階段を上ると、暖房の幸せに気付きます。 地下にあるミニシアター(ポレポレ東中野です)の空気は湿っていて、「シネコンとは違うから」とちょっとだけ自慢げな、独特の埃と情熱の匂いがしました。
踊り場で折り返し、ヒールがぐらりとバランスを崩すと。 篤が、すっと手をとってくれました。 冷たく澄んだ外気と、温まる指先。
「ありがとう」は、目を合わせます。
「気にしないで」は、目を逸らします。
無言で歩く、線路沿いの上り坂。 『銀座かねまつ』の7センチヒールは、坂道がつらそうに見えるかもしれません。でも、実は上りなら、ふくらはぎが伸びて歩きやすいのです。下りは地獄ですが。 横には総武線の黄色いライン。夜でも主張の激しいあの色が、今は心地いい。
篤の視線が、ちらちらと周囲を確認しています。 彼が何かを話そうとしている時の癖。 そのまま、坂を半分上り、人の気配が消えた路地裏の静寂。ここは、大事な話をするためのステージです。
「すごかったね」
と、言ってみたら、彼は堪えきれず、噴き出しました。 私も笑いを抑えきれなくなって。 でも、映画の内容を笑ったのではありません。「同じポイントで、同じ違和感を抱いた」という事実が、6文字で伝わったのが嬉しいのです。
「区長さん……普段はあんな」 「ね。密着ドキュメンタリー、やばいね。カメラ回ってるのに」 「選挙の時のポスターと、人格違いすぎでしょ」 「篤は選挙、いった?」 「うん」 「誰に入れたの?」 「……」 「あはははは」
大人なのに、政治の話でからかって喜ぶ。好きです。 「もー」と拗ねて怒った顔をしましたが、実際には、マスクの下で口角が上がりきっていました。 今日の空気は透き通っていて、二人の距離がいつもより、ほんの少しだけ縮まって見えます。
思い切って、聞いてしまおうか。 実は、この映画を選んだのは、見終わった後に「ある宣言」をする為の布石でした。 慎重に。自然に。無印良品のメイクボックスに小物を収納するように、きっちりと。
「もうやだ」 「あはは」 「……引っ越したいな」 「そこまで?」
篤はさらに笑ったけれど、私の目は笑っていません。 こういう時、彼はほんの少しだけ目線を左下に落とし、黙ります。
「どした?」
と、彼はすぐに空気の変化を感じ取ります。 その勘の良さは、嬉しいのですが。
「ううん。篤のとこは?」 「うちの区長? なんか、めっちゃ道路重視してる」 「へー」 「整備進んで、歩道が広くなった。緑化で木も植わって、こんな狭くないよ」
と、歩道を示す彼の指。 確かに、ここ中野区の路地は街路樹もなく、歩道は狭いです。 私が住む杉並区の路地も、反対から人が来たら、身を寄せるか車道に降りなきゃいけません。いつも、これが嫌なんです。 ――って。本題は道路行政の話ではなくて。 言うなら、今しかない。
「いいな。私も、引越そうかな」
言ってしまいました。 言葉にしてみると、想像を遥かに超える重力が発生しました。 「更新の時期がね」とか、「もっと広いキッチンがよくて」とか、自然に言う練習を脳内で100回はしたのに。 本番で突然重たいストレートを投げてしまいました。
「あー」
彼の表情が――曇って。 私の体感温度が、氷点下まで下がります。 つい、謝ってしまいます。
「あ、ごめん」 「ううん」
彼の視線は甲州街道の反対側、セブンイレブンの看板に逃げています。声はフラットで、輪郭がない。 話題を変えなきゃ。でも、つないだ手の指が冷たすぎて、言葉が出てきません。
気まずい沈黙(ま)。
「佳奈、韓国料理好きでしょ。予約した」 「そうなんだ、ありがとう。……あ、寒い」
心が冷えたので、マフラーの中に手を入れました。 これは、「ねぇお引越しの話は?」という意味です。 わかりますか?
「カムジャタン、おいしいらしいよ。いこ」
と、彼は手をつなごうとします。 でも、ここでつないではいけません。本題に答えてくれるまで、仲直りしない。 今日はそういう覚悟をしているのです。 手をポケットに入れたままにすると、彼は「えっ」という顔をして、私の目を見ました。 そして、しばらく慎重に言葉を選びます。
「ご飯食べた後、家行っていい?」 「どうしようかな」 「フライヤー。たくさんもらったから」
と、コートのポケットから出したのは、ミニシアターの上映予定チラシ。 しかも、13枚も。 年上なのに、子犬のような目で見てくる。 しっぽもふりふり。 必死か。 ……まずい、これは、まずいです。かわいすぎて、許してしまいそうです。
「うーん」 「次、どれ見たい? 佳奈なら、これかな」
彼が選んだのは、自然教育を重視する幼稚園のドキュメンタリー。 大正解です。 今時、港区女子が好きな恋愛映画じゃなくて、ミニシアターのドキュメンタリーとか、観劇とかに付き合ってくれる男性なんて、希少種です。 しかも、13枚の中から、これを選ぶセンス。
「子供、好き?」 「うん。こういうとこで育ったら……幸せだろうね」 「来月だね」 「見に行こ」 「いいの?」 「これは、佳奈と見たい」
優しい表情、嬉しそうな声。 自分でも気づかないうちに、機嫌が直っています。チョロい女です。 でも、お店に向かって歩く静かな時間、彼は何度も私の顔を伺っています。 横目で、ちらり、ちらり。 「泊まっていい?」って聞かれてないのに、聞こえてるよ。もう。 もちろん気づいていますが、まっすぐ前を向いて歩きます。
そして、お店の看板が見えてきた時、まるで何でもないように、突然答えます。
「明日、予定ないの?」 「あ、うん。……でも、夜リモートで、ちょい仕事あるけど」 「じゃ、いいよ」 「やった」
彼が破顔しました。
「あ、でもカムジャタン、美容にいいけど。食べる時は不細工だよ」 「え?」 「骨の周りのコラーゲン、こそげとるから。般若みたいな顔になるよ」 「うわ。めっちゃ効きそう」
今日はこれでよしとします。 だって、とても幸せだから。
