だってお前には彼女がいるから

 転機が訪れたのは、2年生の最初の方の授業だった。いきなりグループワークが課題となり、グループを作るように指示された。

「陽翔、組もう」
「ああ」

 隣からすばやく翠が言ってくる。他の人から誘われる前に相手を作っておこうという翠の意図がはっきり伝わり、俺も即答した。これを口実に、言い寄られたくない。

 2人よりは、誰か誘った方が良いか。俺が彼へと視線を向けたとき、後ろの席から声がした。

「なあ、あいつ誘わねえ? 雨森だっけ? あいつ、頭良さそうだし、全部押しつけたら楽勝だろ」
「たしかに。どうせぼっちだしな。あいつに押しつければ良い」
「じゃあ、もうちょっと放っておいてから声かけようぜ。そうしたら、俺らに感謝して、全部やってくれんだろ」

 彼を利用とする内容。まるで人を便利な道具のように扱おうとする会話にぞくりとした。それと心の底から湧き上がる怒りに、どうにかなりそうだった。

 お前達に、優しい彼を利用しようとする人たちごときに、彼が利用されてたまるか。

「なあ、翠」
「なあに?」
「もう1人、誘っていい?」
「良いよー」

 俺の声はいつもより相当低かった気がするが、翠は楽しそうに笑いながら頷くだけだった。誰、とは聞かれなかったが、彼女はすでに悟っていたのだろう。当然のように俺についてきた。

 俺は彼の方へと近づいた。緊張する。人が近づく気配に気がついたのか、彼が顔を上げる。真っ黒な瞳が、少し湿っているようにも見えた。

 俺はそれに気がつかないふりをして、声をかける。

「俺たちと、組まない?」

 ◆

 彼――藍星とグループワークをしていくうちに、遠くから見ていただけでは分からなかったことが分かるようになってきた。

 まず、課題のスピードが速い。自分の分担をてきぱきとこなすだけではなく、後回しにしていたところや補強などもしてくれる。頭の回転が速いことはすぐに分かった。

 そして、集中しているときの横顔がまた綺麗だった。パソコンのキーボードを動かす手は、まるでピアノを弾くように滑らかに動き、悩みながらもメモをしているときの手は遅い。シャーペンでノートをとんとんと叩きながら考えているときは、どれだけ俺が凝視していても気づかれることはなかった。それを良いことに、俺は藍星だけを見て時間を過ごすこともあった。翠から睨まれたが、彼女は何も言ってこなかった。

 藍星のことを知れば知るほど、その全てが俺の心を揺らした。最初は話すことができただけでも幸せだと思っていたのに、俺の欲はとどまるところを知らない。

 もっと親しくなりたい。一緒に遊びにいきたい。

 俺だけを見てほしい。俺のことを好きになってほしい。人間の欲望は恐ろしい。手を伸ばすように焦がれていたことを実現できたというのに、俺はもっと、もっとと求めてしまう。

『陽翔』

 藍星が俺の名前を呼ぶ。ただ、それだけで俺は嬉しいと同時に物足りなく思ってしまう。

 愛してほしい。愛しされたい。俺が藍星のことを好きであるように、藍星も俺のことを好きになれば良いのに。

 そんな身勝手な自分に嫌気が差す。俺のこの恋は、押し殺さないといけないものだ。俺はその気持ちを蓋の固い瓶の中に押し込めるようにして、心の中に隠した。

 そうやって日々を過ごしている中、唐突に翠が言った。

「陽翔。偽装恋人、解消しよう?」
「なんで、急に」
「好きな人、いるでしょ?」
「……」

 翠にはとっくに気づいていたのだろう。俺が翠との偽装恋人でありながら、好きな人ができたことに。

 俺は翠に真っ直ぐ頭を下げた。

「悪い」
「謝らなくても。別に陽翔が悪いとか言いたいんじゃなくて、もし藍星くんと付き合うときに余計なノイズになるかと思っただけだから」
「付き合う……?」

 頭を上げた俺だが、翠の言葉がのみ込めない。藍星と付き合う。そんな未来、来るはずないのに。まるで当然のように言う。

 翠のことを見るが、彼女は笑っているだけだ。それ以上の追求を諦め、俺は切り出した。

「じゃあ、翠。代わりに、信頼できる人を紹介させてくれ」
「えー、でも、陽翔もそんなに『信頼できる友達』っていないでしょう?」
「……少ないけれど、ゼロではない」

 確かに、大学での友達関係は壊滅的に薄い。友達はいるが、翠に紹介できるほど信頼できる人はほとんどいない。藍星なら信頼できるが、翠と付き合う藍星をまともに見える気がしなかった。

 俺が黙り込むと、翠が穏やかに笑った。

「分かった。まあ、それは気が向いたらで良いよ。それなら、別れたと周囲に言うのはまた後で良いよね?」
「それはもちろん」
「はーい」

 ◆

 翠から付き合う、という言葉を翠から出されたことで、俺は変に意識しそうになった。しかし、それをどうにか脳裏から追い出し、少しずつ藍星と仲良くなろうとしていた。恋人にはなれなくても、友人にはなれるだろうから。

 それなのに藍星は授業を終わった後は、俺たちを何度も遠ざけようとしてきた。

 藍星から避けられるのだけは嫌だった。何度も声をかけても、どこか遠慮がちに見えた。それでも、諦めずに、いろいろ誘っているうちに少しずつ、打ち解けてきたと俺は勝手に思っていた。

 一緒に遊びに行って。一緒に勉強をして。一緒に過ごす時間が多くなればなるほど、やはり俺の中で欲深い心が爆発しそうになる。

 幸せだった。このまま死んでも良いくらい。

 そして、俺はそんな幸福に溺れていたからか。取り返しのつかない失態をおかすこととなる。