だってお前には彼女がいるから

「藍星」

 中間テストを何とか乗り越えた俺が帰ろうとすると、後ろから声をかけられた。振り向くと、陽翔が立っている。

「お疲れ、陽翔」
「お疲れ」

 中間テストとはいえ、あの妙な緊張感は本当に疲れる。でも、まだ期末テストは残っているため、油断はできないけれど、とりあえず気を抜けそうだ。陽翔も疲れた顔をしているが、どこかすっきりしているようにも見える。

「テスト、どうだった?」
「単位はある、はず」
「俺も多分、大丈夫」

 単位を取れれば、いったんはそれで良い。身についているのが1番良いが、次の期末テストの前に合格点を取っておかなければ、単位取得は絶望的になってしまう。

 そういえば。陽翔の周りを見るが、1人だ。藤石さんはいない。藤石さんは大丈夫だったのだろか。勉強会では、計算が必要な問題に大分苦しめられていたようだったが。

 陽翔の恋人のことを考えていると、ぱっと表情を明るくした陽翔が提案をしてきた。

「なあ、藍星。テスト終わったし、酒でも飲まないか?」

 お酒はほとんど飲んだことがない。それでも、中間テストから解放された気分で、お酒を飲むのも楽しそうな気がした。

「いいよ」

 俺が頷くと、陽翔は嬉しそうに笑った。

 ◆

 陽翔と俺の飲み会は、一人暮らしの俺の家で行われることとなった。陽翔に近くのスーパーでお酒と軽食やつまみを買ってもらっている間に、俺は自室の片付けをした。人が来ることを想定されていない部屋が綺麗ははずがない。荷物を箱に押し込んでいき、何とか掃除機までかけ終わったところで、玄関のチャイムがなった。何とか間に合って良かった。

「へえ、これが藍星の部屋か」
「あんまりじろじろ見るなよ、頼むから」

 慌てて片付けた部屋だ。粗が目立っているはずだから止めてほしい。俺の懇願に、陽翔は楽しそうに笑った。陽翔が実家暮らしじゃなければ、突撃してたのに。

 いつもは物が散乱しているが、今は片付いているテーブルに、陽翔が持ってきてくれた物を並べる。俺はビールが苦手だと伝えていたため、サワー系のものを買ってきてくれたようだ。

 俺はぶどうサワーを選び、陽翔はホワイトサワーを選んだ。

「テスト、お疲れー」
「お疲れ」

 カチン、と缶をぶつける。20歳になってようやくお酒を飲めるようになったが、飲み会はほとんど参加していない。酒は飲めるか分からないが、折角陽翔に誘われたのだから、飲むことにした。

「藍星は、酒あんまり飲んでないんだっけ?」
「うん。誕生日に飲んだくらいかな?」

 ほとんど飲んだことがないため、自分の上限も分からない。お酒をたくさん飲んだら、どうなるのだろうか。話に聞く限り、笑い上戸になる人や、泣き上戸になる人もいるという。俺が醜態をさらさないことを祈るばかりだ。

 にやっと笑った陽翔が言う。

「お前が酔ったら、介抱してやるよ」
「いや、俺の醜態を見る前に帰って」
「ははっ」

 俺が酔い潰れていたとしても、見なかったことにして帰ってほしい。これから、どう接していけば良いのか。俺が慌てて言うが、陽翔は声を上げて笑った。見なかったことにして帰るとは約束してくれないようだ。

「陽翔は? よく飲む?」
「俺は1年浪人してるから、もう1年くらい経っているから、結構飲んでる」
「そっか」

 それは始めて聞いた情報だ。陽翔は1つ年上だったのか。確かに、しっかりしているなとは思っていたけれども。

「……」 
「……」

 微妙な沈黙が流れる。俺はまた手元のお酒を飲んだ。そもそも、陽翔と二人っきりでゆっくり話すことは少ない。知っているようで、あまり知らない。

 陽翔と共通の話題は何だろう。やはり、俺と陽翔の共通の友人である藤石さんのことだろうか。

「そういえば、藤石さんとはいつ会ったの?」
「入学して、すぐくらい?」
「へえ。てっきり高校から一緒かと思ってた」

 陽翔と藤石さんは波長が合っている感覚がしていたから、長い付き合いなのかと思っていた。それが、まだ2年も経っていないとは意外だった。

 俺が驚いていると、少し眉をひそめた陽翔が言う。

「翠の話は良いだろ」
「……そうだね」

 彼女のことを話したくない、という嫉妬心だろう。陽翔にしては珍しい感情を見た気がする。それに、恋人の話に口を挟まれても不快か。申し訳ない。

 俺はそれ以上、藤石さんの話をしないことに決めた。それなら、何か話題を見つけなくては。そう考えていると、流し目でこちらを見てきた陽翔が口を開いた。

「藍星のこと、教えろよ」
「俺?」

 どうしてそんなに改めて言うのか。俺が目をぱちぱちとさせていると、陽翔はふっと笑う。

「だって、藍星は気づいたらいなくなっているし。仲良くなってきたと思っても、気づけば遠くに行こぅとしている気がするし」
「そんなことは……」

 ない、とは言い切れなかった。だって、陽翔から積極的に話にきてくれなければ、俺はきっと陽翔と藤石さんから遠ざかっていたと思うから。

 缶を机に置いた陽翔が、俺の方を見る。その焦げ茶色の瞳に目を奪われていると、陽翔がはっきりと言った。

「藍星が何が好きで、何が嫌いなのか。知りたい」
「俺の……?」
「そう」

 こくり、と頷いた陽翔がまた缶を手にした。それを口元に持っていきかけた陽翔が、付け加えるように言う。

「だから、部屋を観察していい?」
「それは駄目。聞くなら俺に聞いて」

 俺が答えると、陽翔はにやりと笑う。それはいつもより子どもっぽく、無邪気に見えた。

「言質とったー」
「……まあ、良いけど」

 部屋を観察されるよりは、俺に聞いてくれた方が良い。俺の返事に笑みを深めた陽翔が、酒を少し飲み進めてから、尋ねてくる。

「それで、藍星が1番好きな物は?」
「えー、なんだろう」

 考えてみるが、人に誇ることのできることも何もない。人より秀でている点もなければ、自慢できることもないのだ。

 自分が空っぽに見えて、俺は浅く笑った。

 それでも、陽翔がじっとこちらを見ながら待っていることに気がつき、俺は口ごもりながらも何とか言う。

「小説は好き、だけど。俺より好きな人はたくさんいるだろうし……」

 俺の『好き』のレベルで、はっきりと言って良いのだろうか。他の本好きの人からしたら、俺は読んでいないのと同じではないか。

 俺が言葉を迷っていると、じいっと陽翔がこちらを見てきていた。その焦げ茶色の瞳と視線が絡む。

「それでも、好きなんだろう?」
「……うん」

 少しだけ心の霧が晴れた気分だった。

 人と比べる必要などないのに。周りの目を気にし、人と比べ、勝手に落ち込んでいる。自分の変えたい部分ではあるが、なかなか変えられないのだ。

 それでも、言葉にしたら単純だ。俺が好きなのだから、好き。それで構わないのだ。

 陽翔の言葉に、俺はふっと表情を和らげた。陽翔は、本当に凄い。

「陽翔は、凄いよな」
「何が?」
「自分をしっかりと持っていて」

 陽翔は、自分の「好き」という気持ちを大切にしているのだろう。だからこそ、肯定できる。俺はそう思ったのだが、軽く目を見開いた陽翔はすっと目を伏せた。

「俺もそんなことない。今、ちょっと格好つけて言ったけど、俺だって、好きなものに胸を張れないからな」
「え?」

 その陽翔の声は、珍しく弱々しかった。俺はぱちりと瞬きをする。

 いつも自信ありげに背筋を正している陽翔には見えなかった。どこかが違う。暗めの表情のまま、陽翔が言葉を紡いでいく。

「人と違うのは嫌だし、人から否定をされれば、俺の『好き』という気持ちを簡単にねじ曲げるかもしれない。そんな俺だったとしたら、藍星はどう思う?」
「どうって……」

 自分の持っているものを信じられず、不安になっている。それは、俺と似ているかもしれない。

 じんわりと心の中が温かくなってきた。なぜかは分からない。分からないけれども、その熱はどんどんと俺の体温を上げていく。

 頬に熱がこもったのは、きっと飲んでいる酒が回ってきたせいだ。

 自身の頬の熱を感じながら考える。陽翔が不安になるくらい大切なものが何かは分からないが、それはきっとどれくらい美しいものなのだろう。ちょっとだけ、羨ましい。

 俺は陽翔に笑みを向けてから答えた。

「お前の『好き』を、見てみたいよ。お前が、大切にしたいと思うその気持ちを」
「……ありがと」

 陽翔の返事は小さいものだった。両手で顔を隠してしまっているため、顔は見えない。どんな顔をしているのだろう。気にはなったが、俺の頬の熱が下がるまで、しばらくそのままでいてほしい、なんてことを思った。