第十話 逃げる
『――小さい頃から、あんたのことが好きだった』
あの日から、脳裏に浮かぶのは、遠くに聞こえる花火の音と、どこか熱っぽい玲央の瞳、そして、聞き慣れた声で紡がれた、勘違いしようもない告白の言葉。
思い出したくもないのに勝手に浮かんで来るから、俺の心の中はぐちゃぐちゃだ。クソ、わけわかんねー。
とてもじゃないが玲央の顔なんか見られなくて、祭りの日の夜、『急用ができた』なんて見え透いたウソを言い、母親に車を出してもらって駅へと向かい、寮に帰った。朱里ちゃんと隣のおばちゃんには挨拶したかったが、仕方がない。
真夜中の寮はしんとしていて、誰にも会わずに済んで正直助かった。
スマホには玲央からの連絡が来ていたが、気が付かない振りをした。
そこからは、攻防戦だ。
誰とって、俺と玲央の。
次の日に、俺を追うようにして玲央が寮に帰って来たけれど、鉢合わないように徹底した。勇斗と高山を使って玲央の状態を探りつつ、俺自身は顔を合わせないように、門限ギリギリまで外に出た。談話室で待っている玲央に声を掛けられそうになったが、勇斗が遮って玲央に話しかけてくれている間に大浴場に行って風呂を済ませて、急いで部屋へと帰る。
朝は、案の定玲央が起こしに来たけれど、「要、」と呼ばれた瞬間にクッションを投げて撃退した。
「もう一人で起きれっから!」
枕を抱きしめながらそう言ったとき、玲央の瞳が揺れた気がして罪悪感に打ちのめされそうになるが、ぐっと奥歯を噛み締めて耐える。
大人しく閉まる扉に、ほっとすると同時に、ズキリと胸が傷んだ。
朝飯は玲央をスルーして高山の向かい側で食べ、昼食は勇斗と食べる。
大学がまだ夏休みの最中で、正直助かった。
寮の中ですれ違う玲央が俺と話したがっていることはわかっていたが、顔を見ることができなかった。
数日間、徹底して避けに避けていると、ついに諦めたのか、玲央からの接触がなくなった。
――これでいいんだ。
無性にザワザワする胸に蓋をして、自分に言い聞かせる。
そうだ。
三年間、玲央は俺の世界にいなかった。
「要さあ、最近、こわくね?」
寮で夕飯を食べているとき、向かいに座る高山が聞いてくる。
「そーお?」
首を傾げてカレーを口に運ぶ。寮の夕食に出てくるカレーは、辛いというよりしょっぱい。ご飯を多めにして食べ進めて、福神漬とご飯を一緒に食べている高山を見た。
「すげー難しい顔してるよ。早く仲直りしろよなー」
「気のせいじゃね」
「自覚ないのヤバくない?」
高山の声は軽口ではなく、真剣に心配してくれているものだった。
今日は、玲央はバイトでここにはいない。勇斗もいないから、同じシフトなんだろう。
普段よりもガランとした食堂は、強がる必要がないと思えた。
グラスに入った水を一口飲んで、口を開く。
「喧嘩っていうかさ」
「うん?」
「そういうんじゃなくて」
「んじゃ何?」
「方向性の違い……?」
「なにそのバンド解散みたいな!」
ツボったのか、高山は肩を揺らして楽しそうに笑っている。
――俺は、ずっと、玲央のことを弟みたいなものだと思っていた。
一人っ子の俺には兄弟がいないから、朱里ちゃんと玲央も、家族みたいなものだ。
思春期に入りたての頃は、大人っぽくなった朱里ちゃんを見る度にドギマギしていて、多分初恋だったと思う。でも、だからって、告白したり、付き合ったりしたいとは、一度も思わなかった。
玲央は、違ったんだ。
玲央は俺を、そういう対象として見ていた。
そのことをまだ、受け止めきれないでいる。
どんな顔をして玲央に会えばいいのか、わからない。
『あんたのことが好きだった』
油断すると、熱っぽくそう囁いてくる玲央の顔ばかりが頭に浮かんで来て、冷静ではいられないんだ。
「でもさあ」
一頻り笑った高山が、汗をかいたグラスを持って言う。
からり、と、溶けた氷が音を立てた。
「深瀬なら、方向性ぐらい捻じ曲げて要に合わせて来そうじゃん?」
「ちょっと想像つくからやめて」
「見かけるたびしょんぼりしてて見てられねーからさ、話してやってもいいんじゃね?」
高山の声は明るい。
それは俺を責める声色ではなく、純粋に、玲央を心配しているようだった。
しょんぼりしているのは、知っている。
その姿を見ると、俺も心が痛い。
――でも。
どうやって話せば良いか、わからない。
俺と玲央の"普通”が、迷子になってしまっていた。
一週間ぶりに復帰したコンビニバイトが、何一つ変わっていなかったことに安心する。
夕ご飯を買いに来る会社員、エナドリを数本買って行く大学生、コスメとアイスを買うOL、品出しの振りをして雑誌を立ち読みするシンさん。
見慣れた光景に謎に感動しながらレジを打っていると、「最近ふたりの写真上がんないけど、喧嘩中?」と、胸を強調する服を着ている化粧濃いめのお姉様が、囁いてきた。
「いやー、どっすかねえ」
へら、と笑って電子マネーで決済をする。
「それならアタシ本気出しちゃおっかなー」
お姉様が、ぐっと胸を引き寄せると谷間が見えて、目のやり場に困りつつも視線が下に降りてしまう。やめてほしい。
「ねーえ、今夜暇?」
甘ったるい声で囁かれた瞬間、パシャリとシャッター音がする。
「お客様ー、店員へのちょっかいはご遠慮くださーい」
「もー、いいところだったのにい」
いや、全然よくねーけどな!?
巻き髪を指にくるくると巻き付けながら、スマホを構えたシンさんに、頬を膨らませて不満げにするお姉様。
シンさんは肩を揺らして笑って、「残念でしたー」と肩を竦めて見せている。
「ちょっと、その写真どうする気?」
「さあ? あ、あんた彼氏いたよな、送っとく?」
シンさんの情報網は恐ろしい……。
何気ない顔でお姉様の交際関係を持ち出すと、「なんで知ってんのよ! さいてー!」と、お姉様はぷんすかしながら店を去って行った。
並んでいたサラリーマンの会計をささっと済ませて、客の気配がなくなると、大きく息を吐く。
「助かりました……さすがシンさん」
「これ、アイツに送ったら秒で来るんじゃね?」
「いや、来ないっすよ……つか来てほしくないし」
「なに凹んでんのー」
俺たちの関係の変化を知らないシンさんは、玲央を示して楽しそうに言ってくるから、俺は力なく首を横に振る。
今玲央に来られても、どうしようもない。
シンさんは笑って、俺の肩を抱いて来た。ふわりと、煙草の香りが鼻を掠める。
「ふたりさ、なんかあった?」
「なんもないっす」
「浅倉おまえ、ウソ下手だよなあ」
シンさんは可笑しそうに笑っている。
俺の背中をぽんと叩いて離れると、スマホの画面を見せて来た。
「深瀬、ヤバくね?」
「へ?」
その画面には、玲央が、女の子に囲まれている写真が映っている。
いつぞやの、ナイフを突き刺した過激派の子も混ざっている……ように見えて、小さく息を飲んだ。
「おまえんとこにも来るんだから、深瀬のとこはもっとやばくなってるってことか」
独り言みたいに呟くシンさんの言葉に、ぞくりとする。
玲央のために刃物を持ち出して来た女の子。
もし、同じように思うのが、あの子だけじゃなかったら?
気付いたら、ぐっと拳を握りしめていた。
「浅倉」
俺の気持ちを見据えたように、シンさんが時計を示す。
「今日のシフト、終わり。おつかれっしたー」
「あ、……あざっす!!」
深く頭を下げて、俺は急いで、バックルームへと入った。
取るものも取りあえず、コンビニを出てカフェへ向かう。
そうしないといけないと思ったからだ。
すっかり暗くなった空の下を、走る。
玲央が前に言っていたように、コンビニとカフェは、それほど離れていない。
ここから駅前まで、歩いて五分、本気で走れば三分ってところだ。
こんなにダッシュするのは夏祭り以来で、カフェの入口に来る頃には、すっかり肩で呼吸をしていた。
カフェの店内に入って視線を巡らせるけれど、シンさんが見せて来た写真とは違って、落ち着いている。
客足も常連が多い、いつも通りの店内だ。
勇斗はシフトに入っていないようで、フロアに出ていた玲央が、空いたテーブルを拭いているのが見えて、意味もなく扉の影に隠れてしまった。
こんな様子だったら、何も心配はない。
大人しく帰ろう……と踵を返そうとしたときだ。
不意に、視界に入ったのは、玲央と、同年代の女の子が並んで話しているところ。
新しく入った子なのか、何かを教えてあげているようにも見えた。
ここからじゃ会話は聞こえないけれど、穏やかな空気が流れているのがわかる。
――ああ、そうか。
玲央に似合うのは、ああいう子だ。
俺の頭の中では、黒いタキシードに身を包んだ玲央と、白いウェディングドレスを着たカノジョが、りんごんりんごんと鐘の鳴る教会の下で永遠を誓い合っている。
(いやいやいやいや)
飛躍しすぎだろ!!
自分でもそう思うけど、でも。
俺はあそこから、離れることができるのか?
玲央の笑顔を思い出して、震えそうになる指先を、拳をぎゅっと握って誤魔化した。
その日からはもう、散々だ。
玲央が起こしに来なくなったのをきっかけに、俺の寝坊癖は復活した。
夏休みだからと入れまくっていたバイトの遅刻ギリギリで起きたり、朝からバイトがない日は寝すぎて朝飯を食べ損ねたりと、生活習慣が乱れまくっている。
「要おまえ、大丈夫?」
「深瀬と仲直りしたら?」
辛うじて食べられる夕飯をもそもそと食べていたら、勇斗と高山に顔を覗き込まれる。
よっぽど酷い顔をしているのか、ふたりとも心配そうだ。
「大袈裟だって」
「大袈裟じゃない」
ふと、勇斗のものでも、高山のものでもない低い声が割って入って来て視線を上げた。
そこには、黒髪オールバックのサングラス、黒いタンクトップを着た筋肉隆々の寮長の姿がある。
「りょ、寮長」
「なんのために深瀬に浅倉の部屋の合鍵を渡したと思ってる」
「本当にあんただったんすね!?」
勇斗からも玲央からも聞いていたことだが、寮長本人が自白した。強めに突っ込んでも、動じる様子なく、しっかりと頷いている。
「浅倉が取った授業も共有した」
「なんで!?」
俺が尋ねると、寮長はサングラスを押し上げる。
勇斗と高山は、寮長と目を合わせないように、静かにご飯をかき込んでいた……恨むぜ、友よ……。
「問題児は、寮長責任になる」
「あんたに言われたくねえー! 何留目っすか!」
「今年で最後だ」
「八!?」
「俺のことはいい。今年一番の問題児は、おまえだ」
指を指されて、目を逸らす。
確かに。
確かに去年は寝坊や遅刻、門限破りが多くて、迷惑をたくさん掛けた記憶しかない……。
「このままだと、有終の美を飾れなくなるだろう。俺が」
「あんたがかよ!」
「合鍵、深瀬じゃなくて鳴海に渡すか?」
「え」
「ごほっ」
味噌汁を飲んでいるところでいきなり話を振られた勇斗が、派手に咽た。高山は器用に、汁がかからないようにおかずを避けている。
合鍵を、玲央じゃなくて、勇斗が持つ。
そうすれば、俺は玲央から離れられる。
去年と同じ日々が送れるんだ。
――玲央にだって、かわいいカノジョが出来る。
一度だけ見たカフェの店員の女の子が、私服で玲央の隣に並んで笑い合っているところを想像して、俺の頭はくらりとした。
(いや、まてよ)
そしてそのまま、視界が一気にぐらりと回転する。
どたん、と音がするのと背中に受ける衝撃、そして「要!?」「おい、浅倉」「大丈夫!?」と三人が駆け寄ってくるのを、何処か遠くの出来事のように受け止めていた。
『――小さい頃から、あんたのことが好きだった』
あの日から、脳裏に浮かぶのは、遠くに聞こえる花火の音と、どこか熱っぽい玲央の瞳、そして、聞き慣れた声で紡がれた、勘違いしようもない告白の言葉。
思い出したくもないのに勝手に浮かんで来るから、俺の心の中はぐちゃぐちゃだ。クソ、わけわかんねー。
とてもじゃないが玲央の顔なんか見られなくて、祭りの日の夜、『急用ができた』なんて見え透いたウソを言い、母親に車を出してもらって駅へと向かい、寮に帰った。朱里ちゃんと隣のおばちゃんには挨拶したかったが、仕方がない。
真夜中の寮はしんとしていて、誰にも会わずに済んで正直助かった。
スマホには玲央からの連絡が来ていたが、気が付かない振りをした。
そこからは、攻防戦だ。
誰とって、俺と玲央の。
次の日に、俺を追うようにして玲央が寮に帰って来たけれど、鉢合わないように徹底した。勇斗と高山を使って玲央の状態を探りつつ、俺自身は顔を合わせないように、門限ギリギリまで外に出た。談話室で待っている玲央に声を掛けられそうになったが、勇斗が遮って玲央に話しかけてくれている間に大浴場に行って風呂を済ませて、急いで部屋へと帰る。
朝は、案の定玲央が起こしに来たけれど、「要、」と呼ばれた瞬間にクッションを投げて撃退した。
「もう一人で起きれっから!」
枕を抱きしめながらそう言ったとき、玲央の瞳が揺れた気がして罪悪感に打ちのめされそうになるが、ぐっと奥歯を噛み締めて耐える。
大人しく閉まる扉に、ほっとすると同時に、ズキリと胸が傷んだ。
朝飯は玲央をスルーして高山の向かい側で食べ、昼食は勇斗と食べる。
大学がまだ夏休みの最中で、正直助かった。
寮の中ですれ違う玲央が俺と話したがっていることはわかっていたが、顔を見ることができなかった。
数日間、徹底して避けに避けていると、ついに諦めたのか、玲央からの接触がなくなった。
――これでいいんだ。
無性にザワザワする胸に蓋をして、自分に言い聞かせる。
そうだ。
三年間、玲央は俺の世界にいなかった。
「要さあ、最近、こわくね?」
寮で夕飯を食べているとき、向かいに座る高山が聞いてくる。
「そーお?」
首を傾げてカレーを口に運ぶ。寮の夕食に出てくるカレーは、辛いというよりしょっぱい。ご飯を多めにして食べ進めて、福神漬とご飯を一緒に食べている高山を見た。
「すげー難しい顔してるよ。早く仲直りしろよなー」
「気のせいじゃね」
「自覚ないのヤバくない?」
高山の声は軽口ではなく、真剣に心配してくれているものだった。
今日は、玲央はバイトでここにはいない。勇斗もいないから、同じシフトなんだろう。
普段よりもガランとした食堂は、強がる必要がないと思えた。
グラスに入った水を一口飲んで、口を開く。
「喧嘩っていうかさ」
「うん?」
「そういうんじゃなくて」
「んじゃ何?」
「方向性の違い……?」
「なにそのバンド解散みたいな!」
ツボったのか、高山は肩を揺らして楽しそうに笑っている。
――俺は、ずっと、玲央のことを弟みたいなものだと思っていた。
一人っ子の俺には兄弟がいないから、朱里ちゃんと玲央も、家族みたいなものだ。
思春期に入りたての頃は、大人っぽくなった朱里ちゃんを見る度にドギマギしていて、多分初恋だったと思う。でも、だからって、告白したり、付き合ったりしたいとは、一度も思わなかった。
玲央は、違ったんだ。
玲央は俺を、そういう対象として見ていた。
そのことをまだ、受け止めきれないでいる。
どんな顔をして玲央に会えばいいのか、わからない。
『あんたのことが好きだった』
油断すると、熱っぽくそう囁いてくる玲央の顔ばかりが頭に浮かんで来て、冷静ではいられないんだ。
「でもさあ」
一頻り笑った高山が、汗をかいたグラスを持って言う。
からり、と、溶けた氷が音を立てた。
「深瀬なら、方向性ぐらい捻じ曲げて要に合わせて来そうじゃん?」
「ちょっと想像つくからやめて」
「見かけるたびしょんぼりしてて見てられねーからさ、話してやってもいいんじゃね?」
高山の声は明るい。
それは俺を責める声色ではなく、純粋に、玲央を心配しているようだった。
しょんぼりしているのは、知っている。
その姿を見ると、俺も心が痛い。
――でも。
どうやって話せば良いか、わからない。
俺と玲央の"普通”が、迷子になってしまっていた。
一週間ぶりに復帰したコンビニバイトが、何一つ変わっていなかったことに安心する。
夕ご飯を買いに来る会社員、エナドリを数本買って行く大学生、コスメとアイスを買うOL、品出しの振りをして雑誌を立ち読みするシンさん。
見慣れた光景に謎に感動しながらレジを打っていると、「最近ふたりの写真上がんないけど、喧嘩中?」と、胸を強調する服を着ている化粧濃いめのお姉様が、囁いてきた。
「いやー、どっすかねえ」
へら、と笑って電子マネーで決済をする。
「それならアタシ本気出しちゃおっかなー」
お姉様が、ぐっと胸を引き寄せると谷間が見えて、目のやり場に困りつつも視線が下に降りてしまう。やめてほしい。
「ねーえ、今夜暇?」
甘ったるい声で囁かれた瞬間、パシャリとシャッター音がする。
「お客様ー、店員へのちょっかいはご遠慮くださーい」
「もー、いいところだったのにい」
いや、全然よくねーけどな!?
巻き髪を指にくるくると巻き付けながら、スマホを構えたシンさんに、頬を膨らませて不満げにするお姉様。
シンさんは肩を揺らして笑って、「残念でしたー」と肩を竦めて見せている。
「ちょっと、その写真どうする気?」
「さあ? あ、あんた彼氏いたよな、送っとく?」
シンさんの情報網は恐ろしい……。
何気ない顔でお姉様の交際関係を持ち出すと、「なんで知ってんのよ! さいてー!」と、お姉様はぷんすかしながら店を去って行った。
並んでいたサラリーマンの会計をささっと済ませて、客の気配がなくなると、大きく息を吐く。
「助かりました……さすがシンさん」
「これ、アイツに送ったら秒で来るんじゃね?」
「いや、来ないっすよ……つか来てほしくないし」
「なに凹んでんのー」
俺たちの関係の変化を知らないシンさんは、玲央を示して楽しそうに言ってくるから、俺は力なく首を横に振る。
今玲央に来られても、どうしようもない。
シンさんは笑って、俺の肩を抱いて来た。ふわりと、煙草の香りが鼻を掠める。
「ふたりさ、なんかあった?」
「なんもないっす」
「浅倉おまえ、ウソ下手だよなあ」
シンさんは可笑しそうに笑っている。
俺の背中をぽんと叩いて離れると、スマホの画面を見せて来た。
「深瀬、ヤバくね?」
「へ?」
その画面には、玲央が、女の子に囲まれている写真が映っている。
いつぞやの、ナイフを突き刺した過激派の子も混ざっている……ように見えて、小さく息を飲んだ。
「おまえんとこにも来るんだから、深瀬のとこはもっとやばくなってるってことか」
独り言みたいに呟くシンさんの言葉に、ぞくりとする。
玲央のために刃物を持ち出して来た女の子。
もし、同じように思うのが、あの子だけじゃなかったら?
気付いたら、ぐっと拳を握りしめていた。
「浅倉」
俺の気持ちを見据えたように、シンさんが時計を示す。
「今日のシフト、終わり。おつかれっしたー」
「あ、……あざっす!!」
深く頭を下げて、俺は急いで、バックルームへと入った。
取るものも取りあえず、コンビニを出てカフェへ向かう。
そうしないといけないと思ったからだ。
すっかり暗くなった空の下を、走る。
玲央が前に言っていたように、コンビニとカフェは、それほど離れていない。
ここから駅前まで、歩いて五分、本気で走れば三分ってところだ。
こんなにダッシュするのは夏祭り以来で、カフェの入口に来る頃には、すっかり肩で呼吸をしていた。
カフェの店内に入って視線を巡らせるけれど、シンさんが見せて来た写真とは違って、落ち着いている。
客足も常連が多い、いつも通りの店内だ。
勇斗はシフトに入っていないようで、フロアに出ていた玲央が、空いたテーブルを拭いているのが見えて、意味もなく扉の影に隠れてしまった。
こんな様子だったら、何も心配はない。
大人しく帰ろう……と踵を返そうとしたときだ。
不意に、視界に入ったのは、玲央と、同年代の女の子が並んで話しているところ。
新しく入った子なのか、何かを教えてあげているようにも見えた。
ここからじゃ会話は聞こえないけれど、穏やかな空気が流れているのがわかる。
――ああ、そうか。
玲央に似合うのは、ああいう子だ。
俺の頭の中では、黒いタキシードに身を包んだ玲央と、白いウェディングドレスを着たカノジョが、りんごんりんごんと鐘の鳴る教会の下で永遠を誓い合っている。
(いやいやいやいや)
飛躍しすぎだろ!!
自分でもそう思うけど、でも。
俺はあそこから、離れることができるのか?
玲央の笑顔を思い出して、震えそうになる指先を、拳をぎゅっと握って誤魔化した。
その日からはもう、散々だ。
玲央が起こしに来なくなったのをきっかけに、俺の寝坊癖は復活した。
夏休みだからと入れまくっていたバイトの遅刻ギリギリで起きたり、朝からバイトがない日は寝すぎて朝飯を食べ損ねたりと、生活習慣が乱れまくっている。
「要おまえ、大丈夫?」
「深瀬と仲直りしたら?」
辛うじて食べられる夕飯をもそもそと食べていたら、勇斗と高山に顔を覗き込まれる。
よっぽど酷い顔をしているのか、ふたりとも心配そうだ。
「大袈裟だって」
「大袈裟じゃない」
ふと、勇斗のものでも、高山のものでもない低い声が割って入って来て視線を上げた。
そこには、黒髪オールバックのサングラス、黒いタンクトップを着た筋肉隆々の寮長の姿がある。
「りょ、寮長」
「なんのために深瀬に浅倉の部屋の合鍵を渡したと思ってる」
「本当にあんただったんすね!?」
勇斗からも玲央からも聞いていたことだが、寮長本人が自白した。強めに突っ込んでも、動じる様子なく、しっかりと頷いている。
「浅倉が取った授業も共有した」
「なんで!?」
俺が尋ねると、寮長はサングラスを押し上げる。
勇斗と高山は、寮長と目を合わせないように、静かにご飯をかき込んでいた……恨むぜ、友よ……。
「問題児は、寮長責任になる」
「あんたに言われたくねえー! 何留目っすか!」
「今年で最後だ」
「八!?」
「俺のことはいい。今年一番の問題児は、おまえだ」
指を指されて、目を逸らす。
確かに。
確かに去年は寝坊や遅刻、門限破りが多くて、迷惑をたくさん掛けた記憶しかない……。
「このままだと、有終の美を飾れなくなるだろう。俺が」
「あんたがかよ!」
「合鍵、深瀬じゃなくて鳴海に渡すか?」
「え」
「ごほっ」
味噌汁を飲んでいるところでいきなり話を振られた勇斗が、派手に咽た。高山は器用に、汁がかからないようにおかずを避けている。
合鍵を、玲央じゃなくて、勇斗が持つ。
そうすれば、俺は玲央から離れられる。
去年と同じ日々が送れるんだ。
――玲央にだって、かわいいカノジョが出来る。
一度だけ見たカフェの店員の女の子が、私服で玲央の隣に並んで笑い合っているところを想像して、俺の頭はくらりとした。
(いや、まてよ)
そしてそのまま、視界が一気にぐらりと回転する。
どたん、と音がするのと背中に受ける衝撃、そして「要!?」「おい、浅倉」「大丈夫!?」と三人が駆け寄ってくるのを、何処か遠くの出来事のように受け止めていた。


