「……それでいいのか?」
「いいも何も。お前こそ嫌じゃないのかよ? 夏祭りの終わりに、カフェの屋上は花火大会の特等席だろ」
言葉にしなくても、隼だったら分かってくれるはずって思った。
「俺は……。小鳩がいてくれるならそれでいい」
「俺だけ? みんなで花火を見るあの場所は、特別じゃなかったのかよ」
「違う。そういう意味じゃない」
隼の言葉を遮ってまで俺は自分の気持ちをぶつけてしまう。
「お前も、蒼真も! 今までの思い出全部、大事じゃなかったのかよ。何もかも、俺ばっかり大事に思ってたんだ。お前らは今までの思い出も何もかも、簡単に手放すんだな」
本当は認めたくなかった。蒼真に人ができてからずっとそう。
寂しい切ないと叫ぶ心に、さざ波の様に、次から次に複雑な感情が押し寄せてくる。
(俺たちはこれからもずっと、 何も変わらないでいられるって思っていた。俺にとって一番大事な存在は二人で、二人にとっての一番も俺だって信じてたのに)
ぎゅっとこぶしを握り締め、珍しく俺が黙ったせいで、お互いの間に沈黙が流れた。
「小鳩、俺は……」
「もういく。休憩時間が短くなる」
掴まれていた腕を振り払う。さらに何かを言いかけた言葉を遮り、隼の胸をぐっと押す。そしたら今度は大きな手に手首をぎゅっと掴まれた。
「離して」
それを造作もなく振り払おうとしたが、思いの外強い力に阻まれた。隼は目をいからせ、真剣を通り越した怖い顔になっている。
「隼? 何怒ってんの?」
自分はすぐにぷりぷりする癖に、隼からこんな険しい顔されると心がぐらつく。
隼は小さな頃から穏やかで静かで、普段なら俺がどんなに怒っていても、冷静で凪いだ雰囲気のまま隣に立ってくれていた。
(俺が怒ろうが喚こうが泣こうが、いつも傍にいてくれた。呆れてたかもしれないけど)
だけど隼は二個年下で、俺にだってこいつにはいい格好を見せたい。いつもささやかな自尊心が顔を覗かせてしまう。
「怒んなよ。別に花火見んの、大学のやつらと約束してるわけじゃないし……。分かったって。イベントが終わったら、カフェの屋上に行ってもいい。どのみちジェラート販売の手伝いは花火大会の前までって決まってるから」
「そうか」
俺が普段と違う隼の怒気に押されて、すぐさま前言撤回したら、強く掴まれていた手首が離された。同時に隼の目元が緩む。怒りが解けたようだ。
(ああ、よかった。隼とまでこじれたら俺、この世にいる意味ないもん)
隼は彼にしては満面の笑みである、唇に笑みを浮かべながら、俺の頭をよしよし、という感じに撫ぜてくる。
「おい、髪の毛触んな。乱れる」
ばしって音がしたほど強く振り払ったけど、隼は今度は怒りもせずに、よりしげしげとこっちを見つめ返してきた。
(ここまで至近距離でじぃっとみられると流石になんか落ち着かない……)
幼馴染相手にそんな風に思ってるのを悟られたくないから、俺はわざと口を尖らせた。
「な、なんだよ」
「小鳩の笑顔、ずっと見てない」
「へっ?」
意外な言葉にぎょっとした。確かに俺は最近、隼の前で不機嫌なまんまだ。
(だってお前以外に当たれる相手がいないんだもん、俺)
バイト先でも学校でも、外面だけは良く生きていたいから、蒼真とあんまり会えない今、どうしても幼馴染のこいつに甘えた態度をとってしまう。年下相手に悪いなあって分かってるんだけど……。
(俺ら兄弟みたいなもんじゃん? 兄弟は喧嘩だってする。……やっぱこれ甘えだよなあ)
そしたら急に、隼が目元を細め、なんか慈しみ~って感じの表情になった。正直、かなりメロい表情だ。心臓なのか胸の奥なのか、そこらへんが甘くきゅっと絞られる。
「小鳩は澄ましてる時は綺麗だけど、笑うと目尻が少しだけ垂れて、すごく可愛い。だから笑って欲しい」
「ひえっ?」
(うわあああ、なんだこの急なイケメンムーブ!)
言うなれば『にゃーにゃー』とうるさい子猫を抱き上げて宥めてくるような、そんな甘ったるい雰囲気だ。
俺は不意を突かれた年下幼馴染からの甘い攻撃に気恥ずかしさマックスで、拳を下の方でぶんぶんと振る。なんか変な汗が出て、頬というか顔全体がぽっぽと熱くなってしまう。
「お、お前、急になんだよ。年上に向かってその態度は!」
「小鳩、さっき友達に年齢とか関係ない的発言してただろ」
「うぐ、それは」
さっきの話を意趣返しでやりこめられ、ぐうの音も出なかった。
(なんだよ、なんだよこれ。ちっさい頃はこいつも蒼真も、俺が隊長で、二人とも後ろからただついてくるだけだったのに!)
今はなんて言うか、蒼真が穏やかな長男で、俺が自由気ままな次男、しっかり者で突っ込み役の末っ子が隼、みたいな役回りになってきてしまったのはどうにも解せない。
(せめて、俺と隼の立場は逆転させたくないぞ。俺のが年上、大学生、一人暮らしだってしている、しっかり者なんだからな!)
心の中でもジタバタ思っているうちに、まだ俺の前から退かないまま、隼がさらに顔を近づけて耳元で囁いて来た。
「ごめん。蒼真との事で小鳩が寂しい思いしてるのは分かってる。俺も受験が終わるまで、あまり小鳩と遊んであげられない。夏祭りの晩は沿線が混むから塾も早めに終わるから、夜中なら小鳩と一緒にいられる。だから機嫌直して、笑ってほしい」
声のトーンがなんだか低くて甘い。弟分が急に知らん男になったみたいで落ち着かない。
「よ、夜中……」
(なにこれ。これじゃまるで、俺が我儘いって隼を困らせてるみたいじゃんか)
そう文句を言いたかったが、そんな雰囲気じゃない。隼が少し顔を離して、ひたむきって目で俺を真っすぐ見つめている。切れ長で大きく、黒目がちな綺麗な目だ。
俺は頑丈ですらっとでっかくて、俺なんか腕の中にすっぽり抱き込めそうな立派な男の中に、小さい頃の面影を必死に探す。それで何とか自分を保とうとした。
(くっそ。昔はこいつに見あげられていた。俺がこいつの事、守ってあげたいって思ってたのにな)
幼い頃、熱を出して寝込む隼をたびたび見舞っていた。夕方帰ろうとすると俺の手を握り「帰らないで」と幼い隼は目を潤ませたっけ。
めったに我儘を言わない隼がそんな風になるのは珍しいと、多忙な両親に代わり一緒に留守番をしていた姉の雲雀さんに「よっぽど小鳩君のことが好きなのね」って笑われたっけ。
その時とは違うんだけど、今俺を見てくる隼の顔には「お願い、機嫌直して。傍にいて」って書いてあるように見えた。
(あーもう、そういう顔すんなよ)
弟分からこうも下手に出られると弱い。これ以上要らぬ心配をかけ続け、受験生に悪い影響を与えたら、恩のあるオーナー夫妻にも顔向けできなくなる。
俺は隼の機嫌を取るつもりで、わざと明るい声を出した。
「分かった。夏祭り、ジェラート売り終わったら身体が空くから。会うの、そのあとでいい?」
「うん」
向けられた笑顔は、俺や蒼真にしか向けない特別なやつだ。
(「うん」からの、にこって。こいつ本当に俺をいい方に煽るのうまいんだから……)
絆されたってことにして、俺もこれ以上意地を張るの、やめることにした。
「隼、駅までいくんだろ? 俺も出るから途中まで一緒に行こうぜ。お前が塾に遅刻したらオーナーに申し訳ないから、早く出よう」
「まだ時間まであるから、焦らないで」
まるで引き留めるような隼の素振りに、俺は眉をひそめた。
「お前建築学科希望だっけ? 志望大のレベル高いんだから、受験勉強すげぇ頑張って欲しいし」
「分かった。じゃあさ。俺が勉強に専念できるように小鳩が協力してくれない?」
「協力? 仲直りのことか?」
そしたら隼に、なぜか手を握りこまれて俺は大げさに「これなに?」の意味を込めて、目をぱちくりさせた。
「質問」
「質問?」
「小鳩は蒼真の事が好き? ラブ的な意味で」
「はあああああ?」
ラブ、なんて真顔の男子高生の口から飛び出すから、びっくりしてぷぷっと噴き出してしまった。
「なにいっちゃってんの? あいつはただの幼馴染だって。お前が一番よく知ってんだろ?」
そしたら急に隼がすっと真顔になった。目鼻立ちが整っているから真顔になるとちょっと怖い。
「特別な幼馴染、だろ? 昔から、小鳩は蒼真の真似ばかりしてきたよな。日馬さんと急に仲良くし始めたのも、蒼真の真似?」
「……っ!」
(やべぇ。顔に出さないようにしようと思ったのに……)
追求から逃げようと思ったのに、隼がまた俺の手を逃がすまいって感じにぎゅっと握りこむ。
「答えて。気になって、勉強が手につかなくなる」
さっきまでの甘さを滲ませた瞳と違って、今は射すくめるような鋭い目つきに代わってる。俺は気押されて思わず半歩下がって、背中が音を立ててロッカーにぶつかった。
隼は口でも身体でも俺を追い込む気まんまんだ。
「小鳩はさあ。蒼真に対抗して、日馬さんと付き合いたいの?」
反らすことを許さないというような強い意志と熱情が、視線からも握られた腕の強さからも伝わってくる。
(こっわ。こいつ急に強引なとこあるよな。俺がこいつに本性出して付き合ってるみたいに、普段人当たりいい癖して、俺にだけはこういうことしてきやがる)
「んなわけないだろ」
(ここで否定しないと、後が面倒くさそう)
でももうすでに後の祭りかもしれない。 付き合いの長い隼には俺の行動パターンなんて全てお見通しなのだろう。
日馬浩輔はイタリアンレストランを地元中心に数店舗経営する、男前のやり手のオーナーシェフだ。今回のイベントも夏祭りの協賛企業の中から真っ先に賛同してくれた。
学生の意見にも耳を傾けてくれて、大人の余裕を醸し出している。そういう部分は実業家である、蒼真の彼氏にも通じる。
(浩輔さんみたいな大人の男と付き合ったら、俺も蒼真の気持ちが少しは理解できるんじゃないか。蒼真と経験や意識を共有できて、前みたいに蒼真にとって一番の相談相手が彼氏じゃなくて俺に……。戻れるんじゃないか)
そういう打算的な考えが頭を過らなくもなかった。てか、確実に過ってた。隼の目は怒ってるそれだ。
「小鳩は、独り占めしたかった蒼真を彼氏にとられてムカついてるんだ。それと同じぐらい、蒼真に憧れて蒼真みたいになりたくて、真似てる。小鳩はずっと自分を取り戻せてない。頭の中が大混乱しっぱなしに見える」
「はああ!?」
(ムカつく!! それ思ってても言うか? 本人に面と向かって!)
幼稚園のモモ組で出会った時から、蒼真はずっと俺の一番の親友だった。
小さい頃から二人そろって可愛いって女の子によく間違えられたし、背格好も似通っていた。なんっていうか、双子みたいに見られて、それでなんとなくいつもセットでいることが多かった。
でも穏やかで兄弟思いの長男の蒼真と、一人っ子で我が道を行く俺とは、実は性格は真逆。似てるのは見た目だけで、同じぐらい可愛かったら、より優しく丁寧な蒼真の方が人から好かれるに決まっているんだ。
だから蒼真と学部が離れた大学の仲間内で、俺は蒼真の性格を真似たような自分を目指した。
柔和で、明るくて、ここぞという時はしっかり自分の意見が言える。そういう蒼真っぽい立ち振る舞いを心がけたら、正直俺がありのままでいるより、ずっと周りが親切で優しくなった。今回の企画は俺のアイディアを採用して貰うのにみんなの協力が必要だから、殊更気を使う。
夏祭りをすぐそこに控えた明日は、大学の先生や学部の友人たち、協力店の方々を交えた会食会を企画していた。正直、すげぇ緊張するし気も使う。その相談に乗ってくれていたのも浩輔さんだった。
普段なら俺が率先して楽しみたい『飲み会』も、招く側ともなるとどうにもストレスが溜まる。だけどきっと蒼真ならこんな時どうするかなって考えた。蒼真なら持ち前の優しさと気遣いで、皆が楽しめる様に上手く取りまとめるんだろうなって。
俺と蒼真は同じように片親になったのに、蒼真は学業の傍ら家事も弟たちの面倒も、恋人の家のハウスキーパーだって難なくこなしている。亡くなった蒼真のお母さんの教えが良かったのかもだけど、蒼真自身の努力も相当だったんだろう。
片や俺は母さんも俺も家事全般苦手で、大した手料理も作れないままズルズルと来てしまった。
(いや、母さんのせいにするのはだめだから、俺自身の問題)
結局俺がきちんとしてみたいと思いつつも努力せず、いつも何だか楽な方に流されて雑な生き方をしている。そう自分でも嫌気がさしている。
そんなことを全て、隼の深い色の瞳は見透かしているように映る。居たたまれない。俺はばつが悪くなって目をそらした。
「分かってる。俺だってちゃんとしたいって思ってる。だけどなんか、蒼真より、上手にできないんだよ。そんなん、俺が一番よく分かってる。だから、学部の友達とか、浩輔さんとか色んな人と関わって……。成長したいって思っちゃダメか? 俺は蒼真がいなくたってちゃんとやれるんだって、分からせたいんだ」
分からせたい、とは蒼真になのか自分自身になのか、それ自体よくわからない。だがそんな風に口をついて出てしまった。
あーあ。ついに情けない本音を隼に言ってしまった。なんか鼻の奥が少しつんっとして、涙が滲んだような声色になってしまった。
「じゃあ、日馬さんとは何でもないって信じていいね?」
隼はどうしても言質を取りたいようで、なおも怖い顔のままだ。
(受験のストレスのせいなのか? 隼、いつもより当たりが強いぞ)
でも隼は志望大をすでに合格圏内に捉えているうえ、上位大学の指定校推薦も楽々手に入れられる位置にいるとオーナーと奥さんが話していたから、そんな心配はなさそうにも思える。
(もしかして。隼も俺と同じで、幼馴染が他の人と仲良くしてんの、嫌な気持ちになるのかな)
そう思ったら案外自分と似た者同士だったのかも? そう思ったら少しだけ納得がいった。
「浩輔さんとは何度か大学の仲間とお店に食事しに行ったけど、何もねぇよ」
「でも、日馬さんのお店には何度も通っているんだろ?」
(なんか今日、隼、妙にしつこい。面倒だな)
「いってるけど。別に学生のうちの一人って感じでいってるわけだし」
「でも特別扱いうけてるだろ? こうしてお店に個人的に誘われている。小鳩だけ地元なんだし、そのうちバイトもうちにおいでって、引き抜かれるんじゃないか?」
(なんだこれ、なんで俺が隼から責められないといけないんだ?)
蒼真が店の常連客とくっついた時は静観していたくせに、ここにきてやたらと嫉妬を匂わせる発言を繰り返してくる。そんな隼の猛攻に、俺は防戦一方で応える。
「俺はこの店が、レシフ・ド・コライユが好きだから蒼真みたいに急に辞めたりしない。だけど浩輔さんとはこれからも長く付き合っていきたいんだ。あの人の話、すごく為になるって言うか、勉強になることばっかりだから。花火の実行委員の中にも知り合いが多いし、隼のお父さんが地元の親分なら、浩輔さんは地元の兄貴分って感じ。物知りだし。話面白いし、これからもずっと色んな相談に乗ってもらいたい」
「ふーん。毒舌の小鳩がべた褒めするような人なんだな」
面白くなさそうな隼に、逆に俺はだんだん面白くなってきて、へらっと笑うと隼があおられてか、さらに大きく目を見開いた。にやって俺が笑ったら、今度は隼がちょっと頬歪めて目を反らした。
(こういうむきになるとこは、年下って感じ)
「俺、大学出た後も、この街で仕事がしたいんだ。そんで、俺の大好きな、俺たちの街を沢山の人に知ってもらって、大好きになってもらいたい。その為に、学生の内からこの街での繋がりを大事にしたいんだ。今回のイベントは俺にとって試金石になると思うし、蒼真と隼が傍にいなくても、俺は俺のやりたいことを周りに発信していけるって、そういう自信に繋がるって思ってる」
「小鳩、そんなこと考えてたんだな」
「くそっ。ここまで話すつもりじゃなかったのに。隼がいろいろ言うからさあ」
身近な相手に真面目な話をすると、照れるじゃんか。
「分かった。この町で小鳩がやりたいことがあるなら、俺も応援したい」
隼に深く頷かれ、肯定された。そんな風に言われたら俺だって即、素直になれる。
「ありがと。浩輔さんとは本当に、お前が思ってるような関係じゃない。でもあの人本当に凄いんだ。尊敬してる」
浩輔が企画会議の時に教授たちとは別の求心力で学生たちの意見を纏めてくれた。その頼もしい姿を思い浮かべ俺は自然と口が綻ぶ。そしたら隼が形よい眉をぴくっと震わせた。
「浩輔さんてさ、高校の時とか部活に指導に来てくれていた、若い外部コーチみたいな感じ。学生に身近な存在で、だけど先の未来を歩いて、導いてくれるような人。……認めんの悔しいけれどさ。蒼真にとっては彼氏の事、そんな風に見えていたのではないかとも思うんだ。悔しいけどさ、身近な大人の人らが、俺の知りたい世界を見せてくれるから、すげぇなって。正直、憧れる」
俺が言い終わるや否や、勢い込んだ感じに隼にぐっと強く両肩を掴まれた。
「小鳩がようやく蒼真離れして、他に目を向けることには賛成だけどさ」
「……」
「ついでみたいに、俺からも目ぇ反らすのやめてくれない?」
自分を見ろって命令されてるみたいな、そんな強い眼差しだ。普段穏やかな年下の幼馴染が、今まで浮かべたことのないような光を目に宿してる。この色、光を形容するならば『ぎらり』だろうか。
(なんか、なんだろ。この目。熱いっていうか、色っぽいっていうか、これ……)
まじまじと見上げていたら、ふいに唇の上に暖かで柔らかな感触が触れ、すぐに離れる。
「いい加減、こっちみろ」
再び顔を近づけられて長い睫毛が当たりそうにそよぐ。今度はもっとゆっくり長く押し当てられた、唇。
(唇?!)
「は……」
隼にキスされたと理解するまで、間抜けなことに俺は小さな吐息一つしか零せなかった。
そのまんま、動けないでいることをいいことに、隼は俺の背中に腕を回して来た。そのまま身じろぎすら出来ないほど強く抱きすくめられる。
鼻先を今まで隼からしたことのない、大人びた香水がかすめていく。清涼感と甘さが色っぽい。
(やばいやばいやばい)
振りほどけない腕は強引なのに、繰り返し押し当てられるだけの、お行儀のよい甘い口づけを繰り返してくる。角度を僅かに変えながら啄まれ、やわやわと触れてくる。そのもどかしいほど微かな刺激でも、こういった経験に実は乏しい俺は、息継ぎさえ忘れてされるがままになってしまった。
年下幼馴染にふいにぶつけられた情動を、でも俺はこのキスが嫌じゃなかったことに驚いた。小さいころから頭と口ぐらい、何度もぶつかったことがあったからかもしれない。
だけど今は抱きしめてくる腕の逞しさが男のそれで、漂うシトラスの香りにくらくらとしてしまう。思わず頭がぼうっとしてしまい、その力強い腕に縋りそうになった。
「んっ」
しかしもう限界まで苦しくて唇を開き喘いだら、舌先でぺろりと下唇を舐められる。明らかな快感を感じて、俺は目を見開きビクンっと身体が勝手に震えた。
「はあはあはあっ」
必死で荒い呼吸を繰り返す俺を尻目に、隼は半ば伏せた瞼を見開きながら、ゆっくりと名残惜しげに顔を離していく。
「小鳩、可愛い」
隼は目を細め、舌で自らの唇を色っぽく舐め上げた。俺の敏感な背中を宥めるように撫ぜる。それにもゾクゾクっと身体が反応して、涙目で少し視界が歪む。必死に隼を睨みつけた。
「隼、お前、なにすんだよ……、いくら幼馴染でも、口にキスしちゃ駄目だろ」
怒鳴りつけようと思ったのに、不覚にも声が震えてしまった。しかし隼はそんな俺の反応にどこか満足気な様子だ。
「俺も、変わりたいんだ」
「隼?」
「いつまでもただの幼馴染の弟ポジションじゃ満足できない。好きな人には男としてきちんと意識して欲しい」
「……」
(好きな人、俺が?)
ハッキリと口に出されて、さっきのキスから危うかった俺の胸の鼓動がさらに高まり続けて天井が見えない。今はもはや、沢山走った後みたいにきりきりと苦しいほどだ。
「小鳩。変わりたいなら、俺と変わろう。俺と一緒に少しずつ。色んな経験して、大人になっていけばいいだろ」
「隼……」
「小鳩さん。愛してます。俺と付き合ってください」
「あああ、愛って」
(告白にしちゃ、重たいっ!)
丁寧な口調でそう告げると、隼はいいしな、固まったまま大きく目を見開いたままの俺の額に、もう一度チュッと唇を落としてきた。
俺がもう度重なる攻撃にふらふらで、でも動けないことをいいことに、さらに両頬を熱い大きな手で包んできた。再び傾けた顔を近づけられたところで我に帰る。
(や、やばい。流されちゃ駄目だ)
ドンッと隼の肩の辺りを押し返す。
「こ、ここ、職場! 誰か来たらどうすんだよ!」
「誰が来ようと構わない。俺が一番大切なのは、小鳩だよ」
「はあ⁉」
きっぱりとした口調でそう言いきった顔はどこか晴れやかで、幼い頃の面影が残る目元には余裕気な笑みを浮かべているのが憎らしい。
「祭りの夜に、答えを聞かせて欲しい。こっからは本気で迫り倒すから覚悟して、よろしく」
男前な顔つきでそう言いおくと振り向きざまに流し目で俺に向かってまた微笑む。まだ顔の赤みが引かぬ俺の頭をぽんっと悪戯するように撫ぜ、部屋を後にしていった。
(くそ、くそ、くそがあ。憎たらしい、生意気、無茶苦茶イケメン。くやっしい!)
「迫り倒す、だと……」
俺はどうにか乱れた呼吸を整え、ロッカーに背を付けて、そのままずるずる、ぺたりと床に尻もちをついた。これが腰が抜けるってやつか。あああああ、情けない。
(恐るべし、男子高生)
完全に気おされ、頭の中からすっかり浩輔の店に行くことなど抜け落ちてしまった。



