頬が赤いのはきみのせい

 ネオン輝く繁華街はあっちもこっちも騒がしくて、目が回る。
 俺はなんでここにいるんだっけ? そもそもここはどこだっけ?
 認識も視界もあやふやになり、ふらつきそうになる俺。そのとき、俺の手を誰かがぎゅっと掴んだ。
「手、離すなよ」
「うん……」
 それしか言えなかった。
 彼の眼差しが、あまりにも綺麗だったから。
 その手の温もりに身を預け、ただ引かれるままに足を進める。
 白くて血管が浮き出た男らしい腕。目が隠れるほど前髪は長いが、襟足は短い、癖のある黒髪。そして、細身ながらも広い背中。
 どこからどう見ても、相手は男なのに。
「大丈夫か? 顔真っ赤だぞ?」
 彼はもう一度こちらを振り向き、口元に笑みを浮かべた。
 その瞬間、体温がぐっと上がるのを感じた。自分の胸に手を当て、バクバクと脈打つ心臓を掴むように拳を握りしめる。
 なんだこの気持ち……。
「悠真」
 名前を呼ばれただけなのに、背中に電気が走ったような感覚になるのはなぜだろう。
 またなにも言えずにいると、彼はそっと口を開く。
「悠真、俺はお前がびびびびびびびびび……」
「えっ」
 彼は無表情のまま、口から機械音を発しながら迫ってくる。
「びびびびびびびび」
「ちょ、ちょっと!?」
「びびびびびびびび……」
「ぬわっ!?」
 ハッと目を開けると、見知った天井が広がっていた。呼吸を整えつつ、瞳をぎょろぎょろと動かして周囲を観察する。
ここは俺が一人暮らしをしている部屋で、俺は自分の布団で寝ていて、枕もとではスマホのアラームがびびび、と鳴っている。つまりさっきの出来事は。
「夢かよ……」
 布団を剥いで立ち上がり、勢いよくカーテンを開く。朝陽を浴びて体中の細胞が目覚めていくのが分かる。
 道路に面した安アパートの二階。駅からも大学からも遠いが、部屋の広さと窓から見える景色が気に入っている。
 今日も眼前にのどかの一言に尽きる朝の風景が広がっている。
 健康のためにジョギングをしているおじいさん。犬を散歩させているお姉さん。そして、ランドセルを背負った小学生たちも楽しそうに通学して……、あれ。
「今日はやたらと目が合うな」
 おじいさんも、お姉さんも、小学生たちもこちらをじーっと見ている。
 俺は爽やかにはにかみながら手を上げると、おじいさんは無視して走り出し、お姉さんは犬をかかえて去っていき、小学生たちはどっと笑いだした。
「なんだ?」
 俺は戸惑いながらも洗面台に立ち、鏡に映る自分の身体を確認する。
 染めたばかりの金色の髪。チャームポイントのとがった八重歯。筋トレの成果がほとんど出ていない細い腕と薄い腹筋。そして、奮発して買ったおしゃれ勝負パンツ。
 うん。なにも問題はないじゃないか……。
 首をかしげて洗面所を出たところで、ふと足が止まった。
「パンツ?」
 慌てて戻り、鏡に映った自分に叫ぶ。
「なんで俺、パンツ一丁なんだよ!?」
 誰に見られるわけでもないのに、腕で胸を隠しながら記憶をさかのぼる。
 昨日は大学でガイダンスを受けて、サークルの新歓コンパに行って、それから……。
 すると、スマホのアラームが再び鳴りだす。今度は起床時間を知らせるものではなく、学校へ出る時間を知らせるアラームだ。
「やっば!?」
 俺は歯磨きと洗顔を秒で終わらせ、急いで服を着て家を飛び出した。
 大学まで徒歩20分。つまり走って10分。
 その10分の間に、俺は昨日の出来事を振り返る。

   ◇

「これで、ガイダンスは以上となります」
 教員の説明が終わると、みんなはいっせいに机に伏した。
履修科目の登録方法、大学の設備案内、大学で使うパソコンのアカウント設定。入学式を終えてから丸二日を要したガイダンスがやっと終わり、みんな疲労困憊だ。
 しかし、俺の目的はここから。
 颯爽と講義室から出ると、すでに校舎から正門までの大通りに人だかりができていた。
 野球、サッカー、ラグビー。それぞれのユニフォームを着た男たちや、即席で作ったステージの上で踊る女性たち。ほかにも大道芸や、ヒーローショーなども行われており、皆一様に「新入生歓迎」のプラカードを掲げ、チラシを配っている。
「これがうわさに聞いた、サークル勧誘か!」
 活気あふれるにぎわい。ほとばしるパッション。
 これぞ、夢のキャンパスライフ!
 憧れていた世界に胸が膨らみ、目頭がカッと熱くなるのをこらえて空を見上げる。
 昨年。俺は大学受験を失敗し、浪人生となった。
 日の光が入らない暗室のような予備校でひたすらに勉強を続けた。地獄のような一年だった。しかし、心が折れそうになるたびに、同級生のSNSを眺めた。
 サークルの合宿やイベントでの集合写真。旅行中の街歩きショット。
 そして、夢の国でペアコーデを決めるカップル。
 無意識に手に力が入り、スマホの画面にひびが入る。
「こんちくしょうがっ!」
 今この瞬間も、同級生たちはキラキラな青春を送っている。
 その事実に対する悔しさと、キラキラ青春への憧れを原動力として勉強に打ち込み、俺は合格を勝ち取った。だからこそ。
「俺は、失った青春を取り戻す!」
 拳を突き上げ高らかに宣言すると、背後から声がかかる。
「きみ、青春を求めてるのかい?」
 振り返ると、ガタイの良い男性が一枚のチラシを差し出してきた。
「イベントサークル、Ambition, Odyssey,Hapiness, Action, Realize,Unityのサークル長、榊だよ」
「アンビション、オデッセイ、えっと……」
「Ambition, Odyssey,Hapiness, Action, Realize,Unity。頭文字をとって、AOHARUだ」
「アオハル、それってつまり」
「青春だよ!」
 サークル長の榊さんの肌は浅黒く焼けており、ニカッと笑って見える歯が余計に白く光って見える。
 はっきりいってうさん臭い。怪しいベンチャー企業の社長のような見た目だし、チラシに書かれた活動内容も、夏祭りや文化祭、クリスマスなどのイベントを通して絆を深めて盛り上がるって、具体的なことは何一つ書かれていない。それでも。
「今日の夜、新歓コンパがあるんだけど、よかったら……」
「いきますっ!」
 俺はビシッと手を挙げる。
 このさいサークルはなんだっていい。キラキラな青春に必要なものは友だち、仲間、そして恋人だ。
 新歓コンパで友だちを作って、サークルのみんなと仲間になって。
 そして必ず。
 かわいい彼女を見つけるんだ!

 …………と、心に誓って数時間後。
 グラスを交わし、慣れない居酒屋メニューに舌鼓を打ち、きゃっきゃうふふとはしゃぐ新入生たちを尻目に、俺は一人、グラスに付着した水滴を指でなぞっていた。
「なんだよ。年齢が一つ違うってだけじゃん」
 先ほどまでは新入生たちのグループにいたが、ぽろっと自身の年齢を口にした途端、あきらかなカベができてしまった。具体的に言うとタメ口が敬語に変わった。
 予備校時代は2浪、3浪が当たり前で同じ教室で年齢が違う人たちと一緒に過ごしていたから年齢差になにも感じなくなっていたけど、みんなは数か月前まで高校生だったと考えれば、俺に対する距離感も納得はいく。
 たしかに高校時代って年齢が一つ違うだけでかなり距離あったもんな。
 俺としたことがうかつだった。
 新入生たちにも近づけない。だからと言って同い年の人たちに声をかけたくても、大学で言えば先輩だ。俺もどんなスタンスで話しかければいいか分からない。というかみんなすでに仲良さそうで話しかけづらい。
 これはまずい。これじゃ恋人どころか友だちもできずに、ボッチ生活まっしぐらだ。
「俺の華々しいキャンパスライフが……! ちくしょう!」
 やけ酒ならぬやけコーラをがぶ飲みすると、壁際に座る一人の男が目に止まった。
 誰とも目を合わせようとせずに、ちびちびとグラスに口をつけるばかり。場に慣れていない様子から察するに新入生だろう。つまり。
 あいつも、俺と同じか?
 友だちも恋人もできそうにないが仲間はできそうだと期待を胸に、俺は揚々と彼のもとへと歩み寄る。
「隣いい?」
「えっ」
 驚く彼の返答を待たずに、俺は彼のとなりへ腰掛ける。
「名前は?」
「……倉本千晴」
「みんなにはなんて呼ばれてるの? くらっち? ちはるっち?」
「普通に苗字か呼び捨て」
「そっかー、俺は村上悠真だから、ゆう、とか。小学生の時はゆうまおう、とか呼ばれてた!」
「あっそ」
 そういうと千晴はうつむきながらまたちびりとグラスに口をつける。
カラン。騒がしい空間の中でグラスの氷の溶ける音がやけに大きく聞こえる。
 ……会話続かねー。
 コーラを口に含みながらさりげなく千晴を観察する。洒落っ気はないが、鼻が高くて顔も小さい。素材は悪くないタイプだろう。
っていうか、一回も目が合わないんだけど。……だったら。
 俺はコーラを飲み込み、再び会話を切り出す。
「こういうみんなが集まる場所とか苦手な感じ?」
「まぁ」
「正直俺も。でもさ、せっかく大学入ったから、なんか今までとは違った生き方したいなと思ってさ」
「……そう」
「これも自分で染めたんだよ。けっこう綺麗に染まったと思わない?」
 そういって俺は頭を下げてつむじを彼に向ける。
「どう?」
「…………綺麗、かも」
 千晴が声を発した瞬間に顔をあげると、ばちっと千晴と目があった。
 作戦成功。前髪のすき間からやっと目があった。
 面喰った表情の千晴を見て、俺は勝ち誇ったようにほほ笑む。
「千晴も染めたら? でも千晴は黒のままでもかっこいいかも」
 千晴のうねった髪質は一見もさっとした印象を受けるがセット次第では化けるだろう。直毛の俺にとっては羨ましい限りだ。
「これってパーマ? 地毛?」
 千晴の頭へ手を伸ばすと、千晴はとっさに避けて顔をそらした。
「あ、ごめん」
「べつに……」
 目元が見えない千晴の表情は読み取りにくい。それでも、顔をそらす千晴の頬が薄く赤らんでいるように見えた。
「もしかして照れてる?」
 千晴は呆れた様子でため息をつくと、めんどうそうに頭をがしがしと掻く。
「あのさ、俺一応……」
 そのとき、背後から勢いよく肩に腕を回された。
「やっほぉ、飲んでるぅ?」
 顔色、言動、行動、全てに酒気を帯びた男が俺の肩にあごをのせて笑みを浮かべる。やけに生暖かい酔っ払い男の鼻息がほほに当たるたびに、背中に冷気が走った。
「いや、俺まだ二十歳じゃなくて……」
「いい子ちゃんだねー。大丈夫だって。俺なんて中学の頃から飲んでるし。ほら、飲んで飲んで」
「え、ちょ……」
 そういって酔っ払い男は自分が持つグラスを無理やり俺の口へ当ててかたむける。琥珀色の液体が無数の泡を浮かべながら口の中へと流れ込む。
 苦いし、苦しい。
 喉に走る炭酸の痛みにもがいていると、千晴がグラスを奪い取り、ぐびぐびと喉仏を上下させながら一気に飲み干した。
 俺も酔っ払い男も呆気に取られていると、今度は千晴が俺の肩に腕を回し、ぐんと引き寄せる。脱力しきっていた俺はされるがまま、千晴の胸へと引き寄せられた。
「うちの新入生にちょっかいかけてんじゃねえよ!」
 千晴の怒声に周囲の注目が集まると、酔っ払い男はばつが悪そうにへらへらと笑う。
「な、なんだよ、ノリ悪いなぁ!」
「お前、うちのサークルのやつじゃないな」
「なっ……!?」
 千晴の発言にざわつく一同。すると一人の先輩が酔っ払い男を指さし、声をあげた。
「こいつ! サークルの新歓をはしごして、飲み代ちょろまかしてたやつだ!」
 みんなが再び先輩から酔っ払い男に視線を戻すと、酔っ払い男の姿は消えていた。
「あそこだ!」
 居酒屋の出口で見つかった酔っ払い男は逃げ出そうとするも躓いて転んでしまい、あっというまに数人の先輩たちによって取り押さえられた。
 先ほどまでの楽しげな空気が一変、新歓コンパは動揺と混乱に満ちている。
 そんな中、一人の男が声をあげた。
「やめろお前ら!」
「サークル長!」
 榊さんはサークルメンバーを退け、酔っ払い男の前に立つ。
「うちの新入生にちょっかいをかけ、挙句に食い逃げか?」
「頼む! 大学にも警察にも言わないでくれ!」
 床に頭をこすりつける酔っ払い男に対し、榊さんは慈悲深い眼差しを向ける。
「言わないよ」
「ほ、本当か!?」
「ただし! 今から俺と飲み比べ対決をして、俺に勝ったら見逃してやる。負けたら今日の新歓の代金を全部払ってもらおうか」
 榊さんは仏のような顔で、鬼のような提案を仕掛ける。
「そんなっ……!?」
「目には目を。アルハラにはアルハラを、だ。どうする?」
 榊さんに挑発された酔っ払い男はぷるぷると震えだし、覚悟を決めたのか勢いよく立ち上がる。
「上等だ! やってやろうじゃねえかっ!」
 その瞬間、先ほどまでの動揺と混乱はまとめて熱狂へと変わった。みんなはワクワクと目を輝かせ、サークル長と酔っ払い男を取り囲む。
「やっちまえー! サークル長!」
「榊さん! 頑張って!!」
 榊さんはたった一人で場の空気を変えてしまった。さすがサークル長だ。
「よーい、はじめっ!」
 榊さんが酒を飲み干し、酔っ払い男も負けじとぐいっと飲み干す。二人のグラスが空になるたびにワールドカップの観客のように、サークル生たちが声をあげて盛り上がる。
「うっ……」
 雄たけびと歓声が、頭の中で反響して気持ち悪い。
 もたれるように千晴の胸に顔を押し当てると、柔軟剤の香りが鼻をかすめる。
 なんの匂いか分からない。でも好きな匂いだった。
「大丈夫か?」
「ちょっと気分悪いかも……」
「もう出よう」
 そういって千晴は俺の手を握り立ち上がる。飲み比べに夢中になっていた誰もが、俺たちが抜けることに気づいていなかった。
 居酒屋からしばらく歩いているうちに、涼しい夜風のおかげか幾分気分が増しになった。まだ若干の浮遊感はあれど、千晴が手を引いてくれるおかげでふらつくことはなかった。
「ありがとう。でも、千晴は酒飲んで平気なの?」
「平気。酒強いから。榊ほどじゃないけど」
「榊?」
 なんで新入生の千晴が、サークル長を呼び捨てに?
 そんな疑問を見透かすように、千晴はこちらを振り返る。
「榊は俺の同級生だから」
「え」
「俺、大学三年生」
「えぇ!?」
 驚く俺を一瞥し、千晴は悪戯っぽくほほ笑む。
「なんでもっと早く言ってくれなかったん、……ですか!?」
「言う暇がないくらい悠真がしゃべるからさ」
「それは……、千晴さんがあんまり話そうとしないから」
「ん? なに?」
「だから、千晴さんが」
「……ぷはっ!」
 千晴さんは突然こらえきれない様子でけらけらと笑いだす。
「な、なんすか」
「お前かわいいな」
「はっ……!?」
 かわいい? 俺が?
 呆気に取られていると、千晴さんは目尻にたまった涙を人差し指で拭う。
「千晴『さん』だって。さっきまで呼び捨てだったのに」
「だって、千晴さんは年上なんだから」
 そのとき、俺が一つ年上だと知って、急に敬語を使い始めた新入生たちのことを思い出した。
 今の俺は、あの時の新入生と同じ。だけど、俺は千晴さんに対して壁を作っているわけじゃない。
 年上に対して敬語を使う。そこに特別な意味なんてない、ただ当たり前の常識だ。
それはきっと、新入生たちも同じだったのだろう。むしろ、俺の方こそ年が違うことでみんなに対して壁を感じてしまっていたのかもしれない。
 一人で反省していると、千晴さんは立ち止まりおもむろに俺の頭に手を置いた。
 近くで見る千晴さんは、ほんのり頬が赤らんでいるように見えた。
「やっぱり綺麗だな」
「え」
「でも、触り心地はイマイチ」
 そういって千晴さんはわしゃわしゃと俺の頭を撫でると、満足したのか再び手をつないで俺の前を歩きだす。
 なんだこの気持ち。
 なんで俺、綺麗って言われてドキッとしたんだろ。
「あの、手……」
「手つなぐの、嫌?」
 千晴さんは前を向いたまま、俺に問いかける。
上機嫌のサラリーマンたち。呼び込みに必死なキャッチ。俺たちのことなんか誰も見ていないはずなのに、男同士で手を繋いでいること自体が妙に照れくさくて恥ずかしい。
 だけど、嫌かどうかと問われれば。
「いや、じゃないっすけど……」
 そう答えると、千晴さんは再び俺の手をぎゅっと握る。
「手、離すなよ」

   ◇

「あ!」
 雷に打たれたような衝撃に驚いて立ち上がると、講義室にいる生徒たちの視線がいっせいに向けられた。壇上に立つ教授も、口をあんぐりあけて俺を見ている。
「すみません……」
 俺はそそくさと席に座り身体を小さくしていると、教授は一言「春だね」と呟き、その後は何事もなかったように授業を再開した。
「夢じゃなかったんだ……」
 おぼろげだった夢の一幕が、今では鮮明に思い出せる。
 白くて血管が浮き出た男らしい腕。目が隠れるほど前髪は長いが、襟足は短い癖のある黒髪。そして、細身ながらも広い背中。
 俺の手を引いて歩いていたのは、千晴さんだった。
「でも、なんでパンイチ?」
 記憶も、夢のシーンも覚えているのは繁華街を二人で歩いている場面まで。そのあとのことは全く思い出せなかった。
 一人で帰ったのか、それとも千晴さんに家まで送ってもらったのか。
 考えているうちに、気づけば授業は終わっていた。

 モヤモヤが晴れないまま講義室を出ると、キャンパス内をまっすぐに伸びる中央通りに見覚えのある人影を見つけた。
「榊さん!」
「悠真くん、おはよう」
 かけよる俺に気づいた榊さんは相変わらず白い歯をきらんと輝かせる。
「昨日の飲み対決、どうなったんですか?」
「もちろん」
 榊さんは勝利のVサインをかかげる。
 俺が居酒屋をでることには榊さんの前には空いたクラスがすでに七個以上はあったはず。それでも酔っ払い男との勝負に勝ち、翌日にはケロッとして酒の残りを感じさせない。
 さすが榊さん。
 知り合ってたった一日しか経っていないのに、榊さんにはそう思わせる魅力があった。
「それより大丈夫か? 気づいたらいなくなってたから心配したぞ」
「ちょっと気分が悪くなって。でも、千晴さんがいっしょにいてくれたので」
「千晴が? ……あ、噂をすれば」
 榊さんが首を伸ばして見つめる先、木陰を歩く千晴さんの姿を見つけた。
「千晴さん!」
 俺は千晴さんのもとへと駆け寄る。しかし。
「千晴、さん?」
 目の前に立つ千晴さんに違和感を覚えた。
 俺は眉根にしわを寄せ、じろじろと千晴さんを観察する。
 腕に通る毛玉まみれでよれよれのパーカー。相変わらず目元が隠れ、おまけに後頭部は寝ぐせで爆発している黒髪。そして、丸く縮こまった猫背。
 なんか、昨日と雰囲気がちがう?
 昨日はもっと、かっこよかったような……。
「なに?」
 不機嫌そうな千晴さんの声に、俺は慌てて頭を下げる。
「あの、昨日はありがとうございました!」
「…………」
「で、あのあとってどうなったんでしたっけ? 俺、なにも覚えてなくて」
 あはは、とおどけて笑うと、前髪に隠れた千晴さんの目が少しだけ見開いたように見えた。
 きっと千晴さんは覚えている。俺が忘れてしまった夜の出来事を。
しかし、いくら待っても千晴さんは口を開かなかった。
「あの……?」
「知らない」
 それだけ言い捨てると、千晴さんは俺を素通りして歩き出す。
「え、ちょっと?」
 知らないって、どういうこと?
 俺は慌てて千晴さんを追いかける。それでも、千晴さんは足を止めない。
「知らないってどういうことですか? 千晴さん?」
「…………」
「千晴さん? ち、は、る、さん!」
「……しい」
「えっ」
 千晴さんはやっと足を止めたかと思うと、こちらを一瞥して言い捨てる。
「うっとおしい」
 千晴さんのぎらりとした眼光に呆気に取られている間に、千晴さんは再び歩みを進める。
「えー……」
 呆然と立ち尽くしていると、後ろから榊さんが背中をポンと叩いた。
「気にするなよ。千晴は誰にでもあんな感じだから」
「あんな感じ?」
「千晴は人間嫌いなんだ。だから友だちも恋人もゼロ」
 だから新歓の時、一人でいたのか。
「友だちがいないって、榊さんは?」
「俺は千晴の友だちじゃない。親友だ」
「そう、ですか」
 腑に落ちるような、落ちないような。
「あと、千晴も昨日のこと覚えてないと思うぞ。千晴は酒飲むと記憶無くすタイプだから」
「記憶をなくす?」
 知らないって、そういう意味か。
 俺と同じで覚えていないなら、仕方がない……、わけないだろっ!
 腹の中で怒りがふつふつと湧いてくる。
 記憶がないからって、あの態度はないんじゃないか!?
 意識の中で、俺を鋭くにらみつける眼差しと、俺の手を引く千晴さんの優し気な眼差しが重なる。
 ──手、離すなよ。
 昨日はあんなにやさしかったのに……。それが。
 ──うっとおしい。
 まるでごみを見るかのような冷ややかな態度。
 許せねぇ……!
 可愛さ余って憎さ百倍。別に千晴さんがかわいいってわけじゃないけど、とにかく俺の中で千晴さんへの憎しみの炎がメラメラと燃え上がる。
 罪には罰を、ってやつだ。でも、そもそも千晴さんの罪ってなんだ?
 そのとき、頭上の白熱電球がピカンと灯る。
 そうだ!
「それに千晴は酒を飲むと……、ってちょっと!?」
 榊さんの説明を聞かずに、俺は勢いよく走り出す。
「見つけた!」
 千晴さんが校舎の中へと入る寸前、とっさに千晴さんの名前を呼ぶ。
「千晴さん!」
「お前、いい加減に……!」
 苛立ちながら振り返る千晴さん。
 しかし、千晴さんの言葉を遮るように千晴さんの手を掴む。
 昨日の夜、千晴さんが俺にしてくれたように。
「な、なんだよ」
 俺から視線を逸らす千晴さんに対し、俺はまっすぐに千晴さんを見つめて伝える。
「俺と、付き合ってもらえますか?」
「……は?」