だってお前には彼女がいるから

 数日間、陽翔と会わなかった。それは俺が避けていたのでもなく、気がつけば会わないまま日数が経っていたのだ。被っている授業は休講になったり、先生の都合でオンライン対応になったり、とたまたま変更が重なった。

 そのお陰で、俺には冷静に考える時間があった。

 ようやく冷静になった俺は、陽翔と話をしたいと思った。酔っていて、何も覚えていないなら、それで良い。俺と藤石さんを間違えてキスした。それが、1番あり得そうな結論。

 しかし、仮に、覚えていたとしたら。何か、意図があったとしたら。

 陽翔の気持ちを、知りたい。このまま、もやもやとした感覚を抱え続けていたくない。もし寝ぼけていて忘れていたとしてもそれでいい。それなら、俺が墓場までもっていくだけだから。

 陽翔を探して、大学内を歩いた。この時間は、どこにいるだろう。いつもの感じだと、次の教室で時間を潰しているはず。

 次の教室にたどり着いたとき、部屋の中から声が聞こえた。その声が聞き覚えがあったため、ドアノブへ伸ばしていた手をぴたりと止める。

「……で良いんだよ。陽翔」
「ああ」

 迷うまでもなく、よく知る声。話をしているのは、藤石さんと陽翔だ。何を話しているのか。内容は気になるものの、盗み聞きになってしまうため、ここにいてはいけない。そう思うのに、足が動かない。

 藤石さんの潜めてはいるものの、どこか軽やかな声が聞こえてきた。

「それなら、藍星くんは?」
「は? 藍星は駄目だ。絶対に」

 その陽翔の声は、低かった。今までに聞いたことがないくらい。

 どきり、と心臓が変な音を立てた。驚きの声が出ないように、口を押さえる。足音を立てないように気をつけながら、俺は部屋から素早く遠ざかった。

 何の会話をしていたのだろう。いや、それ以前に。なんで、俺の名前が会話に出てきたのだろう?

 しかも、陽翔が何を言っていたか。

『藍星は駄目だ、絶対に』

 陽翔の声が脳内で再生され、頭を押さえた。内容は分からない。しかし、陽翔に「駄目だ」と言わせるほど不快なことをしてしまったのだろう。

 教室からできるだけ距離を取ろうとした結果、ふらふらと外に出た。

「はあ……」

 校舎を出てすぐの場所にあるベンチへ座る。日陰になっているため、ふわりと風が舞い込んできた。虚空を見つめながら、呼吸だけに意識をする。それで、少し頭が冷えてきた。

 陽翔の言葉をもう一度思い出す。陽翔の言葉の意図は分からないが、俺が、駄目な人間であることにしっかりと向き合うことにした。

 俺はちゃんと自覚しないといけない。陽翔には酒で記憶がないとしても、俺は意識がはっきりしていたのに、彼女がいる相手とキスをした事実。そして、陽翔が自分を好きかもしれない、と思い少しだけ嬉しくなってしまった罪と、向き合う必要がある。

「きっと、これは……罰だ」

 因果応報。悪いことをしたら、それ相応の報いを受ける。当たり前の話だ。

 陽翔が、何に対して俺のことを「駄目」だと思っているのかは知らないが、それでも何かに対しては思っているはず。それを自覚してしまうタイミングであの場に居合わせた、というのも何かの導きなのかもしれない。

 だから、俺はこの罰を受け入れよう。

「ちゃんと反省しないと」

 また柔らかい風が舞い込んできた。木々の葉が揺れてざわざわしている。それとは反対に、妙に俺の心は凪いでいた。

「陽翔にも、藤石さんにも、合わせる顔がないな」

 確認をするまでもなかった。陽翔はきっと、俺のことを好きだとかそんなことはない。俺にキスをしたのは、元々の予想通り、俺と藤石さんを間違えていただけ。

 先ほどの2人だけの会話の雰囲気から、その予想は明確になった。

 陽翔も、藤石さんも、どこか様子が違った。

 陽翔はいつもよりも気怠げで、話し方に雑さがあった。俺と話すときの、柔らかい話し方とも違う。きっと、藤石さんと話していたときが素。この前、俺と話していたとき、陽翔の心に触れられた気持ちになっていたけれど、それはきっと気のせい。

 それに加えて藤石さんの様子も、違う気がした。いつもより、口調が軽くて明るかった。いつも明るいが、それと比べても、気を抜いている感じだった。

 そこまで考えて、俺は慌てて首を振った。こんなことを考えること自体が良くない。誰だっていろいろな顔を持っていて、人によって見せる部分を変える。家で1人でいるときと、大学の先生の前で同じような態度を取るような人はいない。そういうことだ。俺だって、少なからずやっているはず。

 それを分かっているのに、なぜ。俺の心はずっと痛いのだろう。まるで握りつぶされているかのようにじくじくとする。

 俺は、何に傷ついている? 自分の気持ちが分からなくて、しばらく考えてみる。ああ、そうか。羨ましいのか。いや、何に?

「え……、まさ、か」

 俺は、陽翔のことを好きになりかけていたのか。

 それに気がついた瞬間、少しずつ自分の感情が色を放ち始めた。キスを嫌だと思っていなかったのも。キスの理由が知りたかったのも。陽翔に彼女がいるから、と自分に言い聞かせるように思っていたことも。

「そっか、そっかあ……」

 陽翔を好きになったこと自体には、問題ない。むしろ、仕方がない話だ。人に気を遣うのが上手い。困っている人を放っておけないほど優しい。陽翔は自分自身の「好き」という気持ちを大切にできる。

 陽翔のことを好きになる理由なんていくつだってでてくる。それでも、嫌いになる理由は1つも思い浮かばなかった。

 それでも。

「こんな気持ち、意味ないのにな」

 俺のこの気持ちは、2人にとって邪魔な物なのだ。それを、忘れてはならない。いや、そんな同じ舞台に立てるとすら思ってはいけない。無と同じ。

 膝の上に乗せているリュックに顔をうずめた。恋の自覚をした瞬間に、全てが不要なものだと気づいて、俺の感情が可哀想になってきた。

「全部、全部。忘れられたら楽だったのに」

 俺だけが覚えていること。それすらも、罰なのかもしれない。忘れるな、という神からの警告なのかもしれない。

 それなら、この気持ちとこの前のキスは墓場まで持っていくことにしよう。

 俺の気持ちは、この世界にあったとしても邪魔なものだ。

 そして、キスの件は陽翔にも藤石さんにも知る必要のない事実。どちらの記憶にもなければ、なかったのと同じだし、事故にすぎない。彼女の藤石さんには罪悪感があるが、犬に唇を舐められたのだと思って許してほしい。

 少なくとも、それによって陽翔と藤石さんの仲が悪くなってほしくはないのだ。悪いことをしているのは自覚していながらも、その選択肢が最善に見えるから。

「2人とも、ごめん」

 1人でいた俺と友達になってくれた2人。そんな2人への恩を仇で返す。最低な人間。それを分かっているから。せめて2人には幸せになってほしい。

 ため息をついても、やはり気持ちも記憶も消えることはなかった。