だってお前には彼女がいるから

 窓が少し開いている窓から、ふわりと風が舞い込み、カーテンを揺らす。5月でも大分暑くなってきたが、金のないうちの大学では、こんな時期にエアコンはつけてもらえない。

 今日の授業は、友人誰か取っていなかっただろうか。俺がスマートフォンを確認していると、後ろからふわりと甘い香水が漂ってきた。

 もしかして、と振り向こうとしたときに、肩が重くなった。

「何見てんの、藍星(あいせい)
陽翔(はると)、近い」

 後ろからスマートフォンの画面を覗き込んできたのは、同学年であり、同じ経済学科の松川陽翔だった。少し長い陽翔の髪が俺の首元にかかり、少しだけくすぐったい。

「いいじゃん。見せて」

 すとん、と隣の椅子に腰掛けた陽翔が、俺の肩に頭を乗せる。先ほどからの香水の匂いがより濃くなる。ちらりと陽翔を見ると、チョコレートのような焦げ茶色の瞳と視線が絡んだ。

 近距離での視線に、思わずすっと息を呑む。心臓の音が変なリズムになった気がする。

 あまりにも近い。距離感がおかしいが、他意はないはずだ。この男は俺に恋愛感情を持っていないことは分かりきっているから。

 なぜなら。

「ちょうど、お前()()に連絡しようと思っていたんだよ」
「あー、ごめんごめん。電車、一本遅れた。それに、翠も遅れるって」
「そう」

 陽翔が言った翠、というのは同じ学科の女の子。藤石翠さんのこと。そして、彼女は、()()()()()だ。

 彼女がいるのにも関わらず、陽翔は距離感が近い。他の女の子に勘違いされないのか、とたまに心配になるが。ちらりと俺から離れた横の男を見る。

 目よりも薄い茶色で首元を覆うくらいの長さ髪。モデルかと思うほど整った顔。姿勢も良いし、手足も長い。羨ましいほど、容貌が優れている。

 まじまじと見ていると、陽翔がこちらの視線に気がついたのか、首を傾げた。それすら、絵になる。

「どうした?」
「いや。藤石さんと相変わらず仲良いなと思って」

 慌てて考えていたことを誤魔化し、普段から思っていることを口にした。
 
「……ああ、まあ」

 若干、気まずげだったのは、照れているのだろうか。あまり見ない様子の陽翔が気になったものの、2人の仲の良さは見ていれば分かる。

「藤石さん、間に合いそう?」
「あー、どうだろうな。あいつ、自由人だから、面倒だと思った瞬間、授業捨てるからな。あ、休むって連絡きた」

 やはり、互いのことをしっかり理解している空気だ。2人と話をしていると、どこか似ているなって思う。例えば、2人とも優しいところとか。

 そういえば、2人と出会うことができたのも、2人が優しいからだった。

 ◆

 俺の大学生活は、失敗から始まっていた。なかなか友達ができなかったのだ。たまたま運が悪かったのか、俺自身に問題があったのかは分からない。気づけば、大学内では友達ができないまま、大学生活は進んでいった。

 そんな大学生が困るのは何か。グループワークだ。

 2年生になって最初の授業。グループワークをすることとなった。教授がグループを指定してくれていることを祈っていたが、自分たちで決めてください、と言われたときは絶望だった。友達がいない人はどうしたら良いかまで教えてくれるわけはない。誰かに声をかけなければ。周囲を見渡してみるが、皆それぞれ、グループができ始めている。

 どこのグループにも入れずに、単位を落とすのか。そう泣きたくなっていたときに、声をかけてくれたのが陽翔だった。

「俺たちと、組まない?」

 陽翔と共にいたのが、藤石さんだった。藤石さんも嫌な顔をするどころか、にこにこしながら言った。

「うん。一緒にやろうよ」

 そんな天使みたいな2人に、何度頭を下げたことか。2人とも気にしなくて良いと笑っていた。本当に心が綺麗なのだろう。

 2人が大学内でも有名な美男美女であり、お似合いなカップルだということは聞いたことがあった。そんな2人は偉そうにすることもなく、優しく接してくれたのが有り難かった。

 グループにも入れず余っていた男に、全ての課題を押しつける、という酷い所業をすることもできただろう。それなのに、2人はともに課題に取り組んでくれ、授業を重ねていくうちに、友達になることができた。

 ◆

 そんな1ヶ月前のことを思い出していると、急に端正な顔が視界に入る。どきっと心臓が弾む音が響いたのは、俺の中だけだろうか。聞こえていないといいけど。

「なにかあった?」
「いや、最初のグループワーク大変だったなと思って。あれ、初回の難易度じゃないなって?」
「確かに」

 心配そうに聞いてきた陽翔に、2人と出会った授業のことだと伝えると、陽翔も納得したらしい。互いに顔を見合わせて笑った。

 後で聞いた話、あの教授はいつも難易度の高い課題を初回から出して、生徒を怯えさせているらしい。なお、先生は難易度が適切だと思っているからこそ、厄介だ。

 陽翔が椅子にもたれかかると、ぎし、と音が立った。古い椅子にも慣れたもので、陽翔はそれを気にする様子もなく、微笑んだ。

「まあ、でも俺らの班は褒められただろう?」
「お前が誘ってくれなければ、どうなっていたか……」

 間違いなく俺は孤立した上、単位を落とすことが最初の授業のうちに確定していただろう。悲惨な結果にならなくて良かった。

 俺を見た陽翔が軽く首を傾げて言う。

「そうか? お前なら、1人でもちゃんとできそうだったけれど」
「それは買いかぶりすぎ」

 流石に不可能だ。陽翔は「藍星のおかげだ」と言ってくれることもあるが、過大評価が過ぎる。

 陽翔が口を開きかけたところで、教室の空気が動いた感覚がした。俺も陽翔も会話を止めて、教室の様子を見る。

「おはよー、間に合ったー」

 人が集まりつつある教室に入ってきたのは、陽翔の彼女、藤石さんだった。彼女は存在感があり、いるだけで場の空気が変わる。

 そんな彼女はいろんな人に声をかけられながらも、軽くかわしてこちらに向かってくる。

 ミルクティー色に染めている髪を揺らしながら、彼女は陽翔の隣に座った。陽翔と俺の方を見て、にこっと明るく笑った。

「おはよー、藍星くん、陽翔」
「おー」
「おはよう」

 雑に答えた陽翔を横目に、俺も返事をした。鞄を椅子の横にかけた藤石さんを見ながら、陽翔がぼそりと呟く。

「お前、来ないんじゃないのかよ」
「なに? 来ない方が良かった?」
「そうは言ってないだろ」

 こんな感じでじゃれ合うような会話をよく見る。相変わらず仲が良い。それを眺めていると、こちらを見た藤石さんがにこっと笑う。

「ねえー、藍星くんも、この人酷いと思わない?」

 話を振られたが、俺は嘘でも「酷い」とは言えない。2人にはずっと感謝しているのだから。藤石さんが冗談で言っているのは分かっていたが、俺は首を振った。

「うーん、2人とも優しいなって思うよ」
「もー、藍星くんはいい子だねー」

 まるで弟へ向けた口調に、俺は曖昧に笑った。藤石さんと話をしていると、俺と藤石さんの間に座っている陽翔が身体を軽く机側に動かした。俺が藤石さんと話していたことに、嫉妬したのだろうか。申し訳ない。

 そんなことを考えていたが、陽翔は特に言わず、藤石さんに話しかけた。

「それでなんで来たんだよ。行きたくないってメッセージ送ってきただろう?」

 それは確かに不思議だ。いつもの藤石さんは、そのまま来なかったはずだから。

 藤石さんはたまに授業を休む。行きたくない、とよく陽翔のところへ連絡が来るが、やはりそれは周りから注目されるのに疲れるからだろうか。

 現在は、陽翔と一緒にいるため注目されていない。彼氏といるときは邪魔をしないようにしよう、という暗黙の了解があるらしい。

 しかし、普段の藤石さんはとても人気だ。美人な上、優しいのだから、当然でもあるが、たまに疲れた顔をしている気がする。

 今日はどうして気が変わったのか。俺も藤石さんの方を見ていると、彼女は困ったように目を伏せた。

「いやー、今日はサボろうと思ってたんだけどね。私の勘が言っていたんだ。今日は抜き打ちテストがあるって」
「え、テスト? 急に?」
「うん。私の勘は当たるからね」

 えっへん、と自慢げに言った藤石さんを見ながら、なるほどと頷いた。つまり、自分の勘だけを信じて、大学まで来たわけか。大分自信がありそうだ。

 しかし、陽翔は全く信じている様子はない。怪訝そうな顔で首を振った。

「いや、テストはないだろ」
「あるってば」

 自信満々の藤石さんと、全く信じる気のない陽翔。しばらくは言い争っていた2人だったが、藤石さんがある提案をした。

「じゃあ、陽翔。賭けよう。テストある、が当たった場合、アイス奢って」
「なかったら、俺の頼みを1つ」

 さらっと陽翔が言ったのは、アイスとは到底釣り合いのとれなさそうなことだ。流石に、頼みを1つは多すぎる。しかし、それが2人の普通かもしれないから、口を挟むことはしなかった。

 すると、藤石さんも不満げな声をこぼす。

「えー、それは割に合わないって。でも陽翔に頼みないし……。じゃあ、高級なアイスで」
「はいはい」

 割に合わなくても提案を呑むのか。藤石さんに驚いているが、陽翔の方は驚いた様子がない。やはりこのようなやりとりは、2人の中でも行われていたのだろう。

 そんな2人を見ていた俺は、授業のレジュメをファイルから探す。藤石さんがそう言うなら、復習をしておいた方がよさそうだ。

 この先生は、授業のレジュメをデータで送るため、俺も紙媒体には印刷していない。それにより、簡単に確認できるのは有り難い。

 そう思いながら、過去の授業のレジュメを流し見していると、肩に重さが乗ってきた。

「藍星? 何してんだ?」

 陽翔が、また俺の肩に頭を乗せているらしい。近い、と言いそうになったが、陽翔の横にいるはずの藤石さんも何も言ってこない。やはり、距離が近いと思っているのは俺だけなのか。そう思いながらも返事をする。

「抜き打ちテストがあるなら、今までの授業範囲を軽くおさらいしておこうかな」
「おい、藍星、まじか?」

 目を見開いた陽翔に言われたが、そんなに驚くことだろうか。俺はレジュメを見ながら言う。

「いや、まあ。どっちにしろ、損はないし」

 藤石さんの言うようにテストがあるのなら、その対策になる。そして、テストがなかったとしても、復習になる。

 どちらに転んでも、レジュメを見返しておいた方が良い。

 そんな俺を見たのか、藤石さんの機嫌良さそうな声がしてきた。

「大丈夫。藍星くんは賭けなくても、藍星くんの分も、陽翔に奢らせるから」
「おい」
「ねえ、いいでしょう? 私が勝ったら、藍星くんの分もね」
「分かった、分かった。どうせ、当たんねえだろ?」

 相変わらず仲が良さそうに話しているが、意見は平行線だ。どうせ、授業が始まれば分かることなのだから、俺は2人を放置して資料に目を落とした。

「ううん。今日は、抜き打ちテストだから」

 はっきりと断言した藤石さんへちらりと視線を向ける。彼女のグレーの瞳には、上手く言えないが妙な説得力があった。