第八話 帰る
「要、おは……!?」
「おー、はよ」
玲央と擬似的なカップル営業を始めてから数週間が経ち、授業もほとんど終わって夏休みに入った頃だ。
玲央が当たり前のように俺の部屋の鍵をガチャリと開け、ドアを開いて姿を現した時には、俺はもうベッドから出て着替えて出かける準備をしていた。
目が合って挨拶すると、玲央は、信じられないものを見るような目で俺を見てくる。失礼なヤツだ。
「な、なんで」
「今日から実家帰んだよ」
「えっ、聞いてない」
「言ってねーからな!」
なんせ、昨夜急遽決まったのだ。玲央に言う暇もなかったし、言う気もなかった。
まあ、すぐにバレるだろうとは思っていたけれど。
「お、俺も、」
「バイトあんじゃねえの」
「う」
「モモが具合悪いんだって」
「えっ」
「だから帰って来いってさ」
「じゃあ余計に俺も帰る」
「バイトは」
「代わってもらう」
「あー、そ」
モモは、俺の実家で飼っている柴犬だ。目がまん丸で、尻尾もきれいに丸まっていて、首を傾げる顔がとてもかわいい。
小さい頃から飼っていて、俺が離れている間も玲央は可愛がっていたと聞いているから、伝えないわけにはいかなかった。
案の定、モモの名を出すと、玲央の顔色が変わった。すぐにスマホを取り出して、連絡を取っていた。
かく言う俺も、シンさんを筆頭に、同僚に無理を言って一週間の休みをもらっていた。
お盆の時期とは少しずれるが、これが、俺の今年の帰省になりそうだ。
実家は、田舎だ。
東京から、電車を乗り継いで二時間半。そこから更に、車で一時間ちょっと。
最寄り駅は人里離れたところで、一時間に一本しか電車が来ないという令和のご時世に有り得ない仕様になっているから、栄えた駅まで車で迎えに来てもらうことが常だった。
今回は、二人並んで電車に乗っているだけで妙な視線を感じることもあり、玲央とは必要最低限の会話しかしなかった。
二人で地元に帰るのは初めてで、気まずさもあった。
駅から降りて、駐車場で待っている薄ピンクの軽自動車を見つけて心底ほっとする。
「朱里ちゃん!」
「二人とも、おかえりー」
迎えに来てくれたのは、玲央の姉ちゃんだった。
美容師になった朱里ちゃんは、地元に残って働いている。
明るい色の巻き髪がよく似合っていて、相変わらずスタイルがよかった。薄着は少し目に毒だが、有り難い。
「わざわざありがとう」
「モモは」
「東京出て無愛想に磨きがかかったんじゃないのー」
単刀直入に犬のことを聞きたがる玲央に笑って、朱里ちゃんが後ろのトランクを開けてくれる。礼を言って荷物を詰めさせてもらい、後部座席に玲央と並んで乗り込んだ。玲央は流石に、軽自動車の天井の低さに窮屈そうにしている。
朱里ちゃんが運転席に乗り込んで、アクセルを踏む。
「モモはねえ」
ウィンカーを出して、緩やかに出発しながら、朱里ちゃんが口を開いた。
知らず知らずのうちに、緊張していて、玲央が俺の手をぎゅっと握っているのに気付くのが遅くなった。
「食べ過ぎだって」
「は?」
「庭に出してたら、近くの子どもらが遊びに来て、おやつばっかもらってたみたいで。普段のご飯も一緒に食べちゃったもんだから、苦しくなってうずくまっちゃったのね」
けらけらと笑いながら朱里ちゃんが事の顛末を話してくれる。
「よかった……」
隣の玲央は心底ほっとしたようで、全身から力を抜いた。それを機に、重ねられた手から、そっと抜け出した。朱里ちゃんの前で、カップルを演じる必要はない。
「つか、だったら連絡くれてもよくね?」
「おばちゃんたち、会いたがってたし」
悪戯が成功した子どものように、朱里ちゃんは笑って、ミラー越しにウィンクをして見せた。
そんなあざとい仕草も似合うんだから、困る。
「うおっ、めっちゃ元気じゃん!」
朱里ちゃんが運転する車に乗って実家に帰ると、早速、玄関先でモモが出迎えてくれた。荷物を置くよりも早く飛びかかって、丸い尻尾をぶんぶんと高速で振って、俺の顔をべろべろと舐めてくる。額から頭にかけて撫でてやると、耳がぺたりと嬉しそうに倒れるから、つられて俺も笑ってしまう。
「よかった……」
実家に帰るより早く、モモの様子を見に来た玲央も、安堵して息を吐いている。
「二人とも、おかえり。あらあら、玲央くん、男前に磨きがかかったわねえ」
「どうも」
「あんたは朱里ちゃんにお礼言ったの」
「言ったよ」
「まーた派手になって」
ドタドタと母親が現れて、口うるさく色々と言ってくる。ああ、これこれ。この息苦しさが、実家だ。
黄色に近くなった髪を一瞥して母が言うのを合図に、すく、と立ち上がる。玲央に撫でられていたモモも、ピンと耳を立てて反応した。
「荷物置いたら散歩行って来る」
「早速?」
「あ、俺も」
「玲央くんはゆっくりすればいいのに」
「ちょっと荷物置いてくるから」
「いつでも顔見せてね」
うちの母親は、玲央に過保護でメロメロだ。
玲央もそれに慣れているのか頷いて流しながら、「じゃあ、また」と俺を見て言う。軽く手を挙げて答え、靴を脱いで家に上がる。
階段を上って二階に上がり、自分の部屋へと入った。
中学の時から変わっていない部屋がそこにある。
今日のためにか、ベッドのシーツが整えられているのを見て、小さく息を吐いた。
荷物を置いて、黒いキャップを被り、すぐに部屋を出て階段を下りる。
――ああ、帰りたい。
頭の中に、勇斗や、高山、シンさんの顔がすぐに浮かんできて、強くそう思った。
俺の日常は、向こうだ。
モモのリードを持ち、玲央と並んで、海までの道を歩いている。モモは知った風に案内してくれて、時折雑草の匂いをふんふんと嗅ぎながらも、迷わずに海へと向かっている。
夏の日差しは、厳しい。ちょうど昼過ぎのこの時間帯、ジリジリと太陽が肌を刺してくる。
じんわりと滲む汗を時々Tシャツの肩で拭いながら、長い坂を降りて着いた海辺は、人がほとんどいなかった。
俺たちが小さい頃は海水浴場として賑わっていたが、今は管理する人もいなくなり、勝手に来ている地方ナンバーの車がポツポツと停められているぐらいだ。
海にも、人影はほとんどない。
砂浜に下りるのはやめて、波の音を聞きながら、堤防の上を歩いた。
「変わっちゃったな」
「昔はもっと人がいた」
「うん。普通に泳いでさ、おまえなんかすぐ溺れて大泣きして」
「要が助けてくれた」
「そりゃあ、ゴボゴボ沈んでったら焦るだろ」
モモが疲れたというので足を止め、堤防に腰を下ろす。モモも、はっはっと舌を出して呼吸しながら、大人しく座っていた。
寄せては帰る波を見下ろし、座っているだけで滲んでくる汗を拭う。
隣からやたら視線を感じる気がして、目を逸らした。
「なあ」
目を逸らしながらも、今までずっと、気になっていたことを聞こうと口を開く。
「なんで、追いかけて来たの」
きっと、玲央なら、もっといい大学に行けた。
地元に残る選択もあった。
わざわざ俺のいるところに、なんで。
再会したときからずっと気になっていたことを尋ねる。
「それは、」
玲央が口を開いた瞬間、
「わー! カナメとレオだ!」
「モモ! モモもいるぞー!」
「げっ」
近所の悪ガキ集団に見つかり、「突撃ー!」の合図で突進されて身体が揺れた。
俺が中学の頃はまだよちよち歩きだったのに、あっという間に幼稚園になっていると聞いて驚いたものだ。
子どもらしい体つきで、タンクトップに短パン姿の幼児を受け止める。
「なあなあ、あそぼ!」
「はいはい、モモにおやつあげすぎたんだって?」
「だってよろこんでたから!」
「いいじゃんなー」「なー」
三人で顔を見合わせて首を傾げ合っている。モモも、つられたように首を傾げた。
「それでおなか壊したんだから、ほどほどにしろよ」
「えー!」「ぽんぽんいたいの」「だいじょうぶ?」
悪ガキは素直だ。
モモを覗き込んで心配そうにするから、モモは、安心させるように一人ずつの顔を舐めてやっていた。
俺は三人組の頭をぽん、と一人ずつ撫でてやる。
「とりあえず、無事に家に帰れるか競争するか」
「いいよー」
「よーい、どん!」
「よっしゃ!」
「レオも来いよなー!」
ぼうっとしている玲央を呼ぼうとしたら、子どもの方が先に気付いて、声をかける。
玲央ははっとして動き出し、「うん」と頷いて走り始めた。
坂道ダッシュは、キツイ。
結局玲央の答えを聞けないまま、俺たちは、灼熱の太陽を浴びながら走るのだった。
「要、おは……!?」
「おー、はよ」
玲央と擬似的なカップル営業を始めてから数週間が経ち、授業もほとんど終わって夏休みに入った頃だ。
玲央が当たり前のように俺の部屋の鍵をガチャリと開け、ドアを開いて姿を現した時には、俺はもうベッドから出て着替えて出かける準備をしていた。
目が合って挨拶すると、玲央は、信じられないものを見るような目で俺を見てくる。失礼なヤツだ。
「な、なんで」
「今日から実家帰んだよ」
「えっ、聞いてない」
「言ってねーからな!」
なんせ、昨夜急遽決まったのだ。玲央に言う暇もなかったし、言う気もなかった。
まあ、すぐにバレるだろうとは思っていたけれど。
「お、俺も、」
「バイトあんじゃねえの」
「う」
「モモが具合悪いんだって」
「えっ」
「だから帰って来いってさ」
「じゃあ余計に俺も帰る」
「バイトは」
「代わってもらう」
「あー、そ」
モモは、俺の実家で飼っている柴犬だ。目がまん丸で、尻尾もきれいに丸まっていて、首を傾げる顔がとてもかわいい。
小さい頃から飼っていて、俺が離れている間も玲央は可愛がっていたと聞いているから、伝えないわけにはいかなかった。
案の定、モモの名を出すと、玲央の顔色が変わった。すぐにスマホを取り出して、連絡を取っていた。
かく言う俺も、シンさんを筆頭に、同僚に無理を言って一週間の休みをもらっていた。
お盆の時期とは少しずれるが、これが、俺の今年の帰省になりそうだ。
実家は、田舎だ。
東京から、電車を乗り継いで二時間半。そこから更に、車で一時間ちょっと。
最寄り駅は人里離れたところで、一時間に一本しか電車が来ないという令和のご時世に有り得ない仕様になっているから、栄えた駅まで車で迎えに来てもらうことが常だった。
今回は、二人並んで電車に乗っているだけで妙な視線を感じることもあり、玲央とは必要最低限の会話しかしなかった。
二人で地元に帰るのは初めてで、気まずさもあった。
駅から降りて、駐車場で待っている薄ピンクの軽自動車を見つけて心底ほっとする。
「朱里ちゃん!」
「二人とも、おかえりー」
迎えに来てくれたのは、玲央の姉ちゃんだった。
美容師になった朱里ちゃんは、地元に残って働いている。
明るい色の巻き髪がよく似合っていて、相変わらずスタイルがよかった。薄着は少し目に毒だが、有り難い。
「わざわざありがとう」
「モモは」
「東京出て無愛想に磨きがかかったんじゃないのー」
単刀直入に犬のことを聞きたがる玲央に笑って、朱里ちゃんが後ろのトランクを開けてくれる。礼を言って荷物を詰めさせてもらい、後部座席に玲央と並んで乗り込んだ。玲央は流石に、軽自動車の天井の低さに窮屈そうにしている。
朱里ちゃんが運転席に乗り込んで、アクセルを踏む。
「モモはねえ」
ウィンカーを出して、緩やかに出発しながら、朱里ちゃんが口を開いた。
知らず知らずのうちに、緊張していて、玲央が俺の手をぎゅっと握っているのに気付くのが遅くなった。
「食べ過ぎだって」
「は?」
「庭に出してたら、近くの子どもらが遊びに来て、おやつばっかもらってたみたいで。普段のご飯も一緒に食べちゃったもんだから、苦しくなってうずくまっちゃったのね」
けらけらと笑いながら朱里ちゃんが事の顛末を話してくれる。
「よかった……」
隣の玲央は心底ほっとしたようで、全身から力を抜いた。それを機に、重ねられた手から、そっと抜け出した。朱里ちゃんの前で、カップルを演じる必要はない。
「つか、だったら連絡くれてもよくね?」
「おばちゃんたち、会いたがってたし」
悪戯が成功した子どものように、朱里ちゃんは笑って、ミラー越しにウィンクをして見せた。
そんなあざとい仕草も似合うんだから、困る。
「うおっ、めっちゃ元気じゃん!」
朱里ちゃんが運転する車に乗って実家に帰ると、早速、玄関先でモモが出迎えてくれた。荷物を置くよりも早く飛びかかって、丸い尻尾をぶんぶんと高速で振って、俺の顔をべろべろと舐めてくる。額から頭にかけて撫でてやると、耳がぺたりと嬉しそうに倒れるから、つられて俺も笑ってしまう。
「よかった……」
実家に帰るより早く、モモの様子を見に来た玲央も、安堵して息を吐いている。
「二人とも、おかえり。あらあら、玲央くん、男前に磨きがかかったわねえ」
「どうも」
「あんたは朱里ちゃんにお礼言ったの」
「言ったよ」
「まーた派手になって」
ドタドタと母親が現れて、口うるさく色々と言ってくる。ああ、これこれ。この息苦しさが、実家だ。
黄色に近くなった髪を一瞥して母が言うのを合図に、すく、と立ち上がる。玲央に撫でられていたモモも、ピンと耳を立てて反応した。
「荷物置いたら散歩行って来る」
「早速?」
「あ、俺も」
「玲央くんはゆっくりすればいいのに」
「ちょっと荷物置いてくるから」
「いつでも顔見せてね」
うちの母親は、玲央に過保護でメロメロだ。
玲央もそれに慣れているのか頷いて流しながら、「じゃあ、また」と俺を見て言う。軽く手を挙げて答え、靴を脱いで家に上がる。
階段を上って二階に上がり、自分の部屋へと入った。
中学の時から変わっていない部屋がそこにある。
今日のためにか、ベッドのシーツが整えられているのを見て、小さく息を吐いた。
荷物を置いて、黒いキャップを被り、すぐに部屋を出て階段を下りる。
――ああ、帰りたい。
頭の中に、勇斗や、高山、シンさんの顔がすぐに浮かんできて、強くそう思った。
俺の日常は、向こうだ。
モモのリードを持ち、玲央と並んで、海までの道を歩いている。モモは知った風に案内してくれて、時折雑草の匂いをふんふんと嗅ぎながらも、迷わずに海へと向かっている。
夏の日差しは、厳しい。ちょうど昼過ぎのこの時間帯、ジリジリと太陽が肌を刺してくる。
じんわりと滲む汗を時々Tシャツの肩で拭いながら、長い坂を降りて着いた海辺は、人がほとんどいなかった。
俺たちが小さい頃は海水浴場として賑わっていたが、今は管理する人もいなくなり、勝手に来ている地方ナンバーの車がポツポツと停められているぐらいだ。
海にも、人影はほとんどない。
砂浜に下りるのはやめて、波の音を聞きながら、堤防の上を歩いた。
「変わっちゃったな」
「昔はもっと人がいた」
「うん。普通に泳いでさ、おまえなんかすぐ溺れて大泣きして」
「要が助けてくれた」
「そりゃあ、ゴボゴボ沈んでったら焦るだろ」
モモが疲れたというので足を止め、堤防に腰を下ろす。モモも、はっはっと舌を出して呼吸しながら、大人しく座っていた。
寄せては帰る波を見下ろし、座っているだけで滲んでくる汗を拭う。
隣からやたら視線を感じる気がして、目を逸らした。
「なあ」
目を逸らしながらも、今までずっと、気になっていたことを聞こうと口を開く。
「なんで、追いかけて来たの」
きっと、玲央なら、もっといい大学に行けた。
地元に残る選択もあった。
わざわざ俺のいるところに、なんで。
再会したときからずっと気になっていたことを尋ねる。
「それは、」
玲央が口を開いた瞬間、
「わー! カナメとレオだ!」
「モモ! モモもいるぞー!」
「げっ」
近所の悪ガキ集団に見つかり、「突撃ー!」の合図で突進されて身体が揺れた。
俺が中学の頃はまだよちよち歩きだったのに、あっという間に幼稚園になっていると聞いて驚いたものだ。
子どもらしい体つきで、タンクトップに短パン姿の幼児を受け止める。
「なあなあ、あそぼ!」
「はいはい、モモにおやつあげすぎたんだって?」
「だってよろこんでたから!」
「いいじゃんなー」「なー」
三人で顔を見合わせて首を傾げ合っている。モモも、つられたように首を傾げた。
「それでおなか壊したんだから、ほどほどにしろよ」
「えー!」「ぽんぽんいたいの」「だいじょうぶ?」
悪ガキは素直だ。
モモを覗き込んで心配そうにするから、モモは、安心させるように一人ずつの顔を舐めてやっていた。
俺は三人組の頭をぽん、と一人ずつ撫でてやる。
「とりあえず、無事に家に帰れるか競争するか」
「いいよー」
「よーい、どん!」
「よっしゃ!」
「レオも来いよなー!」
ぼうっとしている玲央を呼ぼうとしたら、子どもの方が先に気付いて、声をかける。
玲央ははっとして動き出し、「うん」と頷いて走り始めた。
坂道ダッシュは、キツイ。
結局玲央の答えを聞けないまま、俺たちは、灼熱の太陽を浴びながら走るのだった。


