王女殿下は下級官吏を婚約者に選ぶ

 カースティ公爵家のお茶会を終え、翌日から私の日常が戻った。
そうなると、本当に彼と顔を合わす機会がない。
城内で見かけて一目惚れしたとか、よくそんな嘘がエドに通じたものだと思う。
ずっと執務室に籠もって仕事をしている私に、そんな余裕なんてどこにもない。
彼にしたって、私を城内で見かけたことなどほとんどないだろう。
彼の勤める土木課は、城の最西端にある。
ちょっと立ち寄るにしても、その言い訳にかなりの無理が必要だった。
本来出会うことのない者同士、そもそも恋に落ちるなんてことはありえない。

 アンバーは毎朝変わらずいつものように、仕事の進捗と予定を私に告げてくれるのに、肝心なことは何一つ報告してくれない。
もちろん聞けば答えてくれるなり調べるなりしてくれるんだろうけど、それを私から尋ねるのは、なんか違うような気がした。
どうして彼女にはこの想いが伝わらないんだろう。
じっと見つめていると、灰色の目をしたアンバーが台紙に挟んだスケジュール表をハラリとめくる。

「セオネードさま。明後日のお忍びでの視察の件ですが」
「あぁ、港町エリンのことね」

 次期国王となる王太子の義務として、私は定期的に国内の各地を視察することになっている。
公式での訪問はもちろん、市民の実体を知ることも大事なことだ。

「今回の護衛に就くカラムさまから、ご挨拶にうかがいたいと申し入れがございます」
「いま待機しているの? なら入れてちょうだい」

 アンバーの案内で、カラムが入ってくる。全身を黒で統一し、銀糸の刺繍を入れた王室第一騎士団の衣装は、彼の個人的な好みで作られたらしい。
騎士でありながら細身の体が、余計に細く見えた。

「この度、護衛としてお供させていただきます。他に三人の騎士団員も、目立たぬよう少し離れたところから護衛いたします。視察ルートですが……」

 カラムの事務的な説明が続く。
私はその声を聞きながら、ぼんやりとインク壺を眺めていた。
集中しないといけないのに、自分の気持ちが思うように動かない。

「セオネードさま? お疲れのようでしたら、視察中どこか休まる場所にご案内する時間を設けましょうか」

 気づけばカラムの報告は終わっていたようだ。
アンバーと並んで二人がじっと私を見つめている。

「あぁ、ごめんなさい。そうね。今回はその必要はないわ」
「かしこまりました」
「少し疲れてるのかも。城内を散策してくるわ」
「お供しましょうか?」

 カラムの申し出を一度は断ったものの、どうせ騎士団の詰め所に戻るついでだからと、結局ついてくることになってしまった。
明るい日差しの差す午後のゆったりした回廊を、ちらちらと花の咲く庭を眺めながら歩く。

「その後、ご婚約者さまとはいかがですか」

 カラムからの突然の問いかけに、ふと苦笑いがこぼれる。

「全然。公表したからって、簡単に会えるものでもないのね」
「ジェードさまどころか、私ですら気づかなかったくらいですから。よほど大切に育んでこられたのでしょうね」
「はは。そうなのかも」

 今はどうしているのだろう。
きっと城には勤務しているはずよね。
いくら契約婚約だといっても、顔くらい見せにくればいいのに。
周囲から本当に恋人同士なのか疑問を持たせないようにするのも、婚約者としての義務じゃない?

「そういえば、カラムは結婚しないの?」
「私ですか? いちおうセオネードさまの、お相手候補ではあったのですが」

 彼は胸に手を当てると、ニッと私の顔をのぞきこんだ。

「どうやら姫さまには、別の気になるお方がおいでだったようなので」
「あぁ……。そうだったわね」
「実質フラれたばかりなので、まだ当分次の恋は出来そうにないですね」

 そう言って、カラムは清ました顔で涼しげに歩く。
私は恋愛なんてしたことないけど、そういうものなのかな。
だけど、エドに恋人はいないと言っていた。
だけどそれは「今」の話であって、「直近」の話ではなかったのかもしれない。

「これからエド殿に、お会いなさる予定でもあるのですか? それなら私は、早々に退散いたしますが」
「別にそんな予定はないから」
「よろしいのですか?」
「うん。彼の仕事の邪魔するのも悪いし」

 お茶会から帰る馬車の中での、彼の様子が頭から離れない。
この仕事が気に入らなかったのなら、断ればよかったのよ。
自分には出来ませんって。
だけど、承諾したってことは、この仕事をやるって決めたんでしょ? 
だったらちゃんと……って、アレ? 
そういえばこの話を持ちかけた時、彼は速攻で拒否してなかったっけ?

「ねぇ、カラムは好きでもない相手と、結婚出来る?」
「私ですか? 貴族の結婚は、好き嫌いで決まる話ではないので。まぁ、それでもいつか、そう思える方と出来れば幸せですね」

 黒髪に青い目のカラムを見上げる。
彼は含みを持たせた明らかな作り笑いを浮かべた。
そうだった。
カラムは特定の相手を持たず、あちこちの令嬢と浮いた噂の絶えない人だった。
上流貴族の未亡人から社交界の華、有名な女優、名だたる踊り子などなど。
彼はいつも違う女性を隣に並べている。

「自由でいいわね」
「はは。お望みならば、殿下もそうなさればいいのです」

 私が? と、声に出さずに彼を見上げる。
彼はにこりと笑みで答えた。

「案外、どうにかなるものですよ」

 そんな言葉、数々の浮名を流しているその張本人から言われても、何の説得力もないじゃない。

「それはエドのことを言ってるの?」
「現実と理想の話です」
「執務に戻ります。見送りは結構よ」

 その場に立ち止まり深々と頭を下げるカラムを置いて、先に進む。
無駄な時間を過ごしてしまった。
理由もなくイライラして、落ち着かない。
自分が何をしたいのかも、どうしたいのかも分からない。
私はただ平穏な日常が欲しかっただけなのに。
自分の要求も明確に出来ないまま、結局城内を一周しただけで終わってしまった。
戻ってきた執務室のドアを勢いよく開けると、一人で作業をしていたアンバーが驚く。

「あら、お早いお戻りでしたね、セオネードさま」
「お忍び視察までに、片付けておきたいことを思い出したの」

 そうよ。
私には、どうしたって譲れない仕事がある。
それを一番にできないようなら、私はとっくにこの場所から逃げだしている。
だけど、そうしない道を選んだのだから、負けるわけにはいかない。
私はペンを取り上げると、猛然と机に向かった。
そこからの数日は脇目もふらず仕事に没頭し、アンバーからも褒められるくらいの仕事をこなし、お忍び視察の日を迎えた。