してたのに、終わったらなくなっちまうの」

 息がつまった。たまに藤原は変なことを言ってくる。誤魔化すように笑い飛ばして、俺はレコーダーを止めた。

 思わせぶりな言葉をくれるときの声は甘ったるい。ホットケーキにたっぷりのチョコレートのソースをかけて、その上に生クリームの塊を高く積み上げたのを食ったときみたいに胸がかっかっと熱くなる。どういう意図なのか、天然なのかわからないけど、だからきっとモテるんだろう。そりゃ告白されるわけだ。そしてまんまとおれも意識しちゃうという悪循環だ。

「そういうのやめた方が良いんじゃない?」

「ん? どういうの?」

「前に言ってたじゃん。告白されるの困るんだろ。だったらいまみたいなのを気軽に言うもんじゃないって」

「いまみたいなの……?」

 嘘だろ、どれだけ鈍感なんだ。はぁ、とため息を吐いて立ち上がったが、裾を引っ張られてつんのめった。

「危ないから!」

 うっかり出た声は気が抜けていたからいつもよりもずっとトーンが高い。キンキン声だ。あ、と口をすぐに手で押さえた。藤原もきょとんと目を丸くしている。額に汗が浮かんできた。しまった、気をつけていたのに。

 記憶にしていた蓋がわずかに開く。臭気がもれるみたいに嫌な言葉が出てきて頭の中に反響した。

『女みてーな変な声! キンキンうるさいんだよ!』

 中学生の自分がクラスメイトからかけられた言葉がぐさりと脳にささったまま抜けていない。だからいつも低くするのを心掛けていた。藤原の前でだってここまで高い声は出したことはなかった。

「いの、」

「気持ち悪い声出してごめん。耳、痛かったよな」

「ぜんぜん──」

 藤原の顔が直視できなくてカバンを勢いよく肩にかけるとその場から走り出していた。続きの言葉を聞きたくなかったし、どんな顔をしているのかも見たくなかった。だから逃げてしまった。せっかく仲良くなれてたのに、あいつらにされたみたいにからかわれたら、きっと藤原のことを嫌いになるかもしれない。その方が嫌だった。

 * * *

 憂鬱な朝だ。ラジオも藤原の声も聞く気にならずに無音のまま電車に乗り、駅に着くとクラスメイトたちが相変わらず元気に絡んできたのでいなしつつ学校へ向かう。

「あ、藤原……」

 いつもはまったく時間が合わないのに、なんでこの日は道で出会うんだよ。気まずい空気が流れたが、藤原は昨日の件はなかったかのように「おはよう」と俺たちに涼やかな挨拶をして先に教室へと歩いて行った。

 最悪だ。俺、めちゃくちゃ気を使わせたんだ。がっくりとうなだれた。

「なに、喧嘩でもしたん?」

「最近お前ら仲良かったもんなぁ、でこぼこで面白かったけど、なんかしたならちゃんと謝れよ」

「なんで俺がなにかやった前提なんだよ」

「あいつ超モテるじゃん。ルックスだけじゃなくって、バスケうまいし、腰も低いし。それに比べて伊野は偏屈だ」

「あ?」とにらめば友人が呆れ顔で肩を揺さぶってきた。

「いっつも怒ってるみたいな声で最初は結構ビビったんだぜ。俺たちは慣れたけどさ。だから伊野がなにかしたに決まってる」

「それは、だいたいあってるけど。わかったよ、謝るから揺さぶるのやめろ」

 ほらな、と友人たちは楽しげに笑ってそれぞれのクラスに入っていった。俺も教室に入るが、隣にはもう藤原が座っている。窓の方を向いてアンニュイなため息を吐いていた。

「おはよう」と改めて声をかけてみれば、ゆっくりと振り向いて口を開く。だがなにか迷ったのか小さく「はよ」と返ってきた。

「あー、昨日はごめん」

「また謝ってる」

「だって俺が変な声出したせいで驚かせただろ。それで逃げたし。だから、ごめん。藤原はなにも気にすることないよ」

「変な声なんかしてなかった」

「気使わなくていいから。そういうところがモテるんだってあいつらも言ってたな。わかる気がする」

 からかえば、藤原はムッと顔をしかめて「あのさ」と声を荒げたが、廊下から名前を呼ばれて遮られた。

 呼び出しだ。しかも女子かららしい。教室がわっと盛り上がり、みんなが藤原に視線をよこす。無視しようとしたようだが、良心の呵責に耐えかねたのか立ち上がった。

「俺は伊野に気を使ったことなんかないから。それだけはマジだから」

「またまた。優しいのも大概にしろって。ほら、早く行ってあげないと授業始まるぞ」

 みんなで女子生徒の方へ向かった藤原を見送る。姿が見えなくなった瞬間に廊下に飛び出して、階段の方へ追いかけた。大方の予想通りに踊り場で女子が緊張した面持ちで藤原の前に立っている。どうやらこちらののぞき見隊には気づいていないようだ。

 彼女がなにか言い放ったが、小声になっていて聞こえなかった。たぶん定番のセリフだろう。藤原は一体どれだけその決めセリフを浴びてきたのかな。俺はまったく経験がないのでどんな気持ちになるのかも想像が難しい。きっと照れそうだ。それで告白された子のこと、好きになっちゃう気がする。

 でも藤原は違う。そうだよな、慣れてるんだから告白された程度で気持ちが変わったりはしないか。

「ごめんなさい」とすかさずに藤原が頭を下げた。女子の肩が跳ねる。

「好きな人がいるんです。だから応えられません」

 こちらもまた定型文で返事をしていた。前と一緒だ。つまんねぇの、と誰かが呟いて教室にぞろぞろとクラスメイトたちが帰っていく。俺はと言えば、その場で足に杭が打たれたみたいに動けなくなっていた。

 女子は泣きながら藤原の元を去っていた。残されたのは俺と藤原だけだ。あいつがその場で乱暴に頭を掻いて「くそ」と小さく零しているのが聞こえた。

 馬鹿だな、と思う。その声がいつもよりも低くって、興奮してしまったから。

 まるで地鳴りみたいだった。ドキドキと心臓が早鐘を打ち、録音しておきたかったと後悔する。けれど藤原がこっちに向かって来ていて慌てて階段を上がって隠れようとしたが、見つかった。

「伊野……。なに見てんだよ、すけべ」

「あ、はは、クラスのみんなものぞいてた」

「最悪。こっちの気も知らないで、朝から告白とかダルい。最近は伊野と一緒にいたから減ってきてたのに」

「つまり俺をダシにしたってこと?」

 え、と藤原が階段から足を踏み外しかけ、倒れながら手すりを掴んだ。

「ち、違う! そんな意味じゃない! 悪い、いまのは言い方がよくなかった。かっこ悪いとこ見られたし、マジで最悪すぎ」

 どこか荒れた様子の藤原は初対面でこちらの心臓もさらに鼓動が早くなる。耳の先がちょっと熱い。あー、そっちの方の声もいいかも。優しい雰囲気だけじゃなくて、乱暴な感じがさらにがなりになって響くというか。いけない、こんな楽しんでる場合ではなかった。

「モテるのも大変だな。毎回好きなやつがいる、って断ってるんだ?」

「だって本当にいるし」

「誰だよ、そんな運のいいヤツ。もしかしてもう付き合ってる?」

「まだ」と藤原はそっぽを向いて肩を落とした。

 へぇ、告白してないんだ。でも付き合ってたら俺とこんなに会うことはないか。だったらもう少し告白するのは先延ばしにしてもらいたいな。恋人にはどんな声で話しかけるんだろう。もっと甘いのかな。上ずってるときの声も好きなんだけど、恋人には毎回そうなるのかな。

「変なこと考えてるな?」

「あぇ? ま、まさかぁ。早く告白しちまえばいいのに。藤原ならその子だって絶対OKしてくれるだろ~」

「どうかな。俺、結構アピールしてるんだけどぜんぜん気づいてくれてないし」

「ふぅん、どういう子なの? 俺がちょっかいかけてあげよっか」

「なんだよそれ。それこそ気を使わなくていいんだけど。そうだなぁ、背があまり高くなくて、歌がうまくって、声がきれいな子だよ」

「もっと特徴ないの?」

「うーん、リスに似てる」

 ますますわからなくなった。藤原からしたらこの世のほとんどの人間は背が低くなるし、歌がうまくてリスみたいな子なんて女の子みんなに当てはまらないか。そもそも女の子かもわからないけど、どちらにせよそんな特徴の子なんてごまんといる。面倒くさくなって俺は首を横に振った。

「そんな子はどこにもいないよ。やっぱり常套句でうそついてるんだ」

「いるって」

「いない」

 そんな問答を繰り返していたらチャイムが鳴ったので急いで教室に戻った。


 告白騒動のせいで話しかけづらくて気まずくなっていたのはすっかりどこかに行っていた。でも藤原の好きなやつが誰なのか、代わりに謎が生まれてしまう。そんな面白い話は友人として気になるに決まっているじゃないか。女か男かも知らないが、本当に運がいい人だ。でもお互いに気持ちがあったらもう付き合っていてもおかしくないよね?

 あれ。さっきはノリで指摘したけど、どうして藤原は告白しないんだろう。たぶん彼なら断られる理由もないはずだ。もしかしてもう玉砕済みなのかも?

 いやぁ、それはないっしょ。だってあんなにやさしくて、いい声で背が高くて運動神経抜群なやつがたった一人、それも好きな人にノーを言われるとかありえない。アピールする機会を探ってるんだな。試合で勝つとか、そういうの。

 なるほど、納得した。だから合唱コンクールの練習がしたいと言い出したんだ。試合に勝っても足りないなら、意外性で魅力をみせたいってわけか。だったら俺もちゃんと協力してやらないと、と気を引き締める。

「……いいなぁ」

 口から漏れていた言葉に自分でもびっくりして固まる。辺りを見回すが、どうやら誰にも聞こえていなかったようだ。安心した。

 俺はいま藤原の好きな子に、ちょっとだけうらやましさを抱いていた。いや、ずっと感じている。だってあの声をひとりじめできるのだから。こんな期限付きの独占じゃなくってずっと、しかも俺が聞いたことのない声を聞くんだ。

 ざわざわと落ち着きのなくなった胸をなだめ、ようやく椅子に腰を下ろした。 

 * * *

 コンクールまで残り一週間も切った土曜日、俺は少し遠めの駅で待ち合わせしていた。相手は藤原だ。今日は練習ではなく、遊ぶために集まった。

 こんな風に二人ででかけるのは初めての経験で緊張している。ショップのガラスに映った自分を見ながら髪型を整える。服とか変じゃないよな。別に気にしないけど、格好悪い姿をさらしたくなかった。

 それにしてもあいつ遅いな。電車が遅延したと聞いてるけど、待ってる間のこのドキドキ感は苦手だ。口の中で転がしていた飴をかみ砕いた。

「見つけた。おまたせ」

 後ろから声をかけられてすぐに振り向く。毎日聞いてる声だけど、どこか浮足立っているように感じた。それを証明するみたいに藤原は髪もちょっとアレンジしていて、普段の制服とは違うストリート系のファッションを着こなしている。身長があるから映えてかっこいい。道行く人も思わず視線を送っているほど渋谷という町にも映えている。

 返事をしない俺が気になったのか藤原がかがんで手を振ってくる。俺の顔なんて片手でつかめてしまいそうな大きい手だ。

 払いのけて、見蕩れていたのを誤魔化すために息を吐いた。今日は湿度が高いのもあって日陰にいても暑かったから、汗のにおいが心配になる。

「腹減ったし早く飯食いに行こ」

「どうせならカラオケで食う? ポテト食べ放題キャンペーンやってるし」

「じゃそれでいい」

 告白を覗いた以降、俺は妙に藤原を意識し始めていた。

 いままでは〝声〟だけが特徴だったのに、たしかに顔も整ってるとか、スタイルがいいとかそういうのも気になりだしている。告白に呼び出されると勝手に心配になるし、つい追いかけて様子を伺ってしまう。

『好きな人がいるから』

 藤原はいつも同じ文言で断った。きっと告白しに来ている人たちはその好きな人が自分かもしれない、という淡い期待を持っているのだろう。ことごとく撃沈しているけれど。だったら一体藤原の好意を寄せる相手って誰なんだよ。面白がる人もいて、よく「伊野は知らないか」と訊かれる。どうやら最近ほとんど一緒にいるからなにかヒントを握っていると思われているらしい。

 俺だって知りたい。この声を独占できるチケットを持ってる幸運なやつを突き止めてみたい。

 詳しくは聞けないままで、踏み込むべきかも迷っていた。だって今日の今日までは、俺たちは合唱コンクールの練習をするから一緒にいるという名目だったからだ。

 まさか遊びに誘われるなんてゆめにも思っていなかった。マジで友達になれたんだ、という安心感とうれしさはある。でも、コンクールで優勝して藤原が好きな子に告白したら、結局俺と遊ぶことはなくなるだろう。

 カラオケの個室という二人だけの空間で、藤原は照れくさそうにマイクをにぎった。部屋に入るなりデンモクから曲をリクエストしていて、十八番を披露してくれるらしい。

「よく来るの?」

「そこそこな。試合の後の打ち上げだったり、あんま人の目が気にならないから好きなんだ」

「ふうん」と相槌を返して俺もデンモクをいじって曲を入れた。

 流行りの曲を慣れたように歌いこなす藤原に手拍子を送る。歌がうまいのはよくカラオケに来ているからだと納得しつつ、「人の目」というのを考える。やっぱりさっきもじろじろ見られていたから嫌だったのかな。百九十もあるとみんなが小さいはずだ。よく頭をぶつけているし、目立つのは大変なことらしい。

 俺の番が来たのでマイクを手に取る。

「伊野って本当に歌がうまい。さすが合唱部」

「どうかな、普通だよ。藤原の方がきっとうまいんじゃない?」

「ないない」とソファに体重をかけて、藤原が苦笑する。歌に関しては藤原はとことん自信がないみたいだ。

「なくない。俺は声が高いだけだ。テノールパートなら重宝されるけど、気を付けないとうるさくなっちゃって」

 あ、と口をすぐに結ぶ。二人だけだと気が緩んでしまうようだ。ついネガティブなことをつぶやいてしまい後悔した。だから首を横に振って「いまのなし」と次の曲を入れようとしたが、藤原に止められた。

「だからいつも怒ってるみたいな声だったんだ?」

「みんなそう言うよな〜」

「最初はあんまり人と関わるのが好きじゃないんだと思ってた。でもめっちゃ話しかけてくれるからうれしかったよ」

「またそういうことを……。俺だって友達欲しいっての」

「なら俺は伊野とまずは友達になれたんだ。よかった」

 まずは? 聞き間違い、いや言い間違いかな。

 妙な沈黙を作ってしまい、慌てて歌おうとデンモクに伸ばしたが、藤原に腕を掴まれる。へ、と素っ狂な声が出た。

 隣に座っている藤原は、教室で見るよりも近い距離にいる。赤茶色の目が俺をしっかりととらえていて、外で流れているBGMもゆっくりと耳から遠ざかっていった。代わりにドキドキと心臓が跳ねる音が己の内側から聞こえてくる。落ち着けと言い聞かせても、藤原の息遣いがわかるだけで苦しくなるくらい早鐘を打つ。掴まれている手が熱い。俺の手首なんて簡単に折れるだろう。

「こんな近くで見たの初めてだ」

 楽しそうに言われて、目を白黒させた。

 なんだよ、それ。呆れてこわばっていた力が抜ける。まるで狼に食われる前の羊の気分だった。

「手、放してほしいんだけど。歌えないよ」

「まだ伊野と話してたい。頼んだやつも来てないしさ、時間あるんだからいいじゃん」

 ちら、と扉を確認するが人の気配はない。昼飯にラーメンとかつ丼も注文したから時間がかかっているのだろう。俺は藤原の雰囲気が変わったのに気づいて、店員に早く来てくれと念を飛ばした。

 なんか、おかしい。藤原の目の奥がすわっている。

「伊野のほっぺって丸いよな。蘭丸にそっくりだなって前から思ってたんだ」

「リスと? どこをどう見たらリスに似てるんだよ。そういう藤原だって二重がすごいくっきりしてるね」

「かっこいい?」

「そうだね。なぁ、どうせなら合唱の練習しよう? それなら機械使わなくてもできるし、」

「もっと伊野に褒めてほしい。無理して作った声じゃなくて、素の声で」

「え?」

 ごく、と唾を飲んだ。なに言ってんだこいつ。そんなことをしたら耳が痛くなっちゃうぞ。失笑しながら手を振りほどこうとしたが、力が強くなって少し痛みが増した。あれ、待って。やっぱり変だ。冷や汗がでこに浮かぶ。

 藤原はこんなことするようなやつじゃない。優しくて、気が使えて、のんびりとしたおおらかな巨人のはず。どうしてこんなに距離が近いんだ。ほら、もうほとんど抱きつかれてるみたいだ。指示に従わなければ食われるかも、と本能的な緊張が走る。

「その、背が高くって、運動神経もいい」

「それ本当の声?」

 嘘だけど、うなずく。だって俺の素の声は気持ちが悪いから、こんな至近距離で聞かせられるわけがない。へぇ、と藤原が目を細めた。

「ほかには」

「意外とかわいいのが好き、だったり、リスとかハムスターとか。告白してきた子にもちゃんと理由を言って断ってるの誠実だと思う」

「うん。それで?」

「ま、まだ? 歌がうまい。えっと、飯をうまそうに食う、スタイルがいい。これで十分じゃない?」

 ドアが開いた音がしたので助かった、と藤原から一人分距離を取って店員と注文を確認した。だが店員は無慈悲にも素早く仕事を済ませて部屋を出ていく。あ、と思ったときには藤原に腰を引かれて椅子に座り直していた。再度至近距離になり、どうしてという疑問が頭の中を占拠する。

「大事なの一個忘れてるよ」

 ゾク、と背筋があわだった。もう一つなんて、残っているのはあれだけだ。けど藤原が気づくはずがない。直接「低い声がいい」だなんて言ったら空気が最悪になるだろ。だから極力気を付けてた。レコーダーで録ってるのだって練習のためだと信じてくれてる、はずだ。

 藤原の目を見た。俺の疑問が伝わったのか、力が抜けるように笑ってポケットを指さされる。

「俺の声、録音してたのは自分の趣味のためだって気づいてるよ」

 全身から血の気が引いて急に寒さがきつくなった。俺の下心を藤原は知ってたんだ。そんな、完全に騙せたと思ってたのに。口から言葉にならない声が漏れる。呆然とする俺に、藤原が肩をすくめた。

「だって伊野が教えてくれた芸人とか、歌手とか、みんな声が低かったし。さすがにわかるって」

「うそ、」

「それに自分の声が高いこと、気にしてるみたいだから」

「待って! ──あっ」

 藤原の口を押えようとした手を自分の口の前に持ってくる。またやっちゃった。感情が高ぶると制御ができなくなるんだ。藤原はぎょっと目を丸くしたが、すぐに真剣な顔つきになって俺の腕をつかみ直した。マイクがハウリングした音を直接聞いたみたいに頭がぐらつく。

「女みたいな、変な声……」

 うっかり漏らしたトラウマが目の前で兎のように跳ね、笑っている気がした。もうこれ以上嫌な記憶を掘り起こしたくなくて、藤原を遠ざけようと胸を押したがビクともしなかった。掴まれていなかった方の手も拘束される。

「変な声じゃない」

「気持ち悪いだろ」

「そう思ったこと一度もない」

「男なのに声が高いのはキモいんだよ。藤原がどう思おうが俺は自分の声聞くのだって嫌なの」

「きれいなのに……」

「だから、コンプレックスなんだって。藤原にもあるだろ!」

 握ってきた手に力が入っている。今度は痛くない。藤原は一度顔を伏せてから、しっかりと俺を見てきた。

「ある。ほめてくれたとこ、全部俺のコンプレックス」

「え?」と肩がこわばった。顔を真っ赤にして、俺の肩に顔を預けてくる。ずし、と重くなった。

「でも伊野がほめてくれた」

「っ、ふじわら、待って」

「いのがぜんぶほめてくれたよ」

 だめだ。そんな耳に吹き込むみたいに間近でささやかれたらくすぐったい。痺れるくらいにいい声がすぎる。腹の奥がぞわぞわと震えた。俺がうっかり動いてしまったから、唇の柔らかい感触が首筋に当たる。一気に体の熱が上がって両膝を勢いよくくっつける。

 夜にこっそり録音した会話を聞くのとはぜんぜん違う。俺に向けて、わざと色っぽく湿らせた声が耳を撫でてくる。どういうつもりなんだ。藤原がからかってるのはわかってる。

 恋人にするみたいにいちゃついてきて、俺が童貞だって変に意識してるのを面白がってるんだ。

 だがそれどころじゃない。このままじゃまずい。俺、だって、一回だけ藤原の声で、反応しちゃったことがあるから。

「俺も伊野のことほめてあげよっかな」

「い、いいっ!  いらない、わざとみたいな声、出さないで!」

「声高くなってる。伊野は小さいのにちゃんと男らしくてかっこいいよな。なにより優しくって、面倒見もいいし」

 ぎゅっと目を強くつむって耐える。すっごい褒められてる。だけどまともに声を聞いたら俺の我慢が爆発してしまいそうだ。

「伊野の歌声をはじめて聞いたときあんまりきれいだからびっくりしたんだ。透き通ってて、芯があって、きっと天使って伊野と同じ声してるんだと思った」

「な、なにいってるんだよ! 腹減りすぎてばかになっちゃったの!?」

「真剣なんだけど」

 だったらもっとばかになっちゃったんだよ。だれが天使だ。おかげで冷静になり、俺は藤原の手を振りほどいて頭をすっぱたいた。すっかりラーメンも伸びてしまっただろう。もったいない。だいたいこいつは突然何を俺を口説こうとしてるんだか。ちゃんと好きなやつがいるんだから、そうか。わかったわかった。

「もしかして、告白の練習だな」

「は?」

「だったらこんな至近距離はやめた方がいいよ。適切な距離をとれ。でもほめるのは正解だな。いきなり好きですよりも、まずは相手のことをどれだけ考えたか伝えるの、いいと思う」

「いや、あの。そ、そう?」

 うなずく。割り箸を割ってからどんぶりを手元へ寄せた。あぁ、すっかり麺が汁を吸っている。食べてみたらぶよぶよだった。こんなことなら俺も親子丼とかにすればよかった。緊張していたのも、変な気持ちになりそうだったのも麺とともにすすって腹に収める。

「合唱コンクール終わったら告白するんだろ? ったく、練習するなら先に言えよ。びっくりしたじゃん。そうだ、場所もカラオケとか絶対やめとけ。逃げ場がなくてちょっと怖かったから」

「そんな予定はないけど、そっか。怖がらせてごめん……」

「大丈夫、藤原なら絶対うまくいくよ。頑張ってな!」

 
 そのあとは何事もなかったかのようにカラオケで大合唱してポテトを堪能し、ゲームセンターに行った。藤原はセンスがよくって狼のぬいぐるみを取ってくれた。欲しかったわけじゃないが、少ない金額でバンバン取っていくのが面白くてつい大物に手を出しただけだ。

 家に帰ってみたら、思ったよりも愛くるしい顔をしていたのでベッドの隅くらいの領地は与えてやった。

 それにしてもどうして藤原は俺の声をきれいだってまっすぐ褒めてきたんだろうか。無理をさせてしまったのなら心苦しい。

「うれしいけど、複雑」

 狼の鼻をつつく。静かになるとカラオケでささやいてきた藤原の声が耳の中に反響する。これもあともう一週間もなく終わってしまうのか。藤原との秘密の特訓がなくなれば、元の隣の席のクラスメイトに戻るんだ。声を独り占めするのも終わり。

「いいな、あいつの恋人になれるの」

 ……え? 俺、いまなんて? まるで藤原の恋人になりたいみたいに、うらやましいって。

 思わず狼の腹を殴っていた。へにゃりとベッドに倒れたぬいぐるみをわっと抱きしめて飛び出そうになった心臓を押さえる。違う、俺が好きなのは藤原のメロい低音ボイスだ。だから録音で十分じゃないか。コンクールが終わったら新しい声は録れないけど。

 はぁ、と大きいため息が出る。ごそごそと枕の下をまさぐってイヤホンとレコーダーを探し出した。スイッチを入れると藤原の声がイヤホンから流れる。

『伊野──』

 優しい声で名前を呼ばれるのは、すごく好き。全身がむずむずする。こそばゆさは心臓を揉んできて、脈が速くなる。あいつの笑顔でいっぱいになった頭の中が熱を持って、まるで。

「いやいやまさか!」

 だが思いついた俺は止まれなくなっていた。さっきもおかしいと感じた感覚と焦った気持ちが落ち着かず、一人ではもうどうにもできないと思考が冷静さを欠く。

 そして時間を確認して推し芸人のラジオのページに飛んだ。そこに書いてあるメールアドレスを打ち込んでとあるコーナーにメールを送信する。それからリアタイで聞くためにコーヒーを飲み、狼に乗っかりながら布団にくるまった。

 なにせこの芸人はおふざけだけど、恋愛相談のコーナーがあるからだ。採用されますように、と手を組んで祈れば一発目に自分のラジオネームが呼ばれガッツポーズを決める。まさかこんな形で普段聞いているラジオに参加することになるとは予想もしていなかった。

『自分は現在高校生なのですが、クラスの人気者とちょっとしたきっかけで遊ぶようになりました。前からその子の声がよくて推しだったのですが、』

『出た、推し』

「黙ってて」と突っ込んできた相方の方を威嚇してしまい、恥ずかしくなる。どれだけ必死なんだ、俺は。

『最近声を聞くとドキドキが止まらなくなります。うひゃー、若っ。えー、もしかして特別な感情を抱き始めているのかも。お二人はどう思いますか。これは恋なのでしょうか』

 ほら、いまだって推し芸人の低音を聞いてもそんなにドキドキしない。かっこいいし、いいなぁとは思うけど藤原のはもっと聞きたくなるんだ。

『うーん、まぁ恋でいいんじゃない?』

「投げやりだ……」

『だって高校生なんでしょ。いいじゃん、あいまいな感情のままでも告ってみれば。相手が好きかどうかだってわからないんだから。人生経験積んだ方がいい』

『そうやって感情だけで動けるのは若いうちだけだよね。あと高校生がこんな深夜ラジオにメールしてくんな! さっさと寝ろ!』

 直接怒られた気になってラジオを勢いよく消して目を閉じた。

 感情のままで動いてみるって、そもそもわからないからどうすればいいか聞いたのに!

 それに藤原には好きなやつがいる。告白なんて無理に決まってるじゃん。ばかなことした、と省していたらカフェインのせいもあってよく眠れなかった。

 でも、そうか。恋かどうかわからなくてもドキドキするものなのか。

 だったら俺はこの気持ちをどっちにしたいんだろう……。

 とにかく願うのはあの声を独り占めしたいってことだけだ。

「それが恋ってことなの?」

 体の下で潰れている狼に声をかけてみたが、もちろん答えはない。

 * * *

 なんとも言えない悩みを抱えることになった俺は藤原を少し避けてしまった。というか練習がなくなったからその分の時間が無くなっただけなのだが。
 
 そしてとうとう合唱コンクールの本場の日がやってくる。クラスのみんなは気合が入っていた。

「実はこっそり伊野たちが練習してたの知ってるんだよ。だから絶対勝とうな」

「狙うは最優秀賞だ!」

「いや知っているんだったら別に声かけてくれてよかったんだけど」

 そうつっこめば、全員の顔が俺と藤原に向いた。ひそひそと話し合った後に首を大きく横に触られる。藤原だって恥ずかしいだろ、と隣を見上げればにこにこと笑っているだけだった。え、どういう感情?

 しかしおそらく緊張だろう、と結論付けて脇を小突いた。

「優勝したら、好きな子に告白するんだろ」

 耳打ちすれば、藤原が苦虫をかみ殺したみたいな顔をした。

「だからそんなつもりは……、本当に優勝したら考えてもいいか。忙しいだろうし、そもそも会うのすら断られるかも」

「そんなことないって! ま、他クラスだと難しいよな。俺さぁ、藤原の恋を超応援してるから。頑張ってほしいんだよ」

「なんで?」

 ドキ、と肩が跳ねる。

「友達だから」

「もしかして厄介払いしたいんじゃないの」

「はぁ? そんなわけないだろ」

「この前から避けられてるように感じるし。俺はコンクールが終わっても伊野と、」

「B組ー! 来てください!」

 藤原の言葉は委員会によって遮られた。ぞろぞろと歩いて舞台のそでまで、藤原とは一切続きを話すことなく進んでいった。

 たしかに疑問に思われてしかる通り、応援する義理はない。友人同士であっても不可侵というものがあるし、藤原からしたら俺が踏み込んでくるのは変な話なのだろう。でもそれ以外に理由はないのだ。

 もしこれで藤原の恋が成就したことに傷ついたら俺は恋してたってことになる。そうでなければ勘違いだった、で済む。どちらにせよ俺のこの気持ちをはっきりさせるにはこいつの告白にかかっているのだ。どうせなら未練になる前にさっさと終わらせてほしい。

 
 さて、時間は飛んで合唱コンクールの結果は大大大優勝を飾った。統率が取れていてハーモニーがきれいに決まったおかげで拍手喝采を貰った。俺たちのソロも練習の成果を発揮でき、藤原はますます人気者になりそうな予感がする。自信満々に歌っている姿が様になっていた。俺も合唱部にメンツが保てて安堵した。委員長が壇上で賞状をもらい、涙ながらにクラスのもとへ戻ってきたときはこちらももらい泣きしそうになった。

 そんな熱狂はまだ続いていて、このあとみんなで打ち上げに行こうという話がさらに盛り上がる。親が料理屋をやっている家の子が話をつけてくれたのか、もう少ししたら移動すると連絡が入った。

 そして俺と藤原はクラスから離れた場所にある階段の踊り場にいた。

 ……──なんで?

 目の前に立った藤原は緊張した面持ちで俺を見下ろしていた。おかしい。こいつは好きなヤツに告白するんだったよな。

 それがなぜ俺の前にいるんだろう。賞状と一緒にみんなで教室に帰ってきて、打ち上げの話をしていたら呼び出されたのだ。告白前の最後の練習かと思って連れ出されるままここに来た。

 でも、さすがに俺だってもうわかる。手汗をスラックスで拭いた藤原が耳を真っ赤にして、何か言おうと口を開いてもすぐに結んで深呼吸をしている。まさかね、なんて冗談でも言えなくなってしまった。

「いい結果を残せたら告白するんだぞ、って約束つけてきたのは伊野だよ」

「え、あ、うん。そう、だね」

「だから告白するから」

 首を小さく縦に振った。まだ練習の可能性も残っている。ほら、藤原は緊張しいだったし。ごくん、と唾を飲んだ。

 え。本当に俺にって、こと?

「俺、伊野のことは一年の頃から知ってた」

 うだうだ考えている内に始まってしまった。藤原の震えている声にいつも通り耳を澄ませる。あ、待ってくれ。録音したい。告白するときの声って貴重じゃ、頭を横に振った。こんなときにもなにバカなこと考えてるんだよ。でも藤原が俺の反応で何かを察したのか、スマホを取り出してレコーダーのアプリを開いた。それから俺に投げ渡してきたのであわあわしながら受け取る。

「そんなに聞きたいなら録音しておけば。あとで何回でも聞いて」

 藤原が大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。覚悟が決まったように目をしっかり俺に合わせて拳を握った。上ずって少しだけトーンが高くなった声が新鮮で、胸が苦しくなるくらいぎゅうっと締まる。

「初めて声を聞いたときは一年前の合唱コンクールのとき、こんなきれいな歌声のやつがいるんだ、ってびっくりしたんだ。俺も自分の声好きじゃない。低いのは目立つから、変な声だってからかわれたこともある」

「そんな、いい声なのに!」

「そっくり返すよ。伊野の声を聞くと耳が幸せになるんだ。同じクラスになって、席も隣になって、毎日声かけてくれるようになったろ。本当にうれしかった。好きな声の人が挨拶してくれるんだ。学校に来るのもまったく嫌じゃなくなった」

「ふじわら……」

「その声を、ひとりじめしたい。そう思うようになって、コンクールでソロに決まったから、俺は下心ありありで練習に誘ったんだ」

 もう一度唾を飲む。藤原の言葉は、まるで俺が彼に言っているみたいだった。だってまったく一緒じゃないか。脳の理解が追い付かず、藤原の告白の続きをただ待つことしかできない。

「伊野も声に悩んでたんだね。きっと俺よりももっとつらい思いをしてきたんだ、って知ったら苦しくて。伊野のきれいな声をからかうやつがいるなんて信じられない。……っ、俺は本当に伊野の声が好きなんだ。最初はそうだったんだけど、いまは伊野自身が好きになった。もう一回、言うけど」

 背後から夕陽に照らされてキラキラしている藤原の顔から目が離せなくなる。

 そうだよ、わかるよ。俺もその声を独占したかった。ほかの誰かに訊かせるのなんて許せない。俺だけに聞かせてほしい。上ずった声も、怒ってさらに低くなる声も、しょんぼりした声も、全部だ。

 そして一番聞きたかった、好きな人にかける甘い声色が俺に向いている。

「俺の好きな人は伊野貴也、きみだ。天使みたいにきれいな声を俺だけに聞かせて欲しい。こんな不純な理由じゃだめかな……?」

「ふじ、わら。俺、おれは──」

 こんな感情になったのはたぶん、初めてで。

 体の中がめちゃくちゃに熱い。なにか言わないと爆発しちゃいそうなくらい気持ちが膨らんでいて、その大部分を「好き」が占めている。

 いままで友達のときに感じていたものとは明らかに違う。

 だって大好きな推しの声で「好き」ってもっといっぱい聞かせて欲しくて、なによりもその気持ちに応えようとふくらんだ風船みたいなものに針を刺そうとしている。

 パン、て弾けたらもうあいまいじゃなくなるだろう。それでもいいや、と衝動に任せて藤原の腕を目いっぱい伸ばして頬を掴む。ぐい、と下に引っ張り耳を自分の口元に近づけた。

「俺も同じ。その声をひとりじめしたい。好きな人に話しかけるときってそんな声になるんだ。かわいいね」

「う、うん。そう、緊張して変な声になっちゃうんだ。はは、かわいいか。恥ずかしいな」

「変じゃないよ」

 どれだけ高い声が出ても、もうあの呪いは聞こえてこなかった。彼の声がたくさん頭の中に埋まってかき消しているんだ。あんなに嫌いだった俺の声をたくさん聴いてほしくてたまらなくなる。

 藤原の腕が腰に回ってきて、抱きしめられた。ぜんぜん嫌じゃない。それどころかちょっとビリビリした感覚が来て気持ちいい。もっとお互いの耳が近づく。好きな人が俺だとわかってすごく安心していた。だからそうか。

 なんだ、俺もやっぱり好きだったんだ。恋人になりたかったんだ。

「俺は藤原の声が一番好き」

「俺も伊野の声が一番好きだよ。……付き合ってくれる?」

「独占できるなら悪くないな。うん、それじゃ、よろしくお願いします」

「しまらないなぁ。ありがとう。好き。伊野のことが好きだ」

 甘い声で耳をくすぐられ、思わず笑いだしてしまった。回していたのをすっかり忘れていたレコーダーを止めて、目の前にとまった顔をじっと見つめた。ちゅ、と柔らかい感触が当たる。

 あ。でもこうすると声が聞こえないじゃん!


 覗いていたクラスメイトたちからの祝福と怒号とないまぜの感情を浴びることになり、打ち上げは大いに盛り上がった。

 ひとしきり疲れたところで、藤原が頭を肩に乗せてきたので小突く。

「なんで好きなこと隠してたの」

「伊野は俺とは友達でいたいだろうと思ってたから。告白なんてするつもり、本当はまったくなかったよ」

 え、と驚いて飲みかけていた水をこぼす。

「でもラジオ聞いてたらさ、明らかに伊野が送ったようなメールが読み上げられてて、覚えてる?」

「へ? ん? あっ、え!?」

 そ、そうだった。あのラジオは藤原にもオススメしてて、聞いてくれているんだった。つまり、俺の愚かな行動によって藤原は告白を決めたってこと……?

「脈があるなら、それでもし優勝できたら言っちまえって勇気だしたんだよ。伊野も告れ告れってしつこかったし」

「その、」と途端に恥ずかしくなって声が上ずりまくる。でも口を手でパッと隠された。

「だめ。その声は俺にだけ聞かせてくれるんだろ?」

 その手で隠したまま藤原はリスに似てるって言う俺の頬にキスしてきた。

 ず、ずるい! そんな風に言われたら俺だってちゅーしたくなるだろ!