『雨、階段、石鹸。』――裏切られ声をなくした私が、本当の言葉を話せるようになるまで

 「ごめん。気持ち悪い?」

 「ちがう」

 「え?」

 「ほんと、その通りだ」

 勇気のご褒美は幸福です。私は、この時、彼がこの言葉をくれたから、ずっと生きていけると感じました。さらに、凄いことに、なんだか自分のことを好きになれるかもしれないと。1秒前と、自分が全く違う存在に思えて。この暗い部屋。彼の目が涙に濡れている。そして、なんだかドキドキして、暑い。暑い。熱い?

 ―少しだけ、気持ち悪い。


 視界が歪んだ瞬間に、彼がふと立ち上がって、シーリングライトのスイッチを押して、灯りを付けました。もう、真暗でもスイッチの位置がわかるんだなって、ぼんやり考えていました。

 「佳奈。どした?」

 私の頬に両手を当てて、目をのぞき込みました。

 「やっぱり。え、顔色。気分、悪い?」

 とても心配そうに見つめられて、気分が良くなってしまいました。が、このまま気分が悪い振りをします。

 「なんか、ちょっと、疲れたのかも」

 と、ぐったりしているふり。実際には、とても元気ですが、このようなチャンスはめったにないので、この演技を続けます。

 「待ってて」

 彼はリカバリーウェアのまま、スマホだけをもって、私のクロックスを勝手に履いて、玄関から出ていきました。ガチャガチャ、ガチャンと音がして、外からちゃんと鍵を掛けています。その後、階段を駆け降りる音がして、タンッタンッタッタッ。階段を、一段飛ばして降りている。危ないです。やり過ぎてしまいました。薬とか、買ってきたらどうしよう。ただ、ふざけただけなのに。

 彼が居なくなった部屋。ひとりでいる部屋。一緒に居る時は存在を忘れているスマホが、テーブルに置きっぱなしになっていました。ふと、最近ルナルナさんを見ていないことに気付きました。

 5週間。5週間?5週間。―5週間!

 前回の卵マークの日、ハートが付いていました。でも、まだ、周期がずれているだけの可能性があります。あと、1-2週間は様子を見ないと。ぬか喜びから転げ落ちるより、恐ろしいことはこの世にないのですから。

 ―ガチャリ。

 閉める時はガチャガチャするのに、開ける時は一瞬なのは、彼の特徴です。

 驚くほど冷静にスマホを隠しました。たぶん、彼はルナルナさんの意味を知らないので、そんな風に隠す必要はないのですが。

 サンドラッグのビニール袋を持って、彼が隣に座ります。視線が、独特の月色の背景のカレンダーに気づいた気がして、ついクッションの下に隠しました。

 「風邪薬と、熱上がったら困るから、冷えピタ、買ってきた」

 「ごめん。大丈夫なのに、ありがとう。いくらだった?」

 この冷えピタは一生冷凍保存しておきたい。ので、代金を支払おうとします。

 「いらない。あと、これ」

 財布を出そうとする私を止め、彼はキレートレモンの小瓶?とアイスティーのペットボトルを出しました。そして、一度シンクでコップを洗って、アイスティーと氷をグラスに入れて、カラン、カラン。そこにキレートレモンをガムシロップ代わりにゆっくりと注ぎ、トポトポッ、ストローの袋をぺりぺりと空け、差し込んで、クルクル、しゅわっと、混ぜてくれました。

 「疲れた時、飲むんだけど」

 といって、差し出されたレモンティー?のような、何か。ビタミンCとクエン酸が豊富そうです。

 「あ、気持ち悪かったら、やめといて」

 「いただきます」

 ストローに口をつけて、スッと吸い込むと、ちょうどいい具合に冷たい、レモンティーのような味と、割と強めの炭酸を感じました。不思議な味です。レモンスカッシュティー?

 「…どう?味覚やばい?」

 「おいしい」

 「ほんと?まずいって言われたことある」

 「えっと。レモスカティーが?」

 「レモスカティーガ?」

 「レモスカティーが。」(と、指をさして)

 「レモスカティーガ?…ゲーム?」

 あと一週間、望みが繋がったら、彼に話そうと思います。その時はテイクアウトじゃなくて、カオマンガイを自分で作ろうと思います。このような一生に一度の決心をさせてくれたのは、酸っぱくてほんのりと甘いのに、妙に強炭酸な、アイスティーでした。