だってお前には彼女がいるから

 俺はしばらく寝ている陽翔を見つめていた。何度見ても、貶す部分がないほど、整った小さい顔。襟足が長い薄茶色の髪。座っていてもわかるような細くて長い手足。

 陽翔をしばらく見ていたが、いまだに起きる様子はない。俺の心臓の音だけが嫌な音を立てているというのに。

 深く息を吐いた俺は、机においてある酒の缶を手にした。

 仕方がない。俺自身が記憶を飛ばすくらい飲んで、忘れるしか道はない。俺はアルコール度数の高そうな酒を選び、勢いよく飲み始めた。

(※皆様は真似をしないでください。お酒は一気に飲まず、適量を飲むようにしてください。)

 ◆

 気づいたら寝ていたらしい。顔をあげた俺が目にしたのは、一枚の紙だった。

「……ん?」

 少しずつ意識がはっきりとしてくる。照明が眩しく思えて、目を細めた。

 ゆっくりと身体を机から離す。自身の体調を確認してみるが、吐き気や頭痛などはない。ただ、眠気に負けただけのようだ。

 置いてある紙を見る。ノートを千切った紙に書いたようだ。

『バイトの時間が迫っているので、申し訳ないけれど帰らせてもらいます。鍵は机にあったので、外からかけてドアのポストに入れておきます。起きたら連絡ください』

 陽翔にしては珍しい敬語。少しだけ笑ってしまう。しかし、そこで先ほどの陽翔からキスされたことを思い出して、一気に心が沈んだ。

「あー、もう……」

 忘れることができれば、良かったのに。俺の中に張り付いた記憶も感覚も薄れることはなかった。酒につよい自分が恨めしい。そして、陽翔からの手紙に、キスのことが一言も言及されていないことから、酔っていた陽翔は忘れている可能性も高いのだ。

「なんで、だよ」

 部屋には俺の声だけが落ちた。もちろん返事など、あるはずがない。

 くしゃりと髪をかき混ぜた。陽翔と飲んでいたときの記憶が、感覚が、消えない。

 穏やかで柔らかい陽翔の声も。可笑しそうに笑う明るい声も。甘い香水の匂いも。

 ――触れた唇の熱さも。

 ふわふわとした感覚になってきて、勝手に口から言葉がこぼれる。

「お前のことだけは、好きになっちゃいけないのに」

 俺はぼすんと後ろに倒れ込んだ。ふかふかのベッドに身を預ける。

 真っ白な天井。見慣れた自分の部屋なのに、なにかが決定的に変わってしまった気がする。

 自分の心の中にある何かが、揺さぶられた気がして。

 しかし、それを認識してはいけないと思った。俺は何も思ってはいけない。

「だって、陽翔には彼女がいるのだから」

 略奪、などと考えたこともない。陽翔の彼女、藤石翠さん。陽翔と仲が良くて、俺にも優しくしてくれて、かわいらしい、完璧な彼女。

 藤石さんがいるのに、なんで陽翔はあんなことをしたのだろうか。

 自身の唇にそっと触れる。先程、陽翔からキスされたことを思い出して、かあーっと顔が熱くなってきた。

 好きになってはいけない。それを認識しているのに、どこか浮かれたような気持ちになるというこの矛盾。自分のことながら吐き気がする。

「俺って、こんなに汚かったのか……」

 自分のことを品行方正だとは嘘でも言えない。それでも、真っ当な人間だと思っていたのに。

 なんだろう。なぜ、俺はうれしく思ってしまっているのか。

 自分の中の感情が理解できなくて、俺はぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。

「最低だな……」

 その時、スマホが鳴っていることに気がついた。ベッドから起き上がって、ちらりと見ると、ロック画面に通知が出てきている。陽翔の名前を見て、僅かに心が弾んだ。

『体調悪くなってないか? 起きたら連絡ほしい』

 ちらりと時計を見る。飲んでいる間に聞いた話によると、陽翔はバイトの休憩時間のはずだ。その間にわざわざ連絡をくれたのか。

「ほんと、優しい」

 そう。陽翔は優しいはずなのだ。人間のクズなどではない。むしろ、良い奴。

 俺のことを友人として仲良くしてくれる。俺がいくら距離を取ろうとしても、近づいてきてくれる。

 いや、俺にだけではない。陽翔は、誰にだって優しいのだ。大学内で、物を落としている人がいたら、陽翔がさりげなく拾って渡していたこともあった。テスト直前に、ペンケースを忘れた人にシャーペンと消しゴムを貸していることもあった。

 困っている人がいたら、放っておけない。陽翔は、そんな性格をしているのだ。

 そんな素晴らしい人間。

 うん。陽翔が浮気をするはずはない。きっと、藤石さんと俺を間違えただけだ。そして、メッセージでも言及がないということはきっと忘れているのだろう。

 だから陽翔は悪くない。悪いのは俺だ。少しでも嬉しいと思ってしまったことが罪深い。たった一度のキスで、勝手な勘違いをしている俺が全て悪い。

 深く息を吐いたあと、スマホのロックを解除する。

 『ごめん、今起きた。大丈夫』とだけ返して、スマホを裏返して机に置いた。

 再びベッドに身体を沈め、ぼんやりと考える。

 陽翔は、なんでキスをしてきたんだろう。もし、それがなければ。俺は心の中にこっそり岩の裏に咲いていた花のような気持ちに、気づかずに済んだのに。

 キスを嫌だとは思わなかった。むしろ、陽翔のような人間に好かれているとしたら……。

 そんな淡い期待は、全て押し込んで。俺は部屋着へと着替えて、二度寝をすることに決めた。とりあえず、寝よう。寝不足だから、余計なことばかり考えてしまうのだ。