だってお前には彼女がいるから

 外で頭を冷やし、冷静になったところで、考えなくてはいけないのは次の授業。陽翔と藤石さんとは一緒に授業を受けていて、隣の席に座るのが通常になってきている。

 しかし、このまま2人の横でのうのうと過ごしていて良いものか。

 良いはずなんてない。

「2人から、離れないと」

 2人に隠し事をしている上、そのまま隣に居座るなどと、失礼なことをできるはずがない。急に離れ始めると不審に思われるかもしれないから、少しずつ、確実に距離をとっていこう。

 じくりと心が痛んだ。この期に及んで、まだ2人に未練を感じている自分が馬鹿らしかった。薄っすらと笑みを浮かべた俺は立ち上がった。

 とりあえず、今日の授業は時間ぎりぎりに入室しよう。そうしたら、近くの席にはならないのだから。

 俺は時間を潰すために、図書館へと向かった。

 ◆

 授業のぎりぎりに教室に滑り込むことに成功し、俺は遅くなったから陽翔と藤石さんから遠い席に座らざるを得なかったことを装った。

 前の方の席に座っている陽翔と藤石さんを後ろからこっそり見る。いつも2人は遠く見えるが、その中でも段違いで遠く思えた。走っても永遠にたどり着けない場所にいるような。

 途方もなく見える距離に思えて、俺はしばらく2人のことをぼんやりと見つめていた。

 ガタン、という音で我に返る。ぼんやりとしていたせいで、手にしていたペンを落としてしまったようだ。慌てて拾う。

 遠いなんて。元から近くにいれたのは、2人の優しさにつけ込んでいたからなのに。自分の馬鹿な思考を振りはらい、授業に集中するために先生が示しているスクリーンへと視線を移そうとしたとき、唐突に陽翔が振り返った。

 ばちり、と視線が交わる。俺は無意識のうちにすっと息を呑んでいた。

 にこりと柔らかく微笑んだ陽翔がこっそりと手を振る。

 どくり、と心臓が大きく跳ねた音がした。周りの人にも聞こえてしまうかもと心配なくらいに思えたが、周囲を気にしている余裕はない。

 俺は、陽翔が手を振ってきたのを気づかなかったふりをして、目の前のノートに視線を落とした。

 その後、陽翔の方に視線を送らないように気をつけながら、俺は授業を聞き続けた。授業に集中しなければならないはずなのに、どこか他人事のように思えてしまう。それでも、そんな俺を慮ることなど当然なく、授業は進んでいった。

 ◆

 授業が終わったあと、俺はできるだけ急いで帰りの準備をしていた。陽翔と藤石さんから声をかけられる前に帰らないと、2人から距離を取ることができなくなってしまう。

 授業を受けるときに使っていたパソコン、ペンケース、ノートを手早くリュックの中に片付けていると、目の前に人が立った気配がした。

「藍星。今日は遅かったな」
「……うん」

 目の前でにこにことしているのは、陽翔だ。授業が終わって数十秒しか経っていないのに、もう俺のところに来たのか。

 どうしよう。陽翔を避けることにしたのに、やはり来てしまった。陽翔は優しい人間であるから想定内であるが、本人を前にして、どのように距離を取ればいいか分からない。

 いつもと変わらない陽翔の柔らかい表情。そして落ち着いた雰囲気の声。陽翔自身は、何も変わっていないはずなのだ。

 それなのに。どうしても同じものには思えなかった。

 陽翔の唇を見る。俺に口づけてきた唇。熱に溶けたようなチョコレート色の瞳。俺の頬に触れた手は、燃えているかのように熱くて……。あの夜の陽翔を忘れられない。

 やっぱり、駄目だ。俺の中で、何かが完全に変わってしまっている。変なことばかり考えてしまう。彼女がいる男に対して考えるようなことではない。

「藍星、そういえば……」
「ごめん、今日はもう帰らないと」

 何かを思いついたように言おうとした陽翔の声を遮って、俺はそう告げた。

 驚いたように目を見開いている陽翔に、何とか笑みを作って俺は短く別れの言葉を発する。

「じゃあ、また」
「……あ、ああ」

 戸惑ったように答えた陽翔を見ながら、俺はリュックを背負った。そのまま、振り向かず、教室を出る。

 歩きながら、脳裏によぎるのは陽翔の顔。

 驚きと戸惑いの表情をしていた陽翔を思い出すと、少しだけ心が痛い。酒を飲んでいたときの記憶がない陽翔にしてみれば、理解ができないだろう。

 それで、構わない。俺の考えを分からないままでいてほしい。

 これで、いいのだ。こうやって、陽翔と藤石さんの中で友人の中の1人だった「俺」の存在を薄めていく。そうすれば、すぐに忘れるだろう。

 心の中の空洞から目を逸らしながら、俺は早足で家へと戻った。