顔を上げると、夜空を埋め尽くさんばかりの星々に息をのむ。俺が住むアパートからだって星は見えるが鮮明さも視認できる星の数も段違いだ。天然のプラネタリウムに夢中になっていると、慌てた声が背中を叩く。
「幹事さん! その肉焦げそうだよ!」
「あ!」
急いで肉をひっくり返すと焼き目がついた牛カルビが現れ、滴る油がじゅう、と音を立てる。
「大丈夫? そろそろ代わろうか?」
「大丈夫っす! あ、こっちもう焼けてるんで! 食べちゃってください!」
晩飯は民宿の庭でバーベキュー。本来は大部屋で食事の予定だったが、他の宿泊客もいないしどうせならにぎやかに、と支配人でもある女将さんがバーベキューセットを貸し出してくれた。
もくもくと立ち込める香ばしい煙が目に染みる。それでも美味しそうに頬張るみんなを見るとますますやる気がみなぎってくる。それに、ここで肉を焼く係をしていれば自然と人が集まってくる。それはつまり。
「やっぱり一人でいる……」
賑わうメンバーたちの向こう、千晴さんは椅子に座っている。千晴さんは人が集まっているところに寄ってこない。離れていてよく見えないが、心なしかいつもよりも仏頂面がマシマシな気がする。
そりゃ怒るよな。滝に置き去りにしちゃったし。
千晴さんが帰ってきてからもバーベキューセットを組み立てたり、炭に火をつけたりとなにかと忙しいふりをして顔を合わせないようにしてしまっている。すると。
「悠真!」
榊さんは上機嫌に俺の名前を呼び、肩に腕を回す。
「お前に幹事頼んでよかったよ」
「ありがとうございますっ!」
「今度幹事たちで打ち上げやろうな。もちろん俺の奢りだ!」
「じゃあ焼き肉がいいっす!」
「おういいぞ! 上ロースでもヒレステーキでもなんでも好きなもの食え!」
「マジっすか!? って、あれ?」
ニカッと笑う榊さんの頬がほんのり赤らんでいる。それに身体も熱く、ほんのりと酒臭い。
「もしかして酔ってます? 今言ったこと、忘れないでくださいよ」
「大丈夫だ。頭が忘れてもここが覚えてる」
そういうと、榊さんは力強く自分の胸を叩く。
「いいか悠真。人の心ってやつは、大切なことは忘れないようにできてるんだよ」
「そう、ですか」
なぜか妙に榊さんの言葉が胸に残る。大切なこと。頭の中で反芻していると、榊さんはにやりと口角を上げる。
「それに、忘れているのはお前の方だぜ」
「え」
すると、みんなが一斉にこちらへ振り向き、隠し持っていたクラッカーを鳴らす。軽快な破裂音と宙を舞う紙吹雪。呆然としている俺にみんなが声をそろえる。
「悠真! 誕生日おめでとう!」
「え、……えぇ!?」
そうだ! 今日は俺の誕生日じゃん!?
合宿の準備が忙しくて頭からすっかり抜けていた。
「あ、ありが……、えぇ!?」
感謝を伝えようとする俺の目に飛び込んできたのは果物がたくさんのホールケーキ。
まさか、こんなものまで用意してくれていたなんて……!
思いがけないサプライズで真っ白になった頭に流れる地獄の浪人生活、そして大学入学から今日までの記憶。
「俺、AOHARUに入ってよかったぁ……!」
感動で声が震え、視界が潤む。
「いいから早く火消せって!」
「ちょっとくらい余韻に浸らせろっ!」
智幸にツッコみながら、俺は2と0の形のキャンドルに灯された火を吹き消す。ワーッと湧くメンバーたち。
「みんな、本当にありがとうございますっ!」
「じゃ、悠真も二十歳になったということで……!」
そう言うと、榊さんは紙コップを差し出す。中に入っているのは金色の液体と、それを覆うように膨らむ純白の泡。鼻を衝くアルコール臭に心臓がドクンと跳ねる。
「もちろん強制はしないけど?」
「飲みます!」
「悠真ならそういうと思った! じゃあみんな! 改めて悠真の誕生日と最高の夏に~!」
かんぱーいっ!
俺は緊張しながらビールに口をつける。ビールはやっぱり苦い。でも。
「……あれ、美味しいかも」
炭酸の爽やかな喉ごしが新しく、苦みの奥に旨味を感じる。なんだこれ、と夢中になるうちに一気に飲み干してしまった。ぷはーっと息を吐くと、自分の吐息が酒臭い。全身に熱が帯びていくのがわかる。意味もなく笑いがこみ上げる。ただただ楽しい。みんなと一緒にお酒を飲めて。みんなと一緒に騒げて。
千晴さんもこっちにくればいいのに。
俺は高揚感に身を任せ、高らかにコップを掲げる。
「もう一杯っ!」
それから数十分後。
「みんな飲んでなくない!? WOW-WOW」
もう何杯目かもわからないお酒をぐいっと飲む。全身が熱く、身体が浮いているよう。みんなの顔も赤いが、間違いなく俺が一番酔っている。それすなわち、俺が一番イケイケってわけ!
「ふぅー!」
俺の雄たけびが大自然にこだまする。
「榊さん、あいつなんとかしてくださいよ」
「酔うとうざいタイプだったか」
「榊さんも智幸もなに話してんすか!? それより飲みましょうよぉ!」
思ったことが脳に留まらず、するすると口から流れ出る。あぁ、楽しくって仕方がない。酒をガソリンに激しく暴れる鼓動のビートに合わせて身体を揺らしていると、背後から名前を呼ばれる。
「悠真」
振り返ると、千晴さんが相変わらずの仏頂面で立っていた。
「千晴っち!? 飲んでなくない? うぉう……おぅ!?」
「こっち来い」
千晴さんは突然、俺の腕を掴み歩き出す。千晴さんと体格差はないはずなのに、酔って力が入らない俺は簡単に引きずられてしまう。
「ちょっとぉ!? どこいくのぉ!?」
「ありがとう! 倉本先輩!」
会場を去る際、智幸をはじめ、ほかのメンバーたちはなぜか千晴さんに感謝を述べていた。
民宿に入り、ふすまが開くと大部屋には既に布団が敷き詰められていた。柔らかな布団に足を取られ、そのまま倒れ込む。滑るような肌触りが心地よく、お日様の匂いが心を落ち着かせる。しかし。
「暑い!」
お酒で火照った身体ごと脱ぎ捨てるようにシャツを捲り上げ、ズボンを引き下ろす。うん。これでよし。俺はパンツ一丁になり、再び大の字に寝転ぶ。そんな俺のそばに腰を下ろした千晴さんは頭を抱え、ため息をもらす。
「連れ出して正解だった。あの日といっしょだな」
「あの日ってぇ?」
うまくろれつが回らない。意識も身体もふわふわする。そんな俺を見下ろしながら、千晴さんは懐かしむように、時折笑みを浮かべて語る。
あの日、新歓での出来事を──。
新歓の日。
酔っ払い男に無理やりお酒を飲まされた俺は次第に酔いが回り、繁華街を抜けるころには足元がおぼつかないほどだった。そんな俺を見捨てることなく、千晴さんは家まで送り届けてくれた。まぁ、扱いは雑だったけど。
『んぎゃ!』
玄関を開けてリビングまで引きずると、千晴さんは俺をベッドへ放り投げる。俺はまな板の上の魚のようにバウンバウンと跳ねる。
『もう帰るからな』
『えぇ、帰っちゃうんですかぁ?』
『当たり前だ。あー、重かった』
腕を回しながら肩を揉む千晴さんを見上げていると、ふいに声が漏れる。
『千晴さん、かっこいいですね』
『は?』
『優しいし。俺、千晴さんみたいな人と付き合いたいな』
『……いいからもう寝ろ』
千晴さんは踵を返して玄関へと向かう。だが、靴に足を入れる直前、また俺の前へと戻ってきた。なぜかとても、辛そうな顔で。
『言っとくけど、お前のそれは憧れと好意を錯覚してるだけだ』
『なんすかそれ』
『だから。お前は俺のこと好きじゃないってこと』
それだけ、と言い捨て千晴さんは振り返る。しかし、俺は千晴さんの腕を掴み、ぐいっと引っ張る。体勢を崩した千晴さんは俺の隣へ座り込む。
『お前、なにして……』
『今は好きじゃなくても、これから好きになるかもじゃないですか!? 俺の未来を、あんたが勝手に決めないでくださいよっ!』
あれ。俺なんで千晴さんに怒ってるんだろう。なんでこんなにムカついてるんだろう。だって、千晴さんが変なこと言うから。憧れとか錯覚とか、意味わかんないから。それに、千晴さんが悲しそうだったから。っていうか。
『暑い』
『え』
無性に身についているものがすべて煩わしくなり、かんしゃくを起こした子どものように一心不乱に服を脱ぎだす。すると、千晴さんは驚きながら必死に顔をそらす。
『ちょ、お前!? そういうのは早いって……、あ?』
千晴さんが振り返ると、俺はベッドに倒れ、まぶたを閉じていたという。
『……寝てるし。なんなんだよこいつ』
まどろむ意識の中で、千晴さんのほほえみだけが耳に届いた。
そうだった、ような……?
ただでさえ身体も意識もふわふわと宙に浮いているような状況で過去のことまで思いだすなんて不可能だった。それは千晴さんも理解したようで、呆れたようなため息をもらす。
「なのにお前、完全に忘れやがって」
「えへへ、さーせん」
「いいから。もう寝ろ」
千晴さんは薄いタオルケットを俺にかぶせると、俺の手に千晴さんの手のひらが偶然重なる。しかし、千晴さんは手を動かさない。千晴さんの体温が、想いが流れ込んでくるようで、俺は口の端から笑みがもれる。
「悠真は、俺のことどう思ってるの?」
「好きっす。めっちゃ好き」
思考のブレーキが壊れている。夕方は戸惑うばかりだったのに、考えていることがどんどんと溢れてしまう。
「千晴さんは、俺のこと好きじゃないんですかぁ……?」
視界が掠れ、まぶたがぐっと重くなる。昨日からの寝不足に加え、山を登ったり幹事の仕事をしたりと、積み重なった疲労が俺を眠りの世界へ誘う。途切れかけの意識の中、千晴さんの言葉が聞こえる。
「どうせ忘れるから」
千晴さんが俺の頬に口づけた瞬間、俺の意識は落ちた。
◇
「ぬわっ……!?」
「やっと起きたか、変態」
起き上がると、隣で芸術的な寝ぐせの智幸がスマホをいじっていた。ほかにもサークルの男性メンバーたちが着替えたり、布団を畳んだりと、身支度をしている。
もう朝になったのか、とあくびを嚙み締めながらふと智幸の言葉を思い出す。変態って?
視線を落とすと、相変わらず割れていない腹とゴムのよれたパンツに気づき、俺は慌ててタオルケットを纏う。
「なんでお前パンイチなの?」
「……さぁ?」
智幸の疑問をあしらい辺りを見回すと、部屋の隅にいる千晴さんと目があった。しかし、千晴さんはすぐに窓の外へと視線をずらし、肘をついて景色を眺める。
「ちはるさ……」
「幹事、出発って何時?」
声をかけようと立ち上がるが、ほかの先輩から呼ばれ、時計を見やる。
「出発は八時で……、って、もう八時じゃん! みんな荷物まとめてください!」
「お前はその前に服を着ろ」
智幸にツッコまれ、大部屋は笑いに包まれた。それから着替えたり、忘れ物や人数の確認をしているうちに、いつのまにか千晴さんを見失ってしまった。
「よーし、帰るぞー! 家に帰るまでがAOHARUの夏合宿だからな!」
がっはっは、と野太い高笑いが山にこだまする。みんな疲れたり、お酒が残ってグロッキーなのに、どうして榊さんはこんなに元気なんだ。
「それじゃあ、各々車に乗り込め!」
榊さんの号令とともにみんなが車に荷物を詰め込む中、智幸がにじり寄ってくる。
「もうオープンカーには乗らないからな」
「分かったって」
そんなに嫌だったのか、と笑って宥めていると、ふと昨日の疑問を思い出す。
「そういえばここに来るとき、千晴さんとなに話したの?」
智幸は当たり前のことを聞かれたように、うんざりしながら答える。
「お前の話だよ」
「俺?」
思ってもいなかった答えに面食らう俺に、智幸は続ける。
「悠真とはどういう関係か、とか。悠真はいつもどんな様子か、とか。お前、よっぽど気に入られているんだな」
そういうわけだから、と智幸は颯爽と他の車に乗り込んだ。
千晴さんと俺のことを……。
安堵と嬉しさと照れくささで顔をほころばせていると、背後から榊さんが俺の名前を呼ぶ。振り替えると車のカギが飛んできて慌ててキャッチする。
「ちょっとトイレいってくる!」
そう宣言すると、榊さんはすぐに民宿へと消えていった。榊さんの勢いの良さに笑いながら、夏の日差しを浴びてギラギラとした光沢を放つオープンカーへ向かう。すると。
「あれ、千晴さん?」
後部座席にはすでに千晴さんがいた。気配を消すように後部座席に寝転んでいる。
「俺も乗るんで起きてください」
「ちっ」
「今舌打ちしました? だったら俺が膝枕しましょうか?」
「いい」
そんな言い合いをしながら千晴さんを押しのけオープンカーに乗る。乗る、といっても天井も窓もないからあまり乗った気がしないのだけど。ドアを閉め、シートベルトを締めると、とたんに夏合宿が終わった実感が湧いてくる。
「楽しかったですね、合宿」
「あぁ」
千晴さんはドアに肘をつき、ぼんやりと外を眺めている。どこか寂しそうで、切なげな目をしている千晴さん。そんな千晴さんに顔をよせ、俺は伝える。
「俺、覚えてますから」
千晴さんは目を見開き、こちらへ振り向く。
「なんで……」
俺を介抱してくれた千晴さんの優しさ。初めて会った日のことを話してくれた千晴さんの声。そして、俺の好きを聞き入れてくれた千晴さんの表情。
俺は昨夜のことを思い出しながら、自分の胸を叩く。
「人の心ってやつは、大切なことは忘れないようにできてるらしいです」
「……なんだそれ」
千晴さんはまた肘をつき、顔をそらす。それでも耳が真っ赤になっているのがわかる。そのとき、もう片方の座席に置かれた手が目に入る。
俺は吸い込まれるように、静かに、ゆっくりと千晴さんの手に、自分の手を重ね……、ようとした瞬間、運転席が開いて榊さんが乗り込んでくる。
「めっちゃ出たわ……って、どうしたお前ら?」
「「別に!!」」
「相変わらずお前らは仲がいいな」
榊さんは軽快に笑うと、俺から鍵を受け取りエンジンをかける。オープンカーは目を覚ましたようにぶるんと震え、犬の呼吸のようなリズムで小刻みに揺れる。
「よし、行くぞ!」
夏の空気が風となり、頬をなぞる。屋根のない車内から見上げる空は、いつもより近く、広く感じる。
となりへ顔を向けると、千晴さんは座席に身を預け眠っていた。風に揺れる髪の間から見える千晴さんの安らかな寝顔を見ながら俺は改めて思う。
俺、千晴さんのことが好きだ。
オープンカーは風を切り、俺たちが暮らす町へと走る。
「幹事さん! その肉焦げそうだよ!」
「あ!」
急いで肉をひっくり返すと焼き目がついた牛カルビが現れ、滴る油がじゅう、と音を立てる。
「大丈夫? そろそろ代わろうか?」
「大丈夫っす! あ、こっちもう焼けてるんで! 食べちゃってください!」
晩飯は民宿の庭でバーベキュー。本来は大部屋で食事の予定だったが、他の宿泊客もいないしどうせならにぎやかに、と支配人でもある女将さんがバーベキューセットを貸し出してくれた。
もくもくと立ち込める香ばしい煙が目に染みる。それでも美味しそうに頬張るみんなを見るとますますやる気がみなぎってくる。それに、ここで肉を焼く係をしていれば自然と人が集まってくる。それはつまり。
「やっぱり一人でいる……」
賑わうメンバーたちの向こう、千晴さんは椅子に座っている。千晴さんは人が集まっているところに寄ってこない。離れていてよく見えないが、心なしかいつもよりも仏頂面がマシマシな気がする。
そりゃ怒るよな。滝に置き去りにしちゃったし。
千晴さんが帰ってきてからもバーベキューセットを組み立てたり、炭に火をつけたりとなにかと忙しいふりをして顔を合わせないようにしてしまっている。すると。
「悠真!」
榊さんは上機嫌に俺の名前を呼び、肩に腕を回す。
「お前に幹事頼んでよかったよ」
「ありがとうございますっ!」
「今度幹事たちで打ち上げやろうな。もちろん俺の奢りだ!」
「じゃあ焼き肉がいいっす!」
「おういいぞ! 上ロースでもヒレステーキでもなんでも好きなもの食え!」
「マジっすか!? って、あれ?」
ニカッと笑う榊さんの頬がほんのり赤らんでいる。それに身体も熱く、ほんのりと酒臭い。
「もしかして酔ってます? 今言ったこと、忘れないでくださいよ」
「大丈夫だ。頭が忘れてもここが覚えてる」
そういうと、榊さんは力強く自分の胸を叩く。
「いいか悠真。人の心ってやつは、大切なことは忘れないようにできてるんだよ」
「そう、ですか」
なぜか妙に榊さんの言葉が胸に残る。大切なこと。頭の中で反芻していると、榊さんはにやりと口角を上げる。
「それに、忘れているのはお前の方だぜ」
「え」
すると、みんなが一斉にこちらへ振り向き、隠し持っていたクラッカーを鳴らす。軽快な破裂音と宙を舞う紙吹雪。呆然としている俺にみんなが声をそろえる。
「悠真! 誕生日おめでとう!」
「え、……えぇ!?」
そうだ! 今日は俺の誕生日じゃん!?
合宿の準備が忙しくて頭からすっかり抜けていた。
「あ、ありが……、えぇ!?」
感謝を伝えようとする俺の目に飛び込んできたのは果物がたくさんのホールケーキ。
まさか、こんなものまで用意してくれていたなんて……!
思いがけないサプライズで真っ白になった頭に流れる地獄の浪人生活、そして大学入学から今日までの記憶。
「俺、AOHARUに入ってよかったぁ……!」
感動で声が震え、視界が潤む。
「いいから早く火消せって!」
「ちょっとくらい余韻に浸らせろっ!」
智幸にツッコみながら、俺は2と0の形のキャンドルに灯された火を吹き消す。ワーッと湧くメンバーたち。
「みんな、本当にありがとうございますっ!」
「じゃ、悠真も二十歳になったということで……!」
そう言うと、榊さんは紙コップを差し出す。中に入っているのは金色の液体と、それを覆うように膨らむ純白の泡。鼻を衝くアルコール臭に心臓がドクンと跳ねる。
「もちろん強制はしないけど?」
「飲みます!」
「悠真ならそういうと思った! じゃあみんな! 改めて悠真の誕生日と最高の夏に~!」
かんぱーいっ!
俺は緊張しながらビールに口をつける。ビールはやっぱり苦い。でも。
「……あれ、美味しいかも」
炭酸の爽やかな喉ごしが新しく、苦みの奥に旨味を感じる。なんだこれ、と夢中になるうちに一気に飲み干してしまった。ぷはーっと息を吐くと、自分の吐息が酒臭い。全身に熱が帯びていくのがわかる。意味もなく笑いがこみ上げる。ただただ楽しい。みんなと一緒にお酒を飲めて。みんなと一緒に騒げて。
千晴さんもこっちにくればいいのに。
俺は高揚感に身を任せ、高らかにコップを掲げる。
「もう一杯っ!」
それから数十分後。
「みんな飲んでなくない!? WOW-WOW」
もう何杯目かもわからないお酒をぐいっと飲む。全身が熱く、身体が浮いているよう。みんなの顔も赤いが、間違いなく俺が一番酔っている。それすなわち、俺が一番イケイケってわけ!
「ふぅー!」
俺の雄たけびが大自然にこだまする。
「榊さん、あいつなんとかしてくださいよ」
「酔うとうざいタイプだったか」
「榊さんも智幸もなに話してんすか!? それより飲みましょうよぉ!」
思ったことが脳に留まらず、するすると口から流れ出る。あぁ、楽しくって仕方がない。酒をガソリンに激しく暴れる鼓動のビートに合わせて身体を揺らしていると、背後から名前を呼ばれる。
「悠真」
振り返ると、千晴さんが相変わらずの仏頂面で立っていた。
「千晴っち!? 飲んでなくない? うぉう……おぅ!?」
「こっち来い」
千晴さんは突然、俺の腕を掴み歩き出す。千晴さんと体格差はないはずなのに、酔って力が入らない俺は簡単に引きずられてしまう。
「ちょっとぉ!? どこいくのぉ!?」
「ありがとう! 倉本先輩!」
会場を去る際、智幸をはじめ、ほかのメンバーたちはなぜか千晴さんに感謝を述べていた。
民宿に入り、ふすまが開くと大部屋には既に布団が敷き詰められていた。柔らかな布団に足を取られ、そのまま倒れ込む。滑るような肌触りが心地よく、お日様の匂いが心を落ち着かせる。しかし。
「暑い!」
お酒で火照った身体ごと脱ぎ捨てるようにシャツを捲り上げ、ズボンを引き下ろす。うん。これでよし。俺はパンツ一丁になり、再び大の字に寝転ぶ。そんな俺のそばに腰を下ろした千晴さんは頭を抱え、ため息をもらす。
「連れ出して正解だった。あの日といっしょだな」
「あの日ってぇ?」
うまくろれつが回らない。意識も身体もふわふわする。そんな俺を見下ろしながら、千晴さんは懐かしむように、時折笑みを浮かべて語る。
あの日、新歓での出来事を──。
新歓の日。
酔っ払い男に無理やりお酒を飲まされた俺は次第に酔いが回り、繁華街を抜けるころには足元がおぼつかないほどだった。そんな俺を見捨てることなく、千晴さんは家まで送り届けてくれた。まぁ、扱いは雑だったけど。
『んぎゃ!』
玄関を開けてリビングまで引きずると、千晴さんは俺をベッドへ放り投げる。俺はまな板の上の魚のようにバウンバウンと跳ねる。
『もう帰るからな』
『えぇ、帰っちゃうんですかぁ?』
『当たり前だ。あー、重かった』
腕を回しながら肩を揉む千晴さんを見上げていると、ふいに声が漏れる。
『千晴さん、かっこいいですね』
『は?』
『優しいし。俺、千晴さんみたいな人と付き合いたいな』
『……いいからもう寝ろ』
千晴さんは踵を返して玄関へと向かう。だが、靴に足を入れる直前、また俺の前へと戻ってきた。なぜかとても、辛そうな顔で。
『言っとくけど、お前のそれは憧れと好意を錯覚してるだけだ』
『なんすかそれ』
『だから。お前は俺のこと好きじゃないってこと』
それだけ、と言い捨て千晴さんは振り返る。しかし、俺は千晴さんの腕を掴み、ぐいっと引っ張る。体勢を崩した千晴さんは俺の隣へ座り込む。
『お前、なにして……』
『今は好きじゃなくても、これから好きになるかもじゃないですか!? 俺の未来を、あんたが勝手に決めないでくださいよっ!』
あれ。俺なんで千晴さんに怒ってるんだろう。なんでこんなにムカついてるんだろう。だって、千晴さんが変なこと言うから。憧れとか錯覚とか、意味わかんないから。それに、千晴さんが悲しそうだったから。っていうか。
『暑い』
『え』
無性に身についているものがすべて煩わしくなり、かんしゃくを起こした子どものように一心不乱に服を脱ぎだす。すると、千晴さんは驚きながら必死に顔をそらす。
『ちょ、お前!? そういうのは早いって……、あ?』
千晴さんが振り返ると、俺はベッドに倒れ、まぶたを閉じていたという。
『……寝てるし。なんなんだよこいつ』
まどろむ意識の中で、千晴さんのほほえみだけが耳に届いた。
そうだった、ような……?
ただでさえ身体も意識もふわふわと宙に浮いているような状況で過去のことまで思いだすなんて不可能だった。それは千晴さんも理解したようで、呆れたようなため息をもらす。
「なのにお前、完全に忘れやがって」
「えへへ、さーせん」
「いいから。もう寝ろ」
千晴さんは薄いタオルケットを俺にかぶせると、俺の手に千晴さんの手のひらが偶然重なる。しかし、千晴さんは手を動かさない。千晴さんの体温が、想いが流れ込んでくるようで、俺は口の端から笑みがもれる。
「悠真は、俺のことどう思ってるの?」
「好きっす。めっちゃ好き」
思考のブレーキが壊れている。夕方は戸惑うばかりだったのに、考えていることがどんどんと溢れてしまう。
「千晴さんは、俺のこと好きじゃないんですかぁ……?」
視界が掠れ、まぶたがぐっと重くなる。昨日からの寝不足に加え、山を登ったり幹事の仕事をしたりと、積み重なった疲労が俺を眠りの世界へ誘う。途切れかけの意識の中、千晴さんの言葉が聞こえる。
「どうせ忘れるから」
千晴さんが俺の頬に口づけた瞬間、俺の意識は落ちた。
◇
「ぬわっ……!?」
「やっと起きたか、変態」
起き上がると、隣で芸術的な寝ぐせの智幸がスマホをいじっていた。ほかにもサークルの男性メンバーたちが着替えたり、布団を畳んだりと、身支度をしている。
もう朝になったのか、とあくびを嚙み締めながらふと智幸の言葉を思い出す。変態って?
視線を落とすと、相変わらず割れていない腹とゴムのよれたパンツに気づき、俺は慌ててタオルケットを纏う。
「なんでお前パンイチなの?」
「……さぁ?」
智幸の疑問をあしらい辺りを見回すと、部屋の隅にいる千晴さんと目があった。しかし、千晴さんはすぐに窓の外へと視線をずらし、肘をついて景色を眺める。
「ちはるさ……」
「幹事、出発って何時?」
声をかけようと立ち上がるが、ほかの先輩から呼ばれ、時計を見やる。
「出発は八時で……、って、もう八時じゃん! みんな荷物まとめてください!」
「お前はその前に服を着ろ」
智幸にツッコまれ、大部屋は笑いに包まれた。それから着替えたり、忘れ物や人数の確認をしているうちに、いつのまにか千晴さんを見失ってしまった。
「よーし、帰るぞー! 家に帰るまでがAOHARUの夏合宿だからな!」
がっはっは、と野太い高笑いが山にこだまする。みんな疲れたり、お酒が残ってグロッキーなのに、どうして榊さんはこんなに元気なんだ。
「それじゃあ、各々車に乗り込め!」
榊さんの号令とともにみんなが車に荷物を詰め込む中、智幸がにじり寄ってくる。
「もうオープンカーには乗らないからな」
「分かったって」
そんなに嫌だったのか、と笑って宥めていると、ふと昨日の疑問を思い出す。
「そういえばここに来るとき、千晴さんとなに話したの?」
智幸は当たり前のことを聞かれたように、うんざりしながら答える。
「お前の話だよ」
「俺?」
思ってもいなかった答えに面食らう俺に、智幸は続ける。
「悠真とはどういう関係か、とか。悠真はいつもどんな様子か、とか。お前、よっぽど気に入られているんだな」
そういうわけだから、と智幸は颯爽と他の車に乗り込んだ。
千晴さんと俺のことを……。
安堵と嬉しさと照れくささで顔をほころばせていると、背後から榊さんが俺の名前を呼ぶ。振り替えると車のカギが飛んできて慌ててキャッチする。
「ちょっとトイレいってくる!」
そう宣言すると、榊さんはすぐに民宿へと消えていった。榊さんの勢いの良さに笑いながら、夏の日差しを浴びてギラギラとした光沢を放つオープンカーへ向かう。すると。
「あれ、千晴さん?」
後部座席にはすでに千晴さんがいた。気配を消すように後部座席に寝転んでいる。
「俺も乗るんで起きてください」
「ちっ」
「今舌打ちしました? だったら俺が膝枕しましょうか?」
「いい」
そんな言い合いをしながら千晴さんを押しのけオープンカーに乗る。乗る、といっても天井も窓もないからあまり乗った気がしないのだけど。ドアを閉め、シートベルトを締めると、とたんに夏合宿が終わった実感が湧いてくる。
「楽しかったですね、合宿」
「あぁ」
千晴さんはドアに肘をつき、ぼんやりと外を眺めている。どこか寂しそうで、切なげな目をしている千晴さん。そんな千晴さんに顔をよせ、俺は伝える。
「俺、覚えてますから」
千晴さんは目を見開き、こちらへ振り向く。
「なんで……」
俺を介抱してくれた千晴さんの優しさ。初めて会った日のことを話してくれた千晴さんの声。そして、俺の好きを聞き入れてくれた千晴さんの表情。
俺は昨夜のことを思い出しながら、自分の胸を叩く。
「人の心ってやつは、大切なことは忘れないようにできてるらしいです」
「……なんだそれ」
千晴さんはまた肘をつき、顔をそらす。それでも耳が真っ赤になっているのがわかる。そのとき、もう片方の座席に置かれた手が目に入る。
俺は吸い込まれるように、静かに、ゆっくりと千晴さんの手に、自分の手を重ね……、ようとした瞬間、運転席が開いて榊さんが乗り込んでくる。
「めっちゃ出たわ……って、どうしたお前ら?」
「「別に!!」」
「相変わらずお前らは仲がいいな」
榊さんは軽快に笑うと、俺から鍵を受け取りエンジンをかける。オープンカーは目を覚ましたようにぶるんと震え、犬の呼吸のようなリズムで小刻みに揺れる。
「よし、行くぞ!」
夏の空気が風となり、頬をなぞる。屋根のない車内から見上げる空は、いつもより近く、広く感じる。
となりへ顔を向けると、千晴さんは座席に身を預け眠っていた。風に揺れる髪の間から見える千晴さんの安らかな寝顔を見ながら俺は改めて思う。
俺、千晴さんのことが好きだ。
オープンカーは風を切り、俺たちが暮らす町へと走る。



