六道さんで逢いましょう

【残念。間に合わへんかったわ】
 母からのメールにはその、たった一行だけ。
 菜穂子は溢れる涙を止めることが出来ず、京都に向かう新幹線のデッキで膝から崩れ落ちた――

◇◆◇◆◇

 深町菜穂子は東京で一人暮らしを満喫する大学生だ。

 実家から通える大学に進学して欲しいと両親、特に母が願っていたのは分かっていた。ただある時テレビで見た大学教授の授業をどうしても受けてみたいと、東京の大学への進路を決めたのだ。
 当然、母とは大ゲンカ。今にして思えば事後報告になっていたのも原因ではあったのだろう。父は早々に諦めたのか、母の了解を取ることが上京の条件だと言い、そこで事態は膠着してしまった。
 ただ、見るに見かねたのだろう。そこに祖母が仲裁に入ってくれた。

『あんたの人生や。あんたが後悔せんように決めたらええ。せやけどな、誰にも相談せえへんのは、あかん。話し合いひとつせんと出て行くのは、あかん。お父さんもお母さんも、何の苦労もなしにここまであんたを育ててきたわけやないんやから。きちんとあんたの想いを伝えるところまでが、育ててもろうたあんたの義務や』

 上京を反対する母親に苛立ち、いっそ家出をしてやろうかとまで思っていた菜穂子を、そうやって落ち着かせてくれたのだ。

『納得いくまでケンカしよし。それでもどうしてもあかんかったら、おばあちゃんがお金出してあげるさかい、行きたいところに行ったらええ。遊びに行くんやのうて、教えて欲しい先生がいる言うのは、おばあちゃん気に入った』

 両親と祖父母夫婦はいわゆる「敷地内同居」だった。だから小さな頃から、祖父母ともに可愛がってくれていたように思う。
 菜穂子が進路問題に直面する頃には、既に祖父は他界していたため、この時はもっぱら祖母が菜穂子の「お悩み相談」相手だったのだ。

 気に入ったと、その時祖母が笑ったのには理由があった。
 もともと祖母は結婚前は小学校の教師だったが、寿退社が当たり前の時代だったため、祖父と結婚するにあたっては辞めざるを得なかったらしい。それでも、それまでたくさんの生徒を教えて、中学校へと巣立たせていたんだそうだ。
 だから「教えて欲しい先生がいる」と言った菜穂子の言葉に、我が事の様に口元をほころばせていたのだと思う。

『勉強しに行くって言うてるんやから、ええやないの。私なんかせいぜい「先生、オルガン弾いて」とか「歌うたって」とか言われるくらいやったしなぁ……そんなん言われてみたかったわ』

 音楽は祖母の担当ではなかったらしいが、下手な音楽の先生よりも生徒には喜ばれていた――とは、祖母がその頃の話をする度に自慢していたことだ。

『そろそろ子離れする頃合いと違うか』

 納得するまでケンカをすればいい、と祖母は言っていたけれど、結局は最初から菜穂子の味方をしてくれて、母を押し切ってくれたのだ。

『がんばりや。新幹線代かて、そんな安いもんと違うんやさかい。帰れる時にだけ帰ってきたらええから』

 そう言って、笑って送り出してくれた。
 だから、夏にしか帰っていなかった。

 夏のお盆、ご先祖供養の行事の時にだけ帰る習慣が、二年続いていた。
 それでいいと。
 いつでも笑って出迎えてくれると。

 ――信じて疑っていなかったのだ。

◇◆◇◆◇

 少し前から、祖母は入院していた。
 お見舞いに帰った方がいいかと母に尋ねたら、今はまだ帰らなくていいと言われた。

『八十歳過ぎてるんやさかい、そらどこなと弱ってくるわ。ちょっとしんどならはる都度(たび)に帰ってたら、あんたも色々もたへんやろ』

 大学進学の時にちょっと揉めたとはいえ、母は母だ。娘の懐事情はよく分かっているとばかりにそう言って、病院に携帯電話を持っていっては、面会室で携帯越しに一言二言、祖母と話をさせてくれる――といったことは何度もしてくれた。
 だからなんとなく、京都に帰っているような気になっていた。

『もしもし、菜穂子か。あんた、機嫌ようしてるんか』

 元気か。
 そう言う意味をこめての、祖母の第一声はいつもそれだった。
 先生の授業は面白い。大学で彼氏が出来た。そんなことを聞かれるたびに答えていた。

『そうか、そうか。機嫌ようしてるんやったら、そんでええ』

 そうしていつも、会話を終えていたはずだった。
 それがいつからか、そんな電話の後に母も決まって同じことを言うようになったのだ。

『明日になったら、もう忘れてはるかもしれへんわ。今度話す時にまたおんなじことを聞いたり言わはったりしても、言い返したらあかんえ?』

 優しく相槌を打て、と。
 聞けば小学校で先生をしていた頃の話、結婚前後の話なんかを、何度も何度も母にするようになったらしい。

『あぁ……結婚云々の話は、私も小さいころに聞いたことあるかも』
『おばあちゃん、子守りや()うて夏の縁側で喋りすぎて、あんたが脱水症状になってるの気が付いて無かったからな。そういう意味では、あんたも話の全部は覚えてないやろ』

 多分、幼心に「へえ!」とか「それで、それで?」とか喰い気味に聞いていたのがいけなかったのかもしれない。
 結果として祖母は嬉々として話し続けて――(わたし)は熱中症になっていたのだ。

『戦争でレイテ島から復員したおじいちゃんが、着のみ着のまま、婚約してたおばあちゃんが働いてた小学校に迎えに行ったっていう話は覚えてるわ』

 ちょうど授業は終わっていて、小学生の子供たちはもうみんな下校していた時間だったらしい。
 祖父は校長先生に頼み込んで中に入れてもらい、教室から職員室に戻ろうとしていた祖母と廊下で出くわしたんだそうだ。
 今ならそもそも門の中にさえ入れないだろう。それに、入れたからと言って祖母のいる教室を教えたと言うのも、このご時世ではあり得ない。
 恐らく祖父の格好を見た当時の校長が「お国のため」戦ってきたであろう祖父に敬意を払って、そうしてくれたのだろうと今なら想像出来る。

『どちらさんですやろ?』

 そして夕陽の影で姿が見えず、目を細めてそう誰何(すいか)した祖母に、祖父は答えたらしい。

『俺や』

 ――と。

 まあ、今なら多くの女子が眉を顰めそうな態度と口調だが、終戦直後の時代には、それも許されたんだろう。

『俺や、言われましても……ああ、保護者の方ですか? 生徒さんは今日はもうみんな帰ら――』
『……っ! そやから! 俺や、()うてるやろ!』

 そんなやりとりが、当時あったらしい。それは、菜穂子の記憶にもある祖母の話だ。

 (いや、おじいちゃんツンデレやん!)

 と、成長してその話を思い出した時には、心の中で思わず叫んだくらいだ。菜緒子の記憶にある祖父は、あまり口数の多い方ではなかったからだ。
 定年まで区役所勤務、定年後も区役所の嘱託で宿直をしていたくらいに、生真面目を絵に描いたような人だった。
 祖母の話に脚色があるのかないのかは不明だ。母曰く、生前の祖父はその話が出始めたら、そっぽを向いてテレビのボリュームを上げて話をぶっちぎっていたらしいからだ。

本当(ほんま)のこと()うたら、もうちょっと先生してたかったんやけどなぁ』

 そんな祖母の苦笑いも、祖父は多分テレビの音で聞いていなかっただろう、と。
 まあだけど、復員してそのまま祖母に会いに行って、あっという間に結婚したのだから、そこに重めの愛があったことは間違いない。

『なんやかんや言うて、おばあちゃんも嬉しかったんやろうと思うわ。いまだに病院に行く都度(たんび)に何回もその話をするんやさかい』 

 赤紙招集されて、日本ではない遥か海の向こうに行かされて、帰ってこない可能性もあった婚約者。
 年月を経て、たくさんの記憶がこぼれ落ちてしまっても、陽の沈む放課後に、自分のところに戻って来てくれた祖父の姿は、いまだに祖母の脳裏に焼き付いているのだろう。

『まだ、あんたやお母さんのことを覚えてはるだけでも有難いと思っておかなあかんのやろうな』

 電話の向こうの母に、返す言葉を菜穂子は持たなかった。
 そしてその日が、祖母の「機嫌ようしてるんやったら、そんでええ」という言葉を聞いた、最後の日になったのだ。

 ――その数日後には「おばあちゃん、もうあかんかも知れん」という母からの電話に、早朝叩き起こされることになったのだから。

◇◆◇◆◇

 菜穂子の住んでいるところからは、始発の新幹線には間に合わなかった。
 それでも可能な限り早く東京駅に向かった。

 新幹線に乗る少し前、母から【耳元に受話器をあててあげるさかい、待っててくれって言うか?】と、メールが届いた。
 返事は期待するな、ともそこには続けられていた。
 けれど菜穂子に、それを拒む理由はなかった。

『おばあちゃん! 菜穂子! 今から京都行くから、新幹線乗るから、待ってて! 話することいっぱいあるから!』

 受話器の向こうからは『お孫さん来はるまで、頑張らなあきませんなぁ?』と、声をかけているらしい看護婦さんの声が聞こえた。
 新幹線が京都に着いたら、すぐにまた連絡すると、そう言っていったん通話を終了させた。
 たかが二時間とちょっとの距離だと思っていた。 それがこんなに遠いものなのだと、初めてこの時菜穂子は思った。

【残念。間に合わへんかったわ】

 ――デッキから見えた富士山の景色を、メールの内容と共に菜穂子は一生忘れないだろう。

◇◆◇◆◇

『……まあ、菜穂子はおばあちゃん子やったさかいな』

 葬儀社の人がバタバタと動く中、茫然と座っていた菜穂子の耳に、そんな母の呟きが聞こえる。
 淡々としているようで、よく見れば母の目も赤い。
 お通夜とお葬式が終わるまでは、周囲の手前、菜穂子のようには泣いていられないのかもしれない。

 菜穂子は手にしていたハンカチに、こぼれ落ちていた涙を全て吸わせると、お通夜に顔を出して下さるだろう人たちを迎えるために、祭壇の傍に用意された椅子に腰を下ろした。

 曾祖父の頃までは、近所のどの家も自宅でお通夜、葬儀と執り行って、町内の人たちも代わる代わる顔を出してくれるような、そんなスタイルだったそうだが、今のご時世ほとんどが病院から葬儀場に直接運ばれて、そこで諸々の手続きをするんだそうだ。
 自宅だと、お通夜やお葬式の時間にかかわらず、入れ替わり立ち替わり近所の人がやって来る可能性もあるため、その仕組みは、実は遺族にとっても助かっている面が大きいらしい。

『おばあちゃん、おじいちゃんのお葬式の頃から「自分の時は家族だけでこじんまりとやってくれたらええ」って言うてはったんやけどな』

 遺影を見ながらポツリと、母がそんなことを隣で呟いた。
 菜穂子に話しかけているがゆえの祖母、祖父という意味なんだろうと、ぼんやり思う。

『なんやかんや言いながら、近所の人がおじいちゃんのお見送りに来てくれはった時に、嬉しそうにしてはったんやわ。そやからやっぱり、家族だけ言うのも寂しいかなと、お父さんと話しててん』
『……そうなんや』

 別に祖父が偏屈だったとかは思わないのだが、家族や親類以外の人が来てくれるということは、それだけ周囲に認められていたという(あかし)にも思えて嬉しかったのかも知れない。

『おばあちゃん、昔先生やったんなら、教え子とかいっぱい来はるんと違う?』
『今日はそこまで連絡回らへんやろうな。実際のところ、亡くなってる人も多いやろうし。町内会経由でちらほら来てくれはったらいい方やと思うわ。明日のお葬式は、もうちょっと来はるかも知れんけど……』

 そうか。
 小学校とは言え、祖母が教師をしていたのは終戦の前後。教え子たちもそこそこ高齢だろうし、確かに大勢が押しかけるとまではいかないのかも知れない。

『二人とも、お上人(しょうにん)さん来はったから』

 ふうん、と頷いていると、葬儀社の人に呼ばれていた父が、そう言ってこちらへと戻って来た。

 最近まで分かっていなかったのだが、深町家は「南無妙法蓮華経」を唱える日蓮宗のお寺の檀家であり、その日蓮宗では「お坊さん」や「住職さん」と言った言い方はせずに「お上人(しょうにん)さん」と呼ぶらしいとのことで、私と母も、そのお上人(しょうにん)さんに挨拶をするために立ち上がった。

 法要は故人を偲ぶ場。
 故人を供養すると言う点では、宗派が違ってもそこに大きな違いはないらしい。
 初七日、四十九日、百か日と法要が執り行われるのも同じ。更に最近では、遠方だったり仕事だったりで集まりづらい親族の事情も鑑み、お通夜の際に初七日の繰り上げ法要を行ったり、四十九日と百か日を取りまとめて法要を行ったりと、時代に合わせて法要のあり方も変化しつつあるのだと、お上人(しょうにん)さんは教えてくれた。
 父にも仕事がある。
 母と相談の結果、深町家としてもこの場で繰り上げ法要にしようとの話になった。
 だからと言って、決して薄情だとか、浄土へと向かうのに差し障りがあるとか、そういうことでもないんだそうだ。

『ご遺族が亡くなられた方のために供養する。それによって積まれた「徳」が、四十九日に死後の行先を決める際の指標になると、日蓮宗(われわれ)は考えているんです』

 そう言ったお上人(しょうにん)さんは、使い込まれた小さな本を家族それぞれに手渡した。
 全部ではないが、その中の何ページかを、法要の合間にお上人(しょうにん)さんと共に読み上げるためらしい。

『これを読み上げてもらう以外の時は、手を合わせながら心の中で「南無妙法蓮華経」と唱えてもろたらよろしい。最終的に浄土に行けたかどうかと言うのは、現世(こちら)からは確かめようもないんですけど、自分達の気持ちが「徳」となって、大事な人をあの世へと送り出した――そう信じて区切りをつけるのが、四十九日やと日蓮宗(われわれ)は考えてますから』

 こうすれば、魂があの世へ行ける――などと断定されるよりも、それはよほど菜緒子の中でもストンと納得がいったのだが、母はどうやら少し思うところがあったようだ。

菜穂子(あんた)のおじいちゃんの時にも思ったけど、祈っても祈っても、法要済んでも、あの世に行けたかどうか断言でけへんって言うのはなぁ……』
『お母さん……実際、あの世に行けたかどうかなんて、うちらが生きてるうちには誰にも分からへんやん。あの世に行ったと信じましょう、って言うてはるんやろ? 別に間違ってないと思うけど』
『それは、そうなんやけど……』

 祖父と、今回の祖母の法要しか記憶にない菜穂子とは違い、母の場合は自身の実家の宗派が違ったらしいから、その辺りにも違和感の原因はあるのかもしれない。

『今のご時世、何回忌まで法要をやらはるかは各家の判断になってますけどな。要は明確な決まりはないんですわ』

 三十三回忌とか五十回忌とか確かに聞くが、直接故人を知る人が皆亡くなってしまえば、故人は「先祖の一人」となって、お盆に祀られるのが一般的になるようだ。

『まあ、なかなかそれすらままならへんご家庭も増えてきましたさかいにな。時代言うのは難しいもんですな』

 お上人(しょうにん)さんはそう言って、ほろ苦い笑みを垣間見せたのだった。

『ほんなら、お経あげさせてもらいましょか』

 祖母を知る人たちが手を合わせに来てくれるであろうその前に、菜穂子らは、家族だけで先に手を合わせた。
 お通夜とは、また別だ。
 元々お上人(しょうにん)さんは、檀家としての深町家、すなわち祖父とも祖母とも昔からの顔見知りだった。

志緒(しお)さん、毅市(きいち)さんに会えてはったらよろしいんですけどなぁ……』

 だからきっとその呟きは、日蓮宗の上人(しょうにん)としてではなく、祖父と祖母を知る一個人としての呟きなんじゃないかと、聞かずとも菜穂子は思ったのだった。

◇◆◇◆◇

 結局、お通夜には近所の人たちが主に手を合わせに来ていて、お葬式に来ていたのは京都以外のところに住む関西圏の親戚や、それこそ祖母の教え子と名乗る人たちだったようだ。
 関西圏の親戚ですらうろ覚えの状態だった菜穂子は、父やら母やらから、都度説明を受けないことには誰が誰だか分からなかったのだが。

 もっとも、祖母の教え子となるとさすがに両親も、相手から言われて「なるほど」となっていたようだ。
 高辻先生、高辻先生と、こぞって彼らが口にしたことで、菜穂子は実は今日初めて祖母の旧姓を知った。
 小学校の先生だった、という記憶が残るばかりで、それが旧姓か深町姓かなんて、いちいち聞く必要もタイミングもなかったのだ。

 そしてその教え子たちは、皆が同い年というわけではなかったものの、まるで示し合わせたかのように「高辻先生との思い出は、音楽室でオルガンを弾いて童謡を歌ってくれたこと」だと、祖母との思い出を語った。
 音楽の担当教師は別にいたらしいのだが、その先生が体調不良や身内の不幸などで休みをとった時の代理で、何度か臨時の授業を受け持っていたらしかった。
 透き通ったキレイな声で「チューリップ」を歌っていたと言っていた人もいた。

『あんたかて、小さい頃おばあちゃんに「チューリップ」弾いて歌ってもろてたわ。覚えてへんのかもしれんけど』
『ああ……言われてみたら確かに……』

(そういえば、おばあちゃん()にオルガン置いてあったな……)

 敷地内同居の祖父母宅に、外側が木で出来た骨董品のようなオルガンがあったのは確かだ。

 いつだったかと聞かれるとちょっと困ってしまうが、調律なんてしたこともないだろうくぐもった音にも関わらず、嬉しそうにオルガンを弾いて「咲いた 咲いた」と歌っていた祖母の姿は、確かに菜穂子の記憶の奥底にあった。

『固そうな鍵盤やなぁ、って(おも)たのはなんとなく覚えてるわ。オルガンの音より鍵盤叩く音の方が大きかったんと違うかな』
『まあ、大袈裟(たいそう)やなとは言いきれへんな』

 お互いに古びたオルガンを脳裏に思い浮かべて、母とどちらからともなく苦笑いを浮かべる。

『あのオルガン、どうするん』

 遺品整理だってする必要はあるだろう。
 そんな意味もこめて聞く菜穂子に、母はゆるゆると首を横に振った。

『お母さんもそうやけど、お父さんかてまだ気持ちの整理がつかへんやろうしな。しばらくは今のままにしておくわ。それにオルガンは、なんぼなんでもお焚き上げは無理やろ』

 棺には入れられなかったものの、故人を偲んで生前大切にしていた物をお寺で供養として焚き上げてもらうことも出来るようだが、母の言う通り、オルガンはさすがに無理だろうなと菜穂子でも分かる。
 かといって、粗大ゴミに出してしまえるのかと問われれば、微かな思い出が残る菜穂子でも、すぐには頷けない。

『ある程度の年忌供養のところで、また考えるわ。今は無理やわ』

 そう言った母の言葉に、反対する理由は菜穂子にもなかった。
 帰宅後確かめたところ、まだ微かに音も出る状態だったため、尚更家族の誰も「処分しよう」とは言いだせなかったのだった。