だってお前には彼女がいるから

 藍星と初めて会ったのは、受験の日だった。俺は受験を一度失敗しているからこそ、後はない気持ちだった。

 そんな極度の緊張感は、俺の足を鈍らせた。だんだん感覚がしなくなってきて、2次試験の大学に向かいながら、気づけば俺は足を止めていた。

 1月という寒い時期なのに、嫌な汗がこぼれ落ちる。俺は下を向いて、歩道のど真ん中に突っ立っていた。

 受験会場の近く。みんな余裕がなくて、他人のことを気にしている余裕はなかったはずだ。俺の横を何人も通り過ぎていくのを、視界の端で捉えていたが、それでも足は動かなかった。

 もし、失敗したらどうしよう。もし、また落ちたら。ただでさえ、1年浪人し、親には多くのお金を払ってもらっているというのに。

 脳内を浮かんだのは、そんな今からではどうしようもないこと。今から天才になれるわけでもなく、何かが変わるわけでもない。それなのに、身体を覆い尽くす極度の緊張がなかなか消えなかった。

 行かないと、いけないのに。身体が動かない。

「大丈夫ですか?」
「……っ」

 急に声をかけられて、俺は顔を僅かに上げた。声をかけてきた人を見て、息を呑む。綺麗な顔をした男だった。高校の制服を少しの乱れもなく着こなし、サラサラとした髪を揺らしながら、俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。

「体調、悪いですか?」
「いや……」

 そしてその人の目に、思わず見惚れていた。大きくて、黒い目が俺を見ている。

 返事ができない俺を見て、軽く首を傾げた彼は、ポケットからハンカチを取り出して、俺の額にあてた。相当汗をかいていたらしく、そこに優しくぬぐってくれているらしい。

「歩けそうですか?」

 目の前の男に気を取られているうちに、気づけば緊張がほぐれていた。

 先ほどまでは、石になってしまったかと思っていた足は温度を取り戻している。少しだけ浮かして足を前に出してみるが、動きそうだった。

「……はい」

 俺が頷くと、その人はふっと表情を緩めた。俺の手に何かを握らせて、柔らかく微笑んだ。

「お互い頑張りましょう」

 それだけを言って、彼は立ち去った。それは、俺への配慮でもあるのだろう。あまり深入りをしすぎず、気遣いだけを向けてくれたその人から目を離せなかった。

 凛とした立ち姿だった。少し荷物が多かったから、泊まりであることは推察できた。

 皆余裕がないこの状況。彼自身も余裕があるはずがないのに、声をかけてくれる優しさがじわじわと染みてきた。

 俺は彼から目を逸らさないまま考える。また会えるだろうか。この大学に合格したら会えるかもしれない。

 彼が見えなくなるまで見つめたあと、俺もゆっくりと大学に向かって足を進めだそうとした。その前に、彼から何かを渡されたことを思い出し、俺は自分の手を確認する。

 そこには、苺ミルクの飴玉があった。ピンク色の包装が、先ほどの彼が選んだものと似つかわしく思えて、くすりと笑う。

 俺はそれをぎゅっと握りしめた。そのまま、足を踏み出す。先ほどのこわばりが嘘のように、いつも通りに足は踏み出せた。良かった。これで入試会場まで問題なく行くことができそうだ。

 そうして、先程までの緊張が再び騒ぎ出すこともなく、俺は無事に試験を終えることができた。

 ◆

 次に俺が彼を見たのは、大学の入学式だった。みんな新品のスーツを着心地悪そうにしている中、彼は少し違った。もちろん、着慣れなさはあっただろうが、それでも彼の姿勢が揺らぐことはなかった。

 来た順に座るように言われている入学式会場で、前列に座っていた彼は、後ろの方からでも目立つ姿勢の良さだった。

 入学式が終わって、俺は前列に座る彼を凝視していた。

 話しかけたい。それでも、俺のことを忘れていたら、と思うと怖い。

 俺が迷っている間に、近くの席の人から声をかけられて、返事をしていたら別の人にも声をかけられて。やっと人が周囲の人から抜け出せると思ったら、すでに彼はいなかった。どうやら、帰ってしまったらしい。

 なんだ。真っ先に話しかけにいけば良かった。それでも、同じ学科の列にいたのだから、そのうち機会はあるはずだ。そう思っていた。

 でも、彼は捕まえにくい人だった。気づけばするりといなくなっている。初回だけ出席を取る授業を受けたことで、雨森藍星という名前であることだけは知ることができた。でも、それだけ。

 俺は声をかけるきっかけを見つけることもできず、彼との接点はないままだった。

 彼と話すことができないとしても、彼のように優しくなりたい。それだけの理由で周囲の人に優しくするように心がけていた。ただの、身勝手な理由だろう? それで、良かった。藍星のような人間になれるのなら。

 彼のことを考えながら歩いていると、近くで揉める声がした。

「ねえ、授業なんて良いから一緒に遊ぼうよ」
「離してください」

 女子大学生と男子大学生の会話。明らかに嫌がっている女子大学生の顔は見たことがあった。同じ学科で、目立つ女子だ。多分、整った顔をしていると思う。

 気づいてしまった以上、スルーするのも寝覚めが悪い。俺はため息を1つ吐いてから、人当たり良い人間に見えるように口角を軽く上げた。

「先輩、ですよね? 彼女に用事があるんですけど、良いですか?」
「な、誰だ、お前」
「彼女の友人です」

 本当は全く話したことがないが、別に構わないだろう。俺は無邪気に見えるように心がけながら、その男に笑いかけた。

「何か用事なら、俺もお手伝いしますよ」
「な、べつに、いや……」

 男はもごもごと何かを言って、どこかへ去っていった。いきなり話しかけられたこと。さらには先ほどの悪い態度を見られていたはずなのに、それを見ていないかのように朗らかに話しかけられたこと。それは、男にとって居心地が悪くなったのだろう。

 余計な軋轢を生むと面倒だから、あくまで相手の気まずさを利用する。それだけ。俺に身長があるのも威圧感はあるのか、そうするとあまり絡まれなくなりやすい。

 呆然としながら固まっている彼女に声をかけた。

「藤石さん。次授業だよな? 行こうぜ」
「あ、うん」

 珍しいグレー色の瞳を大きく開いた彼女は、こくりと頷いた。しかし、俺のことを見る目は知らない人を怪しむ目だ。

 正直、面倒くさくなってきた。じっと俺を見つめる彼女を置いて授業に行こうと足を踏み出したとき、彼女が声を発した。

「えっと、同じ学科だよね?」
「ああ」

 たっと足早に折れに追いついてきた彼女は、俺の顔を覗き込んでくる。ふわりと薄茶色の髪が揺れる。

「私、藤石翠。あなたは?」
「……松川陽翔」
「ありがとう、松川くん」

 美人であろう彼女に微笑まれるが、俺の心は別に躍らない。俺はおかしいのだろうか。そんなことを考えながらも、俺は適当に頷いた。

 そんな俺を見て、藤石翠は何かを考えこむような顔をした。見透かされそうな瞳に、俺が気まずく思っていると、彼女がにーっと笑った。

「ねえ、お礼をしたいのと、提案があるから、後で時間くれない?」