頬が赤いのはきみのせい

 窓から入り込む月の明かりが夜の闇を溶かし、部屋を藍色に染める。
 時刻は深夜二時半。俺は何度目かの寝返りを打ち、枕に頭を沈める。しかし。
「……ダメだ。寝れない」
 大学の前期が終了し、夏休みに入って数週間。明日は待ちに待ったAOHARUの合宿だ。
「合宿が楽しみで眠れないとか、小学生かよ」
 自分自身にツッコみながら、俺は充電コードに刺さったスマホに手を伸ばす。ブルーライトがなおさら眠りを妨げると分かっていても、あまりにも暇すぎる。しかしSNSはさっき見たタイムラインから変化はない。当たり前だ。みんなは俺を置いて夢の世界へ旅立っている。
 そうだ。
 俺は思いついたまま、スマホのフォルダを開き、動画を再生する。
 そこに映し出されたのは、顔が赤く火照った千晴さん。
『にゃに(なに)してんだよ! もっと俺をにゃでろ(撫でろ)よ!』
 千晴さんはそういうと俺にすり寄り、ぐいっと頭を差し出す。言われるがままそっと頭を撫でると、千晴さんは気持ちよさそうに目を閉じ、喉をぐるぐると鳴らす。
 これはネコ上戸の千晴さんだ。
 千晴さん、かわいいな……。
 俺はニヤニヤを抑えながら画面をスワイプし、次の動画を再生する。
『あかん悠真! もっといっぱい食べな!』
 我が家でたこ焼きパーティーをしたときのこと。関西弁の圧に押されるまま、俺は出来立てのたこ焼きをほおばり、熱さに悶絶していると千晴さんは俺の頭をスパンと叩く。
『なんでそのまま食べてまうねん! ええか? こうやってな、ちゃんと冷まして食べな……、あっつ!?』
 千晴さんはたこ焼きにふぅふぅ、と息を吹きかけて口に放るが、結局俺と同様に口の中を火傷したらしく、目に涙を浮かべなら日本酒を飲んでいた。
 これは関西上戸の千晴さん。
 このときの千晴さん、おもしろかったなぁ。
 俺はケラケラと笑いながら、次の動画を再生する。
『もっとおしゃれな椅子が欲しいな……。作るか』
 そういって千晴さんは家を飛び出し、ホームセンターで材料と工具をそろえ、おもむろに椅子を作り始めた。
 これはDIY上戸の千晴さんだ。
 このときは、大変だったな……。
 木材をのこぎりでぎこぎこと斬り、トンカチでカンカンと釘を打ち、最後にペンキでベタベタと色を塗って。
『完成だ……!』
 そうして出来上がったのは、カラフルで独創的な、椅子のようななにかだった。今も部屋の片隅で置物として異質さを放っている。
 でも、作業中の真剣な眼差しはかっこよかったな。
 そうだ。
 俺は再び思いついたまま、チャットアプリを開く。
『千晴さん! 明日は寝坊しちゃダメですよ!』
 勢いでメッセージを送ってしまったが、今は深夜の二時半。どうせ返ってこないだろう、とスマホを置くと、すぐにスマホがブブッと震える。
『早く寝ろ』
 起きてたのかよ、と驚きつつ、俺は速攻でメッセージを返す。
『そっちこそ! おやすみなさい!』
『おやすみ』
 絵文字もスタンプもない単調な文面だが、そこが千晴さんらしい。
 俺は笑みをこぼし、再び布団に入る。
 千晴さんも今から寝るのか。
 いつか見た千晴さんの寝顔を想像する。長いまつげ。白くてきめ細やかな頬。そして、薄く開いた、小さな唇……。
「なっ……!?」
 寝返りを打つと、眼前に千晴さんの寝顔があった。鼻先が触れそうなほど、相手の体温を感じられるほど、近い。これが幻だと分かっていても、心臓が激しく高鳴って仕方がない。
「千晴さん」
 呼びかけても起きない千晴さんに、俺は衝動のまま静かに手を伸ばす。柔らかな肌。うねる髪の毛。そして、俺は吸い込まれるように顔をそっと近づける。
 互いの唇が触れそうになったそのとき、千晴さんは目をカッと開く。
「びびびびびびびび」
「えぇ!? なに!?」
「びびびびびびびび」
「またこのパターンかよ!?」
 飛び起きると、部屋の中は朝陽によって白く輝いていた。
 いつの間に寝てたんだろ……。てか。
 なんて夢見てんだ、俺は。
 まだドキドキしている胸を抑えつつ、スマホのアラームを止める。
「やっば!?」
 画面に表示された時刻はすでに起床予定時刻を大幅に超えたものだった。俺は慌てて服を着替え、荷物をかかえて部屋を飛び出した。

「はぁ、はぁ……、間に合った……」
 集合場所である大学裏手の駐車場にはすでにAOHARUのサークルメンバーの姿があった。俺は膝に手をつき、呼吸を整える。しかし、立ち止まった途端、ぶわっと汗が噴きだす。息を吐くたびに、あごの先から汗の雫がポタリと垂れる。
「寝ぐせヤバ」
 みんなに背を向けボディシートで全身を拭いていると、背後からそんな声が聞こえた。
 そこにいたのは鈴木翔太と金井智幸。二人とも俺と同じ大学一年生だ。
大学に入学して五か月。最初は一つ年上の俺に対して敬語だった翔太と智幸だが、今ではこんな風に寝ぐせ頭を撫でられるほどには仲良くなった。
「うわ、汗ついた。最悪」
 そういって智幸は俺のシャツに手をなすりつける。
 いや、仲良いを通り越して普通に失礼なやつらだ。
「このあとってどうやって移動すんの? 幹事さん」
「今、運転手たちがレンタカー借りてこっちに向かってるから到着次第、みんなで乗り合わせて出発。って、全体ラインで送ってるんですけど」
「あはは」
「あと誰がどの車に乗るかも書いてあるから」
 まじ、と早速全体ラインを確認する翔太。
「えー、俺以外先輩ばっかなんだけど。気まず」
「あえてだよ。話す機会が少ない先輩と後輩で交流を深めようっていう」
「でも悠真が乗る車。運転手榊さんで同乗者倉本さんって、いつも悠真がいっしょにいる人たちじゃん。しかも三人って」
 智幸の疑問はもっともだ。三人余る程度なら、借りる車を普通車からボックスカーに変えれば漏れなく搭乗できる。しかし。
「仕方なかったんだよ。誰も止められなくて……」
「え?」
「それにお前ら、千晴さんと一緒に長時間狭い車内でいられるか?」
「絶対無理。地獄みたいな沈黙が流れそう」
「だろ?」
 普段から誰ともつるまず、話しかけるなオーラ全開の千晴さんは後輩からかなり怖い印象をもたれている。本当は怖くもなんともないんだけど。
 そうして消去法的に、俺と千晴さんと榊さんが乗るイレギュラーな一台が誕生した。
「でもなー、翔太は香織ちゃんと一緒じゃなくていいのかなぁ?」
「おま、やめろって」
 からかうような口ぶりの智幸に翔太は慌てて智幸の口を塞ぐ。そんな二人の様子に俺はわけがわからず首をかしげる。
「悠真知らないの? こいつ、香織ちゃんと付き合ってるんだよ」
「えっ」
 香織ちゃんとはAOHARUのメンバーで、藤井さんとも仲がよくて、俺たちと同じ一年生の女の子で、……って。
「ええぇっ!?」
 遅れてきたあまりに大きい衝撃に、俺の叫びは大学中に轟く。
「ちょ、声でかいって!」
「いや、みんな知ってるから。気づいてなかったの悠真だけだよ」
 そんな……。こんな近くに、キラキラ青春を送っているやつがいたなんて……。
「い、いつから?」
「……二か月前、かな」
「めっちゃ前じゃん……!」
 身近な友人に先を越されたショックに立っていられず、俺ががくりと膝をつく。そんな俺を無視して、智幸は翔太に歩み寄る。
「どっちが告ったの?」
「そりゃあ俺だよ。だって男だし」
 照れながらも胸をはる翔太に、俺は再び首をかしげる。
「それ関係ある? 告白って好きになった方がするんでしょ?」
「それは、そうだけど」
 困ったように頷く翔太の横で智幸はぼそりと呟く。
「悠真ってときどき核心つくこと言うよね」
「なにが?」
「本人に自覚がないのが難点だけど。で、香織ちゃんのどういうところが好きなの?」
 智幸はさながら芸能リポーターのようにマイクに見立てた拳を翔太に向ける。
「えぇ」
「いいじゃん」
 最初は渋っていた翔太だったがだんだんと表情が柔らかくなっていく。きっと、香織ちゃんと過ごした日々を思い返しているのだろう。
「かわいくて」
「うんうん」
「面白くて」
「うんうん」
「でも、たまにかっこいい」
「かっこいい?」
「なにかに集中してるときとか、なんかかっこいいなって思う」
「あぁ、真剣な顔ってことね」
「そうそう」
 笑顔で語る翔太に、俺は強烈な違和感を覚えた。
 俺は違和感の正体を探るように、翔太が語る香織ちゃんを好きな理由を頭の中で復唱する。
 かわいくて、面白くて、かっこいい。
 これって……?
 考え込む俺のとなりで、翔太は恥ずかしそうにこめかみをかきながら告げる。
「でも一番は、一緒にいるのが楽しいからかな。一緒にいるのが好き、というか」
 そんな翔太に対し、智幸は冷ややかな目を向ける。
「のろけやがって」
「お前が言えって言ったんだろ!」
 翔太の渾身のツッコミがさく裂している傍ら、俺は思考する。
 ネコ上戸のかわいい千晴さん。
 大阪上戸の面白い千晴さん。
 DIY上戸のかっこいい千晴さん。
 そして。
 ──俺、千晴さんと一緒にいるの、好きですよ。
 そのとき、雷に打たれたような強い衝撃を受ける。
 違和感の正体は既視感、いわゆるデジャブだ。
 翔太が香織ちゃんを好きだと思うことのすべてが、俺が千晴さんに感じていることにぴたりと重なる。重なってしまう。
 俺は戸惑いながらも、翔太に問いかける。
「じゃ、じゃあさ! 香織ちゃんと一緒にいる時、こう、胸がグンって痛くなるような、そんな感じする?」
「なに? 不整脈?」
「いや。たぶん悠真が言いたいのは、その人のことを考えたり、一緒いると心臓が掴まれたように痛くなったり、飛び出しそうなくらいドキンってしたりするってことだろ?」
「それ!」
 智幸は俺の肩にぽんと手を置き、下手なウインクをしながら答える。
「世界はそれを『ときめき』と呼ぶんだぜ」
「ときめき……」
「このピュアボーイめ。本当に年上かよ」
 智幸のいじりも、今は耳の穴を右から左へ通り過ぎてしまう。
 千晴さんに手を引かれた時も、寝顔を見た時も、愛してると言われた時も。
 あのときも、このときも。
「俺が感じてたのは、ときめき……?」
「その反応。さては悠真も好きぴができたのか?」
 俺の反応を訝しんだリポーター智幸がマイクをこちらに向けた瞬間、遠くから地面を揺らすようなエンジン音が聞こえてきた。
 勢いよく駐車場に入ってきたのは真っ赤なオープンカー。運転席にはサングラスをかけた榊さんが白い歯を輝かせている。
 本当に借りたのか……。
 乗り合わせを考え、このままでは三人ほど余ると分かったとき、そこにいる誰もが普通車をボックスカーに変更すると考えた。榊さん以外は。
 榊さんは俺たちの前に立ち、堂々と宣言した。
「いや、追加でオープンカーを借りる。夏といえばオープンカーだろ!」
 そんな予算はない、そもそも夏はオープンカーの意味が分からない、など非難轟々だったにも関わらず、榊さんの意思は固く、結局オープンカーのレンタル費用はサークル費ではなく榊さんの自腹で支払うことで決着した。
 太陽を照り返す真っ赤なボディ。地面スレスレの低い車高。そして轟く排気音。
 あまりにも目立ちすぎる。
 だからこその消去法だった。俺以外、誰もこのオープンカーに乗りたがる人がいなかったのだ。
 オープンカーに続いて、次々とレンタカーたちが駐車場へとやってくる。
「全員揃ったな! そろそろ行くぞー」
 榊さんの号令の下、それぞれが車に乗り込んでいく。しかし、駐車場に千晴さんの姿はない。
「あれ? 千晴さんは?」
「ここに来るときに見かけてな。ついでに拾ってきた」
 榊さんが指さす先、オープンカーの後部座席に小さくなった千晴さんの姿があった。千晴さんもあまり目立ちたくないのだろう。身を屈めて、なるべく外から見えないように前夫座席の陰に隠れていた。
「千晴さん、おは……」
 千晴さんの顔を覗き込んだ瞬間、さっきまでの会話が脳裏をよぎる。
「おはよう」
 千晴さんの表情。千晴さんの声。
 すべてに過剰に反応してしまう。
 恥ずかしさや照れくささに脳をやられ、俺はとっさに違う車へ向かう智幸の肩を掴む。
「俺、やっぱこいつと席変わります!」
「はぁ!?」
「お前も、千晴さんと交流してこい!」
「お、おい!?」
 俺は智幸を強引にオープンカーに押し込み、ほかの車に乗り込んだ。
 

   ◇


「空気うまぁ!」
 出発からおよそ二時間半。俺たちは目的地である奥多摩にたどり着いた。東京とは思えない大自然の中で胸が膨らむほど息を吸い込むと、長旅の疲れが一気に吹き飛ぶ。
 青々とした木々。蝉や野鳥の合唱。そして、近くを流れる清流のせせらぎ。
 今年の夏合宿の舞台は川だ。
 釣りや、カヌーに乗って川を下ったり。もちろん泳ぐもよし。
 夕方までは自由時間となっており、夜には近くの民宿で一泊し、翌朝に帰宅、という流れだ。
「つめてぇ! ほら!」
「おまっ、かけんなよ!」
 川に足を入れては、子どものようにはしゃぐメンバーたちを見て笑っていると、背後からずしりと肩を掴まれる。
「悠真ぁ?」
 蛇のようにじめりと俺の顔をにらみつける智幸に、俺は菩薩のような笑みを返す。
「どうだった? オープンカードライブは?」
「どうもこうもねえよ!」
 そういって智幸は俺の左足に左足を絡め、俺の右腕の下から左腕を首の後ろに巻きつけ、背筋をぐんと引っ張るように伸び上がる。いわゆる、コブラツイストだ。
「いたたたっ……!?」
「榊さんの運転荒いし!  顔に虫当たるし! まじで地獄だったわ!」
「千晴さんは? どうだった?」
 それなんだけど、と智幸は俺から離れ、意外そうに呟く。
「なんか、話してみたら意外と普通だった」
「え、千晴さんとなにしゃべったの?」
「それは……」
「智幸! 行くぞ!」
 智幸を呼ぶ声がして振り向くと、いつのまにかウェットスーツに着替えた翔太が立っていた。そういえば二人ともラフティングの体験予約をしていたんだっけ。
「じゃあまたあとで!」
「おう」
 俺は手を上げ、走り去る智幸の背中を見送る。
 ラフティングとはゴムボートに乗って流れが激しい川を下るアクティビティだ。
 俺も体験してみたかったが、予想以上に参加希望者が多く、幹事の俺はこっそり辞退した。幹事の役割は、みんなに楽しんでもらうことだ。
「さて、俺はなにしようかな」
 俺は一人、駐車場に建てられた古びた案内板を見上げる。大きな川の全体図とともに周辺の神社や名所などが描かれている。
「お? なんだこれ」
 川の下流から上流へと視線を動かすうちに、森の中に小さな白い竜のイラストを見つけた。イラストの横に小さく書かれた紹介文いわく、全長5メートルの細くて美しい滝はある角度から陽の光を浴びると、竜が空に昇っているように見えるという。その滝の名前は。
「白竜の滝……、なんか白滝みたいだな」
「滝好きなの?」
「ぬわっ!?」
 俺の叫びは山にこだまして返ってきた。ふりかえると、眉根にしわを寄せて耳を塞ぐ千晴さんが立っていた。
「声がでかい」
「いきなり後ろから現れる方が悪いっすよ」
 俺の文句を無視して、千晴さんは案内板に描かれた白い竜を見上げる。
「で、滝好きなの?」
「好きっていうか、なんかよくないですか? マイナスイオンをこう、ぶわぁって浴びてる感じが」
 俺は全身でマイナスイオンを受け止めるイメージで、両手を大きく広げる。
「なんだそれ」
 そういうと千晴さんは、俺の腕をひょいとくぐって歩き出す。
「どこいくんですか?」
「行くんだろ? 白竜の滝」
 千晴さんはこちらを振りむくと、ふっと笑って再び歩き出す。
「待ってくださいよ!」
 俺は考える暇もなく、千晴さんのあとを追った。

 滝へと通じる道は、山の斜面を切り崩してできたような足場の悪い道だった。地面から浮き出た石肌や木の根に注意しながら、俺たちは山の中を進む。
「こういうところ来たことあります? 大自然って感じの」
 立ち止まり、後ろの千晴さんに向かって話しかける。
「高校の、時に……」
 千晴さんは息を整えながら短く返す。千晴さんの背中を追いかけていたはずが、いつのまにか前後が入れ替わっていた。
「学校の行事とかですか?」
「いや、友だちといっしょに」
「意外。千晴さんにもそういう友だちがいたんだ」
「うるせぇ」
 千晴さんは俺のとなりへ立ち、俺のわき腹を小突く。
「友だちって、どんな人ですか?」
「どんな人……」
 千晴さんは一歩、また一歩と足を前に出しながら考える。
「面白いやつだよ」
 木漏れ日が照らす千晴さんの横顔に、かつて鏡に映った自分の顔を思い出す。
 千晴さんのことを考えていた時の、自分の顔を。
「……そうですか」
 俺は足を止め、静かに胸のあたりを抑える。
 その友だちが千晴さんにとって大切な人であること。
 俺が知らない千晴さんを、その友だちは知っていること。
 そんなことに、俺はどうして胸を痛めているのだろう。
 今までのときめきとは違う痛みに俯いていると、足元の地面が湿っていることに気づいた。おそらく数日前の雨がまだ乾いていないのだろう。石の表面がつるりとした光沢を放っている。
「悠真」
 顔をあげると、千晴さんが手を差し伸べる。
「足滑るぞ」
「あ……」
 千晴さんの手を掴みかけた瞬間、俺はサッと手を引いた。
「大丈夫です! もうすぐで滝っすね! テンション上がってきたー!」
 俺は山肌をかけあがり、そのまま千晴さんを追い抜いた。
 ──その反応。さては悠真も好きぴができたのか?
 今までなら普通に手を繋いていたはずなのに、智幸が変なこと言うから……!
 そのとき、俺は違和感を覚えて足を止める。
「ん?」
「どうした?」
「なんか、音しません?」
 あとを追ってきた千晴さんとともに耳を澄ますと微かに風に混ざって水音が聞こえた。俺たちは音を頼りに、道なき道を進む。
「すげー……!」
 木々を抜けた先に現れたのは、崖の上から落ちる一筋の滝。辺りは自然に囲まれており、うるさかったセミの鳴き声も、自分の呼吸の音さえも、どこか遠くに感じる。ただ、滝が奏でる水音だけが心地よい。
「あ」
 千晴さんが声を漏らしたとき、傾いた日差しが滝に降り注ぐ。滝はキラキラと輝きを放ち、落ちているはずの水が、空へと昇っているように見えた。
「これが、白竜の滝」
 自然の奇跡に圧倒されていると、俺ははっと思い出す。
 俺はなんのために夏合宿に来たのか。AOHARUに入ったのか。
 それはキラキラで、映えな青春を送るためだ!
「千晴さん! 写真撮りましょうよ!」
 俺はスマホを掲げると、千晴さんはいいけど、と俺の側へ寄ってくる。
「千晴さん、滝と被ってるんで、もうちょいあっちに」
「こう?」
「もっとこっちに」
「あっちとかこっちとか、指示が曖昧なんだよ。もうこうすればいいだろ」
「なっ……!?」
 千晴さんはおもむろに俺に身体をよせ、顔をぐっと近づける。確かに画面には滝が映っている。しかし、あまりにも近すぎる。
 俺は画面から視線を外し、隣に立つ千晴さんのうなじに目を落とす。うっすらと汗ばんだ首筋を見ていると心臓が破裂しそうで、俺は急いでシャッターを切り、すぐに千晴さんから離れる。
 バクバクと騒がしい胸を抑えながら、撮れた写真を見ると、ブレブレで、ピントもあっていなかった。
「ごめんなさい、もう一回……」
「悠真」
 顔をあげると、千晴さんは神妙な面持ちで立っていた。
「俺、酔ってるときになんかした?」
「え?」
「なんつーか、避けてるっぽいし」
「いや、別に避けては……」
 避けているつもりはなかったが、そう思われても仕方がない。直前で違う車に乗ったり、さっきだって意図的に手を掴まなかったり、こうして距離を取ってしまったり。
「それは……」
 理由は、自分でもよく分からなかった。口の中で言葉を転がしていると「悪い。やっぱなんでもない」と千晴さんは笑みを浮かべ、水辺へと歩く。
「千晴さん」
 返事はなく、ただ水音だけが静かに響く。
 頭の中で、千晴さんへの質問がぐるぐるとめぐる。
 ──車の中で、智幸となに話したんですか?
 ──高校のときの友だちって、千晴さんの大事な人ですか?
 しかし、口から出た質問は、そのどれとも違っていた。
「千晴さんは俺のこと、どう思ってますか?」
「え……?」
 こちらを振り向く千晴さんの驚いた顔を見て、俺は我に返った。
「あ、いや、なんでもないっす!」
 居てもたってもいられず、その場から走り去る。
「はぁ……、はぁ……」
 昇ってきた道を全力で下り、太い幹にもたれて息を整える。
 顔を上げると、傾いた太陽に目が眩む。
 俺はキラキラな青春を送りたくて、そのためにも彼女が欲しいと願っているはずで。なのに。
 なんで俺は千晴さんにときめいてるんだ。
 どうして千晴さんの友だちにやきもちを妬いているんだ。
「俺、千晴さんのこと……」
 俺の呟きは、ヒグラシの鳴き声によって掻き消される。