さよなら、なんか言えなかった

 夢が覚める間の感覚を、まだ俺は知らない。眠れない日が続いている。目覚まし時計は投げ飛ばされ、壊されている。
 無意識に夢から出ることを拒むように。
 未来に向かう時計の針は、駆け足だ。ミルキーなグリーンの時計が、せわしなく秒を刻み、その度、顔をしかめうつむく。
 あの頃から何年たっただろう。
 父から送られてきた小包は開けていない。開ける勇気はなく、仕事に忙殺される日々を送る。ふいに彼女のにおいを思い出した。首元に顔をうずめると、彼女は少しくすぐったく身を縮め、鼻でおかしそうに笑った。
 花の名前の女だった。スミレという名前の、切れ長の目をした女。可愛いというより、美人で、彼女の大きな黒目がこちらを向くときに、いつも体がびりびりした。
 体を這うような気迫と同時に、彼女は垂れ下がった葉を持つ柳のようだ。感情をつかめなくて、項垂れた腕から、何かもを取りこぼしてしまうような。
 自分に価値を見出せないから、人にやさしくすることしかできない。彼女のそのから回った行動に、幾度視線をそらしたかわからない。
 報われない優しさを、振り払われた手を、傷つかないわけがない彼女の心が、死に向かって歩き出すまで、どうして俺は止められなかったのか。
 後悔は尽きない。嫌いなんだ。彼女を含め、俺自身が。
 今日見た夢に、彼女が出てきた。静かに小包を開けて「これ、私の愛で呪い。忘れないで」と渡された花は見覚えのない紫のクロッカスに似ていた。
 だからもう、夢から覚めないで欲しかったのに、俺は小包を開いたのだ。
 小包には彼女の携帯と、彼女のにおいが入っていた。
 あの頃の自分を、思い出す。走馬灯のように、過去の自分を振り返っていた。
彼女の憂いに染まるその瞳。陰鬱な光を帯びるその流し目の光がゆがんで見えた。
彼女は、孤独を知っている。
寒さの中で、自らの体温で熱を保つしかない。朝起きた時のこわばった体を知っている。それでも、彼女は捨てきれてないのだ。
きらりと光る雫のような、希望をその目に宿して、今を生きていた。暗闇の中に唯一輝く月のように、一瞬にして誰もが彼女を見つめる。
その憂鬱な光に吸い寄せられる。とげとげしくて、触れられもしないくせに彼女はとても人を惹きつける。何もかもを嫌った神様だった。水に溶ける絵の具のように、夜の闇に溶かされる海のように。
全てに見放された人間が最期に見せるような空虚で覇気のない表情、陰りのある瞳はどこまでも闇深く、見る者の時を止めてしまっていたのだ。
 緑の黒髪、光を吸い込んで閉じ込めたようなまばゆい白い肌、茶色がかった瞳の中で何を思い、何を嘆き、何に苦しんで彼女はその表情を凍らせてしまったのだろう。
 背景の見えない彼女の生い立ちを、彼女の思考の一部を、どうしても知りたいと思った。
 それがどれだけの苦しみを産んだとしても、俺は彼女が知りたいと思った。

*** 

産まれてくる環境は選べない。
母はアルコール中毒の父に逆らえなかった。母が父の憂さ晴らしに殴られると決まって「ごめんなさい」と笑う。
それは泣くと余計殴られるからで、心からの笑いではない。
「いつもへらへら、幸せそうでいいなぁ」
 父はそういって、母を水の張った浴槽に連れていき、沈めるのだ。毎度のルーティーン。だから母は言う。
幼い俺に「部屋の奥に行ってなさい」と。
あとは震えて朝を待つのだ。
暴れる水音、母のすすり泣く声と悲鳴が耳に届く。その度、耳をふさいで時間が過ぎるのを待った。
どれだけありがたいと思っただろう。布団をかぶりながら震える一秒を。時間が過ぎる度、その一秒の間に自分じゃなく、父の怒りが母に向いていることに感謝した。強すぎる自己愛と、母に対する罪悪感と安堵だけがそこにあった。
家庭という小さな社会で、誰かを傷つけることが日常だと勝手に悟った。父親は母親を殴るものだと、そんな歪んだ認識があった。そしてそれを当たり前だと信じることに救われていた。
きっと今、俺と笑っている友達だって、家では俺と同じように父親に殴られている。毎夜、布団の中で朝が来ることを祈っている。
そう思わなければ、俺は壊れていたと思う。内心わかっていた。ドラマのように母を大事にする父が実在するということに。
心の中の歯車は、事実と虚構が混ざることでかみ合わなくなっていく。だから、仕方がなかったのだ。認識の歪みが、俺を普通からはじき出したのは。
最初は、小学生の他愛のないじゃれ合い。
遊びで軽く小突いてきた友人に、父の顔が頭をよぎった。沸き立ったのは、憎悪。目の前に浮かんだ父を消したくて、反射的に友人の鼻の穴に鉛筆を刺した。
深く力いっぱい差し込んで、俺は父の幻覚を消す。心の中にどろりと溢れた、父に対する否定。殺したいぐらい憎い。俺は母を助けようともしないくせに。焼け付くような加虐の矛先は、紛れもなく父に見立てた友人に向いている。そして我に返り、脳の端で今の行動を顧みた。
冷たい汗が額を伝う。友人は痛みで声が出せないのか、出血の止まらない鼻を抑えながらこちらを見た。
未だその時の友人の目が忘れられない。汚物を見る目、様々感情が交差した表情。
恐怖と驚きと、一瞬、怯むほどに背筋を震わせる嫌悪。ガリっと歯が立つ。気が付くと口内を噛んでいた。苦く感じたのは血の味。
回らない頭で、わかっていたはずの疑問ばかりが浮かんでいた。何故こんなことをしてしまったのか。抑えつけた憎しみが、水風船のように音を立て破裂した。
中身の憎悪だけが、周りの罪のない人間に牙をむく。
グラグラと視界が揺れ、浮遊する気持ち悪さと、吐き気に似た感情が混ざった瞬間、そいつが放った一言に俺は固定された。
「異常者」
 その言葉が耳の中で反響する。人間という枠から急に弾き出されて、怯えるのと同時にもう自分は自分にしかなれないことを悟った。偽っても無駄だ。そっと触れる自分の顔は、確かに笑っていたんだ。
 自分を成す土台が腐っていれば、あとは転がり落ちていくのは簡単だった。
 誰かを傷つけることに躊躇いをなくし、自分と自分以外を大きく差別するようになった。
 隠れて煙草を吸い、気に入らない奴を片っ端から殴った。思春期特有のどうしようもない衝動。破壊と暴力だけが自分を癒していた。
 誰かの苦痛で歪む顔を父に見立てた。父を殴っているつもりで、気に入らない誰かをとことん痛めつけた。八つ当たりのようで、こんなのは八つ当たりにもならない。ただ同じ暴力でしかなかった。
 小四の夏、母がマンションから飛び降り自殺した日のことが、忘れられない。
 下校途中、マンションに人混みができているのに気づいて、覗き込もうと近づいた。瞬間、近くにいたおばさんが抱き着いてきた。
「見ちゃダメ」
おばさんのせいなのか、おかげなのか、遺体を見ることは叶わず、足元まで届いた血だまりだけを覚えている。
それが母のものだと、しばらく経ってから聞かされた。
血の妙な黒っぽさと生臭さが、脳裏によぎる。手汗と震え、惨めさと罪悪感で何度も吐いた。あんなに苦しんだ母の最期の選択が自死であったこと。見殺しにした、自らの浅はかさに涙が滲む。
泣く資格などない。俺は自分を守るために、母を見捨てたのだから。破裂しそうな倫理観、罪滅ぼしに父を殺そうかと何度も思った。自己保身で守り続けた人生を捨てることで許されることを願った。
 本当は知っていた。傍観者に徹した自分は加害者で、俺が本気で殴りたいのは、自分自身だと。
少し何かが違っていたら、変わっていたかもしれないと過去を振り返り、頭の中でやり直したとしても、取れる選択肢なんて限られるのが現実。
 脳内で何度もやり直した人生は、同じ結末を辿り、どうしようもないこともあるんだと諦めるしかなかった。
年を重ねれば、そんな経験から、真っ当に人を受け止めることができなくなる。
父の仕草や母の仕草から、多感に先の行動を予測することを、ごく自然とやっていた。過剰なほどの自己防衛本能。
何年も繰り返せば、人の真意が見えるようになっていた。こいつはこういう人間だと、人格に癖づいた嗜好や、言動から読み取れる欲しい言葉が手に取るように分かった。
見える意図をくみ取り、ほしい言葉を紡ぐ。そうすれば、世渡りもさほど難しくはない。
周りの人間はつまらないほどに従順で、まるで機械のようだ。誰もが意思のない操り人形のようで、それが何よりも孤独で苦痛だった。
 だからだろうか? いつも一人でいる彼女の不器用な生きざまが鼻についたのは。
クラスに一人はいる誰とも話したがらない暗い奴。彼女は心に闇でも抱えていそうな女で、腕にはリストカットの痕が魚の鱗のように無数に広がっている。
固そうなかさぶたが、唯一の彼女の盾のように感じた。
柔らかな白い肌を鱗のようなかさぶたが守っている。柔らかい皮膚を隠すような硬いかさぶたは、彼女の弱さを露呈しているようだった。
無表情で傷つかない鉄面皮みたいな顔。でも見せかけだとすぐに見破った。
彼女は気丈にふるまってはいても、本心はたまらない寂しさを抱いているのだ。すぐに分かった。何故なら自分と同じ、淀んだ泥の目をしていたから。
 始めは興味。隠されると暴きたくなる、そんな好奇心からだった。
「早坂、おはよう」
興味を持ちだしてから凝視するように彼女を観察し、声をかけるようになった。
彼女と言葉を交わせば、あるいは彼女の反応を見れば、彼女のことが何か理解できるかもしれないと思った。
早坂はその美しい無表情を崩すことはなく、頭だけ少し下げて去っていく。
 俺はそんな彼女を見つめるほど魅入られた。
十六年生きてきて、彼女は他に類を見ないほどに美しく、触るのも躊躇うほどに独特な雰囲気をまとう。
近づくだけでその色香にめまいを起こし、背筋から這い上がるような神聖さに言葉を奪われる。神様みたいに恐ろしく、普遍的でひどく見ていて心が痛い。
彼女の表情は、いじめられても殴られていても、変わることはなかった。
 それどころか、彼女はその場を支配してしまう圧倒的な存在感があった。かけられた滴る泥水さえも、彼女の髪を濡らしただけで、いとも簡単に視線を奪う装飾品に変えてしまう。
 彼女の言葉はいつも、彼女の存在感にかすむ。話そうとする彼女の声を奪っている。美しさは毒だ。その寂しさを映す流し目の憂う表情、その薄暗い眩さに息をのむ。一つ一つの所作を目で追ってしまう。
陰鬱でわずかな光を宿している瞳に魅入られる。痛みさえ感じるほどにビリビリと、痺れるような感覚で脳の端が白む。
圧倒的な美しさと存在感は、彼女自身にとって毒にしかならない。次第に敬遠され、遠巻きに見られるようになっていく。
一人きりになった夕焼けの教室で彼女を見た。影と光をまといながら、長く伸びるまつ毛が影を落とす。そこだけが凛とした緊張感をもたらして、静かにうろたえる自分がいる。
 自分とは違う生き物だ。俺とは違う。
「早坂ってさ」
 彼女を眺めながらクラスメイトの中田に声をかけた。机に肘をつきながらいつものように憂鬱にため息を吐く。中田はそんな俺を見てにやついている。
「なんだよ。恋か?」
「そんなんじゃない」
 違う、そんなんじゃない。頬に熱がこもるのも、指が震え、怯えてしまうのも。彼女の存在がわからなく、混乱させるからだ。まるで言い訳のように頭の中で繰り返した。それを見て呆れたようにため息をつく中田を見て、少し奴のすねを蹴った。
「……痛い。全く、めんどくせ。まぁ……、あいつ綺麗だもんな」
 いつも軽口を叩く中田から見たこともないような暗い表情が浮かんだ。一瞬、驚いて目を丸くした俺に気づき、中田はため息をついてから諦めたように笑う。
「綺麗だけど、俺はあいつが嫌いだよ」
「なんで?」
 視線を早坂からそらさないまま、中田に耳を傾けるとぼやくように言う。
「あいつといると、自分が嫌いになるから」
 そういった中田の口元が痙攣しているように、少しだけ震えているのが印象的だった。
「……大丈夫。恋とかじゃない」
 俺はもう一度、言い聞かせるようにしてまた彼女を見た。
「あいつの泣いたところを、見てみたいだけなんだ」
 無意識に彼女と話がしたいと思うようになった。彼女と言葉を交わしたい。彼女の本当を見てみたい、そう願うようになった。
彼女の生きた感情をぶつけられたいと願う一方で、どうしてそうされたいのかの答えが見つからない。それなのに、彼女と言葉を交わすその瞬間は意外にも早く訪れた。

***

 四月半ばの教室で彼女を見かけた。放課後なのに帰ることもせず、ぼんやりとしている。いつものように視線が奪われ、彼女にくぎ付けになる。
 珍しく彼女はずっとスマホに視線を向けていた。文字を打っている音はしない。彼女は画面をじっと見つめている。その視線はあまりにも悲しげで縋るような感情を映していた。
 初めてだ。こんな感情のある彼女を見るのは。その事実が、くすぶっていた欲求に火をつけた。
話したい、何を考えているのか知りたい。彼女は何が好きで、何が嫌いで、どんなことを想っているのか知りたくてたまらなくなった。
一度、火が付いた導火線は止まることを知らずに俺を突き動かした。
 足が勝手に動く。彼女に近づいていく。声をかけようとした。けれど、言葉が出ない。彼女の画面を見つめて縋るような視線に声を奪われ、呼吸を忘れる。
 薄紅の桜の花弁が視界を埋め尽くす木々を後ろに、彼女の輪郭は何よりもはっきりしていた。まるで全ての美しいものが彼女を着飾るためにあるように、彼女の前では影をひそめるのだ。
「……早坂、早坂スミレ」
 我に返って、彼女を呼んだ。
 彼女は俺の方に振りむくと、警戒するように後ろに下がり、距離をあけた。
それに少しのショックを受けながら、俺は彼女と視線をあわせた。瞬間、触れるなとでも言いたげなきつい拒絶の視線を向けられる。
「なに?」
 彼女は美しい顔を歪ませて、棘のついた茨のように全身で威嚇する。その態度が焼け付いた石に触れたように熱く痛く感じた。
触れたいのに触れられない。苛立ちが俺の焦燥を掻き立てる。
「何見てたの?」
「別に」
そういった彼女の瞳が少しだけ潤んだ。
「なんで睨むの?」
「あんたが嫌いだから」
 間髪入れずに、言われた言葉に唖然としながら答えた。
「どうして?」
 俺は疑問を投げかけると、また彼女は俺に対して距離を取った。
「あんたが人を人として見ていないから。あんたが周りを見る目、どんなのか知ってる? 生ごみを汚い、汚いって摘んで捨てるときみたいな顔してる」
 そういわれた瞬間、自分が彼女の目にどう映っていたか気づいてしまった。彼女の言うように目は口ほどに物をいう。彼女は俺が異常者だと気づいている。
 またあの時の友人の視線が心を貫くようだった。彼女の視線の冷たさに、心臓を鷲掴みにされたように息が上がった。
怖いと思っているのかもしれない。どうしてかわからないが、嫌われたくない。
「……俺のこと嫌い?」
「うん」
 思わず、胸を抑えた。ぐっと鼓動が嫌に早くなる。彼女と話して嫌いと言われただけだ。たったそれだけなのに。
「……どうすれば、好きになってもらえる?」
 自分でも意外な言葉を口にしてしまって驚き、視線をそらした。何を言っているのだろう、好きになるのか聞いてどうするつもりだ? 思考と言葉と態度がかみ合わない。全部バラバラだ。
 彼女もあっけにとられたような顔をして、固まっている。
「好きになられてどうするの?」
「わからない。ただ、嫌いになられたくはない」
 俺は嘘偽る術を持たない。だからこそ、ストレートな言動で伝えるしかない。彼女の生きた感情をただただ、見てみたかった。
「そう。じゃ、殴っていうことを聞かせたら? みんなにそうしてるように」
 肌に侵蝕する冷たい視線、この子は俺を軽蔑している。
「ううん。殴らない」
 俺はまっすぐ見据えた。
「早坂は俺が今殴っても俺を好きにならないし、俺を見ない。君はきっと俺も何も見てない」
 早坂はそう言い切った俺を見て、少しだけ驚いた顔をして舌打ちした。
「……あんた、何がしたいかわからない」
 俺は少し自傷するように笑う。
「君が笑顔になれないように俺だってわからないんだ。自分の事が」
 早坂は睨みつけるようにして俺の言葉を待ってくれている。俺は頬がほころび破顔してしまいそうになった。今ようやく俺を見た。けれど、俺の歪んだ笑顔を見られたくなくて、無理やり早坂の顔を両手で隠した。
俺は彼女を殴る想像をしてみた。心が痛いと思うのと同時に、彼女が自分に向ける感情に本当が混ざっている気がして、笑顔がこぼれる。自分の中にはおぞましい加虐心にまみれた化け物が誰かを傷つけようと笑っている。
「ちょっと、何するの!」
 俺の手を振り払おうと、早坂はもがいていたけれど、俺の言葉を聞いて動きを止めた。
「そのまま、聞いて」
 何かを察したように早坂はおとなしく振り払おうとしていた手を下げた。
「早坂は、優しいね。こんな俺の話も聞いてくれようとするんだ」
 彼女は何も答えなかった。その代わり、きっと嫌な気持ちになったと思う。彼女に触れる頬が少し、冷たくなっていたから。
「早坂は、誰かを殺したいほど憎んだことがある?」
「……どうだろ」
 彼女の冷たい皮膚が、少しの震えを持って答えを出した。……本当はあるんだろう。それはきっと、彼女自身に向いている棘なのかもしれない。
「俺は自分の感情がわからないんだ。……母さんが自分のせいで死んで、俺は俺がわからなくなった。……何を思って、何を感じて、何を嫌って、何を好んでいるか」
早坂の顔が冷たくなるのを感じた。いいや。たぶん、俺の手が冷たいんだ。震えるこの手はきっと喜びも悲しみも知らないまま、処理しきれない感情に押しつぶされて震えている。
「最初は君も俺と同じだと思った。でも、早坂は優しいでしょ。いじめられていてもやり返さないし、いじめの加害者も恨んですらいない。そして、君はいつも向き合おうとしている。話をしようとしている。けれど、誰も君の声を聞かない。話そうとしない。だから、話したくなった。君が何を思っているのか、知りたくなった。……もしかして俺は、早坂が好きなのかもしれない」
 探し物を見つけたように、静かに舞い降りた答えがすとんと心になじむ。初めて自分の感情が分かった気がした。
 そっと手をどけてみる。時間がやけにゆっくりと流れていく。彼女の頬をするりと撫でるように滑っていくのは、温かい涙。
彼女の頬に涙が流れている。光を反射するように涙がキラキラと光り、滴っていく。
狂おしいと感じるほどに、熱痒く心が熟れる。何か切羽詰まるような感情が、衝動が、抱きすくめたいほどの愛おしさを訴える。どうしてかわからないと頭を抱えてしまう。彼女の全てに心が動き出す。
「なんで泣いてるの?」
「……あんたが、バカだからわからないのよ」
 返答が尖っている。けれど、彼女に感じたその感情が強烈な引力を秘めていることを認めるしかない。
他人を、彼女を、初めて人に触れることを幸せだと感じた。

教室の窓辺に揺れるカーテンが、風に吹かれて遊ぶように揺れる。生ぬるい風に髪をなびかせる女の子はよく見れば、早坂で。
 カーテンの隙間。揺れる光の波に照らされて初めて気づく。指先で触れる頬の柔さ、肌に沈んだ指の感触が忘れられない。
雫が浮かぶ彼女の瞳に光の筋が流れる。色白の肌に流れた流れ星を優しくぬぐう。この世界に自分がいることが不思議だった。桜の見える教室。彼女にふる花弁の雨が、この幻想的な一瞬を切り取る。
目の前の彼女しか見えなくなる、そんな美しい夢を見た。
 美しい光の砂を髪にまとって、こちらに向かって微笑みかけている。黒い澄んだ瞳に吸い込まれてしまいそうで、思わず息を止める。
 形のいい唇はいつもの青ざめた色と違い、薄く健康的に薄紅に色づいている。血色のいい、色づいた頬から、幸せという言葉が頭をよぎる。
 はにかんで何か話しかける度、いつものような神聖さとは程遠い、優しさがにじみ出る。
 ああ、彼女は今幸せなのかと、存外にそれが悪くないと思うような、心がむず痒い気がして、目をそらす。
 頬に熱が集まって、震えてしまう。
 息苦しいほど、心が暴れ狂って苦しいのに、そこにいたいと願ってしまう。自身がいやというほど発熱してしまう。心臓がつかまれて、視線も奪われて、何もかも彼女の思い通りになってしまう気がして頭を振るのに。
 彼女は優しく微笑んで、俺の名前を呼んだ。
「楓、幸せだね」
 その瞬間、俺は目を覚ました。
 朝日を浴びながら、高鳴る心臓を抑えて苦しさを抑え込む。
 わけのわからない感情につぶされて、頭は混乱をきたす。どうしたことか、忘れられない彼女の涙が、夢にまで見る。
 冷静さに欠けた頭でも、身支度を済ませ学校の制服を着こむと、早々と家を出た。

***

朝食はコンビニで、適当に菓子パンを買い、時間をつぶすように公園に来た。
 朝の公園にはゴミ拾いをする初老の男性がいて、元気よくおはようと声をかけられて、少し頭を下げる。
 頬が赤いまま、ミルクコーヒーと菓子パンをかじって、朝の夢を反芻してた。自分の頭のはずなのに、ままならないのが歯がゆい。
「あんたがバカだからわからないのよ」
 ふいに言われた言葉が頭の中をぐるぐるしている。わからないのに、夢の中の彼女と一緒で自分から引きはがせない。雀が俺の菓子パンをつまもうと襲い掛かってきた。それさえ振り払う気力がわかず、そのままにさせていた。
「なにやってんの?」
 一瞬、早坂の声が聞こえて振り返る。そこに立っていたのは、まぎれもなく早坂だ。艶のある髪を耳にかけて、ベンチに座る俺を見下ろしている。
「えっ……?」
ワンテンポ遅れてから、変な反応をしてしまう。上擦った声が少し恥ずかしくなり、思わず口を抑えた。
「寝ぼけてるの?」
 ツンとした態度から一変して、少し心配そうな声を上げている。困ったような眉の形が物珍しく、血の気の引いた不健康だけれど、形のいい唇が動くのを、思わず見入っていてしまった。        
「寝ぼけてないけど、びっくりした」
「しっかりご飯食べなよ」
早坂は変なところ優しくてどうしていいかわからなくなる。遠くのようで下世話な初老の男性が、何を勘ぐったか奇妙な顔をして口元を抑えている。
俺は少し気まずくなったけれど、彼女の手を引いて耳元でこっそりと話す。
「自己管理できてないのはどっちだよ。……顔色、悪いよ」
 驚いた早坂は、俺を振り払うと「大丈夫」と、言い放ち急いで歩き出した。俺は彼女が遠くなっていてから、深くため息をついた。
 心臓が痛くてたまらない。それなのに、彼女を追いかけたい衝動に襲われる。
 彼女の珍しく動いた唇が頭から離れなくて、俺は頭を抱えた。菓子パンは、完全に雀に奪われてしまっていた。

***

「なぁ、中田」
「なんだよ」
 中田は一限目から、延々と早坂から視線を外さない俺に、あきれながら答える。げんなりとした返答が来た時、愛想をつかれそうだとぼんやりと思った。
今までこんなことはなかった。利用できる相手のことを、く。
 けれどそんなことはどうだっていいほどに、彼女のことを見つめるしかない。初めて感じた人に惹かれるという感覚に俺は酔いしれていた。
「好きな人ほどめちゃくちゃにしたいっていうのは、当たり前の感情なのか?」
 中田は興味なさそうに目をそらしたが、思いついたようにこちらを見てこう言った。
「それって性的な意味で?」
 俺は中田と思わず視線があう。考え方が下卑ている。本能が理解もしてるし、そういう意味も多分に含んでいる。
 自分のものでぐちゃぐちゃに汚して、息も絶え絶えにして犯して、汚してしまいたい。そういう欲がないわけではない。
 けれど、早坂とはそうなりたいわけではなかった。
心を許した上で、信頼し、望まれた上で。じゃないと意味がない。だからこそ、その行為は満たされる。たぶん、心で結ばれたいのだ。
「性的にも。なぁ、女の気を引くにはどうしたらいんだ?」
 そう聞いた自分の声が酷くつまらなさそうだった。
「人間の欲は大きく分けて三つある。睡眠欲、性欲、食欲」
 中田は自信満々に胸を張って言う。
「だから?」
「だから、それらを満たせばいいんだ!」
「つまり?」
「プレゼントをやればいい」
 俺は思わず噴き出した。全然関係ない。睡眠欲も性欲も食欲も、プレゼントと全く関係ない。けれど、俺はこういう中田のバカなところが嫌いじゃなかった。
「全然関係なくない? 人間の三大欲求」
「プレゼントだって欲求満たすだろ?」
 中田は相変わらず、バカにみたいに言う。鼻息荒く。よくそんな話の繋がらないことを言えたものだ。俺だったら恥ずかしくて赤面しそうだというのに。
「この三つの欲の何を満たすんだよ」
「性欲だよ、エロス」
 頭がおかしくてバカになりそうだ。プレゼントがどうして性欲につながるのかさっぱりわからない。俺は腹を抱えて笑い出した。
「笑うけどよ」
 中田は笑わずにいった。
「性欲は愛の欲、性行為は愛情を示す行為だぜ? 愛を感じるものはなんだって性欲だろ?」
 俺はその発言を聞いて、笑えなくなった。
「愛か。愛って何?」
 この問いかけは、皮肉そのものだった。愛と恋、その違いなんかは俺にとっては難問だ。歪んだ認識で、間違った愛の示し方で、それを理解する日は来るのだろうか?
 皮肉は自分に向けられた棘のように優しく突き刺さり、答えを出すまで血を流させ続ける。
「わからん。だってそういうのって、本能だろう」
 そういった中田があまりにもまともに見えて、恥ずかしくなる。何を必死に縋りついているのだろう。初めて知った愛情に、必死に手を伸ばす。そんな自分の焦燥に焼かれる思いだった。

***

 放課後、帰路に立つ。学校から解放されると、電線に乗ってさえずる鳥のように自由を感じた。
 頭の中を彼女に埋め尽くされ、支配されていると、何も聞こえてこなくて困る。授業の声も、田中の声も、チャイムの音もかき消されて、注意力散漫にも限度がある。
けれど、もう注視しなくても困らないと、胸をなでおろした。冷静に考えると急に恥ずかしくなる。
 家路を急くわけでもない俺は、ぶらりと本屋に立ち寄った。彼女はなんとなく本が似合う気がする。静かな奴は本を読む、安易なイメージ。だから本というわけではない。
 彼女はいろんなことを見ているから、いろんなことを本当は知りたいんだと思う。本を上げたいなんて、下心丸出しのことを自分がすると思わなかった。
「あざといな」
 一人、呟く。嘲笑うというよりも呆れてため息をつくように。だいたい本なんて人の好みだし。俺が選んだ本を喜んでもらえる保証なんてない。
 それなのに、選びたいと思っている自分がいる。
ガラス戸の自動ドアの向こうが、見えない熱気を含んで、俺の頬を温める。そうか、今気づいた。まだ春先で冷える季節だ。生ぬるい室内の空気で季節に気づくなんて、今まではなかったのに。
店の中はまばらに人がいて、文庫コーナーには初老の男性がうなりながら、本を取っては購入を検討しているように、本に視線を落としていた。
俺は彼の横を通り、棚のタイトルを眺めながら気になる本をとってみる。彼女ならどんな作品を好むのだろうと考えた。
「たった一つの冴えたやり方」
これは、ミステリーだろうか。あらすじに視線を落として読んでみる。
「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」
羊の絵が描いた表紙、羊がキーワードになる話か? SF小説……。ストーリーが全く想像できない。
「人間失格」
 これは、教科書に載っていたような。太宰治だったか?
 一つ一つのタイトルを読み、ストーリーを想像してみる。あらすじを読んでみる。そうやって一つのタイトルが目についた。
「こころ」
 窓の外は、今にも降り出しそうなくすんだ雲がうなりを上げ始めた。早く決めた方がよさそうだ。
自分が選んだものを彼女に知ってほしいと思っている。彼女のこと知りたいし、知ってほしいと思うのは興味なのか、わからないまま。
 彼女を思って本を探す時間は、何故だかとても楽しかった。

***

 店員さんにプレゼント用ですか? とふいに聞かれて、初めて本を誰かにプレゼントする人がいることを知った。口ごもっていると、ご自宅用ですか? と再度声をかけられて俺はむず痒くなって言った。
「一つだけ、プレゼント包装で」
 そういうと、店員さんは少しだけ優しく微笑んだ。
 そんな恥ずかしい思いをしてようやく選べた本だ。もし彼女が俺の本を受け取ってくれるなら、話をするきっかけになる。
次の朝、俺は昨日と同じように、早めに家を出た。昨日本屋で二冊同じ本を買った。
 二人で同じものを見て、どういうことを感じてどういうところに共感するのだろうと思っての行動だった。無表情だった彼女と、繋がりを持てる気がした。
 校庭の桜が葉桜になろうと花弁を散らす。早坂を待つ俺が身勝手に抱く妄想だったが、彼女と桜はとても似合う気がした。
 薄いピンク色は輪郭がはっきりとした彼女を、柔らかい色合いで包んでくれる。それだけで孤立した印象の彼女が一人ではなくなったきがした。
 静かな廊下に響く足音は、俺一人のものしかない。
突き当たりの音楽室から聞こえてくるピアノの旋律。曲名は知らないが、聞いたことのあるメロディーで、なんだか寂しい。誰かの聞かれたくない演奏は、早朝ずっと誰にも届かない音楽を奏でて誰にも知られないまま終わる。
静かに耳を澄ませば、聞こえるのはピアノの音だけではない。風が校舎を吹き抜ける空気が壁を触る音、木々のざわめき、若葉の緑の香る匂い、日差しのぬくもりさえ肌に触れれば感じたはずのものたち。
 すごく変な感じだ。今までこんな当たり前のことを新鮮に感じることはなかった。それが心地よいと思ったことがない。なのに、どうしてか五感で触れる全てが心を動かしていく。
 ざわつく心が通電するように、心臓がドクドクと高鳴る。どうしてだろう。苦しいぐらいの高鳴りが嫌じゃないのは。教室まで歩く足が軽やかで、浮足たつ自分が恥ずかしい。それなのに心臓がうれしさを奏でる。
 横開きのドアに手をかけた瞬間、目にしてもいないのに彼女がいるとわかった。
 静かに呼吸を整える。なんだか鼓動がさっきよりも早くなったようだ。息が上がって苦しい。肺が酸素を懸命に回しているのがわかるぐらい、緊張している。
それなのに、こんなに苦しいのに早く彼女と話したかった。
ドアを開けると、彼女は相変わらずスマホの画面を凝視している。目に入った瞬間、時間が切り取られたように息を忘れる。彼女の美しさが帯びる憂鬱さが浸透して、自分が飲み込まれそうになった。
影を帯びた虚ろな表情の彼女を、振り向かせたい一心で俺は声を振り絞る。
「早坂」
 俺は緊張から顔の筋肉が引きつってしまい、出来上がったのは不格好な笑顔だった。
「……何、その顔」
 早坂は怪訝そうに眉をひそめて俺を見る。
「俺の顔、変?」
「笑顔、ひきつってるよ。そんなに、無理して笑わなくていいよ」
 少しだけ優しさを含んだ声色。彼女が自分に対して、優しくなった。それだけのことなのに、手が震えた。
「あの、実は早坂にプレゼントがあるんだ」
 俺はそっと鞄の中を探り、プレゼントの袋を差し出した。
「俺、早坂の気を引きたくて。早坂の気を引きたいって中田に相談したら、物欲を満たしてあげたら喜んでくれるって教えてくれて」
 早坂は一瞬、びっくりしたように身を引いた。
「……そういうことって、本人には言わない方がいいんじゃない?」
「えっ……。そういうもんなの?」
 早坂は少しだけ頬を赤らめた。嬉しそうに緩む顔を、無理やり引き締めるみたいに、頬が震えている。可愛いと、素直に思った。
「早坂、照れてる?」
 俺は何が正解か、間違いかわからない。だから、とりあえず聞くことにする。早坂は頬をさらに赤らめて、どんどんとりんごのように赤くなる。
「……だから! そういうこと聞かないで」
「ごめん」
 俺は困ってしまい、視線を外に移す。柔らかな日差しの熱が、体温と混ざる。春を知らせる生ぬるい風が自分とはあまりに違うもので、なんだか悲しい気持ちにさせる。
「わからないっていうけど、あんた私より周りと上手くやれてるじゃない」
 彼女がそんなことをいうものだから、少しだけおかしくなった。
「俺がやってるのは、他人に対してのご機嫌取りだから。本心で人と関わった事なんてない。相手のこと、しぐさや言葉の端から拾って、こう言って欲しいんでしょ? ってわざとらしく提示してるだけ。本心で話せって言われたら、とたんにダメになる。俺ってバカだから」
 彼女はそういう俺の頬を思いきりつねると、俺を安心させるように優しく微笑んだ。
「バカじゃないよ。それだけ周りをよく見てるんだよ。あんたのこと知れて、あんたが嫌いじゃなくなった。不器用なんだとは思う。でも、優しいからでしょ」
 そういわれて、気づく。彼女はいろんなことを理解している。理解していて世の中の理不尽なことにも理由をつけて、納得することで受け入れる術を知っている。それなのになぜ?
「早坂は、いろんなことよくわかってる。どうにもならないことを、自分の中で片づけるやり方もわかってる。それなのに、どうして自分を傷つけるの?」
 息をのむようにして、返答を待った。彼女は少し諦めたように笑っていった。
「……私が私を許せないから」
 全てを諦めたような彼女の寂しい瞳は、心臓の血管に詰まり起こしたような激痛を走らせる。何か、声をかけなければ――。そう思うのに、言葉が出なかった。きっと、のれんに腕倒し。俺がかけるどんな言葉も意味をなさない。彼女にとって俺の存在は限りなく小さい。
 俺がどんな優しい言葉を言ったって、それはきっと俺じゃない人に言ってほしい言葉で、慰めにすらならない。俺じゃない。
もっと彼女の大事な人という認識入り込まないと、俺は無力なまま彼女を救うことはできない。
 何故だろうか? 好きな人を救いたいと思った時に、自らの存在の小ささを知るのは。好きな人の大事な人じゃない自分の言葉は、どうしてこんなにも軽いんだろう。
「……早坂。俺、君が好きだよ」
「うん、ありがとう」
 彼女は悲しそうに無理やり笑う。無理やり笑うその顔が、悔しくさせて悲しくなって無力さを俺に植え付けた。
「俺の今の好きは、付き合いたいって気持ちからじゃない。好きっていえば、早坂が少しだけでも自分を許せる気がしたから」
 そういうと、早坂は少しだけ驚いた顔をして俺を見た。まん丸な黒い瞳がきらりと光る。涙がこぼれそうなのに、彼女は泣かない。泣くことを許さない。唇をぐっと噛んで涙をこらえるその姿が痛々しくて、俺は話をそらした。
「……どうして、初めて話したとき泣いてくれたの?」
「それは……」
 彼女は言葉を濁す。ずっと不思議だった。彼女の涙の意味は俺にはわからない。
「……一色が、あんたが気づいてなかったのが悲しかったんだよ」
 俺はわからなくて、何が? と聞き返す。
「あんた、お母さんが死んで悲しかったって気づけないことが悲しかったんだよ」
「えっ……」
 一瞬、頭が真っ白になった。そして洪水のように思考が頭を支配する。
悲しい? 自分の感情なのに俺がそれに気づいていない? 
空が落ちてきたような感覚、今まで自分が信じていたものが空中で何度も回転して自分の認識が追い付かなくなる。酔うように、戸惑うように俺は動揺するしかなくなる。
わからない、どうなんだ? 悲しかった? それは俺にとって悲しいことだったのか? 認めようとすればするほど、息が苦しくなる。
 視界がぐらりと歪む。俺はひざを折り、座り込むしかなくなった。
「ちょっと、大丈夫?」
いつも無表情な早坂さえ、戸惑いを隠せないで苦しむ俺を気遣い、背中をさする。
「……過呼吸かな。苦しいよね、待ってて今、袋もって」
 俺は彼女の手を離せなかった。
「……い、いか……ないで」
 息もできないで、絶え絶えに縋った。頭がふわふわと意識が遠くなる。自分の感じたことのない初めての症状に怖くなって彼女の手を握った。
「行かないで」
 彼女はそっと膝を折って俺と目線を合わせた。
「でも」
「いか……ない、で」
 早坂は心配そうに頷いた。
「俺、……母さんの、こと、悲しめてた?」
 呼吸を意識した。苦しさで潤む目で彼女を見ると、優しくうなずく。そして、俺の頭を撫ぜた。
「悲しいことを認めたら壊れてしまうほどには、ちゃんと悲しめてたんだよ」
 その言葉は、いともたやすく俺の心を決壊させる。認められなかった、認めたら壊れてしまう、それぐらい大事だった。
悲しいと今まで感じたことすらなかったのに、初めて悲しくて泣いた。つらかったんだろう、愛がわからないなりに母を失うことが悲しかった。本当は自分を責めるだけで父を責めない母の優しさを咎めていた。そして母に自分を守ってほしかった。本当は生きててほしかった。
 涙を流しながら、息の苦しさにもがく。彼女の制服がしわになってしまうほどに、ぎゅっと掴んで手足がしびれて離せない。早坂は覚悟したように息を吸う。
「……ごめんね、嫌かもしれないけど」
 ふいに彼女に唇を重ねられる。そして息を吹き込まれた時、過呼吸の発作を抑えようとしていることに気づいた。過呼吸は血液中の酸素濃度が高くなって起こる症状だ。母さんがよくなっていた。だから知ってる。ペーパバッグ法が試せないから、二酸化炭素、息を吹き込んでくれているんだ。
けれどそんなことはどうでもよかった。彼女の柔い唇に意識が行く。
この行為は治療だ、彼女を離さない俺を助けるための。彼女にとって何の感情もない。それなのに、心臓の音が鳴りやまない。
自分だけがこんなに意識している。自分だけがこんなに高ぶっている。彼女の唇は毒だ。強烈な毒が回るような痺れる感覚。鼓動以外音のしない静まり返る教室の中で、キスをした。彼女の柔い唇を何度も求めた。
 求めるキスに応える彼女の行動の意味を、頭の端で優しいという意味を初めて考えた。

***

「どうして、俺が母さん死んだのが悲しいってわかったの?」
 早坂と保健室に移動して、緩くかかる暖房の前で暖まりながら早坂は言った。
「だって、悲しい顔してた。……笑ってたけど、悲しそうな顔だった」
「そっか……。気づいてくれて、ありがとう」
 俺は彼女の手に自分の手をそっと重ねた。早坂は一瞬びくっと体を震わせて、手を振り払おうとした。けれど、俺はそれを許さなかった。
「今だけ。今だけ許して」
 なんとも情けない願いだ。俺は弱さを盾にして彼女に無理やり手を握ってもらおうとしている。だって彼女は優しいから、他人を傷つけるのが嫌いだから。
思った通り、彼女は何も言わず手を握ってくれた。
「早坂って、不器用だね」
「……うるさいよ」
「ありがとう。本当に」
 心が体のどこにあるかで討論したことがある。学校の授業だったと思う。
俺は、心は頭にあるって言ったけど今、心臓にあるって気がした。
 心臓がビリビリ言うんだ。彼女に触れていたいと求めるように、離すなっていっぱい伝えてくれる。鼓動を鳴らして駄々をこねるみたいに、何度も、何度も、伝えるんだ。
「嫌だなぁ……」
 自分の感情に自分の耐久性が付いていかないのが、辛い。心臓が苦しいのに、離れたくない。でもこのまま彼女と一緒にいると心がたくさん動いて、死んでしまいそうだ。
「早坂といると、心がどんどん動く。しんどいのに、幸せなのが余計、どうしていいかわからなくなる」
 そうぼやくように言葉にすると、彼女は少し顔を赤くして困っていた。
「……そういうこと、言われると困る」
 握った手に汗をかいてしまった。彼女が生きた表情をして困っているのが、すごくうれしくて握る手が熱くなった。
「プレゼント、見た?」
 彼女は俯きながら顔をそらして首だけ動かした。
「……小説の『こころ』?」
「うん。包装あけてみてくれたんだ」
 そんな小さなことがうれしくなった。けれど彼女は少しだけ困ったように長い髪を指でいじりながら言う。
「実は私、もう持ってるの」
「えっ?」
「有名な本だし、持っていても、おかしくはないでしょ?」
 本屋さんでなんとなく目に入った本の著者の名前をきちんと見てはいなかった。ただ『こころ』というタイトルに惹かれ、手に取った自分を責めたい。
「作者、吾輩は猫であるの夏目漱石って言ったらわかるかな?」
 俺はあっけに取られて「ああ」としか言えなかった。
「作者は知ってても、書いてる本は知らなかった……」
 ショックが大きいのか、呆然と呟いてうつむいてしまった俺の頭を軽く小突いて、彼女は笑っていった。
「もらってあげる」
「えっ?」
「だから、もらってあげるって」
 彼女はそういうと、頬を染め嬉しそうに笑うんだ。泣きそうな顔で本を大事に抱きしめてうれしいというんだ。世界が、色めきだす。初めて息をした時みたいに、苦しみのあまり涙目になるほど、初めてこの瞳を開け、世界と見た時の様にすべてが美しく輝いてみえた。
「俺も同じの買ったんだ。だから俺も、『こころ』読んだら、感想話したい」
「一色は読んだことないの?」
 俺はうっとりと彼女の生きた感情を見ながら、ないと答えるとまた嬉しそうに笑った。
「内容知らないで買ったの? すごい内容だよ」
 この時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられない。
「俺、早坂とたくさん話したい」
 彼女は困ったように笑いながら、うんとだけ言って悲しそうな顔をした。

「早坂は、中学の時はどんな子だったの?」
 俺たちは机を向かい合わせにして、お昼ご飯を食べている。隠そうともしない腕の傷が痛々しく、増えるばかりで彼女が普段なにを考えているのか気になった。
「うん、そうだね。偽善者だったかな?」
 彼女の放つ言葉には、だくだくと血を流させるほどに深く突き刺さる棘がある。その棘を抜いてあげたいけれど、どこまで抜いてあげればいいかわからない。棘を抜くことで、彼女が痛みで死んでしまいそうで怖いんだ。
「偽善者?」
「綺麗ごとばっかりで、誰も守ってあげられない人のことかな」
 ……こういうことは、平然と言う人だった。
「俺にはわからない」
「だろうね」
 そういって恥ずかしそうに笑う顔には、触れるとぼたぼた零れ落ちてくる泥がある。彼女から滴るどす黒い泥を俺は拭ってあげたいのに、そのやり方がわからないのだ。
「……それは悲しいことだった? 早坂にとって」
 早坂は困ったように何も言わなくなる。
「早坂は、優しすぎて自分が壊れても何にも思わない人なのかもしれないね」
 思ったことをそのまま口にすると、早坂は一瞬だけ泣きそうな顔をした。
「……自分を守ってあげられない優しさはただの自滅。私は、ただの死にたがり。優しいなんていう言葉すらもったいなくて使えないよ」
 風が熱を帯び、日ごとに温かくなるのに。彼女の心は一向に冷めたままだった。彼女の髪をそっと指でどけて、表情を見ようとすると手を弾かれてキッと睨まれる。その怒った表情は建前と言わんばかりに情けない。弱々しい怒った表情。
彼女の俺を困らせたくないがために隠した泣きそうな感情が、彼女から表情を奪ってきたんじゃないかって思う。なんとなく俺は言葉を口にした。
「心って、早坂は何処にあると思う?」
「えっ? ……うーん、急に哲学的なこというのね」
 早坂はその白く長い指で自分の顎に触れる。どこかの探偵が考え込むようなしぐさを取って俺を見た。
 早坂の黒髪がさらりと肩から落ちる。その瞳の憂いに染まる漆黒がじっと様子をうかがう。その戸惑うような闇の色に吸い込まれそうになって俺は思わず息を飲んだ。なんでも度が過ぎると暴力的だ。彼女は綺麗だ。少しのしぐさで男女問わず骨抜きにしてしまうほどに、儚げで触れるとその完璧な美を崩してしまいそうで、怖くて触れなくなる。
 中田が言っていた言葉を思い出す。
『あいつといると自分が嫌いになる』
 彼女は美しすぎて、自分が醜く感じる。それは外見だけではない、精神的にも。まるで菩薩のように優しく、敏く周りに対してすごく気を遣う。それでいて全て知っていて、理解している上で受け入れようとする懐の広さ。自分以外の人間に圧倒的な劣等感を感じさせてしまう。そんな人なんだ、早坂は。
「普通に考えるなら、頭かな?」
「うん」
 俺も素直にうなずく。そして彼女の目を見てそっと告げた。
「心って欲求な気がする。だから俺は心って一番望んでいることをしたい場所だと思うんだ」
 そういうと、彼女は難しい顔をして考え込んだ。
「……本当に哲学な話だった」
「ごめんね。でもこういう話、俺は好きだよ」
 そういって早坂の困った顔を見て笑う。早坂はそれを見て今日初めて柔らかくなんの他意のない純粋な笑顔を見せる。
「それって、例えばお腹がすいてたら、心は口にあるってこと?」
「そう」
 俺はそういうとコンビニで買ったおにぎりを彼女の前に差し出した。
「今の俺にとって心は口。でも早坂は違うね」
 俺は言葉にするのが怖いことを言った。けれど、それでも彼女には伝えたいことだった。
「君の心はいつも目にある気がする」
 彼女はあっけにとられた顔で、笑って見せた。でも目が全然笑ってなくて、声だけが不自然なぐらい自然だった。
「本当に嘘が下手だな」
 彼女はその言葉に視線を泳がせる。そして怒ったように声を低くした。
「……黙って」
「ごめん。急ぎすぎた」
 泣きそうな彼女の表情が網膜に焼き付いている。彼女は人のためにしか涙を流せない。それが異常だってことに気づけない。いいや、気づいていて自分の心を放置し続けている。
「夏目漱石って、何を思って『こころ』を書いたんだろうね」
 そうぼんやりと呟く俺の言葉を彼女はうつむきながら聞いていた。

***

ホームルームが終わり、放課後になった。鞄を肩にかけてぼんやりと目の前にいる中田に声をかける。
「中田はなんで中田なんだ?」
「はぁ?」
 中田は目を丸くして素っ頓狂な声を上げて俺の前の席に着いた。
「いや、なんていうか。どうしてお前は中田で早坂じゃないんだろう?」
 そういうと、中田は黙って頭を抱え込んだ。唸るような声を上げてから、中田は静かに言い放った。
「恋に現を抜かすと、頭がお花畑になるとはよく言ったもんだ」
 中田は早坂に視線を向けて、ため息を吐いた。
「四六時中離れていたくないんだな? 男の友情なんてそんなもんだよなぁ。ああ、悲し!でもな」
 中田はそういうと、俺に耳打ちするように言った。
「女は胸の大きさで価値が変わるんだぜ」
 そういうと、俺は思いっきり中田の頭を殴った。
「……早坂をそういう目で見てんじゃねぇよ」
 威圧的に言ったつもりはなかったが、中田は言葉を詰まらせながら、いじけて見せた。
「お前なんなんだよ、なんでそんなにあいつがいいの?」
 中田は机に突っ伏して泣くふりをした。
「へいへい。そういうあざとい嘘泣きはいいから」
 中田は鼻をふんとならして俺を睨んだ。
「お前、あんな女をよく好きになれるよな!」
 俺は中田を睨む。あんな女といわれるようなそんな悪いことを彼女はしたというのか?
 そういえば、早坂も言っていた。誰も私を許さないという意味。あれはどういうことなんだろう。
「……早坂ってなんかあったの?」
「お前、知らないであいつと関わってたの?」
 そういって笑う中田の表情に毒があった。肌から沁みこんで心臓に注がれ、死に至るほどに追い詰めたいと願う悪意の塊。
 彼女にはそう思われるほど、何か酷いことをしてしまったのだろうか?
 それでも俺は彼女の口からそれを聞かないと気が済まなかった。
「……言わなくていい。早坂から聞くから」
「いいから! 聞けって!!」
 中田は席を立とうとする俺の肩を思いっきりつかむと叫ぶように言った。
「自分の親友を自殺に追い込んだ」
 そういった中田の目が、ぞわりと身震いする悪意に染まる。早坂は優しい。いじめだってなんだって、彼女はやり返しすらしない。恨みすらしない。
 そんな人間が、人を死に追い込む? ありえない。それなのに、中田は歪んだ目つきで早坂の悪口を言い続ける。
 パクパクと動くその口がみえているのに、声が聞こえてこない。俺は反射的に中田を殴った。父の母に対する態度と重なったのもある。けれど、今まで気のいいやつだと信じていた中田の人格が変わってしまったのも気色が悪い。
 何より、早坂に攻撃性を向けるのが、耐えられなかった。頭に血がのぼり、俺は中田を何度も何度も殴りつける。
怒っている。人殺しだと罵られるほどの、何かをしたのは事実かもしれないのに。
それでも怒りたかった。だって俺にとっては彼女の優しいところしか知らない。優しくされてしかいない。
 それなのに、どうしてみんな彼女を悪くしか言わない。どうしてっていう疑問しか浮かばない。困惑が全部暴力になっていた。
「やめて!」
 早坂はサンドバックにされる中田をかばうように、間に入ってきた。弾みで早坂の頬を殴ってしまい、俺は一瞬で怒りが冷めた。
「ごめ……」
 彼女の口からは血が流れている。痛そうに顔をしかめる彼女の唇を俺はハンカチで抑えた。
「本当にごめん」
 俺は彼女の頬にそっと触れようとして拒絶される。
「気にすべきは私じゃない!」
 そう怒鳴った瞬間、中田は早坂を見下すようにいう。
「お前っていっつもそうだよな。そんなに自分は良い人間だって思われたいのかよ? この偽善者が」
「お前……なんなの?」
 言葉が粟立つ。煮え湯のような熱さが悪意として中田に降りかかる。こんなに怒りの混じった声初めて出た。
「私が悪いから。中田は悪くないから」
 そういってうつむく彼女があまりにも可哀そうで、俺は中田を置いて早坂を支えながら立たせる。
「保健室、行こう」
「私はいいから」
 俺は初めて早坂を睨んだ。その凄みに圧倒されたのか、怯えたように早坂はうつむくと、俺に従った。
「楓、お前。後悔するぞ」
中田の負け犬の遠吠えが聞こえたが俺はどうでもよくなって睨みもしなかった。
「うるせぇよ」
 小さい声で呟くようにいった俺の声は中田に聞こえたかわからなかった。

***

 保健室に連れていった早坂は、保健室にはいると静かに椅子に座った。彼女は俺から顔を背けていった。
「私となんか関わらない方がいいよ」
 俺は消毒液を探しながら、早坂に言った。
「そうかもね。でも俺が関わりたいんだからどうしようもない」
 世界が急に色褪せたように、温度を失くしていく。彼女が悲しいと悲しい、辛いと俺まで痛い。こんなどうしようもない摂理。自分はいつも彼女にナイフを突き立てられる。私となんか関わらない方がいいなんて言ってほしいわけじゃないのに。
「早坂はさ。大事な人が傷ついて自分も傷ついたことない?」
 俺は消毒液とコットンを掴んで彼女の前に座った。
「自分が傷ついて辛いと思うのが、自分だけだと思うな」
 咎めるように笑うしかない。彼女を傷つけたいわけではない。それなのに、彼女は泣きもしないで唇を噛んで震えるんだ。泣くのを我慢しなくていい。そういわれるのさえ、彼女にとって辛いのかと思ったら、何をどうしていいのかわからなかった。
心の中でごめんと呟いて覚悟したように俺は言った。
「俺は今から透明人間になるよ」
「えっ?」
「透明人間だよ」
 早坂は目を白黒させたまま、視線を泳がす。
「だから、ここには誰もいない。早坂を見ている人は誰もういない」
「……」
「早坂が泣いても傷つく人も、悲しむ人もいないんだ。ねぇ、早坂の心は今、どこにあるの?」
 そういった瞬間、堰を切ったように早坂は泣き出した。彼女が泣くのが痛いと思う。どうしてか、引き裂かれるように痛い。
 けれど、俺は無力で、出来損ないで、慰めの言葉の一つも知らない。
 そっと彼女の頭を自分の肩に抱き寄せて、向かい合って背中をさすった。生きるたびこんなに傷ついていたら、きっと彼女は生きていけない。
 西日があまりに眩しいのが、なんだか嫌味に感じた。こんなに苦しんで悲しんでいるんだから、彼女を優しく照らしてはくれないかと、俺は西日の橙を睨むことしかできなかった。

***

 泣きじゃくる彼女の背中を撫ぜながら、夕闇の迫る空を見ていた。
「ごめんね」
 泣いているときぐらい自分のことを考えればいいのにと、俺はいらだつ。どうしてこの子は自分より他人を優先してしまうんだろう?それは普段なら優しさだと思うのに、今日は自傷にしか見えない。
「ごめんねっていうのは、悪いことをしたときに言うんだよ」
「したの。私、悪い人間なの」
 いつまでも涙はあふれ出て、このままでは体の中の水が全て出てしまう。俺はそっと彼女の顔を見た。泣きじゃくる彼女の瞳は一瞬だけ揺らいで顔を隠した。
「見ないで」
「泣き止んでほしいから見てる」
「泣いてごめんなさ」
 俺はそっと彼女の頭を撫ぜた。君が悪くないと怒鳴ればいいんだろうか、苛立ちは心を炙る。炙って、炙って、熱をためて焦燥を沸かす。
「何があったかわからない俺は、早坂が悪いかなんてわからない。わからないなら、俺の中では、早坂は悪者じゃない」
 言い切るしかない。俺は何もわからないのに、悪者にできないんだ。
「それじゃ、余計に言えないよ」
「それなら言わなくていい。」
 そういった瞬間、早坂は目を見開いた。見開いたその目が、縋るような寂しさで溢れていて思わず、俺は抱きしめた。歯がゆい、どうしようもできないことが、彼女を救えないことが歯がゆくて仕方がない。
 笑えなくていい。自分を自分で傷つけないでほしいと願うことは間違えているんだろうか?
「なんだっていい。早坂笑ってくれるなら、俺はなんだっていいんだよ。君が悪者でも、聖人でも構わない。なんでかわからないけど、幸せでいてほしいんだ」
 早坂は震えていた。震えて俺にしがみついて離せなくなっていた。
「なんで、……なんでそんな、私なんか、私の事なんか」
 泣きながら、自分の事を悪くいうのはどうしてなのか、傷ついてボロボロになってもそれでも自分を責めることをやめないのはどうしてなのか?
 俺にはわからないまま、否定することしかできない。
「……なんかじゃないよ。早坂は大事な人だよ」
 慰めって無力だ。
 悲しいほどに、俺じゃ救えない。
 人の救い方を教えてほしいと願っているのに、それを誰に教えてもらえばいいかわからない。だから、わかりようがない。

***

 奏でられる音楽室のピアノの音を聞きながら、彼女の手を握って黙って歩いた。
 空がすっかり闇に染まって、透き通るような漆黒が星を瞬かせている。こんなきれいな夜なのに、彼女は黙ってうつむいたままだ。
 気の利いたことは何一つ言えないし、望む言葉一つ察してあげられない。それなのに、なんだかたまらなくホッとしていた。
 言葉に意味がなくなったこの空間が、たまらなく落ち着く。
 俺は言葉が嫌いなんだ。何を伝えたところで、ほんの少しさえも人の心を動かすことはできなくて、無意味で怖くて誰かの逆鱗に触れることばかりに怯えて、本心を見失ってしまいそうだ。
誰かに本心を告げたところで求められていない言動なら否定されるだけで、俺を誰も必要としていない。自分という存在の意味を考えてしまう。いうべき言葉、空気に交じって否定されない言葉ばかりを探すようになって、自分が何を思っているかわからなくなってしまいそうだ。
「ありがとう」
 ふいに言葉にした彼女を見た。
 笑顔になっていた。ふわりと香る彼女の優しい香り、シャンプーだろうか? 彼女自身の香りだろうか?
「うれしかった。あなたがくれた言葉が本当に、うれしかった」
 頬を染め、幸せそうに笑う彼女を見て、ふわりと香る優しい香りが俺を優しく包む。
 それがあまりにも柔らかく包まれるような幸せを感じて少しだけ、泣きそうになった。春の生ぬるい風に包まれるように力が抜ける。
「えっ? なんで泣くの?」
 気が付いたら、溢れ零れていた。張りつめていた何がはじけたように今度は俺が泣いてしまう。早坂は急いでハンカチを差し出してくれる。俺はそれを早坂の手ごと掴んで離さないまま、涙を流し続ける。
「わからない、わからないけど。笑ってくれたから、なんかいっぱい、いっぱいになった」
「ごめんね」
「謝らないで。謝るぐらいなら、もっと自分を大事にして」
「ごめん」
「早坂が傷ついて傷つく人がいるのに、どうして早坂はそれが信じられないの?」
 いった瞬間、彼女は少し悲しそうに笑った。
「ありがとう」
 その言葉がどれだけ深い意味を持つか、その時の俺にはわからなかった。
 次の日、早坂は休んだ。彼女が学校を休むのは初めてだった。誰に必要とされなくても、彼女は無表情でそこにい続けたから。
 日向にいるような感覚、教室の窓から見える雲が太陽を隠したり、見せつけたりして通り過ぎていく。そこには他意はない。悪意も、善意もない。
 そう、悪意も善意もないのに、とても光を閉ざすその雲が悲しかった。誰かと重ねているようで、俺は太陽が隠れるその瞬間が酷く悲しかった。
「調子悪いんで、早退します」
 鞄を持って、俺は教室を出た。昨日、帰り無理を行って彼女を家まで送った。だから道を知っている。
 けれど、彼女がそこにいないのはわかっていた。気を使ってばかりの彼女が家なんか見つかる場所にいるはずがない。学校を出た俺は当てもなく歩き出す。見つかるまで帰るもつもりはなかった。
 彼女の事は何一つ知らない。だけど探すしかない。見つからないように彼女は隠れているだろうから。
「楓」
 名前を呼ぶ声に振り返る。
「中田……」
「楓、ごめん。お前のこと、早坂のこと。傷つけて」
 俺は気まずくなって視線を逸らす。そんな俺を少し笑って中田は言う。
「罪悪感、からなんだ。昔、早坂と俺のクラスで、いじめがあって。自殺したんだ。早坂の親友」
 思わずその言葉に、中田をみると中田は苦しそうに口元を歪ませていた。
「その遺族の取り乱しようが異様で。泣きながら、ごめんなさいって早坂が言うから、事情も知らず、みんな早坂が殺したんだっていうようになっていった。俺も、見殺しにした罪悪感から、あいつが悪いって当たるようになっていった。でも違う。本当は、いじめをしていたのは、あいつの親友、湯崎だって。被害者は早坂の方だ」
「偽善者っていったの、お前なのか?」
「そうだ。あいつを傷つけて追い詰めた。罪を擦り付けたかった、最低だろ」
 中田は感情を押し殺すように、笑ってしまいそうになるほど情けない顔をした。
「……早坂は怒ってないと思うよ」
「それが、余計苦しめるんだけどな」
「早坂はそれがわかってないよ。それがわかるほど、大人じゃないから」
 中田は言った。
「八坂の墓地。早坂はたぶんそこにいるよ。あいつの親友、湯崎がいる場所だから」
 俺はそっと笑って中田に言う。
「ありがとう」
 そういって歩き出そうとした時、中田は怒鳴った。声が嗄れてしまうほどに言った。
「お前も、俺もあいつも、そんなに早く大人にならなくていいんだって思う! 大人にならなくてもいいんだ! じゃないと、……わがままを言えないまま、ずっと耐えなくちゃいけなくなる!」
 振り返った中田は泣いていた。それは純度の高い優しさだと、疑いようもなかった。
「お前もバカでいいよ! バカでいてくれ! 俺もバカでいるからさ!」
 そう叫んだら、中田は苦しそうに笑った。

***

 八坂の墓地についた時には、夕焼けが青みを増していて夜が迫っていた。
 広大な墓地の中で彼女を見つけることは容易ではない。そう、勝手に決めつけていた。
 でも、実際はそうではない。
 俺は彼女の存在感の異質さを見誤っていた。きっとどんなに静かに息をひそめていても、どんな闇の中にいても見つけてしまう。目を引くのだ。
彼女に目が釘付けになる、その数秒で悟る。彼女の異質さに。ふいに中田が言った言葉がよみがえった。
『彼女と一緒にいると自分が嫌いになる』
 初めてその意味を、理解したかもしれない。異質な存在感に黙らされるのだ。何かもを飲み込んでいく、底のない恐怖。それなのに、彼女自身はとても繊細だ。
「早坂」
 俺はそっと声をかけた。早坂は惑い、視線を泳がせる。そして俺の方を見て、決意したように立ち上がり、逃げようと背を向ける。
「いいよ、逃げても。でも、必ず捕まえるから」
 その言葉に彼女は身をすくませ、諦めたように立ち止まった。その隙に早坂の腕を捕まえる。彼女はびくりと、身を縮め、顔をあげる。汗を滲ませる俺と視線が合い、すぐにそらした。
「なんで目をそらすの?」
 彼女は体をただ戦慄かせるだけ。夕闇が迫る墓地に彼女の顔が赤く照らされる。それは涙をこぼす時の、悲しみの赤みだった。
 唇だけ青ざめて、頬だけが赤い。
「ねぇ」
 呼びかけても、その口を重く閉ざしたまま何も言わない。
「親友を殺したって中田が言ってたけど、違うでしょ?」
 その言葉に涙が溢れ止まらなくなる。唇をぐっと噛んで、耐えようと震える姿が、痛々しい。今にも壊れてしまいそうで怖い。それでも俺は引かなかった。
「早坂、あのな。俺、大事な人を殺したことがあるんだ」
 そういった言葉に早坂は泣き腫らした顔を上げる。夕闇のわずかな光が彼女の肌を優しく照らす。
「俺は父親の暴力に怯えて、母さんを一度だって守らなかった。やめてと、父に叫ぶことはいくらでもできた。でも、一度もしなかった。母さんは親父に追い詰められただけじゃない……。誰も守ってくれなかったから、自殺したんだ。俺、人殺しと一緒なんだよ」
 酷い顔だ。無理やり笑ったけど、やはり変だ。こんなのは笑顔じゃない。強がりと陰鬱さがにじみ出てる。こんな酷い顔を人に向けるのは、きっと生涯この瞬間だけだ。
「早坂、手を差し伸べた人間は人殺しにはならない。見殺しにもしてない。周りが優しい早坂に、罪を押し付けただけだ。誰かのせいにしないと、生きていけないほど人間は弱いから、そんな弱虫たちの犠牲にならなくていい。自分を、周りを守るための盾にするな。自分と大事なものを守るためだけに優しさは使って」
 そういうと、早坂は声を殺すように口元を抑えた。けれど溢れ出す涙が、耐える眉の形が、その感情の決壊を表していた。
早坂はなにか言葉にした。聞き取ることはできなかったけれど。
 でも、俺は聞き返さなくてもわかった。彼女は、自分の優しさに付け込まれて他人に人殺しに仕立て上げられただけだ。
 事実、本当に人殺していたら今頃ここにはいない。優しさは時に自虐の種になる。そういうものを何度も見てきた。人は汚く、弱く、脆く、狡い。自分を守るためならば、他人を傷つけることに何の躊躇いも見せないのが人間の本質だ。だからこそわかる。
母を犠牲に保身に走っていた俺と彼女は違う。真実なんて、彼女の誠実な不器用さが答えなのだ。
 心の中でどす黒い感情が芽生える。どうして彼女みたいに俺はなれないんだろう? とわずかに産まれた黒い墨は、純粋な恋心に陰りを差す。自分が嫌いになりそうだった。
彼女の清廉潔白な心は、あまりに彼女の外見と噛み合わない。優しく繊細なだけの人を、その凍る花のような見た目が踏みにじっている。圧倒的な存在感が、人に優しくしかできない彼女を、理解から遠ざけてしまう。
 疎ましいほど、彼女はまともだった。
 まともで、優しい彼女が好きだった。その好意だけしか、まともな心が一つもなかった。
母を見捨てたように、確かに自分にも弱さがある。彼女を妬む気持ちが俺にもあった。それでも彼女が好きだった。こんな汚い自分をありのまま、彼女に心から愛してもらいたかった。
 泣きじゃくる彼女が縋りついてくる。俺の制服をぎゅっと握りしめているその手が、震えている。
「大丈夫」
 彼女に語り掛ける『大丈夫』に意味などない。根拠すらない。信じたいだけだ。
「大丈夫だよ」
 それでもその言葉に縋るしかない。
 劣等感で苛まれた心が、それでも彼女に幸せでいて欲しいと願った。

***

夕日が完全に沈んでしまい、街灯の照らす道を宛もなく歩いた。
 落ち着きを取り戻した彼女は、ぼんやりした表情をしている。泣き疲れたのかもしれない。
 薄暗がりの肌の色が、反射してその白さを表してくる。血の気の失せた白。
 早坂は不意にこちらを見上げ、俺に問う。
「一色は、私が傷ついたら辛いって思ってくれるの?」
「当たり前だよ」
 彼女の頭を優しく撫ぜた。
「君が悲しいと、俺も悲しい。お願いだよ、優しい人は幸せにならなきゃいけないんだよ」
 自分の泣きそうな声にはっとする。それは、母にも言いたかった言葉だ。
 ずっと一人の世界を生きているつもりだった。目に映り触れられるのに、何故かそれらが存在していない。感覚は常に曖昧だった。夢のような現実感の中、生きていた。
感動や愛情なんて鮮やかな感情は、それこそ小説や漫画の世界にしかない。自分はただ退屈なループされる毎日に耐えて人生を終えると思っていた。
 彼女は言った。
「大事に思ってくれてありがとう」と。
 たった一言。
 それが俺にとってのスイッチだった。
強い衝動に突き動かされて、初めて誰かを自分のものにしたいと思った。
「早坂、俺と付き合って」
 瞬間、自分の放った言葉に動揺した。思ったことがそのまま声に出たから、頭の中でシミュレーションをしていなかった。
 つま先から硬直していくのがわかる。頬は腫れている。熱をためる。何か言い訳しないとと、往生際悪く渋るのに、何も出てこない。
恐る恐る、細目を開けて彼女を見た。
同じように熟れた赤い頬、涙がうっすらと滲んだ目はキラキラと光り、少し嬉しそうに下を向いた。
ああ、彼女の目に映るだけでは満足出来ない。彼女をものにしたい。彼女を私物化したい。優しくしたい、笑っていてほしい。そしてその笑顔を自分にだけ向けて欲しい。彼女に心から愛されたい。
――そう思った時、初めて自覚した。
幸せになりたい。
紛れもなく自分が、誰かに当たり前のように愛されて、幸せな人生を歩みたい。
 母さんが亡くなってから鈍くなっていた心が、幸せになりたがっていることに初めて気づいた。
 ふいに早坂が俺と目が合う。潤んだ瞳は戸惑うような色を見せ、微笑んだ。
「あ、あの……」
 彼女が声を上げる。
 俺は動揺して赤い顔を隠すようにうつむいた。
「み、見ないでほしい……」
 声が震えて神経が逆立つ。ぞわぞわと彼女に見られているだけで、おかしくなりそうだった。頭の中がぐるぐると思考がまとまらない。
 心の中でどうしよう、どうすればいい? と自問自答を繰り返して、我に返る。
 早坂が俺を見る目がとても優しかったから。彼女は戸惑いながらも応えようとしてくれていると直感でわかる。覚悟が決まった。
「……さっき言ったのは、嘘じゃない。だから、あの、付き合ってください……。好きです」
 情けない告白をした。
 街灯の下で、早坂は顔を真っ赤にしながら首を縦に一度だけ振った。

***

 帰路につきながら、二人で話をした。
「親友だったの。守っているつもりで、逆に追いつめていた」
早坂の友人である、湯崎小夜は内気でいつも何かに怯えている子だったらしい。
自己主張しない湯崎はクラスでいじめの標的にされていく。
当時の早坂はその子を守ってかばってばかりいた。
「本心を言うと、親友と言いつつ、私は同情してただけだった。助けてあげたかった……その気持ちに嘘はなかったけど、その子への好意からじゃなかった」
 黙って聞き続けた。
「中田くんが偽善者って言ってたでしょ? あの子と中田くん、仲良かったの。守れなかった私の事怒ってたんだよ。無理やり周りと仲良くさせようなんて、無理なんだよ……。今ならわかる。生き方も、見てきたものも違うんだから」
そのうちに早坂は、彼女と一緒に無視されるようになった。靴を捨てられたり、ものを隠されたり、暴力に至らないものの激化していったそうだ。
「それでもこっそりと気にかけてくれる友達がいて、言われたの。本当はあの子が一番の悪者だって。手を引かれて連れていかれた教室で、親友が私の筆箱をゴミ箱に投げ入れていた」
彼女の形のいい眉が、歪んだのが目に入る。思わず頭を撫ぜた。傷ついたと思っていた彼女はもう、震えてはいなかった。
「大丈夫?」
 声をかけると、我に返ったように俺と目を合わせて初めて花が咲いたように笑った。
「ありがとう。大丈夫だよ。一色に話したいって思ったの」
 そういうと彼女は俺の手をとった。そして、優しく握り頬に当てた。俺の体温を感じ、覚悟したように瞼を開いた。
「勇気……、もらっちゃった」
 いたずらっぽく笑う彼女を見て、きっと彼女は本来、優しい表情をする子なんだと思った。彼女に触れる指先が熱を帯びて、震えそうになる。ふいに触れられた体温がこの手から消えないで欲しいと祈るほどには、彼女を好きになっていた。
「私はあの子を責めなかったの」
 ぽんと呟いた彼女の言葉が全てを物語っていた。静かに彼女の横顔を見つめる。虚ろ気な瞳の中に少しだけ人間味を感じた。
「こんなことさせてごめんねって言っちゃったんだよ」
 笑わずに彼女はそう言って、涙をこぼしていた。ただそれだけなのに、夜の街灯が、月明かりが、輝くそれらすべてが。
彼女をのために、存在をひそめ、視線を奪った。圧倒的な存在感。
「本当はどうしてそんなことをしたのか、誰かに強制されてやったのか、自分の意思だったのか、確認も取らなかった。そんなことどうだってよかった。その行動をさせてしまった自分に責任があるって思ってた。……本当にバカだよ。同じ土俵に立とうとなんかしてなかった。あの子を私は知らず知らずに見下してたの。ちゃんと向き合ってケンカすればよかった。……だから、私があの子を悪者にしちゃったの」
 彼女の悲しみが心に沁み込んでくる。彼女の空気感は、人を魅了する。
世界を全て味方にしてしまうような彼女はきっとその場を飲み込んでしまったんだろう。それを自覚しないままその親友を傷つけてしまった。
「……君は自分の事をあまりわかってないのかと思った」
 ふいに出た言葉に早坂は自傷するように痛々しく笑った。
「最初はね、わかってなかったよ。でも周りが自分に飲まれてしまうっていうのは、最近ようやくわかってきたかな。目を引く人ってどこにでもいるけど、私は少し違うのかもね。私の優しいって思う行動は、そんな自分の目の引く性質と相性が合わなかった。責めるよりも、自覚しないで陥れたという方が言葉としては正しいのかもしれないね。リーダー格のクラスメイトがいうことはなんでも正論に聞こえてしまう原理と一緒。例え、間違っていることでも」
 とっぷりとふける夜に、彼女は一人きりになったように見えた。誰もいない世界で、悲しい顔で泣いているように見えた。触れられる距離にあるのに、透明なガラスが立ちはだかっているように、俺と彼女の間に明確な拒絶の色が見えた。
「スミレ!」
 虚ろな目の彼女を初めて名前を呼ぶ。消え入りそうな彼女を自分に縫い留めておきたくて、必死に何度も呼んだ。彼女ははっと我に返って思い出したように壊れそうな顔をした。
「……大丈夫だよ。スミレは一人じゃない」
 咄嗟に抱きしめて彼女を包んだ。純粋な優しさだけを彼女に与えてあげられるならどれほどいいだろう。誰の心も、どうしたことか不純物ばかりで自分を守るために、他人を傷つけて遠ざけることばかり考えていて、とても怖くて触れない。
「ごめんね」
 彼女は足元がふらついて青ざめている。貧血を起こしているのかもしれないと思った。
 こんなになってまで、俺に伝えたいことはなんだろう。それでも口を動かそうとする彼女を支えながらぼやく。
「……どうして教えてくれたの?」
 その言葉を聞いた瞬間、彼女は微笑んだ。俺を落ち着かせるために作った笑顔だと気づいていたのに、思わずふわりと優しく笑った彼女の空気感に飲まれた。
「一色が、ちゃんと向き合ってくれたから。……私はそれが本当にうれしかったから。応えたいの。ちゃんと応えられる自分になりたいの」
 言葉が静寂を終わらせる。
彼女の凛とした決意の言葉が耳に届き、動揺で俺の鼓動が早くなる。自己評価が低いつもりはないけれど、正直、ギクリとした。逆を言えば、俺は彼女に応えられる人間なのかわからなかった。どう考えても人と向き合ってこなかったのは俺の方だった。
「スミレ、俺。そんなにできた人間じゃない……」
 今まで人を人とすら思ってこなかった。機械的に周りを見ていた。うつむいた視線が映したのは、名前も知らない雑草。小さな青い花をつけてひっそりと見向きもされず咲いていた。
 俺みたいだ。去勢と見栄だけの小さな存在で、威圧して人と関わってきた。誰かを傷つける存在になれば、誰かに認められる。そんなことを父を見て、勝手に悟る浅はかさを恥じた。
 顔を上げると、月明かりに照らされた彼女が目に入る。
俺を優しいと信じて疑わない。俺の心情なんか知らずに笑っている。……逆なのに。
 与えてもらうばかりで、与えたのはほんの一握りだ。
「一色……?」
「俺、何にもないんだよ。空っぽだよ……」
「……」
 彼女は少し唸り、光の言葉をくれた。
「何もないのに、私は好きにはならないよ」
 頬を少し染めて、恥ずかしそうに。でも、はっきりと言った。
 彼女は頬を染めながら、俺を見上げる。その上目遣いが心臓を震わせる。情けないほどに、ドキドキしている。期待、うれしさ、もっと彼女の心にいたいと思うほどに、全てが怖くなる。
 失うことも、嫌われることも、傷つけることも。それでも触れたいと願うのはどうしてだろう。どうして、求めずにはいられないのだろう。
「名前で……呼んで欲しい」
「……楓は、優しいね」
 その言葉は心の中に灯された光だ。
幸せになりたい。自分一人ではなく、彼女と一緒に幸せになりたい。
 夜風が冷たく、握り返された手の温度だけを感じていた。

***

 春の訪れを告げる桜は葉に変わり、やがて気が滅入る梅雨になった。
それからの彼女は、少しだけ優しくなった。何か思うところがあったのだろう。
同調するように周りも彼女に優しくなった。ぎこちなかった関係も、緩やかにそれが当たり前になる。
「早坂さんのこと好きなの?」
 騒がしい女子の一人が、俺を揶揄する。好奇心が詰まった目で、俺と彼女の関係に探りを入れる。
あまり、からかいの対象にもなりたくないのに。ため息が辟易とした態度に出る。
 女子はそれでも、他人の色恋に首を突っ込みたがるものだ。早坂は、その凛とした雰囲気が和らいで、穏やかな物言いをするようになった。
 反して、俺は目に見えてイライラしながら威嚇するようになる。彼女に気安く話さないで欲しい。単なるわがままだ。
クラスメイトたちにはそのギャップが面白く見えるらしい。
視線の先の彼女。焦がれる思いを抱くことが、今でも変わらないのがなんとも悲しい。
 いくら好きで、特別な人でもきっと馴染めばゆっくりと自分の一部になると思っていた。けれど、彼女は日常の一部にならなかった。それどころか、他の人を俺以上に好きになる気がしてならない。俺はろくでなしだから。
「好きっていうか、彼女だよ」
 だからこういうわざとらしい発言をして、境界線を引く。彼女の恋人は、俺だからそれ以上は関わるなと。威嚇している。女々しいことこの上ない。
 うれしそうな声がクラス中に上がる。その声と梅雨の湿った空気感が神経をピリピリと尖らせる。雨の匂いがどことなくプールの塩素の匂いに似ていて、消毒されていく彼女のイメージをもう一度、汚したくなる。もう一度、全てから彼女と遠ざけてしまえたら、なんて考える。
 彼女に死ぬほど愛されたい。
 そんな病的な思考が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。消すのは自分の良心だ。彼女の幸せを祈るそんな自分のいい部分。
「……優しくなりたいよ」
 ボヤいた声は、喧騒にかき消された。

***

 放課後になり、彼女は俺を誘う。
「……楓。一緒に帰ろう」
 優しくなった表情に見えるのは俺に向く好意。
それだけなのに。
さっきまで抱いていた感情を、上手に消してくれる。優しい人間になりたい。
彼女にとって都合のいい、優しい人間になれるなら、欲望も感情も消滅してしまえばいい。それで彼女に愛してもらえるなら、なんだってっていい。
 そんなことを思って生きている。
 学校から少し離れたコンビニが近づくと俺は彼女の話を遮って声を出した。
「コンビニ寄ってもいい?」
「うん……。あの、機嫌悪い?」
 彼女は人の事を良く見ている。だから些細なことで気づいてしまう。気づかれたくないことまで見抜いてしまう。
「……うん。ごめん」
 日が落ちるのが遅くなって、夕方になっても昼のように明るい。
おかげで表情を隠せない。顔の面を剥がせたらいいのに。見て欲しい表情だけ彼女に見せられたらなんて。そんなことできるわけもない。
 ぽつりぽつりと、降り出した雨に傘を開く。梅雨の湿った空気が彼女湿らせてしまったんだろうか? 沈黙が続いたのが気になり、彼女の方を見ると、大粒の涙が堪えきれず流れた。
「……えっ」
 戸惑うように俺は急いでポケットティッシュを出そうとカバンを探る。慌てすぎてなかなかカバンの奥にあるティッシュが取り出せない。
「ご、ごめん。機嫌悪くてごめん。泣かないで」
 おどおどと涙を指でぬぐって、困った泣き顔に手を当てる。
「ああ、目腫れちゃってる……」
 彼女は態度を急変した俺に少し呆れたように叫んだ。
「……なんで言ってくれないの? 嫌なことしちゃったなら教えて」
「あ……、いや、あの……」
 しどろもどろになりながら、泣きじゃくる彼女があまりに子供っぽく見えた。
そして、思わず噴き出してしまった。
「バカ!」
 そういって大声を上げて泣く。そんな面倒な態度が愛おしく感じた。優しい彼女。そんなスミレがわがままを、誰でもなく俺に向けてくれている。
 子供みたいにただを捏ねている。そんな姿に俺は無性にホッとしてしまった。
「あ、いや、違くて! 普段、子供っぽくないのになって思って……」
嗚咽を吐きながら「ばかぁ」と泣きじゃくる。
頬にあたる雨粒でさえ、まるで慈雨ように感じて、さっきまでの重苦しい独占欲があっという間に払拭されてしまった。
「ふっ、スミレって不思議だね」
コンビニに着くと、泣きじゃくる彼女にアイスを買った。ソーダ―の中にバニラアイスが入った棒のアイス。
片方を割って彼女に渡す。雨音に耳を済ませる。薄暗がりの外を眺めながら濡れる世界眺めていた。イートインのガラスの向こうは、じっとりと湿る雨が降る。
「ごめん、俺。……ただ、嫉妬してただけなんだよ」
 少し落ち着いた彼女はアイスをぱくぱくと口に運びながら、冷たい息を吐いて俺を見た。
「嫉妬……?」
 腫らした目に冷えたペットボトルを当てると、彼女が冷たそうに身を震わせる。その姿さえ可愛くて仕方がない。
「独占できなくなっちゃったから」
 そういうと頬がさっと赤くなり、彼女は俺から顔を背けた。
「ごめんな。ずっと独占できるとかわけもなく思ってて。自分勝手だよなぁ。クラスのやつらと仲良くなるのが無性に腹が立って、態度に出してさ。ほんと、どうしようもないよ。好きな子が誰かと仲良くなって楽しいって思えるなら、それが一番なのに。スミレの幸せを願ってあげられない自分が嫌いだよ」
 彼女はそっぽを向いたまま、耳まで赤くしてボソッと呟いた。
「そんなに、優しくなろうとしなくていいのに」
 はっと言われた言葉に驚く。
「えっ……。優しいかな?」
 彼女は振り返っていたずらっぽく笑った。
「バカ。優しくないとそんなこと考えないよ。……そんな当たり前のことに気づけないなんて本当に、バカだね」
 彼女は俺の手を握る。ぬくもりがじんわりと伝って心に沁みた。彼女の体温が雨で冷えた体に沁みこんで温かい。そしてたまらなく落ち着いた。
「手握ってもらうと落ち着くよね。なんでだろうね」
 俺がそう言って反対の手で頬をかく。
「手にいっぱい神経通ってるから、たくさん相手を感じられるのかも。……そういえば、キスも唇が敏感で相手をたくさん感じられるから口と口を重ねるんだって聞いたことあるな」
 彼女はそう言葉にした瞬間、顔に熱が溜まるのを感じた。キスなんてきっと、他の人とだったら何も感じない。
 口と口をくっつけるだけの行為。それだけなのに、意味を成すのは彼女とするからだ。
 熱っぽくなった表情の彼女をちらりとみた。
「……キスしたいって、思う?」
 俺は震える手で彼女の頬に手を添えた。握られている片方の手は汗をかいている。
 視線が合わせられない。まともに彼女を見ることができない。
 それでも彼女の頬の熱が自分と同じ想いであることを伝えてくれた。
「ここ、コンビニ。……だめ」
 彼女は小さな抵抗をみせた。けれど、隅の方にあるイートインの奥にいるから、見えないよと耳打ちした。
困った顔をしている彼女の唇を、そっと親指で触れた。湿った柔らかい感触に、背筋がぞくりとする。
「キス、したい」
 可哀そうなほど赤く頬を熟れさせて彼女は無言で首を縦に振った。
 閉じ込めてしまうように彼女を自分で隠すと、触れるだけのキスをした。柔く羽がふれるような子供じみたキスだった。
こんな優しいだけのキスを、こんなに幸せだと思ったのは初めてだった。
 なめらかで柔い。近いから、ふんわりと彼女の匂いが香る。少し湿ったように温かい彼女の唇とすり合わせる行為は、もはや自分にとってキス以上の意味を持った。
 快楽の伴う行為でなくてもいい。触れるだけでいい。それ以上の幸せなんか想像もつかなかった。
 二回だけ啄むように触れて、すぐに離した。恥ずかしかったのもあるけど、離せなくなりそうだった。
 お互い顔を見ることもなく、そっぽを向いて何事もなかったようにアイスを食べた。シャリシャリとかみ砕くソーダ味のアイスを黙々とかじっている。
「ふっ」
ふいに彼女は笑う。
「どうしたの?」
「ファーストキスの味、ソーダだった」
「初めては涙の味だったよ」
「あれはカウントしない!」
「あははっ」
 そんな他愛のないおしゃべりが、たまらなく幸せだった。
「ずっと一緒だったらいいな」
 俺は彼女の頭を撫ぜていった。
「ずっと一緒にいたいって言って」
「今はまだ、怖くて望めないよ」
 しとしと降る雨。もし、薄暗がりを連れてきても、彼女と一緒にいられるなら幸せに変えていけると信じていた。

***

 陽が落ちるのが遅くなる夏が来た。
 蝉の声があまりにうるさく感じ、いないところでも聞こえる幻聴と化す。日陰が濃く色づく陰影を見ながら、早朝スミレといつも本の話をしていた。
 いろんな本を読むようになった。名前も知らない外国の作家が書いた小説から、よく知っている有名なミステリー。
 あの有名な賞の名前にもなった昔の作家。彼女との共通の話題のためだった本は、時間がたつにつれ俺自身の趣味になっていった。
「ねぇ」
 彼女はふいに気づく。
「朝、いつもピアノの曲聞こえてくるけど、弾いてるの誰なんだろうね」
 静かに奏でられるピアノの旋律はいつも寂しげで。きっと、誰かが泣けない自分のために、代わりにピアノに泣いてもらっている。そんな気がした。
「……誰かわからないけど、きっと自分のこと誰かにわかってほしくて、それなのにわかってほしくないのかもね」
「なにそれ。変なの」
 思わず笑ったけど、聞こえてくるピアノの旋律が届くたびに、切望が矛盾して叫んでいるみたいだと思った。
 少し目を伏せて考えた。
「……でも、確かにそんな感じ」
「でしょ? ……本当に寂しんぼの音してるよ」
 彼女が切なげに窓の外を見る。窓から零れる夏の光と、カーテンの影の境目いる。彼女になんとなく視線を向けた。カラートーンの落ちた教室の中で、止まったような時間を彼女と共有していた。
 色鮮やかな夏の色を背景に、事務員さんが花壇に水を撒く。それを彼女は眺めている。まるで明るい夜の星のような水滴が、散らばって花壇の草を濡らす。きらきらと。
差し込む日差しを遮るように、彼女をそっと後ろから抱きしめた。
「……教室だよ」
「知ってる」
 なんてことのない時間だった。その積み重ねで全てが書き換えられていく。
 悲鳴しか響かない家の中では感じない。緩やかな優しいだけの時間が幸福で。
永遠が叶えばいいと思った。これ以上の幸せなんてない。
「もうすぐ、お盆だね」
「スミレ、母さんの墓参り一緒に来てくれる?」
 彼女ははっとしてから、破顔する。その笑顔は夏の冷たい水のように体を冷やし、のどを潤すように何もかもを満たしてくれた。
「……生きてるって変わっていくことなんだな」
 そういうと、彼女は頬を染めた。
「これからもずっと少しずつ変わっていくんだろうね」
 二人の世界を遮ったのは中田の声だった。
「よっ! ご両人。朝からいちゃついてんな! でもTPOわきまえような」
「中田、うるさい!」
 彼女も中田に悪態をつくぐらいには、打ち解けていた。
「あははっ」
 大げさに笑った俺を見て中田は少し切なげに笑った。
「……みんな、俺を虐げるんだから」
「お前の性格の問題だろ」
 中田は少し悲しそうに窓の外を眺めて、事務員のおじさんにあいさつした。
「おはよーございます!」
 二階の教室を見上げる事務員のおじさんはうっすらと汗をかきながら優し気に微笑んで手を振り返していた。

***

 季節は緩やかに変わっていく。
 秋は訪れを告げ、銀杏並木を少しずつ散らし、次第に白い雪が降る冬になった。
 学校から帰路につく途中、粉雪がさらさらと傘から滑り落ちた。
スミレと大きめの傘を身を寄せ合って使い、お互いの肩に雪が少しずつ積もっていく。
「……最近、殴られてないね」
 スミレは俺の頬を撫でる。躊躇いなく、触れるようになったのは、ここ最近だ。ぬくもりに慣れることのない俺は少し切なくなる。
「父さんの会社が、倒産したんだ」
「えっ……」
 言葉を詰まらせるスミレだったけれど、突然気が付いたように「あ」と声を上げた。
「嘘でしょ?」
「当たり前じゃん」
 にやつく俺の鼻をぎゅっとつまんで、スミレは少し低い声で言う。
「……オヤジ臭い冗談言わないでよ」
「父さん、新しい女できてから俺に優しくなったよ」
「……楓は、それでいいの?」
 彼女は心配そうに言う。俺はスミレの肩に乗った雪を、払う。
「いいも何も。父さんがその方が幸せならそれでいい。死んだ母さんをずっと思い続けて苦しめなんて、俺からは言えない」
「どうして?」
「十分、苦しんだから」
 父は母が死んでから無気力になった。俺を殴るどころか、見る機会すら減った。どんどんとやせ細り、何かを呟いてさめざめと泣く。
真夜中に一度だけ、父が母の仏壇の前で土下座していたのを見た。その時初めて、父は弱い人だと知ったのだ。
 弱さは優しい人を、抵抗しない人を傷つける。そして取り返しのつかなくなってから気づくんだ。
 間違いだったと。
「許してはないよ。俺は一生許すつもりはないんだよ。けど、俺だって救えてないのに、父さんばかりを責められない。許さないけど、黙認はするよ。……幸せになっちゃいけない人間なんていない」
 彼女は一生懸命に手を伸ばして、俺の頭を撫ぜてくれた。
「楓は強いね」
 笑わないまま、彼女は言った。
「強くないよ。……優しくなりたいだけ」
「バカ。……本当にバカなんだから」
 彼女は俺を叱る。その声に甘い優しさが滲んでいた。
「スミレだけでいいよ。俺に優しくしてくれるのは」
 そういうと、スミレは困ったように眉をひそめた。そんな表情をあまりしなくなった今はそのわずかな表情に引っかかった。
「そういえば、スミレって家族の話ってあんまりしないよな」
 不意の質問が本質を突いたのか、彼女の繋いでいる手がじんわりと汗をかきはじめた。
「どうした?」
 不安になって俯いた彼女を覗き込む。戸惑うように少しだけ下を向いて口をつぐんでいる彼女の頭に手を置いて撫ぜる。
「……ほんと、どうしたの?」
 向き合って優しく問いかけると、彼女はおずおずとこちらをみて聞いてきた。
「私が、……いなくなったら悲しい?」
 冷たい雪が、撫でるように頬を伝った。しとしとと降り積もる雪の影が、目の端に映って視界がうざったい。
「……どうして?」
 吐息が、霧のように視界を霞ませる。
「朝、いつもピアノ弾いてた人いるでしょ?……誰だと思う?」
 少し目元が赤い彼女を見て、俺は彼女の震える手をぎゅっと握った。
「わからない」
「私の……お父さんだった」
 俺は動揺を隠せないでぼそぼそと声を出す。
「……亡くなったって聞いてたけど」
 そういうとスミレは目を伏せて一瞬、苦笑いしてから、急に俺に抱き着いてきた。傘を持ったままの俺はどうすることもできず、片手で彼女の肩を抱くしかできない。
「スミレ?」
「……私も、そう聞いてたの。本当は違った。お母さんが嘘をついてた。お母さん、だんだんおかしくなってて病院に連れていったら、もう……」
 抱き着いて顔を隠す彼女を優しく引き離した。
「泣いてる?」
 目元が少し腫れぼったく、泣きそうな顔をしている彼女が目を潤ませながら言う。
「私ね、楓と離れたくない。お父さん、お母さんとやり直すって、本当は結婚を反対されて、結婚できなかった。でも諦めきれなくてずっとおばあちゃんとおじいちゃんと話し合ってたって。……嘘みたいじゃない? そんなこと急に言われても、誰の事も捨てられないで誰の事を選べなかった人の話なんか信じられない!」
 感情が鮮やかになった彼女を見て、こんなにも自分を伝えてくれる彼女をみて、昔自分が感じたことを思いだした。彼女が求めているのは俺じゃない。
「スミレ」
 優しい声が出た。
 でもそれは、スミレのための優しさじゃなかった。100%自分の欲のためだけの言葉だ。
「行かないで、お願い」
 縋るような言葉にスミレは目を見開いた。そして幸せそうに目を細めて微笑んだ。
「行かないよ。ずっと一緒にいる。だから一緒にいてもいいよね」
 結局、可哀想なくらい自分の事ばかりだ。
 衝動に突き動かされるまま、傘を手放し、彼女を力強く抱きしめた。
どうか一生、知らないでいて欲しい。
綺麗な上澄みの俺だけを、愛してほしい。彼女にほのかに香る悲しい感情の匂いが、母さんと重なった。
本当に、ゲスの極みだ。
初めて自分に死んでほしいと思った。

***

次の日の朝、俺は教室には向かわず音楽室へ向かった。
哀しげな旋律が奏でられるその空間は、いつも隠れて泣いているみたいで痛々しい。
スミレの父親はきっと、スミレにわかってほしくてずっと弾いていたんだと気づいた。凛とした空気感の中、ピアノの音だけが何故か切なく思いを告げようとする。
本当は我が子を抱きしめてあげたかったと。気づかれないように隠しながら、矛盾した感情を延々を吐き出し続け、彼女を見守っていた。
音楽室の横開きのドアに手をかける。曇りガラスのドアの向こうのピアノがぴたりと止まった。
構わず、思いっきり開け放つとスミレの面影をまとった美しい中年の男性が俺に向かって微笑みかけた。
「……スミレ、ついに君に言ったんだね」
 そう悲しそうに微笑んで朝の柔い光をまとった彼は、この学校の音楽教師の水沢だった。
自分の周りの全てを巻き込んで目を引いてしまう彼女の性質は、水沢譲りなのだろう。
 柔い黄身色の光と優しい暗がりが存在の輪郭をなぞるように、全てを引き立て役にしてしまう。そんな圧倒される美を水沢も秘めていた。
 気づかなかっただけで。思わず目を奪われるほどに儚げな男だった。
「スミレのお父さんなんですよね?」
「うん」
 水沢は困ったように笑った。
「スミレと家族になりたいんだ。ちゃんと……家族にならないといけないんだよ」
 憂いを滴らせ、同調させるように俺の心に詰め寄ろうとする。
全てを飲み込む引力が俺を飲み込もうとする。それでも俺ははっきりと告げた。
「スミレは俺と離れたくないそうです」
 同情する余地はなかった。遠くから見守ることしかしなかった奴に渡したくはなかった。
「……スミレの母親のこと、あの子から聞いてないの?」
 俺は少し眉をひそめた。
「なんの話ですか?」
 水沢は少し言いよどんでから、目を細めて言った。
「スミレの母親の美代はね。……もう、自分の娘のことすら分からないんだ。脳の病でね。四肢の麻痺も進んでいる。高校生の娘だけでもうどうにかできるレベルの話じゃない」
 水沢の言っている意味が分からず、一瞬言いよどんだ。
頭の端が冷たく動揺し、そして冷静になっていく。
「そんなこと……一言だって」
 理由をわかっていながら、言い訳のように言い募る。
「君と一緒にいたいのに、スミレがそんなこと言うと思うか?」
 水沢は視線をそらしていう。
「俺はね、一色くん。さっさと両親なんか捨てればよかったって思う。そうしなかったことを一生責めると思う。周りの人間みんなが納得してから、ちゃんと父親として名乗ろうと思ってた。でもそれが間違いだって、ただ何に対しても決断できない、断ち切れもしない自分を正当化したいだけだったって……。美代が病気になるまで気づかなかった。本当に大事なものをちゃんと選べばよかった。そしたら美代とスミレとずっと一緒にいられたのに。みんなが幸せになれるように頑張ってきたつもりだった。そう、もう取り返しがつかない。つもりで終わってしまった。一番大事な人を追い詰めただけだった。大事なものを選べなかった……」
「先生……」
 水沢は泣いていた。涙を見せることに何のためらいも見せず、自分は愚かだったと嗚咽を吐いていた。情けないその様子でさえも、スミレを彷彿とさせて苦しい。彼女の泣いてる姿を見ているようで、胸が痛い。
「ずっと一緒にいたかった。きっと君もそうなんだろう。スミレと離れたくない、そう思ってるんだろう? そして、あの子が迷っていることも知ってる」
「……はい」
 わかっていた。スミレの一番になりたいと言いながら、スミレの一番じゃないことにちゃんと気づいていた。
「何も守ってあげられなかった僕が、スミレの意思を曲げるつもりはない。でも、最後の時間は、美代とスミレと一緒にいたい。だから、君にお願いする。スミレを返してくれ」
 何故か、母さんの声が聞こえる気がした。
 これから先の未来、スミレは母を失くす。そして俺よりも一人になってしまう。水沢がいなければ、家族がいなくなってしまう。
「スミレを家族の元に返したら、どうなるんですか?」
 力ない声は水沢に届いただろうか? 空気が抜けるような言葉が口から出てくる。そんな俺を見て水沢は涙をぬぐいながら言った。
「専門の病院が神奈川にある。学校もその近くに変えようと思ってる」
 水沢は俺の肩に手を置いて何度も頼むと、懇願する。その言葉が、その情けなさが、誠実に感じた。きっとスミレは家族と一緒にいた方が幸せだって思った。思ってもいないのに、決意して淡々と感情の伴わない言葉が出た。
「スミレはちゃんと、幸せになれますか?」
 覇気のない言葉の裏で自分の中の獣を抑えるために自分を何度も殺した。そうでなければ、好きな人の幸せも祈ってあげられない。俺は笑っていてほしい人の幸せを祈ってあげられる人になりたい。
「うん。俺はちゃんと家族を守る。今度こそ、スミレを守る」
 水沢は俺の肩に手を置いてこういった。
「ありがとう。君には本当に感謝している。スミレのそばにいてくれたこと。スミレを大事にしてくれたこと、向き合ってくれたこと。感謝しかない。もちろんこれから先、スミレと会うことも止めない。今だけでいい。あの子を家族のそばにいさせて欲しいだけなんだ」
 虚ろな目で見た水沢は、もう儚げな男には見えなかった。意思をしっかり持った大人に見えた。それに対比して窓ガラスに映る自分はまだ、子供でしかなかった。
 ふつふつと溢れるのはスミレへの気持ちだった。彼女が初めて俺の気持ちを気づいてくれた。母さんへの気持ち、意識したら壊れてしまうほどの人を大事に想う気持ちを。笑いかけてくれるだけで、救われるような幸せさえも、全部。
 彼女が俺に教えてくれた。だから願わなくちゃだめだ。彼女の幸せを。そうでないと俺はもう、自分を許せない。
衝動のような感情を口が吐き出す。
「……スミレが好きなんです」
 涙が出た。
大きな涙がぼろぼろと流れていく。喉の奥がツンと痛い、でもそれ以上に寂しい。心臓がつぶされるような悲痛さが訴える。失ってはいけない、でもどうにもならない。その気持ちが歯がゆくてたまらない。
「……好きなんです。笑っていて欲しいんです。一人にしたくない、だから、絶対。絶対泣かさないでください」
 掴んだ水沢の胸倉を、ゆっくり離した。踵を返して音楽室から出ていく。吐きだした感情に、嘘偽りなんて一つもなかったはずなのに、後悔なんてしなくていいのに。わかっているのに、後悔するんだ。
正しいことを選択する。彼女の幸せを願っている。そのはずなのに、後悔しかしない選択しか用意されていない。
きっと引き留めても、送り出しても、絶対に後悔する。矛盾している。心の言うとおりになんかできない。幸せになってほしい。
ぐちゃぐちゃだ。答えが出てるのに、決定できない。
 教室に戻っても笑える自信なんかない。だから、もういっそ彼女の全てをぶちまけてしまえばいい。行かないでほしい。泣いて縋ってしまえば、楽になるかもしれない。
 けれど、どうせそれはできないんだ。彼女が悲しむ選択は取れない。
どうして愛はそんな身勝手さを許さないんだろう。
 どうして、自分じゃない誰かの幸せばっかり優先するんだ。何一つも、わからないのに覚悟は決まっていた。

***

 静かな夕焼けの中、昇降口で彼女を待つ。何もかも色を失って、呼吸だけを繰り返していた。
 俺たちは離れても気持ちを繋げていけるほど、強く結ばれているわけではない。彼女は優しくて、綺麗だから引く手数多だろう。俺をずっと好きでいてくれるなんて、都合のいい妄想でしかない。
 血の繋がりでさえ切れてしまう、親友でさえ裏切る。そんな世界で、信じているものに切り離されるイメージしかわかない。なんてさもしいんだろう。
 足音がするたび、何度も昇降口を見る。夕焼けの光が影を作りながら、赤く発光する。この世の終わりを告げる警告の色。
「お待たせ」
 スミレは無理に微笑んで見せる。
「どうしたの?」
 何か言葉にしようとしても、モヤモヤが邪魔をす。なぜこんなに我慢しなくちゃいけない。スミレが家族より俺を取ればいいだけじゃないか。子供っぽい感情で突き動かされたっていいじゃないか。
 だって俺たち、まだ子供なのに――。
 ようやく、我慢しなくていい環境になったのに、すぐこれだ。
分かってる、正しい選択なんて。納得できないだけだ。後悔するとわかってるから、余計モヤモヤが動きを止める。だったら、せめて、思い出がほしい。
 ただ、一分一秒でも長く、一緒の時間を過ごしたい。
それだけでいい。それしか望まない。
「スミレ、今日は少しだけ時間をくれ。なんでもいいよ。公園で話すでもいいし、お母さんが心配なら電話でもいい。だから、だから……」
「ちょっと待って。なんで?」
 彼女は俺を見つめる。
「最後だから、わがままを言わせてほしい」
「最後? どうして?」
「どうしても。スミレがどうしたいか、わかってるから。家族と一緒にいたくないわけがない。だってスミレはずっと愛されたがっていた」
 そう言い放った声が、震えていた。それを与えられるのが自分だけだと、うぬぼれていたことに気づいて、恥ずかしさで顔をそらした。
「……私と一緒にいたくないの?」
 言葉にできない感情が、頭の中を駆け巡る。伝えたい言葉よりも、正しいことをと。彼女が悲しまない言葉をと。
そればかりを探し続けて、結局どれも正解じゃなかった。
心の中がぐちゃぐちゃで、行かないでと泣き叫ぶ自分を何度も何度も殺す。そうまでしても願いたい。だってずっと彼女の笑顔を、幸せを望んできたのに、それを否定までしたら、今までの時間全部嘘みたいに思えて。
「……俺がどんなに願っても、スミレは家族も大事だろ? わかっていたのに、ちゃんと送り出せないで、ごめん。わがまま言ってごめん。幸せを願ってる。だから……」
 視線が合った瞬間、思わず抱きしめた。唇にあたる髪から香るこの匂いも、彼女自身の肌の匂いも、忘れないように強く抱きしめた。
 回される背中の手も、力いっぱい自分に縋る。
「寂しいよ」
「スミレがそれでもずっと好きでいてくれるなら、ずっと待ってるから、今度こそずっと一緒にいよう」
 彼女は声を上げて泣いた。
「私と離れるだけで、私が楓のことを嫌いになるとでも思ってるの? 他の誰かを好きになるとでも?」
「……思ってない」
「思ってるでしょ! 思ってるから、待っててって言わないんでしょう」
「それを決めるのは、スミレだから」
 スミレが潤んだ目で俺をにらんだ。それでも俺は目線を外すことはなかった。何かを悟ったように、視線を下げ、唇を嚙む彼女はついに、また大粒の涙をこぼしている。
「いや、いやだよ。気持ちが離れるのも、ずっと一緒にいられないのも。怖い、離れたくない、楓と……離れたくない」
もっと言ってほしいなんて。その涙で、悲痛な表情で、訴えてほしかった。愛していたと、好きでいたと、この瞬間だけでいいから。もっと言ってほしいなんて。
「……そんなこと言わないで」
裏腹だ。天邪鬼だ。
俺は決意したように、そっとその細い首筋に手のひらを添わせる。
「俺なんかと一緒にいない方がいいんだよ。……俺は父さんと一緒で、スミレを傷つけてしまえる人間なんだよ」
手の震えが止まらなかった。こんなの幼稚な演技だ。目元を隠してしまいたい。泣きそうだ。
失ってはいけないものが一つあるとしたら、それは紛れもなく彼女だった。
熟れる赤い目から、はらはら落ちる涙を拭いもしない。困ったように眉を八の時にして涙を流す彼女は、俺の頬に手を添えた。
必死になって言葉を紡ごうとするも、彼女の声は小さい。何を言っているか聞き取りづらかった。それでもなんて言っているかわかった。
「好きだよ。ずっと」
「……本当は、本当は」
本心を伝えてしまえた方がどれほどいいか、この気持ちをぶつけて彼女を言葉で縛ってしまえたらどれだけいいか。何度も震える声帯が言葉にしようとする。その度、彼女の悲しい顔が浮かんだ。
 耐えるようにすればするほど、声が、震えて言葉にならない。
 涙が出た。赤く腫れる目元から、何度も言葉を紡ごうとする唇から、彼女と自分の天秤がぐらぐら揺れて泣き出してしまいそうな感情がたった一つを呟いた。
「スミレ……、愛してるよ」
俺も彼女も変わらなかった。
自分勝手に束縛して、傷つける人間になりたくなかった。
「……お願いだから、俺の本当の気持ちなんか無視して」
この刹那、二人同時に死ねたらどれほどいいだろう。
永遠の中にこの時間を閉じ込めることができたのなら、何もいらなかった。それでも時間が途切れることはなく、進み続ける。
今が過去になった時間に、さよならを告げる。寄り添い合った俺たちはついに言葉にした。
「離れている時間なんて少しだけだから」
 彼女の手を握っていった。
「少し離れたら、そしたら、あとはずっと一緒にいよう。二人でずっと……。死ぬまで一緒にいよう。約束」
 彼女は儚げに笑った。壊れてしまいそうなほど幸せそうに、微笑んだ。
「うん、あのね。私も――愛してるよ」
 その言葉は疑いようもないほど、彼女の本当な気がした。

***

俺はバカだった。
ただ正しいというだけで離してしまえる、それが彼女の幸せだと信じて疑わない。彼女の気持ちなんかわかってなかった。
 離れて暮らすようになった半年目の、夏の日のことだった。
既読が付いたはずなのに、返事がなかなか来ない。でもそれは手が離せない用事があるとか、見たまま眠落ちしたとか、そんな他愛のない理由だと思い込んでいた。
あとから考えれば何が起こったか理解できた。今となっては知りようもない、メールの返事。
机に置きっぱなしにしていたスマホがバイブ音に気づく。慌てて持ち上げて画面を見ると、知らない番号からだった。不審に思いながらも応答のボタンを押して耳を当てた。始めに聞こえたのは、嗚咽を漏らしながら、謝り続ける男性の声だった。聞き覚えのある声に、嫌な汗が流れる。
「どうしたんですか?」
 知っていた、彼女に何かあったことは嫌でもわかった。
 数日前に聞いた時、彼女の母親は存命だった。それに彼女の母親に何かあったのなら、父親が俺に電話などかけてこない。彼女に何かない限り、俺に水沢が電話をかけてくるはずがないのだ。
「スミレが……」
 静寂が水沢の声をはっきりと際立たせて、その言葉を曖昧にしてくれなかった。
「スミレが死んだ」
 大きい音が聞こえた。それは自分が倒れた音だと、認識するまで数秒かかった。透明な壁が自身を押しつぶすような感触、酸素のない海に理由もなく沈められる恐怖。
 理不尽で大きな不幸は、見えない足場をいつの間にか崩してしまっていた。息ができない。見えているはずの視界が、認識できない。霞むような意識の中、彼女の最期に笑った本当の表情だけが、脳裏に焼き付いていた。
幸せな未来を着信音がなるまでは、信じていた。
きっとこれからは幸せだなんて約束されたことでもないのに、信じていた。そうなるのが、当たり前だと思っていた。
 そんなこと決まってない。頬の皮膚、瞼の薄い皮膚、その奥の神経さえ自分のものだと信じられない。冷たい。それ以上に遠い。感覚が鈍くなる。
 スミレと命が繋がっているならよかった。そしたら、悲しいと感じる時間さえないほどに、彼女が死んだら俺も死ねるのに。
 気が付いたら、俺は病院のベッドに寝かされていた。誰もいない白い空間。仕切られたカーテンを開けて彼女が心配したよと出てきてくれる。妄想だと思っても、瞼を閉じた。
 明確に鮮明に、俺は彼女を想像した。妄想でもいい。会いたかった。瞼を閉じれば彼女が俺を覗き込んでいる。想像のスミレはきっと笑ってくれるはずだ。
「スミレ……」
 スミレを無理やり笑わせる。不格好なスミレの笑顔。懸命に想像する。
 いつの間にか夢に落ちていた。スミレは俺の意思を離れて動き出す。必死になにか告用としている。
「なに? 何言ってるかわからない」
 それでもスミレは話すのをやめない。
「生きてるのが怖かったの」
そして微笑むと涙を一粒流した。「なんで」と問いかけようとしたけど、声は出なかった。言葉を奪われた空間の中でスミレはいう。
「私が幸せになることが許せなかった」
 でもそれは、スミレのせいだけじゃない。そう言いたくてと言えなかった。
「ごめんね」
そう告げると、夢の中のスミレはまるで最初からいなかったみたいに跡形もなくなった。
 大事な誰かを失くして、最初に感じた感情は悲しいよりも寂しいだった。焼け爛れるような酷い孤独、信じてきたものが全部嘘だったような足場の不安定さ。
 ああ、何もかも亡くしてしまった。生きていく意味が死んでしまった。
 そっと瞼を開ける。必死に目をつむって何度も眠ろうとした。スミレのいない世界に居たくなかった。
嘘でも、幻覚でも、妄想の産物でもいい。彼女に会いたかった。
本当は嘘で、俺は病気で入院してて、ずっとカーテンを開けて入ってきてくれる。思い込もうとした。
でも、きっと彼女は来ない。わかっていながら勝手に作りあげた妄想を信じた。ずっと待っていた。来ない人を待っていた。
 本当はいないとわかりながら、約束もしていない人を待つ。それが、どれほど自分を蝕んだかわからない。
 忘れることも、後を追って死ぬ選択もできたのに、俺は何も選べなかった。
 しばらくして、カーテンを開く人が現れた。
カーテンの向こうにいたのは、男性の看護師で、目が合うと困ったように笑った。
「目を覚めたんだね、気分はどう?」
 彼はそういうと、親御さんを呼ぶねといい胸ポケットに入っていた電話を取り出した。
「……倒れたんですか、俺?」
「うん。そう」
 看護師は番号を打つのをやめて真剣な顔をしていった。
「何があったか……、覚えてる?」
 声を出そうとした。それなのに声は出なかった。代わりに出たのは涙だった。言葉を紡げないほどとめどない涙があふれて、息もできない。そのうち呼吸がおかしくなり、過呼吸発作を起した。苦しさの中で意識だけがはっきりしていった。
 あの電話は現実だと知っていた。あまりにも生々しく覚えているから。
 看護師は落ち着いたように俺の背中を撫でて反対の手でナースコールを押した。
「わかるよ。こういう仕事をしてるから。だからわかる。大事な人を失わない人なんかいないから」
 背中を撫でられる温度だけが、現実だ。息を整えようとした。必死に抑え込もうとした。
でも、悲しみは引かない。頬が腫れたように痛い。胸の奥を引き裂かれて、のたうち回る。うめいた声が、惨めで余計泣けた。
「愛してる」が呪いのように、脳裏を駆け巡る。届かない声が、思いが、毒になる。 
「愛してる」はそれ以上にもそれ以下にもならない。もう、それを伝える人がいないから。
何度も何度も、彼女を思い描いた。そうすれば寂しくないと思ったのに、どれも本物の彼女ではなかった。
 どこか少しずつ違って、本物の彼女とあれだけ話をして彼女の全部を知っていた気がしたのに、どうしてこんなに彼女を思い描けないのかわからなかった。
 夢の中でスミレは言った。
「また生まれ変わったら一緒になろう」とまるで彼女らしからぬ、明るい笑顔で。
 安っぽい離別の物語みたいに彼女はそんなセリフを吐いて消える。
 生まれ変わったスミレはスミレじゃない。スミレの人生を歩んでいない彼女は彼女じゃない。夢の中でそれでも彼女の虚構を思い描くことをやめられなかった。
 それが愛の形で、それ以外すがるものなどなく、寂しさは鳴りやまない。
悲しいなんて、そんな優しい言葉だけじゃ表現できないほどに感情は肥大化して、気が付いたら焼けるような孤独に変わっていた。
 目を開けたら、俺が死んでいればいい。死んでいてほしい。そう願って目を覚ます。
その繰り返し。その思考のメビウスの輪の中、縋るように幸せな夢を想像した。
 泣きながら目を覚まし、自分が生きていることを再認識する。悲しい以上の感情の名前を俺は知らない。知っていても、きっとその言葉でも足りない。
 泣きながら見た朝の光。残酷な現実を知らせる光に悲しいほどに安心した。
明日がくることが、安堵した。死んでしまいたいと願いながら、これほどの悲しみを背負っても、自分が死なないことを安堵していた。
それが彼女に対する裏切りのような気がして、延々と声を殺して泣いた。矛盾した本能と感情がかみ合わなくて、どうして生きたいと思うのか、死にたいと思うのか、わからずにいた。
死んだって彼女には会えないと本能でわかっていた。死は無だ。
それ以上にはならない。
 涙が延々と流れ続けて、きっと死ぬまで泣いたって気持ちが晴れることはないと悟った。幸せなんか、そんなものはいらない。失えば、一人で孤独を持て余すより、もっと不幸だ。「悲しい」が延々終わらない。終わってくれない。
 寂しいなんて感情、消えてしまってほしい。彼女の記憶ごとでもいいから。
 腫れあがる心の痛みに耐え切れず、大事な彼女さえ忘れてしまいたいと思っても、それを拒絶するように涙がこぼれる。
 どうしようもない。悲しみが去るまで、耐えるしかない。
 大きな波のような悲しみや寂しさは、それからも何年先も色あせることもなく引くことはないことを俺は知りようもなかった。
 のちに葬儀に呼ばれたが、俺は出ることはなかった。彼女の母を、父を責めてしまう自信があったから、墓にも行かなかった。泣きじゃくってしまうのが目に見えていたから。
 それから何年も俺は過呼吸発作を起こしながら、腫れもののような記憶を引きずり出さないようになかったことにした。そうじゃないと、生きていけなかった。
 忘れてしまう覚悟もできないくせに、ふたをしないと生きていけなかった。
 社会人になって、仕事をしながら生きた。死んだように、自分の感情にけして目を向けることはなく、何事もなかったみたいに年を取っていった。
無意識に違う誰かで埋めようとしたこともあった。いろいろな女性を本気で好きになろうと努力した。みんな優しくていい子ばかりと付き合った。
 それでも、彼女以外彼女じゃなかった。好きになろうとしても、彼女の影がちらついて、誰のことも好きになれなかった。
 とめどない悲しさと、消えてしまいそうな自分を必死に保っている理由がわからなかったのに、生きようと必死だった。
 一緒に死にたいと思っていたのに、それをしてはいけないと無意識に拒んでいた。
 悲しい顔をしたら、死んだ彼女が泣いてしまう気がして必死に幸せに笑ってられるように生きた。そんな時に実の父から連絡があり、電話をとった。スミレの父、水沢から預かったものがあるからとりに来いと告げられたが、俺は郵送で送ってほしいと譲らなかった。
期待と不安を抱え、不安定さに弄ばれながらその日を待った。
 何度も来たら見ずに捨ててしまおうと思ったけれど、彼女を否定してしまう気がして何もできない事を予感していた。小包は翌日に届いた。震える手でそっと空けた包みの中にあったのは、彼女のスマホだった。
何年も前のスマホが起動するのかわからなかったけれど、一緒に入っていた充電器で充電して中を見た。
スマホの中にあったのは、彼女の遺書だった。
交通事故と聞いていたので、驚いた。自殺だったのかと遺書と書かれたメモデータを震える手で開いた。

***

遺書

あなたがこれを読んでいるころには、私はきっとこの世にいないでしょう。なんて、ありきたりな出だしかな?
気になっていることを、先に書きますね。
私は自分で死ぬことを選びました。
 自殺です。
 次は動機。私はあなたを信じられなかった。っていうと語弊があるかもしれないけど。意外でしょう? あなたはいつも私を大切にしてくれて、嫉妬なんてさせないほどには愛してくれていたから。
 でも、私は死を選んだ。それが事実です。私がいないことで、あなたの人生にはたくさんの選択がある。
 いいや、言い訳だね。
 私はね、あなたが愛していた私さえも嫌いだったんです。死んでほしいほど、嫌いだったんです。
 ゆーちゃん。……親友だと思っていた子が自殺して、それをなかったことにはできなかった。もちろん、彼女が死んだことが全て私のせいだとは思ってない。
 けれど、理由の一端としては揺るがないほどに、私のせいだった。
 いろんな人の人生が狂うの、私のせいで。言えなかったけど、葬儀に出たとき、あの子の両親に一生許さないって言われたの。
 実のお母さんに、あんたさえいなければって言われたの。お母さんはきっと、私のせいで辛い思いをしたんだと思う。愛情が憎しみに変わるぐらいには、苦しんだんだと思う。
それでも、私を一人で育てると選んだのはお母さん自身。でも、それも理由の一端には私が紛れもなく関わってる。
 私さえいなければ、幸せになった人がたくさんいた。そして、楓も私さえいなければ、私の背負っているものを一緒に背負わなくて済んだ。
 私さえ好きにならなければ、あなたがあの昇降口で泣くことは無かった。愛って都合のいい言葉で、本当は呪いなんだと思う。
純粋で綺麗なものにならない。
私ね、楓に愛してもらったまま死んだら、あなたの傷になれる気がしたの。
こんな形でお別れになったら、一生、あなたのトラウマとして残れる気がした。
 忘れられたくない、一生、苦い思い出でもいい。記憶に居座りたい。
 あなたに恨まれても、憎まれても、どんな罰を受けて地獄に落ちたっていいから、あなたの傷になりたかった。
 きっとあなたと一緒なら、罪悪感に溺れても幸せな未来に縋っていたよ。きっと離れることがなければ、ずるずると生きていたかもしれない。でも、あなたと離れるしか無かった。あなたと離れてから夢の中で、ゆーちゃんが何度も私を責めたよ。何もかも持ってるくせに、なんであんただけ幸せになるのって。
 罪悪感から、そんな夢ばかり見る。だから、死ぬことを決めた。あの子に償う事を決めました。
ゆーちゃんのご家族に、一生、許さないと言われた呪われた私じゃ、あなたと一緒にいる資格はない。
許さないで。私を。そして、憎んで死ぬまで覚えていて。誰と幸せになってもいいから。
本当は生きたかった。あなたと一緒に幸せになりたかった。

***

 そう締めくくられたメモデータを呆然と見ていた。
 そこにはバカな内容が延々とつづられていて、彼女の弱さに気づけなかった俺の愚かさと、彼女の歪んだ愛情だけがそこにあった。
「バカだな」
 痛みに耐えるように息をした。
「バカだ、スミレの事に気づけないなんて、俺も君も本当にバカだ……」
 彼女が死んでしまっていても、彼女の愛だけが手元に残った。
 それだけで救われた気がした。同時に酷い裏切りにも感じたけど、それでも愛されている実感と酷い虚無感だけが心を満たしていた。
こんなのは呪いだ。俺はこの五年間、彼女を忘れた日は一日だってなかったのだから。自分の鈍感さと愚かしさに笑うしかない。
 呆然と力の抜けた手からスマホが落ちる。床にゴトっと落ちたスマホから映像が流れる。
 俺が彼女の新しい家に遊びに行ったときに眠ってしまった時の隠し撮りだろうか?
 映像の中の彼女は幸せそうだった。ノイズ交じりに聞こえてくるのは、俺の寝顔を撮影出来てうれしいのか、幸せそうに笑う彼女の息づかいだった。
「楓、寝てると可愛いね」
「優しくしてくれてありがとう、幸せにしてくれてありがとう」
動画の中の彼女には、俺への感謝であふれていた。
 そして最後に言ったその言葉に俺は泣くしかなかった。
「ごめんね」
 憤りに飲まれそうになる。無力感に死にそうになる。
 彼女が少しずつたまっていた人への不信感は、いつか彼女を蝕むと気づいていたのに。
「ずっと一緒にいようっていったのに……嘘つくなよ」
「楓、好きだよ。ずっと好きだよ」
 彼女は泣きながら、俺をスマホに撮影していた。どれほどの苦しみを抱えて、どれほどの恐怖を持て余して、この選択をしたのかなんて俺にはわからない。それでも彼女は俺を好きでいてくれて、とても大事に想っていてくれたことだけは本当だった。それしか本当じゃなかった。
「俺ばっかりじゃん。なんで」
 動画の中の彼女は俺に人生でいう好きをすべて使いきっていた。
「俺も、好きだよ。ずっと好きだよ」
 彼女に呪いをかけられた。それでも憎めなかった。好きなままだった。彼女の弱さまでずっと、好きなままだった。
 声が嗄れるほど、泣き叫んだけれど届いてほしい人にこの慟哭は届かない。わかってほしかった、俺がスミレをどれほど大事に想っていたか。どれほど愛しく思っていたか。
 もう届かない、彼女はもう笑わない。跡形もない。
 それでも彼女が好きだった。きっと死ぬまで変わらない。この気持ちは死なない。
 どうしたらいいかわからないから、どうかさよならを教えて欲しい。