だってお前には彼女がいるから

 彼女の手から力がするりと抜けたのが、はっきりと目に見えて分かった。手はだらりと重力に従っていて、顔からは血の気が引いている。

 それを陽翔も確認したからか、彼女の手を離す。しかし、陽翔は彼女へ鋭い目を向けていた。

「おい、藍星に何をしようとした?」
「あの、陽翔、私は……」

 彼女が取り繕うように何かを言おうとしたが、陽翔の目も表情も冷たいままだった。それを見て、彼女は慌てたように首を振る。

「違うの。あなた達は、その人に騙されてるのよ」
「はあ? 藍星が? 俺を騙す?」

 ふっと笑った陽翔はこちらに目を向けた。眩しいものでも見るように、緩く目を細めながら、陽翔は言った。

「藍星になら、騙されたっていい。何をされたって、構わないのだから」

 あまりにも甘い声だった。苺と砂糖をたくさん詰め込んで煮込んだジャムをなめている心地になって、じわじわと頬の体温が上がる。

 そんな俺とは対象的に、彼女は恐ろしいものを見た目をしていた。まるで、幽霊を見てしまったかのような。あるいは、理想だと思っていたものが、見当違いだと気がついたような。そんな嫌悪すらも滲んだ顔をしている。

「陽翔、その男に洗脳でも……」
「黙れ」

 陽翔の声に、なんの温度も含まれていなかった。まるで不協和音を聞いてしまったかのように眉をひそめながら、陽翔が吐き捨てた。

「それ以上、俺の前で不快なことを言わないでくれないか?」

 彼女は何かを言おうとしたが、陽翔が表情の抜け落ちた顔でそちらを一瞥すると、びくっと肩をふるわせて、そこから喋らなくなった。

「行こう、藍星」
「え、あ、うん」

 興味がなさそうに彼女から目を逸らした陽翔は、俺の方を見て柔らかく微笑んだ。その笑顔に俺も他に何もいらない心地になってきて、陽翔に笑みを浮かべた。

 陽翔が俺の手に触れる。俺よりも少し高い温度の陽翔の手は、俺の手を包み込んできた。少し迷って、俺はその手を握り返す。

 僅かに目を見開いた陽翔は、笑みを深めて俺の手を引いた。別の場所に行こうということなのだろう。確かに、これ以上ここにいても、何も生まない。俺も軽く頷いて、陽翔と共に足を進める。

 俺よりも少し前を歩く陽翔を見つめる。首元を隠すほどの長い襟足がふわりふわりと揺れている。俺を先ほどの場から引き離そうと急いでいるのだろう。

 それを見ながら、少しずつ頬が緩んでいった。

 絶対今思うことではないけれど。陽翔は、俺のことが本当に好きなんだなって他人事のように思った。しかも、それを実感すればするほど、俺は陽翔から目が逸らせない気持ちになるのだ。

 もう認めるしかない。

 陽翔は、俺のことが好きで。俺は、陽翔のことが好きなのだ。