だってお前には彼女がいるから

 俺の言葉にしばらく黙っていた陽翔だったが、少ししてから静かに声を発してきた。

「……だから、俺のことを避けていのか?」
「そういうわけではないけれど」

 俺が陽翔を避けていたのは、陽翔がキスをしてきたことを嬉しいと思ってしまった上、恋心を抱き始めていた自分に気がついてしまったからだ。陽翔に藤石さんがいるから避けていたわけではない。

 何かを考え込んでいた陽翔がぽつりと零した。

「俺が、お前にキスをしたから、気持ち悪くて避けたんじゃないのか?」
「……は?」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。頭から通り抜けそうになる言葉を慌てて捕まえて、俺は陽翔の言葉を反芻する。

 キスをしたから、気持ち悪くて避けた、と陽翔は言った。それを言ってきたということ。つまり、それは。

「陽翔。お前、覚えているのか?」
「ああ」

 あっさりと頷かれ、俺は一歩後ずさった。てっきり、陽翔は何も覚えていないのだと思っていた。それなのに。こんなに当然のように肯定され、思考が追いつかない。

「自分の言っていること、分かってる? お前は彼女がいるのに、キスをしたんだよ?」
「ああ」

 何の言い訳もせず、陽翔はただ頷く。それが余計に理解できない。せめて、何か理由があるのならそれを教えてほしいのに、陽翔はじっと黙っている。

 陽翔がそんなに不誠実な人間ではないと俺は知っているはずなのに。急に、目の前に見えている陽翔がぼやけているように思えてきた。

 何を言えば良いか分からず、俺は自分の靴を見ながら、口を開いた。

「最低、だな」

 自分の口から出てきたのは、罵倒の言葉だった。それを言ってから気がつく。それでも、撤回はしなかった。

 陽翔は、どんな気持ちだったのか。藤石さんを裏切り、俺を弄んで。どんな気持ちで、その後も藤石さんと会話をしていたのか。

 俺が陽翔を睨み付けると、陽翔がふっと笑った。

「藍星」

 陽翔に名前を呼ばれて、俺は固まった。あまりにも、切なげな声だったから。俺の名前を呼ばれているはずなのに、まるで初めて呼ばれたかのように思えるほど、違う感覚だった。

 陽翔は笑っているはずなのに、表情にはどこか緊迫感があった。そのまま、どこか強張った顔のまま、陽翔が口を開く。

「そうだ。俺は最低な人間だ。だから、はっきり言ってくれ。お前のことなんて、嫌いだって」

 その声は切実な響きだった。それでも、俺は何も言えなかった。陽翔が俺にキスをして揶揄っていただけだとしても、俺は簡単に陽翔を嫌いになれない。陽翔の優しいところ、格好いいところをたくさん知っているから、嫌うことなどできないのだ。

 俺は口を開こうとしたが、そこからは空気しか零れてこなかった。そんな俺を見て、陽翔が僅かに表情を動かした。

 泣きそうにも見える表情で、陽翔が言う。

「彼女がいる、なんていう理由じゃなくて、お前が嫌いだからとはっきり言ってくれ。俺に、引導を渡してくれ」

「なんで、俺にそんなことを?」

 震えそうになる声で、俺は答えた。

 まるで、俺に嫌いだと言われることが必要みたいじゃないか。俺の感情なんて、そんなに意味がないはずなのに。

 すると、陽翔は僅かに微笑んだ。俺からの質問に答える気はないらしい。何も答えない陽翔は、焦げ茶色の目をじっと俺に注いでいる。

 陽翔がゆっくりと俺の頬に手を添えてきた。その手は、少し温度が高いように思えた。俺は黙ったまま陽翔を見つめる。

 陽翔の表情はやはり泣き出しそうだった。少しずつ俺に顔を近づけてくる。

 また、キスをするのか。拒まないといけないのに、俺は拒める心地がしなかった。好意をもつ相手に、嫌という言葉が出てこなかった。

 本当は言わなくてはいけないのに。何も言えない自分を呪った。

 陽翔の息が俺の顔にかかる。ぎゅうっと目を閉じたが、唇に何かが触れる感覚はなかった。

 安堵したような、悲しいような気持ちでゆっくりと目を開ける。困惑を隠さない陽翔が、近距離から俺を見ていた。

「……拒んで、くれよ」
「そう言うなら、しようとしないで」
「確かにな」

 ずっと薄らと笑みを浮かべている陽翔は何を考えているのか。そう思いながら少しでも動いたら触れてしまいそうな距離にいる陽翔を見つめていると、陽翔がゆっくりと離れた。

「藍星」
「……なに」
「俺は、お前のことが好きだ」

 ふわりと心が浮き上がった感覚がした。言われたことを上手く理解できないはずなのに、その感覚だけは妙に鮮明だった。

 それでも、意味が分からないことだらけだ。ただでさえ、先ほどまでも何が起こっているのか理解ができていなかったのに、これ以上の爆弾を落としてこないでほしい。

 急に、陽翔の輪郭がぼやけているように見えた。今日の会話だけで、陽翔の知らない側面がたくさんあることを知ってしまったから。

 陽翔の考えていることは分からないし、俺自身の心は混乱に満ちている。俺は陽翔に返事をすることなく、脱兎のごとく逃げ出した。