だってお前には彼女がいるから

 陽翔が俺の手を離したのは、しばらく経ってからだった。先ほどの場所と同じくらい人目が少ない場所だ。別の校舎の近くではあるが、絶妙に人が来ていない場所だ。俺も初めてきたかもしれない。

 俺が周りを見渡していると、陽翔と目が合った。チョコレートのような色の瞳を不安げに揺らしながら、こちらを見ている。

「藍星、大丈夫だったか?」
「ありがとう、陽翔」

 一発殴られたとしても問題はないだろうが、それでも痛いのは別に好きではない。真正面から相手の手を掴むのは難しかっただろうから、不意に陽翔が来てくれて、本当に助かった。

「まるで、ヒーローみたいだね」
「え?」

 無意識のうちに俺の口から零れた言葉は、自分でも驚くほど納得ができるものだった。

 そうだ。陽翔は、ヒーローみたいだ。

 格好良くて、いろんな人に優しくて。笑顔が綺麗で、周りのことをよく見ていて。困っている人を放っておけない人。

 そこまで考えて、俺はふっと笑う。

 いや、まあ、酒に酔ってキスをしてきたこととかは問題があるけれども、その不完璧さすら、ヒーローみたいかもしれない。欠点があった方が、身近な存在に思えるのだから。

 俺がそんな関係ないことを考えていると、陽翔から消え入りそうな声がした。

「違う」
「なにが?」

 急な否定に、俺は軽く首を傾げた。

 静かに笑った陽翔が、焦げ茶色の瞳で俺のことを凝視する。いや、違う。陽翔は俺のことを見てるようで、見ていない。陽翔の目は、どこか遠くを見ているようだ。

「俺にとってのヒーローが、藍星なんだよ」
「なにが?」

 何の話だか全く分からない。疑問符を浮かべている俺を見て、陽翔は口元を緩めた。

「覚えているか? 受験のときに会ったこと」
「受験のとき?」

 何を言われているか分からなくてぽかんとしていると、陽翔が懐かしむように目を細めた。

「そう。俺と藍星が初めて会った時の話」
「え? 初めて話したのは、授業のときだよね?」
「違う」

 俺の言葉をすぐに否定した陽翔は、じっと俺のことを見る。それは必死そうで、どこか縋るようだった。

「覚えてないか? 受験の日に会ったこと」
「受験の日?」
「俺が大学に入る前で固まっていたときに、声をかけてくれたときのことだ」

 そう言われて、少し思い出してきた。

 大学の入学試験のとき、大学を目の前にして、足を止めている人がいたのだ。受験当日。俺は前日によく眠れたこともあり、あまり緊張していなかったが、緊張する人もいるのは当然だ。そう思って、少しだけ声をかけたことがあった。

 その人は、俺が話しかけると気が抜けたのか、ふっと身体の力が抜けたようだったから、あまり深入りはしなかった。他の人と話すことで、その人のペースを乱してはいけないと思って、少しして離れたが、その後も気になっていた。その人は、大丈夫だったかって。

「……ああ」

 思い出した。俺は目の前の陽翔をまじまじと見る。確かに。言われてみれば、くらいの感覚。俺も入試に大きく気を取られていたから、そこまでの意識を割いていなかった。

「あれって、陽翔だった?」
「覚えてたんだ。それはそれで恥ずいな……」

 陽翔の言いたいことを理解して、すっきりした。俺が陽翔の方を見ると、陽翔が視線をうろうろとさせていた。頬が少し赤らんでいるかもしれない。

 本人も恥ずかしいと言っているが、照れる要素あるかな? 普通の受験生同士の会話。特別な話は何もしていないと思う。全てを覚えているわけではないからこそ、平凡のものだったはず。

 それなのに。陽翔はまるで宝箱を開くような悪戯っぽい顔で。手のひらに隠していた花びらをそーっと見せるときのように静かに笑った。

「あの時からずっと、俺はお前のことが好きだし、尊敬してる。藍星のことを忘れたことなんて、一度もなかった」