その日はまだ朝日の昇りきらないうちから、目立たない馬車でひっそりと城を出る。
薄暗い城内で留守を預けるアンバーの見送りを受け、私は王都から最も近い港町であるエリンへ向かった。
視察の目的は、町の様子と市民の生活実態を知ること。
エリンは王都から一番近い港町とあって、観光の名所にもなっている。
見渡す限りの海面と、切り立った白い断崖の上に家々が立ち並ぶ風景は、よく絵画にも描かれるだけあって十分な見応えがあった。
私は朝の漁港に買い出しに来たメイドの姿に扮し、側には小姓としてカラムが付き添っている。
朝の数時間だけ開かれる小さな魚市場で、賑わう人混みを見て回った。
狭い通りに小さな露店がびっしりと立ち並び、どこも活気づいている。
月に一度の市場が立つ日は、港全体がお祭りのような騒ぎだ。
「あら、美味しそうなお魚ね。これはどこで獲れた魚なの?」
「今朝一番に、エリン港の沖で網にかかったタタイだよ。この時期が一番美味い魚さぁ!」
分かる!
私もタタイの皮をこんがり焼いて、スープであっさりと味付けした料理が大好き!
何匹か買って帰って、今日の夕飯にでも……。
「ねぇ、ワビ貝のいいの入ってる?」
思わぬところから聞こえた声に、そちらを振り返る。
エドだ!
何でこんな所に?
「ワビ貝はうちじゃ扱ってないねぇ」
「まだ揚がらない?」
「もうそろそろなんだけどねぇ。この通りのどっかの店には置いてあるかもね」
「ありがとう。他も見てみるよ」
私はかぶっていたメイドキャップを深くかぶり直す。
店の陽気なおじさんと話し終えたエドは、ふらりとそこを離れた。
彼は王宮で見る官吏の制服ではなく、随分ラフな格好をしている。
お忍び……というか、きっとこれが上級とは言えない彼の家柄の、一般的な地方出身貴族の様子なのだろう。
それにしたって、お供もつけずに?
本当に一人で?
彼の周囲に他の人がいないか見渡したけど、一緒に来ているような人は誰も見当たらなかった。
彼に気づいたカラムが、私を見下ろす。
「おや。こんなところでお約束があったのですか? それならそうと、初めからおっしゃってくださればよかったのに」
「いいえ、本当に偶然よ」
それともアンバーに聞いて、私に会いに来てくれた?
「ごめんなさい、カラム。少しだけ二人にしてもらってもいいかしら」
「かしこまりました」
カラムは真面目ぶったすました顔でそう言うと、人混みの中に姿を消した。
私はエドに見つからないよう、こっそりと後をついていく。
いつ私に気づくかと思っているのに、彼は市場を見て回るのに夢中で全く気づく様子もない。
「ワビ貝ある?」
「まだ少し早いね、旦那。来月の市には出てるだろうけどね」
「そうか……」
「早いところなら、少しくらいならあるかもなぁ」
「置いている店は知らないか?」
「いや。すまねぇな」
「いや、いいんだ。ありがとう」
ワビ貝を探しているの?
どうして?
好きなのかな。
確かに獲れるにはまだ少し時期が早いような気がするけど、一人で買いに来るほど好きだったの?
私が彼と恋人同士なのは、契約したからであって、その内容は私生活にまで干渉するものではなかった。
だから私は、彼の好きな食べ物すら知らない。
休みの日はどこで何をしているかも、どう過ごしているのかも知らない。
だけどそもそも、結婚を急かす口うるさい大臣たちの目を逸らすために用意した期間限定の恋人なんだから、私たちは互いにそんなことを知る必要もない。
もしかしたら、彼は私のことは、少しくらい興味があって、知っているのかも。
だけど、それを「知ってる?」って、私が聞くの?
彼にとってこの婚約は、宮廷官吏としての数ある仕事のうちの一つ。
頼んだ仕事をキチンとこなしてくれていれば、それ以上のことを求めてはいけない。
だからこれ以上、踏み込んではいけない。
エドは私ではないものを探して、人混みの中を彷徨っている。
彼の中に今はきっと、私のことなんて何もない。
こちらから話しかけられないのなら、もう帰ろう。
次に彼と会うのは、「婚約者」が必要な時だけでいい。
「セオネードさま?」
引き返そうとした私を、その声が呼び止めた。
エドが人混みをかき分け、こちらに近づいてくる。
「え? セオネードさま? 本当に? うわ、本物じゃないですか。なぜこんなところに?」
エドがマジマジと私を見つめる。
彼に見つかったとたん、城内にいる時のような華やかなドレスではなく、町娘の格好をしていることに急に恥ずかしくなった。
「べ、別に。たまたまここへ来る予定があっただけで……」
質素なスカートの裾を握り締める。
なんでこんなタイミングで、ばったり会っちゃったりするんだろう。
最悪。
さっきまで気づいて欲しくて、振り向いて欲しくてたまらなかったのに、気づかれたとたん彼の前にいる自分がとても小さく惨めに感じた。
「たまたまって、お一人ですか? 供もつけずに?」
「そ、そういうエドはどうなのよ、一人で市に来たっていうの? お供もつけずに?」
「わ、私は、セオネードさまとは違いますから」
「違うってなによ。何も違わないわ」
「あぁ。まぁ、それはそうなんですけどね……」
なんだろう。
なんだかだんだん、腹が立ってきた。
「まさか、はぐれたんですか?」
「はぐれたのは、エドの方ではなくて?」
私の肩に、すれ違う通行人の肩がぶつかった。
人の波に流されぬよう、エドの手が私の腕を抱き寄せる。
「俺は普段から、いつも一人でうろうろしてますから」
エドは周囲に気を配りながらも、呆れたようなため息をつく。
「全く。なにやってんですか。護衛のところまで送って行きますから、合流地点を教えてください」
「今は仕事中よ。こういう仕事もあるの」
「あー。ですが、いくらお忍びだと言っても、さすがに一人はないでしょう。誰と一緒だったんですか? はぐれてしまったのなら、正直にそうおっしゃってくだされば……」
「言いたくありません」
「は?」
「合流地点なんて、ないです。そもそも私はいま仕事中ですから。もう行きます。さようなら」
「ちょ、お待ちください。私が途中までお送りします。さすがにこのままというわけにはいきません」
「いいえ、結構です」
「ですが……」
エドが呆れている。
違うの。
私は会えて嬉しかったの。
それなのにエドは、すぐに帰れっていうの?
もしかして、本当に邪魔だった?
「……。理由を言いたくないのなら、それでも結構ですよ。もうその件に関しては、追求しません」
エドの腕が私の腰に回る。
混雑する人々の流れから私を守るように、彼は歩き始めた。
しっかりと私を引き寄せ、ついでに眉間にまでシワを寄せている。
「私が送ります。参りましょう」
帰りたくないな。
せっかく会えたのに。
もう少し一緒にいちゃダメ?
今は契約事項外だから、フリも出来ない?
薄暗い城内で留守を預けるアンバーの見送りを受け、私は王都から最も近い港町であるエリンへ向かった。
視察の目的は、町の様子と市民の生活実態を知ること。
エリンは王都から一番近い港町とあって、観光の名所にもなっている。
見渡す限りの海面と、切り立った白い断崖の上に家々が立ち並ぶ風景は、よく絵画にも描かれるだけあって十分な見応えがあった。
私は朝の漁港に買い出しに来たメイドの姿に扮し、側には小姓としてカラムが付き添っている。
朝の数時間だけ開かれる小さな魚市場で、賑わう人混みを見て回った。
狭い通りに小さな露店がびっしりと立ち並び、どこも活気づいている。
月に一度の市場が立つ日は、港全体がお祭りのような騒ぎだ。
「あら、美味しそうなお魚ね。これはどこで獲れた魚なの?」
「今朝一番に、エリン港の沖で網にかかったタタイだよ。この時期が一番美味い魚さぁ!」
分かる!
私もタタイの皮をこんがり焼いて、スープであっさりと味付けした料理が大好き!
何匹か買って帰って、今日の夕飯にでも……。
「ねぇ、ワビ貝のいいの入ってる?」
思わぬところから聞こえた声に、そちらを振り返る。
エドだ!
何でこんな所に?
「ワビ貝はうちじゃ扱ってないねぇ」
「まだ揚がらない?」
「もうそろそろなんだけどねぇ。この通りのどっかの店には置いてあるかもね」
「ありがとう。他も見てみるよ」
私はかぶっていたメイドキャップを深くかぶり直す。
店の陽気なおじさんと話し終えたエドは、ふらりとそこを離れた。
彼は王宮で見る官吏の制服ではなく、随分ラフな格好をしている。
お忍び……というか、きっとこれが上級とは言えない彼の家柄の、一般的な地方出身貴族の様子なのだろう。
それにしたって、お供もつけずに?
本当に一人で?
彼の周囲に他の人がいないか見渡したけど、一緒に来ているような人は誰も見当たらなかった。
彼に気づいたカラムが、私を見下ろす。
「おや。こんなところでお約束があったのですか? それならそうと、初めからおっしゃってくださればよかったのに」
「いいえ、本当に偶然よ」
それともアンバーに聞いて、私に会いに来てくれた?
「ごめんなさい、カラム。少しだけ二人にしてもらってもいいかしら」
「かしこまりました」
カラムは真面目ぶったすました顔でそう言うと、人混みの中に姿を消した。
私はエドに見つからないよう、こっそりと後をついていく。
いつ私に気づくかと思っているのに、彼は市場を見て回るのに夢中で全く気づく様子もない。
「ワビ貝ある?」
「まだ少し早いね、旦那。来月の市には出てるだろうけどね」
「そうか……」
「早いところなら、少しくらいならあるかもなぁ」
「置いている店は知らないか?」
「いや。すまねぇな」
「いや、いいんだ。ありがとう」
ワビ貝を探しているの?
どうして?
好きなのかな。
確かに獲れるにはまだ少し時期が早いような気がするけど、一人で買いに来るほど好きだったの?
私が彼と恋人同士なのは、契約したからであって、その内容は私生活にまで干渉するものではなかった。
だから私は、彼の好きな食べ物すら知らない。
休みの日はどこで何をしているかも、どう過ごしているのかも知らない。
だけどそもそも、結婚を急かす口うるさい大臣たちの目を逸らすために用意した期間限定の恋人なんだから、私たちは互いにそんなことを知る必要もない。
もしかしたら、彼は私のことは、少しくらい興味があって、知っているのかも。
だけど、それを「知ってる?」って、私が聞くの?
彼にとってこの婚約は、宮廷官吏としての数ある仕事のうちの一つ。
頼んだ仕事をキチンとこなしてくれていれば、それ以上のことを求めてはいけない。
だからこれ以上、踏み込んではいけない。
エドは私ではないものを探して、人混みの中を彷徨っている。
彼の中に今はきっと、私のことなんて何もない。
こちらから話しかけられないのなら、もう帰ろう。
次に彼と会うのは、「婚約者」が必要な時だけでいい。
「セオネードさま?」
引き返そうとした私を、その声が呼び止めた。
エドが人混みをかき分け、こちらに近づいてくる。
「え? セオネードさま? 本当に? うわ、本物じゃないですか。なぜこんなところに?」
エドがマジマジと私を見つめる。
彼に見つかったとたん、城内にいる時のような華やかなドレスではなく、町娘の格好をしていることに急に恥ずかしくなった。
「べ、別に。たまたまここへ来る予定があっただけで……」
質素なスカートの裾を握り締める。
なんでこんなタイミングで、ばったり会っちゃったりするんだろう。
最悪。
さっきまで気づいて欲しくて、振り向いて欲しくてたまらなかったのに、気づかれたとたん彼の前にいる自分がとても小さく惨めに感じた。
「たまたまって、お一人ですか? 供もつけずに?」
「そ、そういうエドはどうなのよ、一人で市に来たっていうの? お供もつけずに?」
「わ、私は、セオネードさまとは違いますから」
「違うってなによ。何も違わないわ」
「あぁ。まぁ、それはそうなんですけどね……」
なんだろう。
なんだかだんだん、腹が立ってきた。
「まさか、はぐれたんですか?」
「はぐれたのは、エドの方ではなくて?」
私の肩に、すれ違う通行人の肩がぶつかった。
人の波に流されぬよう、エドの手が私の腕を抱き寄せる。
「俺は普段から、いつも一人でうろうろしてますから」
エドは周囲に気を配りながらも、呆れたようなため息をつく。
「全く。なにやってんですか。護衛のところまで送って行きますから、合流地点を教えてください」
「今は仕事中よ。こういう仕事もあるの」
「あー。ですが、いくらお忍びだと言っても、さすがに一人はないでしょう。誰と一緒だったんですか? はぐれてしまったのなら、正直にそうおっしゃってくだされば……」
「言いたくありません」
「は?」
「合流地点なんて、ないです。そもそも私はいま仕事中ですから。もう行きます。さようなら」
「ちょ、お待ちください。私が途中までお送りします。さすがにこのままというわけにはいきません」
「いいえ、結構です」
「ですが……」
エドが呆れている。
違うの。
私は会えて嬉しかったの。
それなのにエドは、すぐに帰れっていうの?
もしかして、本当に邪魔だった?
「……。理由を言いたくないのなら、それでも結構ですよ。もうその件に関しては、追求しません」
エドの腕が私の腰に回る。
混雑する人々の流れから私を守るように、彼は歩き始めた。
しっかりと私を引き寄せ、ついでに眉間にまでシワを寄せている。
「私が送ります。参りましょう」
帰りたくないな。
せっかく会えたのに。
もう少し一緒にいちゃダメ?
今は契約事項外だから、フリも出来ない?



