頬が赤いのはきみのせい

「とは言ったものの……」
 バイト中、食洗器で洗い終わったお皿を拭いていると幾度目かのため息が漏れ出る。ため息をつくと幸せが逃げるとよく言うが、今の俺には有り余るほどの幸せがあるので問題ない。
 ──悠真は、俺のことどう思ってるの?
 耳の奥に残る千晴さんの囁きと、頬に当たる柔らかい感触。思い出すだけで顔がだらしなくにやけてしまう。やっぱり俺は幸せだ。  
 幸せな、はずなんだけど……。
「村上さんが考え事してる」
 接客を終えて帰ってきたかりんちゃんは珍しいものを見るような視線を向けてくる。
「俺だって考え事ぐらいするよ」
「あはは。そういうときは甘いものです」
 はいこれ、とエプロンのポケットから取り出したのはよくある市販の板チョコだった。しかし、俺は受け取りながら首をかしげる。 
 板チョコにはなぜかかわいらしいピンクのリボンが施されていたから。
「なにこれ?」
「お礼の品です。私今日で辞めるので」
「え」
 さらっとした辞職宣言に声が漏れる。
「辞めちゃうの?」
「そろそろ本気で受験勉強しないとなので。お世話になりました」
 そういってかりんちゃんは深々と頭を下げる。たらんと垂れるツインテールも今日で見納めか、と思うと感慨深さがこみ上げる。
「そっか。受験頑張ってね」
「はい! 村上さんみたいに浪人しないよう頑張ります!」
「おいっ!」
 俺のツッコみにかりんちゃんはケラケラと楽しげに笑うと「それはそうと」と俺の隣に来て顔をよせる。
「で、どうしたんですか? もしかして例の好きぴのことで悩んでます?」
「あぁ、えっと……」
 どこから伝えればいいだろう、と考えながら俺は搔い摘んで夏合宿の一夜を振り返る。
「夏合宿で相手に好きだって伝えたんだよ」
「マジすか⁉ それで、相手はなんて……?」
「俺のほっぺにちゅーして」
「うぐっ」
 興奮したかりんちゃんは銃で撃たれたように胸を押さえ、台にもたれかかる。
「なんですかそのエモいやりとり……。ってことは村上さん、彼女できたんですね。おめでとうございます!」
「いや……」
 彼女じゃないけど。そう訂正しようとすると喉が塞がったように声が出ない。戸惑う俺にかりんちゃんはスマホの手帳ケースから紙を取り出す。
「あ、だったらこのチケットあげますよ!」
「……はにわ?」
 チケットには太い文字で『世界はにわ展』と書かれており、目と口が穴でできた埴輪のイラストが描かれている。
「知らないんですか? つがいの埴輪が展示されてて、恋人の聖地って感じでバスってるんですよ」
 かりんちゃんのスマホに映し出された画像には寄り添った二体の埴輪がハートのような形をしており、その前でカップルが埴輪と同じポーズで映っていた。
「……あのさ」
 俺はとっさに口を閉じ、言葉を飲み込む。
 年下の女の子にこんなことを聞くのはどうなのかという気持ちと、誰かに聞いてほしいという気持ちが天秤の上をぐらぐらと揺れている。だけど結局。
「これって付き合ってる、……のかな?」
 天秤はあっけなく壊れ、本音は情けなく地面に落ちた。
 俺と千晴さんは現在、どういう関係なのか。
 それがここ最近、ずっと考えていることだった。
 だって俺は好きだって言ったけど、千晴さんの口から好きだとは聞いてないし。どっちも『付き合って』とは言ってないし。夏合宿以来、課題とかバイトとか忙しくて会えてないし……。
 うじうじと考える俺に、かりんちゃんはきっぱりと言い放つ。
「いや、付き合ってるでしょ。どう考えても」
「そう、かな?」
「大人の恋愛はいちいち『好きです』『付き合ってください』なんて言わないですよ。たぶん」
「大人の恋愛……」
 不安だった心にムーディな言葉が響き渡る。俺は今、大人の恋愛をしているのか。そう認識すると、とたんにモヤモヤとした不安が消え、爽やかな風が吹かれたような気分になる。
 やっぱり俺、千晴さんと付き合って……。
「それはどうかな」
 いつの間にか背後に立っていた秋宮さんが入ってくる。
「相手にキスされたとき、お酒を飲んでたの?」
「俺は飲んでましたけど、相手は飲んでなかったですね」
「じゃあダメだね」
 秋宮さんは不敵な笑みを浮かべる。
「酔っている時にこそ人の本性は現れる。素面のときの言葉なんて信用しない方がいいよ」
「……こないだと言ってること逆なんですけど」
 俺の指摘を無視し、秋宮さんは感傷に浸った様子でどこか遠くを見つめている。
 呆れている俺を押しのけ、かりんちゃんは手提げの紙袋を差し出す。
「秋宮さん! 今までお世話になりました!」
 俺にくれたものとは明らかにランクが違う高級なチョコが秋宮さんの手に渡る。秋宮さんはほほ笑みを浮かべ、かりんちゃんの頭に手をそっと置く。
「またね、かりんちゃん」
「キャー!」
「ちょっと! 扱い違いすぎるでしょ!」
 騒ぐ俺たちをホールから戻ってきたネコ型配膳ロボットが「邪魔だニャー」と一蹴した。

 バイトの帰り道。
 夜空を見上げながら、かりんちゃんの言葉を思い返す。
 ──付き合ってるでしょ。どう考えても。
 胸のあたりがぎゅうっと熱くなり、口の端から笑みがこぼれる。
 千晴さん、起きてるかな。
 スマホを取り出し、千晴さんへのメッセージを打ち込む。
『千晴さん、今何してますか?』
 しかし、いつかのようにすぐ既読はつかない。もう眠っているのか、それともゲームをしているのか、真面目に課題をしているのか。
 そんな千晴さんを想像しながらかりんちゃんにもらったチョコをかじる。食べ慣れたチョコなのに、いつもよりほんのり甘く感じた。

 そうして、メッセージに既読マークがつかないまま、夏休みは終わった。

   ◇

 午前中の講義を終え、俺は昼ご飯も食べずに大学中を駆け回る。
「どこいったんだよ……」
 食堂にも、講義室にも、大通りにも、千晴さんの姿はなかった。
『おはようございます! 今日大学行きますよね? お昼一緒に食べましょ!』
『まだ寝てるんですか? もう講義始まりますよ!』
 相変わらず既読がつかないままの千晴さんへのメッセージを見ていると、またため息が漏れる。
 次の講義まであと少ししかない。しかし、俺は最後の心当たりを胸に走り出す。
「あ」
 サークル棟のAOHARUの部室の窓に映る人影を見つけ、俺は階段を駆け上がる。
「千晴さん! 探しま……」
「悠真? どうした慌てて」
 部室に飛び込むと、ダンベルを持った榊さんが俺を出迎える。鍛えられた上腕二頭筋がぴくぴくと動いている。サンドバックをはじめとする部室に置かれた筋トレグッズは全て榊さんの私物だ。以前予算で買おうとして却下されたらしい。
「あの、千晴さん見かけませんでした?」
「さぁ、そういえば最近見てないな」
「そうですか……」
 俺は力が抜け、ソファに倒れ込む。
「そろそろ埴輪展終わっちゃうんだけどな」
「はにわ?」
「知り合いにチケットもらってて。今、……なぜかバズってるらしいです」
 まただ。恋人の聖地、と言おうとしたのに喉がきゅっと閉まる感覚がして、はぐらかしてしまった。かりんちゃんに千晴さんは彼女じゃない、って言えなかったように。
「悠真ってさ」
 うつむく俺に、榊さんが声をかける。
「千晴と付き合ってるの?」
「なっ……!?」
 あまりの衝撃に言葉を詰まらせるが、表情を変えない榊さんに誤魔化しは意味がないと悟り、小さく頷く。そう、俺は千晴さんと付き合っている……はず。
「一応、……たぶん? いわゆる大人の恋愛ってやつです」
「なんだそれ」
 榊さんはふっと笑みをこぼすと、表情を引き締め、まっすぐに俺を見つめる。
「あいつと付き合うってことがどういうことか、本気で考えてるのか?」
「本気って……、そりゃあ」
「千晴と手をつないで歩けるか? 千晴のこと恋人だって自信もって言えるのか?」
 真顔の榊さんの圧に慄いていると、榊さんは表情を崩していつもの調子に戻る。
「すまん。脅したいわけじゃないんだ。ただ」
 榊さんは優しくほほえみを浮かべる。そのほほえみにはほんの少し、陰りを感じた。
「俺は親友にこれ以上傷ついてほしくないと思ってる」
「傷ついてって? ……なにがあったんですか?」
 榊さんは口を結び、少し迷ったのちに俺の隣に腰かけスマホの画面を見せてくる。そこに映し出されたのは画質の粗い古い写真だった。数人の男子高校生が仲良さげに映っていて……って。
「んん?」
 写真の中でピースをするお調子者っぽい明るそうな子に違和感を覚え、じっと観察する。もしかして。
「これ、千晴さん?」
「あぁ。高校二年の頃だ」
「えぇ!?」
 今の根暗陰湿ぼっち感がまるでない、爽やかな雰囲気に愕然とする。にわかには信じられないが写真の中の笑顔に俺が見てきた千晴さんの笑顔が重なる。これが高校生の頃の千晴さん……。ちょっとかわいいかも。
「ちなみにこっち俺ね」
「え、……えぇ!?」
 榊さんが指さしたのは、中でも一番大人しそうな印象の男の子だった。肌も今のように焼けてなく、むしろ白くて細い。写真の中の榊さんは千晴さんに肩を組まれ、柔らかな笑みを浮かべている。
「あいつとは高校からの付き合いなんだ」
「そう、なんですね」
 二人はてっきり大学からの仲だと思っていた。でも。
「それで、なんでこの写真を?」
 俺の問いに、榊さんは写真を見つめたまま言葉を落とす。
「このころ、千晴に告白されたんだ」
「……え」
 あまりの衝撃に、頭が理解するのを拒む。千晴さんが告白? 榊さんに? 真っ白になった脳内に、夏合宿での記憶を思い出す。
 面白いやつだったよ、と呟く千晴さんの声を。
 誰かを想う千晴さんの横顔を。
 千晴さんの大事な人、それが榊さん……。
「それで、榊さんはなんて……」
「断った。気持ちは嬉しいけど、お前の気持ちには答えられないって」
「そう、ですか」
 どこまでもまっすぐで清々しい答えに、やっぱり榊さんだなと思う。きっと千晴さんも、榊さんのそういうところを好きになったのかもしれない。
「ただ、千晴に告白されたことをほかのやつに知られたくないって思っちゃってさ。千晴に言っちゃったんだ。誰にも言わないでくれって。……そのときの、泣きそうな顔で笑う千晴の顔が忘れられない」
 榊さんは手を強く結び、俯きながら続ける。まるで神に懺悔をするように。
「でも、誰かがその場面を見ちゃったらしくて、次の日からすげーいじられたんだ。お前狙われてるじゃん、とか。男にモテてどうすんだよ、とか。そういうくだらないやつ。でもそれで学校行くのがしんどくなって、休みがちになってさ。まぁしばらくしたら『別に気にすることないか』ってまた行けるようになったんだけど」
「どうして」
「身体を鍛え始めたからだ。筋トレをしているとな、すべての悩みから解放される」
 榊さんはニカッと笑い、隆起した筋肉を見せつける。
「でもな」
 榊さんはソファにもたれ、斜め上を見上げる。
「それ以来、千晴は人を避けるようになっちまった。『自分の好意が相手を傷つけるなら、俺は誰とも仲良くならない』って」
「そんなの……」
「間違ってるよな。でも、俺は何も言えなかった」
 千晴さんの力ない言葉が宙に揺蕩う。誰とも関わろうとせず、いつも一人でいる千晴さんの後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
「……どうして千晴さんをAOHARUに入れたんですか?」
 千晴さんは榊さんに無理やり入れられたと言っていた。
 いくら榊さんが気にしていないと言っても、千晴さんにとって榊さんは想いが届かなった人物だ。そんな人といつも顔を合わすって千晴さんにとっては辛いはずなのに。
「あいつを一人にできないって思ったんだ」
 胸の内に灯る小さな怒りの灯は、榊さんのほほえみによって掻き消えた。
「悠真の言いたいこともわかる。自分でも千晴をAOHARUに入れたことが正しかったのかわからない。それでも」
 榊さんは再び俺の目を見つめる。
「俺にとって、千晴は親友なんだ」
 これまで幾度となく聞いてきた言葉なのに、今までとまるで違う意味に思える。呆然としていると、手の中でスマホが震える。榊さんからのメッセージは居酒屋のURLだった。
「あいつがよくいく居酒屋だ。でも、中途半端な気持ちならもうあいつに期待させるようなことはしないでくれ」
 そういって俺の肩に手を置く榊さんが、とても遠くにいるように感じた。

 擦りガラス越しの空がオレンジ色に染まり、室内の影がより濃くなる。
 榊さんが出ていってからも、俺はずっとサークル室から出れずにいた。
 ──あいつと付き合うってことがどういうことか、本気で考えてるのか?
 榊さんの言葉が、胸の深いところに突き刺さったままだ。
 俺は考えていなかった。ただ千晴さんと一緒にいたい。今まで見たいに遊んでいたい。そんな浮ついた、軽い気持ちだった。
 そして実際に俺は言い淀んだ。千晴さんとの関係を。
 理由は自分でもわからない。恥ずかしかったのか、後ろめたかったのか、怖かったのか。そんなことないって否定したい気持ちと、実際に言えなかった過去が頭の中でひしめきあう。
「俺はただ……」
 キラキラな青春を送りたかっただけなのに。
 そのために地獄の浪人生活を必死に耐えて、大学に入って、サークルで仲間を作って……。
 インスタを開くと、かつての翔太と香織ちゃんが埴輪の前でハートのポーズを取ったツーショットが映し出される。ほかの同級生カップルたちもみんな同じ画格、同じポーズで同じ埴輪の前に立った写真がいくつも流れてくる。
 幸せそうで、楽しそうで、キラキラとしたみんなを見て、過去の自分が問いかけてくる。
 お前はこれに憧れていたんじゃないか? 彼女が欲しかったんじゃないのか?
 金色に染め続けたせいでかなり傷んだ髪の毛を掻きむしりながら考える。
 俺は、どうしたいんだ……?
「あれ、悠真いるじゃん」
 さては授業サボったな、と智幸は笑いながら本棚の前に立ち、今から読む漫画を吟味しだす。
「どうした? なんか暗くね?」
 おやすみプンプンを手にした智幸が俺の顔を覗き込む。
「そんなお前にいいことを教えてやろう」
 智幸はにやにやと笑みを浮かべながら、俺の隣へ腰を下ろす。
「埴輪展のチケットもってるだろ」
「なんで知ってんの?」
「悠真がチケット持ったまま校内走り回ってたんだろ?」
 たしかに。昼休みに千晴さんを誘おうとしてたんだっけ。数時間前の出来事が遠い過去のように思える。
「それで、チケットがどうしたの?」
「藤井さんがお前のこと探してたんだよ。一緒に埴輪展に行きたいってさ!」
 智幸の発表に理解が追いつかない。藤井さんって、同じサークルの藤井さん? 一緒にオクトーバーフェストに行った、俺の憧れの……?
 やっと理解しかけたところで、智幸が俺の背中をバシッと叩く。
「やったな悠真! 本当はめっちゃ羨ましいけど」
「え、……えぇ!?」
 戸惑いながらも、脳内にはつがいの埴輪の前に立ち、照れながらもハートの片割れのポーズをとる藤井さんのはにかむ笑顔が流れる。俺はごくりとつばを飲み込み、藤井さんの隣に立つ。
 これが、俺の理想のキラキラした青春……、なんかじゃない!
 俺は首を振って妄想を振り払い、チケットを智幸に差し出す。
「これで藤井さん誘えよ」
「え、なんで? 悠真は?」
 そういいながらもちゃっかり受け取る智幸に笑いながら、俺は立ち上がり、自分の頬をぱしっと叩く。
 もう迷わない。もうごまかさない。
「俺、好きな人いるから」
 口にした途端、胸にすーっと風が吹く。俺は軽くなった身体のまま、サークル室を飛び出す。

 千晴さんに、会いたいから。

 ◇

 気がつけば、あたりはすっかり暗くなっていた。だからこそ、目印となる赤い灯にすぐに気づけた。
 榊さんから教えてもらったそこは繁華街の路地裏にひっそりと佇む、赤提灯がぶら下がった居酒屋だった。
 俺は息を整え、引き戸を開けると閉じ込められていた喧騒が押し寄せる。カウンター席とテーブル席が数席、どちらもサラリーマン風の中年男性が多く座っている。
 換気扇が壊れているのか、炭火の煙で靄がかかった店内を見回していると、カウンター席の奥に卓にもたれる人影が見えた。うねった髪に、曲がった背中。まちがいない、千晴さんだ。
 俺は千晴さんを目印に人込みをかき分ける。すると常連らしき作業服姿のおじさんが千晴さんの肩に腕を回す。
「兄ちゃん若いのに一人か? 彼女いねえのか?」
 何も言わない千晴さんを無視して酔ったおじさんは続ける。
「なんだ独り身か? 寂しい奴だな。だったらキャバでも行こうや!」
「いや、えっと……」
 身を引く千晴さんを捕らえ、おじさんはがははと豪快に笑う。
「いいからいいから! 人生の先輩の言うこと聞いとけって! 男はな、女ができて初めて一人前なんだぞ?」
 千晴さんの顔色が一気に悪くなり、視線が下がっていく。
「よし! じゃあ行こう! お姉さんに気持ちいことしてもらえって!」
 千晴さんのことなど考えていない、鼻の下を伸ばしたおじさんが千晴さんの腕を引く。俺は怒りのまま二人の間に入り、千晴さんを胸に引き寄せる。
「悠真……? なんで」
「俺の先輩にちょっかいかけないでくれませんか?」
 おじさんは水を差されたのが気に食わない様子で、こめかみの血管がぴくりと動く。
「あ? なんだよお前?」
「行きますよ千晴さん」
 おじさんに背を向け、一万円札をカウンターに置いて居酒屋を抜け出す。

 ネオン輝く繁華街はあっちもこっちも騒がしくて、目が回る。
 隣を歩く千晴さんがよろけ、とっさに手を掴む。
「手、離さないでください」
「……」
 千晴さんは何も言わないまま、それでも手を離そうとしなかった。
 だから俺は千晴さんの手を優しく握り直す。
 これがきっと、千晴さんと、男性と付き合うということだろう。
 すれ違う人の視線が気にならないと言えば噓になる。どこからか聞こえる笑い声が自分たちへの嘲笑に聞こえる。それでも。
 大切な人の手を離す理由にはならない。
 胸に刺さったままだった榊さんの言葉は、いつのまにか無くなっていた。

   ◇

 路地を抜け、公園の門をくぐる。
 どのくらい歩いただろう。もうここには繁華街の煌きも人の気配も感じない。そこでようやく緊張の糸が途切れ、ぷはっ、と水面から顔を出したように息を吐く。
「めっちゃ怖かった……」
 今も心臓がバクバクと騒いでいる。へなへなと背筋を曲げ、膝に手をついていると講演の中央にそびえたつ桜の木に気がついた。ここは春に千晴さんと来た公園だ。当然だが桜は散り、無数の枝が夜空に向かって伸びている。
「なんであの店がわかったんだよ」
 背後で千晴さんが言葉を落とす。
「榊さんに、教えてもらって」
「あいつ……」
 呆れたように頭を押さえると、千晴さんもまた力が抜けたのかよろりとふらつく。
「大丈夫ですか」
「触るな」
 千晴さんは俺の手を払い、顔をそらす。
「てか、なんで来たんだよ」
「なんでって、千晴さんに会いたくて」
「……俺は、お前に会いたくないんだよ」
 千晴さんの一言が、俺の心を抉る。睨みつける千晴さんの目が潤んでいる。頬も赤いし、息遣いも乱れている。
 千晴さんは酔っている。
 そう。これはいつもの○○上戸だ。気にする必要はない。秋宮さんも酔っているときの言葉は信じるなって言ってたし。あれ、逆だっけ? とにかく。
 明日には忘れているはずだし、千晴さんの本心じゃ……。いや。
 俺は目を見開き、うつむく千晴さんを見つめる。
 覚えてないからって、本心じゃないのか?
 ──自分の好意が相手を傷つけるなら、俺は誰とも仲良くならない。
 そう心に決め、仏頂面で、人を寄せ付けず、いつも一人でいる千晴さん。
 でもお酒を飲んだ時は俺に笑いかけたり、甘えたり、感情をぶつけてくれる。
 それって、千晴さんがいつも我慢している感情じゃないのか。
 お酒を飲んだときだけ、自分を開放できる。だからそのときどきによって○○上戸が変わる。そのどれもが千晴さんの一面であって、全部が千晴さんの本心なんだ。
「千晴さん」
 名前を呼ぶと、心臓がどくんと跳ねる。この仮説が正しいなんて確証はない。それでも、千晴さんへの愛おしさが溢れて止まらない。
「俺は、千晴さんの全部が好きです。素面の時も、お酒を飲んでるときも、全部」
「……」
「だから千晴さんも俺のこと、好きになってください」
「……なんだよそれ」
 千晴さんは苦しそうに笑い、俺を突き放すように背を向ける。
「男と付き合うなんてやめとけ。お前は女の子を好きになれるんだから、その方が……」
 千晴さんの言葉は弱弱しく萎んでいく。俺はとっさに千晴さんの手を握って振り向かせる。
「俺は、千晴さんと一緒にいたいんですよ!」
「……っ!」
 前髪の隙間から見える千晴さんの瞳が潤んでいく。
「俺は……」
 千晴さんの小さな口から声にならない吐息が漏れる。俺はただ、千晴さんの手を握ったまま言葉を待つ。指先がつながり、手のひらから体温が伝わる。心が通う。すると、千晴さんは小さく息を吸い、俺を見つめる。
「俺は、悠真のことが好きだ」
 言葉にした瞬間、涙がぽろぽろと転がり落ちる。
「泣かないでくださいよ、泣き上戸ですか?」
 おどけた調子で千晴さんの頬を拭う。涙が熱くて、俺まで泣きそうになる。千晴さんは鼻をすすりながら、子どものように本心を吐露する。
「好きって言うのがずっと怖くて。悠真に、嫌な思いをしてほしくなくて。でも、どんどん自分の中で悠真への気持ちが大きくなって……」
「大丈夫。大丈夫っすよ」
 こらえきれず、千晴さんを胸に引き寄せ抱きしめる。けれど、千晴さんの方が身長が高いせいで俺が千晴さんの胸に収まる形となった。千晴さんの激しい鼓動が伝わってくる。それがたまらなく嬉しくて、俺はさらに強く抱きしめる。
「あ、そういえば」
 俺は顔を上げ、千晴さんに尋ねる。
「埴輪展、行きたいですか?」
「……興味ない」
「あはは。俺もっす」
 俺は再び、千晴さんの胸に身体を預ける。
 世間の流行りとか、他人なんて関係ない。

 誰が何と言おうと、俺たちは恋人だ。

 祝福するように、月明かりが俺たちを優しく照らす。