王女殿下は下級官吏を婚約者に選ぶ

「な、なに? どうかした?」
「いえ。エリンでの視察から戻られてから、随分とそれがお気に召したようだなと」
「あぁ、このヘアピン? そ、そうね。屋台の的当てで当てたのよ。その景品なの」
「セオネードさまが?」
「まさか! 私じゃないって」
「……。では、カラムさまと的当てをなされたのですか?」
「あー……。その、もらったっていうか……」

 言葉に詰まる私に、アンバーの灰色の目が眼鏡の奥で小さく瞬く。

「そういえば、着ていたご衣装が替わっていましたね。それと何か関係が?」
「ないって!」

 彼女の目が、うっすらとした半開きになった。
それは必ず私を疑っている時の目だ。

「そういえば、殿下のご婚約者さまから、今朝連絡がありましたよ」
「え! いつ!」
「だから、今朝です」

 壁にかけられた時計を見上げる。
時刻はもう正午になろうとしていた。

「なんでもっと早く教えてくれなかったの!」
「エドさまから、急ぎではないと申し使っておりましたので」
「……。そう……」

 なんだ。
急ぎじゃないのか。
私はずっと待っていたのに。
エドの方から来てくれることを。
だって私の方から近づいたら、それは全部命令になってしまう。
エドには、私に命じられて来るのではなく、彼自身の意志で来てほしいと願っている。
なのに急ぎじゃないと言われたら、私にはもう身動きがとれない。
アンバーは半目のまま、何の抑揚も無く続ける。

「なんでも、濡れた服をお返ししたいとのことでしたが、私が預かりますと言っても、今日は持参していないので、日を改めてと。それを伝言するようにだけお願いされたのですが」
「いつ!」
「だから今朝ですって」

 また時計を見上げる。
もうすぐ正午になるというのなら、お昼ぐらい一緒に出来るかもしれない!

「そういえば、西の庭園で城壁の補修工事が予定されてたわよね」
「はぁ? そんな申請ありましたっけ」
「ちょっと様子を見てくる!」
「殿下。エドさまなら、お昼は土木課の方にはいらっしゃらないですよ」
「え?」

 駆け出そうとした私を、アンバーは平坦な口調のまま呼び止めた。

「お城の、そよ風の間から見える庭があるじゃないですか。その庭を囲む西側の城壁の上で、いつもお昼を食べるようにしているっておっしゃってましたよ」
「……。なんでそんなこと知ってるのよ」
「偶然。先ほどお会いした時に、そうお聞きしただけです」
「ま、城壁工事も大切な保全工事だから」
「そうですね」
「ちょっと出掛けてきます」

 アンバーの半開きになった目にじっと見つめられながら、絨毯の上をゆっくりと歩く。
慎重に扉までたどり着くと、私はアンバーを振り返りにっこりと笑みを浮かべる。

「すぐに戻りますから」
「……。えぇ。どうぞごじゆ……」

 ドアから抜け出したとたん、私は走り出した。
城壁の上でお昼? 
全く、なんでエドはそんな面倒なところでとも思ったけど、すぐに思い返した。
その場所は、エドの身分で自由に出入り出来る区間でありながら、私が普段いる執務室がよく見える位置だ。
もしそれが偶然ではなく、彼がちゃんとそこを選んでいるとしたら……。
スカートの裾をもちあげ、気づけば全力疾走していた。
回廊を抜け階段を駆け上がり、開け放された門から飛び出す。

「エド!」

 本当にいた! 
城の塔から伸びる少しカーブした城壁の上、柱に支えられ続く回廊の屋根がちょうど途切れるところに、彼は腰掛け持参したパンをかじろうとしていた。

「セオネードさま?」

 駆け寄る私に、彼は段差から飛び降りた。
そのままエリン港でのように、彼に飛びつきたいのを懸命にこらえる。
エドの髪はもう長くはなく、メイド服でもなくて、城で働く下級官吏の制服を着ていた。

「あ……。えっと、よくここが分かりましたね」
「アンバーに聞いたの」
「あ……。そうですよね、よかった……」

 肩で息をする呼吸を整える。
せっかく走って来たのに、エドはうつむいたまま目を合わそうともしない。

「いつも、ここでご飯を食べてるの?」
「はい。気分転換したいときに。ここはちょうど、死角になってる場所なんですよ」

 彼は城内への採光のために壁の設置されていない空間と、ゆっくりとした城壁のカーブを指さした。

「あそこに兵が配置されていますが、上の階を支えるための柱が並んでいるでしょう? そこを直線で結ぶと、この柱の辺りが唯一見えない場所になるんです」

 建築士の資格を持つ彼が、ようやく私に微笑んだ。

「ですから、殿下がもし刺客に襲われるようなことがあったら、真っ先にここをお探しください」
「ここからなら、私のいる執務室が見えると思ったの」
「あぁ……。それもそうですね……。そこは、考えたことなかったです……」

 なんだ。
違ったのか。
私の方が、彼のことを考え過ぎてるだけだった。

「セオネードさま。こちらへ」

 彼が手招きするのに合わせ、壁に埋め込まれた柱の奥へ入り込む。
そこに体をすっぽり埋めると、二人で隠れるのにちょうどいい場所になった。

「はは。こんなところを見つかったら、叱られますね」
「誰に?」

 私がそう尋ねると、エドは返答に困ったように顔を背けた。

「誰にでしょ……。誰かな……。誰だろ……」

 彼は自分の食べていたパンを半分にちぎると、かじっていない方を私に差し出した。

「あ、よかったら食べます?」
「いいの?」
「こんなものでよければ」

 狭い空間に二人で入り込んでいるから、体の側面がくっつき合っている。
エドから渡されたのは、シンプルな丸パンにハムとチーズを挟んだものだった。

「美味しい」
「よかった」

 ようやくエドにはにかんだ笑顔が戻る。
こんなに近くにいるのに会話が見つからなくて、久しぶりに会えたのに、私たちはただパンを食べている。

「殿下のおられる執務室って、ここから見えるんですか?」
「うん。ちょっと遠いけど。見えるよ」
「どこです?」

 エドと二人柱の奥から這い出して、指を差す。

「あ、ホントだ」
「ね?」

 すぐに引っ込んだエドの隣に、私も並んだ。

「覚えとくね」
「知らなかったの?」
「そういう機密事項は、その……俺たちみたいな、下級官吏のところまで回ってこないから。そこにある部屋が、何に使われてるかは知らない」
「そっか」
「だけどもう分かったから、今度からそっちを見ながら食べるようにする」
「私も、この場所を気にするようにするね」

 そう言うと、エドは少し体を浮かして動かした。
ピタリとくっついていた体が少し離れる。

「てか、こんなところに来てていいの?」
「エドは、来てほしかったんじゃないの?」

 彼はそれには答えず、左手でポリポリと自分の鼻を掻いた。
下ろした手が、私の手の上に重なる。
エドはそこから手をイチミリも動かさなかったし、私も退かそうとはしなかった。

「服を……、引き取ってきた。あの時、セオネードさまが着ていた服」
「メイドの?」
「そう」

 彼の指がゆっくりと恐る恐る、探るように動き始める。
私の手の形を確かめると、指の一本一本をなぞる。
いつまでもそうしているその手を、私は握り返した。

「あ、着替えた後のやつじゃなくて、その前に着てたやつね。お城の。あれ、返しといた方がいいとか、ないの?」
「どっちでもいいよ」
「どっちでもって……。だから、どっちだよ」

 彼の手が、私の手を握り返す。
その指先は私の人差し指の爪の縁をずっとなぞっている。
私も彼の手の形を確かめたいのに、どれだけそうしようとしても、させてくれない。

「だから、どっちでもいいって」

 彼の手が逃げる私の指を捕らえ、しっかりと握り締めた。

「もしかして、エドが着たいの?」
「ちげーよ」
「すっごく可愛かったのに。また見たい!」
「はぁ? 勘弁してくれ」

 私は彼の手を持ち上げると、その甲にキスをしてから、自分の頬に寄せた。

「またエリンに行きたい」
「エリンじゃなくても、どこでも」
「ほんと?」
「殿下の望むところなら、どこへでも」

 今度はその手を、エドが自分の元へ引き寄せる。
彼の唇が手の甲に触れた。

「あ、パン屑……」

 エドのもう片方の手が私の口元に伸びる。
彼がそれを自分の口に運ぶのを見て、とてもうらやましく思ってしまった。
彼の潤んだ黒い目が、私の口元を見つめている。

「ねぇ、エド……」

 絡まったままの指先が、ぎゅっと締め付けられる。
彼の顔が近づいてくるから、私は目を閉じた。
アンバーの声が聞こえる。

「セオネードさま! 殿下!」

 彼女の連れた兵士たちの、鎧が擦れる金属音が城壁に響いた。
エドの熱が私の手から離れる。
彼は立ち上がると、遠くを霞む目で見るように私を見下ろし、立ち上がらせるための手を伸ばす。

「お迎えの時間です」

 私は言われるがまま、彼の手を取る。
立ち上がった瞬間、繋いだ手が離された。
エドは私を探しに来たアンバーに向かって手を振る。

「アンバー殿、ここです!」
「セオネードさま!」

 エドの陰からおずおずと姿を見せると、アンバーの顔が一瞬だけ曇ったような気がした。
それでもすぐに表情を戻し、私たちの前に駆け寄る。

「お二人でお会いになるのなら、何もこんなところで、こそこそとなさらなくてもよかったのに」
「こそこそって?」

 私の問いかけに、アンバーは真顔で答えた。

「正式に面会時間を設けます。お部屋も別に用意しましょう。誰が見ているか分からないところでおかしな噂を流されるくらいなら、きちんと認められるような交際をなさらないと」
「交際って……」
「お二人は、真剣交際をなさるのではないのですか?」
「やだ。なんかそんな言い方、恥ずかし……。ねぇ、エド?」

 彼の脇腹をツンと突くと、彼は棒立ちになっていた体をビクリと大げさなほど振るわせた。

「え? え?」
「だって、アンバーが真剣交際とかいうから……。ちゃんと聞いてた?」

 エドの顔が、激しく燃え上がる。

「あ! あはははは! そんなことないですよねぇ!」
「うふふ。そうよねぇ。そんな大げさな……」
「あはははは。困ったなぁ! アンバーさまったら、そんなこと!」
「えへへ」

 エドったら、真っ赤を通り超して耳まで赤黒くなっている。

「すみません……。俺、もう戻りますね……」

 エドは私の隣から離れると、よろよろと壁沿いにふらつきながら、自分の職場に戻ってゆく。

「じゃあね! またね、エド!」

 彼は柱に手をつき立ち止まると、背を向けたまま小さく手を振った。
そんな姿すら、愛おしく感じる。
なにこれ。
こんな気持ち、全然知らない。
執務室に戻る足まで、軽やかに飛び跳ねる。
重要書類に走らせるペン先まで、踊っているようだった。

「どうしよう、アンバー! すっごく楽しい!」
「何がですか?」
「仕事!」
「……。なら、よかったです」

 エリン港視察のために元々着ていた服は、すぐにエドからアンバーに届けられた。
私はそれを自分の服として、衣装部屋に保管しておくよう頼んでおく。
エドから添えられていた簡単な手紙にすら、胸の奥から今まで感じたことのない波が押し寄せた。

 早くエドに会いたい。
次に会えるのはいつ? 
あれこれ仕事をやりくりして時間を作ろうとはするものの、こちらが片付けばまたこちらというように、やって来る仕事に終わりは見えない。
なかなか会う時間の取れないまま、ただ毎日がすぎてゆく。
彼のことを思わない日はないけれど、アンバーに言われた正式な面会時間を取れるような状態にまでは、なかなか至らなかった。
どうしようも出来ないまま、一番気にかけていた父王の状態が、いよいよ芳しくないという報告を受ける。

「陛下がまだお元気なうちに、ささやかなお茶会を開いてはいかがでしょう」

 宰相からの提案を受け、私もそれに承諾した。

「そうね。お別れを言いたい人もいるだろうし、この先の体調を考えると、早めに一度はやってあげたいかも」

 本当に親しい身内だけを集めた、あまり規模の大きくないものをひっそりと。
父王を診ている医師団とも相談し、私はお茶会の日程と規模を決定した。