藤の花が咲き誇る雅な庭園の縁側で、霊亀の翁様が私の舞を最後に褒めてくれたのはいつだっただろう。
「娘っ子よ。お主の舞は綺麗だなあ。眠気もすっかりと吹き飛ぶようだ」
その優しい声も、穏やかな空気も、居心地の良さも記憶にあるのに……。
記憶の中の顔だけが、何故か朧げだった。
その頃の私の背は小さくて、無邪気でいられた年頃だったと思う。
両親から一族に伝わる舞を新たに教えてもらった後、私は必ず翁様の元へ遊びに行っていた。
本当は翁様は気軽に会うことの出来ないお方なのだけれども、私は霊獣と密接な関係にある一族の娘だからという理由で許されていたのかもしれない。
【世界各國は『霊獣』と呼ばれる神聖なる存在が支配しており、『胡蝶の一族』は霊獣を眠りから覚醒させる】と言われている。
眠りと言っても、床に着き瞼を閉じる睡眠のことではなく、霊獣が内に秘めた力のことを指す。
覚醒した霊獣が支配する國は豊かになると言い伝えられており、胡蝶の一族には彼らの力を呼び醒ますことが求められている。
そのため繁栄をもたらす霊獣のことを、ある國は絶対君主として、ある國は平和を齎す象徴として……それぞれの國で大切に扱っている、らしい。
私、萄花は、霊亀の翁を筆頭霊獣として奉る藤蝶ノ國の春羽家に生まれた。
春羽家も胡蝶の一族に属しており、舞によって霊亀を眠りから呼び醒ます役目を担っている。
翁様と呼ばれている霊亀は、いつ見ても人と変わらない見た目をしている。
藤棚が見える縁側で着物を纏う彼は、いつも眠そうにうつらうつらとしていた。
さらりと風になびく長い銀髪はキラキラと輝いて美しく、穏やかに緩んだ表情を見つめているとこちらまで心が穏やかになっていく。
幼かった私でも魅入ってしまうほど、彼は美しく幻想的なひとの形をしていた。
藤の花を背景にすると、ひとつの美しい絵画にも見える。
……でも彼は、ふとした瞬間にどこか寂しさを漂わせるひとでもあって……。
そうしたとき、私は決まって翁様のそばに寄り添った。
子供心に、何気なく「一緒にいると喜んでくれるかな」と思って。
「……お兄ちゃん、また寝てるね」
「そうですね。まだ少し肌寒いですから、羽織をかけて差し上げると、良いと思いますよ」
「うん!」
翁様の隣に駆け寄って、近くにいた近侍さんから羽織をもらって、上質な着物の上にそうっと掛けてあげる。
翁様の優しい顔を見ているだけで安心出来て、彼が起きるまでじーっと顔を見つめる。
そのうち私まで眠くなってきて、翁様の隣でうとうとし始めてしまって。
翁様の目覚めを待っていたはずが、いつの間にか先に目覚めた彼に頭を撫でられて起きる。
優しくて、穏やかで、温かい日々が、幼い私が大好きな日常だった。
「また来てくれたのか、娘っ子よ」
「娘っ子じゃないよ、お兄ちゃん。私の名前は萄花だってば」
何度教えても私の名前を呼んでくれない寝起きの翁様を覗き込むと、ぼんやりとした眠そうな目で私を見つめ返してくれる。
「起きたなら遊ぼうよ」
「ジジイは眠くて叶わんのだがなあ」
「まだおじいちゃんって歳じゃないでしょ。お兄ちゃんじゃない!」
「娘っ子よ、霊獣を見た目で判断するでない」
何も知らない人が彼を見たら、二十代の優しそうなお兄さんにしか見えないだろうけど、翁と呼ばれるだけあって気が遠くなるほど永く生きているらしい。
私はそんな翁様のことを、親しみを込めてお兄ちゃんと呼んでいた。
兄弟のいない私にとって、近所のお兄ちゃんのような存在でもあったから……。
「いーいーかーらー! 寝てばっかはよくないって、近侍さんも言ってたもん!」
「あいつは小言が多いから、放っておけばよいのだ」
「それに、胡蝶の一族の役目は霊獣様を目覚めさせることだし! シャキッとしよう!」
「今の儂はただのジジイさ。霊亀だなんて、たいそうな翁じゃない。のんびりしたって良いじゃないか。亀なだけになあ」
「のんびりしたい亀のお兄ちゃんは、私と遊んでくれないの?」
「ただのジジイの元に娘っ子が来てくれたんだ。遊ぶに決まっているだろう?」
翁様は微笑んで、再び私の頭を優しく撫でてくれる。
でも……どうしてだろう。成長した今になって思い出そうとすると翁様の優しい笑顔が霞んでしまって、どんな顔をしていたか思い出せない。
私にとって、大事な記憶だったというのに……。
思い出すことが、とてつもなく怖いと……今の私は何故か思ってしまっている。
「して、今日は何をするのかね」
「今日はね、舞の練習をしたんだよ。だからその成果を見て!」
「ふうむ。見せてしまっても良いのかね? また今度お披露目の機会があるだろうに」
「私は褒められて成長するタイプなの!」
「それならうんと褒めてやらんとなあ」
小さな私は、藤の花が咲く庭園で一生懸命に踊った。
そうすると、翁様が喜んでくれたから。
まだ拙かっただろうに、それでもたくさんたくさん褒めてくれたから。
翁様の反応のすべてがとても嬉しくて、翁様のために気持ちを込めて舞うことが楽しかった。
「ほら見て! 綺麗に舞えているでしょ? 今年の春のお祭りは私も踊るんだからね!」
「ふふ、そうか。楽しみだなあ」
「それにね。私は大人になったら、お兄ちゃんの……霊亀の翁様の舞姫になるんだから!」
「儂の舞姫になってくれるのか?」
「うん! 私はお兄ちゃんのために踊るのが好きだから!」
私の溢れる気持ちを代弁するように、庭園の池で鯉がぱしゃん! と勢いよく跳ねた。
「そうかそうか。娘っ子がめでたく舞姫になれたら、儂の名を教えよう」
「お兄ちゃんの名前教えてくれるのに、私の名前は呼んでくれないの?」
「その時が来れば、娘っ子の名前も呼ぶことになろうな」
どうして名前を呼んでくれないんだろう。
どうして名前を教えてくれないんだろう。
それが不思議でならなかったけれども、教えてくれると約束してくれたことが嬉しくて、私は翁様に右手の小指を差し出した。
「本当!? 約束だよ! じゃあ指切りしようよ」
「うむ」
「うっそついたら針いっせんまんぼんの~ます♪」
私の小さな小指を翁様の大きな小指に絡ませて、大人になって叶える約束を交わす。
「一千万本は多すぎやしないかね?」
そう言いながらも、無茶を言う私と約束してくれた翁様は嬉しそうだったと思う。
「霊獣なんだから、お兄ちゃんなら平気でしょ? 亀は長生きだし!」
「そうは言っても、年寄りにはきついなあ。それに、針を数える近侍の身にもなってみなさい」
「そっか……。数が多すぎて、近侍さんが大変なことになっちゃうね……」
「うん? 飲まされる儂の心配はしてくれないのか?」
「だって、お兄ちゃんが約束守ってくれれば、針を飲む心配なんてしなくて良いでしょ?」
「まったく、お転婆娘だなあ」
「えへへ。私、頑張るね!」
「ああ。儂も楽しみにしておるよ」
今考えてみると、幼少期の私は翁様にとても甘やかされていたんだと思う。失礼なことも、生意気なことも、沢山言ってしまった。
けれども、あの頃の翁様は咎めなかった。とても穏やかで、優しかったから。
……そう。昔の、翁様は。
――
暖かく穏やかな日常は、ある日に突然崩れ去ってしまった。
およそ八歳の頃、何者かに両親が惨殺された。
事件があった日のことは……よく覚えていない。
気付いたら私は横たわる両親に縋りついてわんわん泣いていて、手を差し伸べてくれた翁様に引き取られたことだけ覚えている。
私は天涯孤独になってしまったけれども、翁様が……お兄ちゃんがそばにいてくれる。
寂しいけど、ひとりぼっちなんかじゃない。悲しくても我慢できると……思っていた。
「これからは、私がお前を育ててやる」
だけど……私を引き取ってくれた翁様は、何故か冷酷な性格へ豹変していた。
「お兄ちゃ……」
「それと、私のことは翁様と呼ぶように」
「え……」
「良いな?」
かつて翁様に感じていたような親しみを、何故か彼から感じられなくなってしまった。
「う、うん……」
「その生意気な口調も直せ」
「は、はい……。……お、翁様……」
彼の要求は当然だ。
本当は彼は、國民が敬うべき霊亀の筆頭なのだから。
幼かった私は、特別親しくすることを許されていただけなのだから。
だから、彼は変わってしまったのではなくて……。
きっと、私との立場を明確にしようと、線引きし始めたのだと思う。
そう、思いたかった。
翁様がいてくれるから、孤独なんかじゃない。
最初は、そう期待していたけれども、願いとは真逆に私は孤立してしまった。
「何故こんなことも出来ないのだ!」
翁様に引き取られた私は彼に舞を捧げることを求められたけれども、私は……舞うことが出来なくなってしまっていた。
齢十八を直前にした迎えた今となっても、いまだに。
「申し訳……ありません……」
小さな頃は拙くとも舞うことができたのに、今では彼の前で踊ろうとすると足がすくんでしまう。
あんなに楽しかったのに、舞うことが怖くなってしまった。
「もう一度、やれ」
「は、はい」
苛立ちを隠せない口調で命じられる理由は、私が彼にとっての出来損ないだから。
翁様の温度感の無い眼差しは、私への期待を失ったことの表れだから。
これ以上失望されたくなくて、見放されたくなくて、舞うことに対してより一層の恐怖を抱いてしまう。
それでも、翁様は私の舞を求めてくださる。
必要とされる限りは全力で叶えたいと思うのに、いざ彼を前にすると足がもつれて倒れてしまった。
無様な姿をさらす私を、翁様は酷く叱咤する。
「霊獣を覚醒させられぬ、役立たずの踊り子が! 何のためにお前を引き取ってやったと思っている!」
こんななりでは、一族の役目を果たすことも、亡くなった両親に顔向けも出来ない。
それどころか、夢見ていた翁様の舞姫になる道すら、閉ざされてしまう。
藤蝶ノ國の胡蝶の一族は、春羽家しか存在しない。
つまり、春羽の娘の私が舞姫になることが出来なければ、翁様も覚醒することが出来ない。
私があまりにも落ちぶれてしまったから、翁様は役立たずの私に厳しく当たるのだろう。
「……申し訳……」
「言い訳など聞き飽きた! 出来るまでそこで練習していろ」
「………………はい」
「紅鴉、こいつがサボらぬように見張っておけ」
「畏まりましたわ、お館様」
失望の籠った深い溜め息のあとに、荒い足音が遠のいていく。
部屋に残されたのは私と、もうひとり。
「くすくす」
縋りたいひとの痕跡を掻き消すように嘲笑う声が、私の耳に届く。
「ああ、かわいそう」
顔を上げると、いつの頃からか翁様が傍に侍らせるようになった美女・紅鴉が、私を見下ろしていた。
「かわいそうで」
「みじめで」
「みっともなくて」
「なさけなくて」
「おろかで」
蔑みを込めた紅鴉のひとことひとことが、まるでそれぞれ別人の声色のように聞こえる。
「……ああ、貴女はこんなにも憐れなのに……」
七色の声を操る彼女に囁かれるだけで、まるで大勢に責め立てられているように錯覚してしまう。
「それなのに……なんて憎らしいの。妬ましいの」
それまで私を蔑んでいたというのに、彼女は底の見えない紅い瞳で私を恨めしそうに睨みつけてくる。
思わずぞっとして目を背けようとすると、紅鴉は私の顎を強引に掴んで顔を合わせさせられた。
「ねえ、よぉく視て? わたしくのほうが、美しいのに」
紅鴉の整った顔は瑞々しく華やかで、上品な姿勢をより優美に見せる黒と朱の振袖がとても良く似合う。
紅を引いた艶のある唇を歪ませた彼女は、誰もが溜め息をつく美女に違いない。
胡蝶の一族の証である紫色の瞳だけが私を特別に見せているけれども、私はごく一般的な顔立ちをしている。
彼女と同じ黒髪は、手入れを怠ったせいか所々が痛んでいる。
明るい紅を引き白粉を塗布すれば、少しは映えることを期待しても良いのかもしれない。
けれども役立たずの私に許されるのは、最低限の慎ましい衣服だけ。
彼女のように着飾ることを、求められていない。
紅鴉と私を比較すること自体が烏滸がましく感じるほどに、私は自分がみじめな存在だと思い知らされる。
「ねえ、よぉく観て? わたくしのほうが、たおやかに舞えるのに」
立ち上がった紅鴉がくるりくるりと上手く足を運び、鳥籠に囚われた鳥が羽ばたく様子の描かれた振袖を優雅に揺らす。
濡羽色の髪をまとめた金の簪の装飾が音を立てた。
躓いて上手く舞うことの出来ない私とは違い、彼女は得意げに舞を披露する。
「ただただ胡蝶の一族に生まれただけの、不器量な小娘よりも……」
彼女自身が謳うように、紅鴉は羨みたくなるほど美しく優秀な女性だと思う。
もしかしたら翁様は、本当は傍に侍らす彼女を舞姫にしたいのかもしれない。
けれども……。
「わたしくのほうが……舞姫にふさわしいのに」
胡蝶の一族の娘ではない紅鴉には、その資格がない。
「……」
何も言えずに黙っていると、彼女は再び私に近付いてきた。
「あなたも、そう、おもうでしょう?」
彼女の紅い瞳が、私の瞳を覗き込む。
ふつうなら、私の黒い瞳が反射して映り込むはずなのに、そこには底の見えない憎しみしか見えない。
「わたくしを、かわいそうだと、おもってくれるでしょう?」
歌うように紡がれる七色の声色が、私の鼓膜を震わせてその奥に隠していた罪悪感を暴こうとする。
刷り込むようにゆっくりと放たれる言葉に心が抉られて、彼女が抱える深い闇へと飲み込まれそうになる。
「あなたが死ねば、よかったのに」
「……っぅ!」
畳の上に慎ましく重ねていた私の手に、痛みが走る。
「あなたが死ねば……」
紅鴉が右手に持っていた扇子を、私の手の甲に押し付けたからだ。
「ゆるされぬわたくしでも……」
痛くても、悲鳴をあげることは出来なかった。
目を逸らしたいのに、目を逸らすことも出来ない。
「ゆるしをえられるのではなくて?」
叶わぬ願いを抱えた彼女が私を甚振るのは、私がその資格を持っているから。
だから、かわいそうなのは彼女も同じだと、同情してしまう。
「わたくしを、かわいそうだとおもってくれるのなら……」
扇子を離した彼女の冷たい指先が、私の首に触れた。
「ぁ……ッ!」
ポトリと畳の上へと静かに落ちた扇子の音に、背筋がぞっとする。
「わたくしにゆずってくださらない?」
首筋に爪が食い込まれるのを感じる。
憎しみのこもった圧力が私の首を圧迫する。
息苦しく、上手く呼吸が出来ない。
「や……め……」
次に落ちるのは、私の首かもしれない。
心に引っ掛かるものを感じて我に返った私は、必死に抵抗した。
「やっ……やめてっ!」
「きゃっ!?」
私は紅鴉を突き飛ばして、部屋から逃げ出す。
遠ざかっているはずなのに、紅鴉の底知れぬ得体のしれない恐ろしさが、まだ身に纏わりついている。
『かわいそう』
走っても走っても、紅鴉の絡みつくような七色の声が耳にこびりついている。
『どんなにあがいても、あなたはぜったいにむくわれないのに』
どうして……?
どうしてそんなことが言い切れるの?
頑張って練習すれば、また舞えるようになるかもしれない。
そうしたら翁様はまた、私を見てくれるかもしれない。
……ほんとうに?
前日の雨の水たまりを覗き込むと、泥水の中に泣きそうな私の顔が映り込んだ。
底知れない闇を抱えた瞳に囚われそうになった後だからこそ、こんな情けない姿でもどこか安堵できる。
「痣になってる……」
ふと首筋に、指の形をした複数の痣と、爪で刺した新しい朱色の跡がくっきりと残っていることに気付き、怖気が走る。
この悲しみから抜け出せないように無能の烙印を重ねて押されたように感じて、首を隠したくなった。
「変わっちゃった、な……」
かつては広かったはずの翁様の館は、今は引っ越してしまったのかこじんまりとしている。
舞を練習するための部屋も、以前より一回り以上小さい。
翁様の傍にいた近侍さんもいないし、良く眺めていた藤棚も、鯉が跳ねた池も見当たらない。
何よりも、私も舞うことが出来なくなってしまった。
「翁様……どうして……」
変わったのは、私だけじゃない。何もかもが、以前とは違う。
「あんなに優しかったのに、どうして……変わってしまったの……?」
親しみを感じさせてくれる翁様は、もう居ない。
思い出すたびに懐かしさで胸が苦しくなって、愛おしい日々が戻ってこないことに絶望して、挫けそうになる。
けれども私は、翁様の舞姫だから……。
舞姫にならなくちゃいけないから……。
その資格があるから……。
だから……。
「見捨てないで……お兄ちゃん……」
――
翁様に叱咤され、紅鴉からは蔑まれ甚振られる毎日が続いていた、ある日。
私は翁様に呼び出された。
もしかしたら、昔のように私を見守ってくれるのかもしれない。
「お呼びになりましたか、翁様」
「やっと来たか」
「駄目じゃない。お館様をお待たせしちゃ」
「本当にどうしようもない奴だ」
けれども、心弾ませて駆け付けた私を待っていたのは、しかめ面の翁様と、当然のように彼に寄り添う紅鴉だった。
二人が並んでいると、より自分がみじめに感じられる。
期待していたことが表情に出ていたのか、彼らの前に跪く私を紅鴉が見下ろして微笑んでいる。
『かわいそう』
「……」
彼女は唇を動かしただけなのに、何故か直接耳に語り掛けられているように感じる。
すぐそばで首に手をかけられているように錯覚して、背筋がぞっとして、息苦しくなりかける。
俯いて、彼らから見えないように静かに深呼吸をしていると、翁様が語り始めた。
「お前の肉親を殺した黒幕を教えてやろう」
「くろ……まく……?」
予想外の言葉に、私は思わず呆然としてしまう。
「貴女、そろそろ十八でしょう? 幼い子どもじゃいられなくなるのだから、仇を知っても良いと思ったのよ」
伏せていた顔をあげると、翁様が苛立ち気味に語る。
そんな翁様を、含みを感じさせる笑みを浮かべた紅鴉が宥めた。
「お前の肉親を殺したのは、怨霊だ。それは覚えているか?」
「……いいえ」
私は首を横に振った。
目撃者のはずの私は、あの頃のことを覚えていない。
でも、手を差し伸べてくださったのが翁様だということは、ちゃんと記憶にある。
怨霊は、死んでも死にきれなかった生き物たちの成れの果て。
世界を、國を、霊獣を、そして生きとし生けるものを憎悪し、災いを齎し、平穏を乱そうとする者。
そんな恐ろしい怨霊たちから住民たちを守るのは、霊獣の役目でもあった。
特に、胡蝶の一族は霊獣の庇護下にある。
春羽家も例外ではなく、霊亀の翁様が守ってくださっていた。
だからこそ、怨霊が私の家族に襲われたということは、相当な理由があるはず。
「何も覚えていない愚かなお前に教えてやる。私の他に、もうひとり霊亀がいる」
「……もうひとりの……?」
「奴は翁の名を偽り、筆頭霊亀の座を奪おうと画策する浅ましい奴だ」
もうひとりの霊亀と聞いて、何故か私の胸が騒めいた気がした。
「霊亀の覚醒を促す春羽の者が邪魔だったのだろう。あろうことか奴は怨霊をけしかけ、お前の肉親を襲わせたのだ」
「霊亀様が……私の両親を……?」
邪魔だという理由だけで……?
霊獣は人々を守るのが役目だと、昔の翁様はいつも言っていたのに……そんな酷いことがあり得るなんて、考えられなかった。
「幸いお前を助けてやることは出来たが……しかし、肝心の春羽の娘が、こんなにも役に立たないとはな」
「……申し訳……ありません……」
「舞のひとつも踊れぬ無能に、役目を与えてやる」
「翁様のためでしたら……」
助けてもらったのに、私は何一つ恩返し出来ていない。
だからせめて翁様の願いを一つでも多く叶えなければと思っていた私に下されたのは、衝撃的な命令だった。
「その霊亀の元へ向かい、奴を暗殺しろ」
「!? そんな……霊亀様の暗殺など、できません……!」
「お前に敵討ちの機会を与えてやると言っているのにか?」
「けれども、霊獣様のお命を狙うなど、恐れ多くて……!」
恐ろしさのあまりに、私は思わず自分の首筋に付けられた痣に触れた。
ただでさえ自分が傷付けられるだけでも怖くて嫌だと思うのに、他人を傷付ける行為なんて恐ろしすぎるのに……。
人々を守ってくださる霊獣様を狙うなんて、してはいけないことだというのに……。
「怨霊と手を組み、私や人々に仇名す霊亀が相手だとしてもか?」
「胡蝶の一族として舞えぬのなら、せめてお館様のお役に立ってから散るべきではなくて?」
「……それ、は……」
きっと放っておいたら酷いことになる。
だから誰かが、暴走する霊亀を止めなければならない。
けれども私に、それが出来るの……?
返事が出来ずに俯く私の首元に、何かが巻き付かれたような感覚がする。
思わずぞっとして身をよじろうとすると、紅鴉が私の首に血のように真っ赤な襟巻を巻いていた。
「お館様から、貴女への餞よ」
「大切にするが良い」
「ありがとう……ございます……」
今までもらったことのない贈り物を頂いてしまったことに、驚きと同時に喜びが込み上げてくる。
最後の最後になって、多少は私を認めてくれたのかもしれない。
そうであるというのなら……。
私は彼の舞姫として相応しくあるべく、命に従うべきなのかもしれない……。
でも……。
喜びとは裏腹に、胸がずきりと痛む。
「くすくす、良かったわね」
襟巻を締めながら、紅鴉が艶やかな口元を歪ませる。
『それで無能の烙印が消せるもの』
紅鴉は言葉を発さずに、そう続けた。
==
彼は、何を夢見たのだろうか。
青年の姿をした霊亀の翁が、庭園に舞う蝶を眺めてぽつりと呟く。
「夢、か……」
彼の視線の先の藤の藤は、まだ蕾のままだ。
けれども、この先美しく咲き誇る予兆を感じさせるように、ふっくらと色付いている。
「春羽の娘っ子はまだ来ていないのか?」
「翁……。春羽家は、十年前に断絶しております」
「……あ、ああ。……そうだったな、そうだった……。あれからもう十年も、舞を見ていないのか……」
まだ咲かぬ藤を前に、翁はぼんやりとする。
「……あの娘っ子が生きておれば、今頃は立派な舞を見せてくれたろうになあ」
風に揺られる藤の蕾に留ろうと蝶が舞う様子を眺めて、彼はうとうととしかける。
「……ん?」
「どうしましたか? 翁」
しかし翁はすぐに目をぱっちりと開くと、屋敷の外側に視線を向けた。
「妙な気配を感じるな」
「妙な気配、とは……?」
「不穏なようで……懐かしいような……」
翁は何かに気付いた顔をすると、慌てて庭園から走り去った。
そう。
彼が焦がれていた、春羽の娘がいる場所へ……。
==
翁様と紅鴉に見送られ、私は偽物の翁様のお屋敷に送り出された。
「……お初にお目にかかります、霊亀の翁様」
どう入り込むか悩んでいたけど、あっという間にもうひとりの霊亀様にお目通し頂けることになって驚いた。
「春羽の娘、萄花です」
「顔を上げなさい」
彼の言葉に従い、顔を上げて偽者の翁様の顔を真っ直ぐに見る。
私はきっとこの先、この時の彼の表情を、忘れることが出来ないだろう。
悲しそうで、切なそうで、寂しそうで……でも愛おしそうに私を見つめる彼の表情を……。
「娘っ子よ。お主の舞は綺麗だなあ。眠気もすっかりと吹き飛ぶようだ」
その優しい声も、穏やかな空気も、居心地の良さも記憶にあるのに……。
記憶の中の顔だけが、何故か朧げだった。
その頃の私の背は小さくて、無邪気でいられた年頃だったと思う。
両親から一族に伝わる舞を新たに教えてもらった後、私は必ず翁様の元へ遊びに行っていた。
本当は翁様は気軽に会うことの出来ないお方なのだけれども、私は霊獣と密接な関係にある一族の娘だからという理由で許されていたのかもしれない。
【世界各國は『霊獣』と呼ばれる神聖なる存在が支配しており、『胡蝶の一族』は霊獣を眠りから覚醒させる】と言われている。
眠りと言っても、床に着き瞼を閉じる睡眠のことではなく、霊獣が内に秘めた力のことを指す。
覚醒した霊獣が支配する國は豊かになると言い伝えられており、胡蝶の一族には彼らの力を呼び醒ますことが求められている。
そのため繁栄をもたらす霊獣のことを、ある國は絶対君主として、ある國は平和を齎す象徴として……それぞれの國で大切に扱っている、らしい。
私、萄花は、霊亀の翁を筆頭霊獣として奉る藤蝶ノ國の春羽家に生まれた。
春羽家も胡蝶の一族に属しており、舞によって霊亀を眠りから呼び醒ます役目を担っている。
翁様と呼ばれている霊亀は、いつ見ても人と変わらない見た目をしている。
藤棚が見える縁側で着物を纏う彼は、いつも眠そうにうつらうつらとしていた。
さらりと風になびく長い銀髪はキラキラと輝いて美しく、穏やかに緩んだ表情を見つめているとこちらまで心が穏やかになっていく。
幼かった私でも魅入ってしまうほど、彼は美しく幻想的なひとの形をしていた。
藤の花を背景にすると、ひとつの美しい絵画にも見える。
……でも彼は、ふとした瞬間にどこか寂しさを漂わせるひとでもあって……。
そうしたとき、私は決まって翁様のそばに寄り添った。
子供心に、何気なく「一緒にいると喜んでくれるかな」と思って。
「……お兄ちゃん、また寝てるね」
「そうですね。まだ少し肌寒いですから、羽織をかけて差し上げると、良いと思いますよ」
「うん!」
翁様の隣に駆け寄って、近くにいた近侍さんから羽織をもらって、上質な着物の上にそうっと掛けてあげる。
翁様の優しい顔を見ているだけで安心出来て、彼が起きるまでじーっと顔を見つめる。
そのうち私まで眠くなってきて、翁様の隣でうとうとし始めてしまって。
翁様の目覚めを待っていたはずが、いつの間にか先に目覚めた彼に頭を撫でられて起きる。
優しくて、穏やかで、温かい日々が、幼い私が大好きな日常だった。
「また来てくれたのか、娘っ子よ」
「娘っ子じゃないよ、お兄ちゃん。私の名前は萄花だってば」
何度教えても私の名前を呼んでくれない寝起きの翁様を覗き込むと、ぼんやりとした眠そうな目で私を見つめ返してくれる。
「起きたなら遊ぼうよ」
「ジジイは眠くて叶わんのだがなあ」
「まだおじいちゃんって歳じゃないでしょ。お兄ちゃんじゃない!」
「娘っ子よ、霊獣を見た目で判断するでない」
何も知らない人が彼を見たら、二十代の優しそうなお兄さんにしか見えないだろうけど、翁と呼ばれるだけあって気が遠くなるほど永く生きているらしい。
私はそんな翁様のことを、親しみを込めてお兄ちゃんと呼んでいた。
兄弟のいない私にとって、近所のお兄ちゃんのような存在でもあったから……。
「いーいーかーらー! 寝てばっかはよくないって、近侍さんも言ってたもん!」
「あいつは小言が多いから、放っておけばよいのだ」
「それに、胡蝶の一族の役目は霊獣様を目覚めさせることだし! シャキッとしよう!」
「今の儂はただのジジイさ。霊亀だなんて、たいそうな翁じゃない。のんびりしたって良いじゃないか。亀なだけになあ」
「のんびりしたい亀のお兄ちゃんは、私と遊んでくれないの?」
「ただのジジイの元に娘っ子が来てくれたんだ。遊ぶに決まっているだろう?」
翁様は微笑んで、再び私の頭を優しく撫でてくれる。
でも……どうしてだろう。成長した今になって思い出そうとすると翁様の優しい笑顔が霞んでしまって、どんな顔をしていたか思い出せない。
私にとって、大事な記憶だったというのに……。
思い出すことが、とてつもなく怖いと……今の私は何故か思ってしまっている。
「して、今日は何をするのかね」
「今日はね、舞の練習をしたんだよ。だからその成果を見て!」
「ふうむ。見せてしまっても良いのかね? また今度お披露目の機会があるだろうに」
「私は褒められて成長するタイプなの!」
「それならうんと褒めてやらんとなあ」
小さな私は、藤の花が咲く庭園で一生懸命に踊った。
そうすると、翁様が喜んでくれたから。
まだ拙かっただろうに、それでもたくさんたくさん褒めてくれたから。
翁様の反応のすべてがとても嬉しくて、翁様のために気持ちを込めて舞うことが楽しかった。
「ほら見て! 綺麗に舞えているでしょ? 今年の春のお祭りは私も踊るんだからね!」
「ふふ、そうか。楽しみだなあ」
「それにね。私は大人になったら、お兄ちゃんの……霊亀の翁様の舞姫になるんだから!」
「儂の舞姫になってくれるのか?」
「うん! 私はお兄ちゃんのために踊るのが好きだから!」
私の溢れる気持ちを代弁するように、庭園の池で鯉がぱしゃん! と勢いよく跳ねた。
「そうかそうか。娘っ子がめでたく舞姫になれたら、儂の名を教えよう」
「お兄ちゃんの名前教えてくれるのに、私の名前は呼んでくれないの?」
「その時が来れば、娘っ子の名前も呼ぶことになろうな」
どうして名前を呼んでくれないんだろう。
どうして名前を教えてくれないんだろう。
それが不思議でならなかったけれども、教えてくれると約束してくれたことが嬉しくて、私は翁様に右手の小指を差し出した。
「本当!? 約束だよ! じゃあ指切りしようよ」
「うむ」
「うっそついたら針いっせんまんぼんの~ます♪」
私の小さな小指を翁様の大きな小指に絡ませて、大人になって叶える約束を交わす。
「一千万本は多すぎやしないかね?」
そう言いながらも、無茶を言う私と約束してくれた翁様は嬉しそうだったと思う。
「霊獣なんだから、お兄ちゃんなら平気でしょ? 亀は長生きだし!」
「そうは言っても、年寄りにはきついなあ。それに、針を数える近侍の身にもなってみなさい」
「そっか……。数が多すぎて、近侍さんが大変なことになっちゃうね……」
「うん? 飲まされる儂の心配はしてくれないのか?」
「だって、お兄ちゃんが約束守ってくれれば、針を飲む心配なんてしなくて良いでしょ?」
「まったく、お転婆娘だなあ」
「えへへ。私、頑張るね!」
「ああ。儂も楽しみにしておるよ」
今考えてみると、幼少期の私は翁様にとても甘やかされていたんだと思う。失礼なことも、生意気なことも、沢山言ってしまった。
けれども、あの頃の翁様は咎めなかった。とても穏やかで、優しかったから。
……そう。昔の、翁様は。
――
暖かく穏やかな日常は、ある日に突然崩れ去ってしまった。
およそ八歳の頃、何者かに両親が惨殺された。
事件があった日のことは……よく覚えていない。
気付いたら私は横たわる両親に縋りついてわんわん泣いていて、手を差し伸べてくれた翁様に引き取られたことだけ覚えている。
私は天涯孤独になってしまったけれども、翁様が……お兄ちゃんがそばにいてくれる。
寂しいけど、ひとりぼっちなんかじゃない。悲しくても我慢できると……思っていた。
「これからは、私がお前を育ててやる」
だけど……私を引き取ってくれた翁様は、何故か冷酷な性格へ豹変していた。
「お兄ちゃ……」
「それと、私のことは翁様と呼ぶように」
「え……」
「良いな?」
かつて翁様に感じていたような親しみを、何故か彼から感じられなくなってしまった。
「う、うん……」
「その生意気な口調も直せ」
「は、はい……。……お、翁様……」
彼の要求は当然だ。
本当は彼は、國民が敬うべき霊亀の筆頭なのだから。
幼かった私は、特別親しくすることを許されていただけなのだから。
だから、彼は変わってしまったのではなくて……。
きっと、私との立場を明確にしようと、線引きし始めたのだと思う。
そう、思いたかった。
翁様がいてくれるから、孤独なんかじゃない。
最初は、そう期待していたけれども、願いとは真逆に私は孤立してしまった。
「何故こんなことも出来ないのだ!」
翁様に引き取られた私は彼に舞を捧げることを求められたけれども、私は……舞うことが出来なくなってしまっていた。
齢十八を直前にした迎えた今となっても、いまだに。
「申し訳……ありません……」
小さな頃は拙くとも舞うことができたのに、今では彼の前で踊ろうとすると足がすくんでしまう。
あんなに楽しかったのに、舞うことが怖くなってしまった。
「もう一度、やれ」
「は、はい」
苛立ちを隠せない口調で命じられる理由は、私が彼にとっての出来損ないだから。
翁様の温度感の無い眼差しは、私への期待を失ったことの表れだから。
これ以上失望されたくなくて、見放されたくなくて、舞うことに対してより一層の恐怖を抱いてしまう。
それでも、翁様は私の舞を求めてくださる。
必要とされる限りは全力で叶えたいと思うのに、いざ彼を前にすると足がもつれて倒れてしまった。
無様な姿をさらす私を、翁様は酷く叱咤する。
「霊獣を覚醒させられぬ、役立たずの踊り子が! 何のためにお前を引き取ってやったと思っている!」
こんななりでは、一族の役目を果たすことも、亡くなった両親に顔向けも出来ない。
それどころか、夢見ていた翁様の舞姫になる道すら、閉ざされてしまう。
藤蝶ノ國の胡蝶の一族は、春羽家しか存在しない。
つまり、春羽の娘の私が舞姫になることが出来なければ、翁様も覚醒することが出来ない。
私があまりにも落ちぶれてしまったから、翁様は役立たずの私に厳しく当たるのだろう。
「……申し訳……」
「言い訳など聞き飽きた! 出来るまでそこで練習していろ」
「………………はい」
「紅鴉、こいつがサボらぬように見張っておけ」
「畏まりましたわ、お館様」
失望の籠った深い溜め息のあとに、荒い足音が遠のいていく。
部屋に残されたのは私と、もうひとり。
「くすくす」
縋りたいひとの痕跡を掻き消すように嘲笑う声が、私の耳に届く。
「ああ、かわいそう」
顔を上げると、いつの頃からか翁様が傍に侍らせるようになった美女・紅鴉が、私を見下ろしていた。
「かわいそうで」
「みじめで」
「みっともなくて」
「なさけなくて」
「おろかで」
蔑みを込めた紅鴉のひとことひとことが、まるでそれぞれ別人の声色のように聞こえる。
「……ああ、貴女はこんなにも憐れなのに……」
七色の声を操る彼女に囁かれるだけで、まるで大勢に責め立てられているように錯覚してしまう。
「それなのに……なんて憎らしいの。妬ましいの」
それまで私を蔑んでいたというのに、彼女は底の見えない紅い瞳で私を恨めしそうに睨みつけてくる。
思わずぞっとして目を背けようとすると、紅鴉は私の顎を強引に掴んで顔を合わせさせられた。
「ねえ、よぉく視て? わたしくのほうが、美しいのに」
紅鴉の整った顔は瑞々しく華やかで、上品な姿勢をより優美に見せる黒と朱の振袖がとても良く似合う。
紅を引いた艶のある唇を歪ませた彼女は、誰もが溜め息をつく美女に違いない。
胡蝶の一族の証である紫色の瞳だけが私を特別に見せているけれども、私はごく一般的な顔立ちをしている。
彼女と同じ黒髪は、手入れを怠ったせいか所々が痛んでいる。
明るい紅を引き白粉を塗布すれば、少しは映えることを期待しても良いのかもしれない。
けれども役立たずの私に許されるのは、最低限の慎ましい衣服だけ。
彼女のように着飾ることを、求められていない。
紅鴉と私を比較すること自体が烏滸がましく感じるほどに、私は自分がみじめな存在だと思い知らされる。
「ねえ、よぉく観て? わたくしのほうが、たおやかに舞えるのに」
立ち上がった紅鴉がくるりくるりと上手く足を運び、鳥籠に囚われた鳥が羽ばたく様子の描かれた振袖を優雅に揺らす。
濡羽色の髪をまとめた金の簪の装飾が音を立てた。
躓いて上手く舞うことの出来ない私とは違い、彼女は得意げに舞を披露する。
「ただただ胡蝶の一族に生まれただけの、不器量な小娘よりも……」
彼女自身が謳うように、紅鴉は羨みたくなるほど美しく優秀な女性だと思う。
もしかしたら翁様は、本当は傍に侍らす彼女を舞姫にしたいのかもしれない。
けれども……。
「わたしくのほうが……舞姫にふさわしいのに」
胡蝶の一族の娘ではない紅鴉には、その資格がない。
「……」
何も言えずに黙っていると、彼女は再び私に近付いてきた。
「あなたも、そう、おもうでしょう?」
彼女の紅い瞳が、私の瞳を覗き込む。
ふつうなら、私の黒い瞳が反射して映り込むはずなのに、そこには底の見えない憎しみしか見えない。
「わたくしを、かわいそうだと、おもってくれるでしょう?」
歌うように紡がれる七色の声色が、私の鼓膜を震わせてその奥に隠していた罪悪感を暴こうとする。
刷り込むようにゆっくりと放たれる言葉に心が抉られて、彼女が抱える深い闇へと飲み込まれそうになる。
「あなたが死ねば、よかったのに」
「……っぅ!」
畳の上に慎ましく重ねていた私の手に、痛みが走る。
「あなたが死ねば……」
紅鴉が右手に持っていた扇子を、私の手の甲に押し付けたからだ。
「ゆるされぬわたくしでも……」
痛くても、悲鳴をあげることは出来なかった。
目を逸らしたいのに、目を逸らすことも出来ない。
「ゆるしをえられるのではなくて?」
叶わぬ願いを抱えた彼女が私を甚振るのは、私がその資格を持っているから。
だから、かわいそうなのは彼女も同じだと、同情してしまう。
「わたくしを、かわいそうだとおもってくれるのなら……」
扇子を離した彼女の冷たい指先が、私の首に触れた。
「ぁ……ッ!」
ポトリと畳の上へと静かに落ちた扇子の音に、背筋がぞっとする。
「わたくしにゆずってくださらない?」
首筋に爪が食い込まれるのを感じる。
憎しみのこもった圧力が私の首を圧迫する。
息苦しく、上手く呼吸が出来ない。
「や……め……」
次に落ちるのは、私の首かもしれない。
心に引っ掛かるものを感じて我に返った私は、必死に抵抗した。
「やっ……やめてっ!」
「きゃっ!?」
私は紅鴉を突き飛ばして、部屋から逃げ出す。
遠ざかっているはずなのに、紅鴉の底知れぬ得体のしれない恐ろしさが、まだ身に纏わりついている。
『かわいそう』
走っても走っても、紅鴉の絡みつくような七色の声が耳にこびりついている。
『どんなにあがいても、あなたはぜったいにむくわれないのに』
どうして……?
どうしてそんなことが言い切れるの?
頑張って練習すれば、また舞えるようになるかもしれない。
そうしたら翁様はまた、私を見てくれるかもしれない。
……ほんとうに?
前日の雨の水たまりを覗き込むと、泥水の中に泣きそうな私の顔が映り込んだ。
底知れない闇を抱えた瞳に囚われそうになった後だからこそ、こんな情けない姿でもどこか安堵できる。
「痣になってる……」
ふと首筋に、指の形をした複数の痣と、爪で刺した新しい朱色の跡がくっきりと残っていることに気付き、怖気が走る。
この悲しみから抜け出せないように無能の烙印を重ねて押されたように感じて、首を隠したくなった。
「変わっちゃった、な……」
かつては広かったはずの翁様の館は、今は引っ越してしまったのかこじんまりとしている。
舞を練習するための部屋も、以前より一回り以上小さい。
翁様の傍にいた近侍さんもいないし、良く眺めていた藤棚も、鯉が跳ねた池も見当たらない。
何よりも、私も舞うことが出来なくなってしまった。
「翁様……どうして……」
変わったのは、私だけじゃない。何もかもが、以前とは違う。
「あんなに優しかったのに、どうして……変わってしまったの……?」
親しみを感じさせてくれる翁様は、もう居ない。
思い出すたびに懐かしさで胸が苦しくなって、愛おしい日々が戻ってこないことに絶望して、挫けそうになる。
けれども私は、翁様の舞姫だから……。
舞姫にならなくちゃいけないから……。
その資格があるから……。
だから……。
「見捨てないで……お兄ちゃん……」
――
翁様に叱咤され、紅鴉からは蔑まれ甚振られる毎日が続いていた、ある日。
私は翁様に呼び出された。
もしかしたら、昔のように私を見守ってくれるのかもしれない。
「お呼びになりましたか、翁様」
「やっと来たか」
「駄目じゃない。お館様をお待たせしちゃ」
「本当にどうしようもない奴だ」
けれども、心弾ませて駆け付けた私を待っていたのは、しかめ面の翁様と、当然のように彼に寄り添う紅鴉だった。
二人が並んでいると、より自分がみじめに感じられる。
期待していたことが表情に出ていたのか、彼らの前に跪く私を紅鴉が見下ろして微笑んでいる。
『かわいそう』
「……」
彼女は唇を動かしただけなのに、何故か直接耳に語り掛けられているように感じる。
すぐそばで首に手をかけられているように錯覚して、背筋がぞっとして、息苦しくなりかける。
俯いて、彼らから見えないように静かに深呼吸をしていると、翁様が語り始めた。
「お前の肉親を殺した黒幕を教えてやろう」
「くろ……まく……?」
予想外の言葉に、私は思わず呆然としてしまう。
「貴女、そろそろ十八でしょう? 幼い子どもじゃいられなくなるのだから、仇を知っても良いと思ったのよ」
伏せていた顔をあげると、翁様が苛立ち気味に語る。
そんな翁様を、含みを感じさせる笑みを浮かべた紅鴉が宥めた。
「お前の肉親を殺したのは、怨霊だ。それは覚えているか?」
「……いいえ」
私は首を横に振った。
目撃者のはずの私は、あの頃のことを覚えていない。
でも、手を差し伸べてくださったのが翁様だということは、ちゃんと記憶にある。
怨霊は、死んでも死にきれなかった生き物たちの成れの果て。
世界を、國を、霊獣を、そして生きとし生けるものを憎悪し、災いを齎し、平穏を乱そうとする者。
そんな恐ろしい怨霊たちから住民たちを守るのは、霊獣の役目でもあった。
特に、胡蝶の一族は霊獣の庇護下にある。
春羽家も例外ではなく、霊亀の翁様が守ってくださっていた。
だからこそ、怨霊が私の家族に襲われたということは、相当な理由があるはず。
「何も覚えていない愚かなお前に教えてやる。私の他に、もうひとり霊亀がいる」
「……もうひとりの……?」
「奴は翁の名を偽り、筆頭霊亀の座を奪おうと画策する浅ましい奴だ」
もうひとりの霊亀と聞いて、何故か私の胸が騒めいた気がした。
「霊亀の覚醒を促す春羽の者が邪魔だったのだろう。あろうことか奴は怨霊をけしかけ、お前の肉親を襲わせたのだ」
「霊亀様が……私の両親を……?」
邪魔だという理由だけで……?
霊獣は人々を守るのが役目だと、昔の翁様はいつも言っていたのに……そんな酷いことがあり得るなんて、考えられなかった。
「幸いお前を助けてやることは出来たが……しかし、肝心の春羽の娘が、こんなにも役に立たないとはな」
「……申し訳……ありません……」
「舞のひとつも踊れぬ無能に、役目を与えてやる」
「翁様のためでしたら……」
助けてもらったのに、私は何一つ恩返し出来ていない。
だからせめて翁様の願いを一つでも多く叶えなければと思っていた私に下されたのは、衝撃的な命令だった。
「その霊亀の元へ向かい、奴を暗殺しろ」
「!? そんな……霊亀様の暗殺など、できません……!」
「お前に敵討ちの機会を与えてやると言っているのにか?」
「けれども、霊獣様のお命を狙うなど、恐れ多くて……!」
恐ろしさのあまりに、私は思わず自分の首筋に付けられた痣に触れた。
ただでさえ自分が傷付けられるだけでも怖くて嫌だと思うのに、他人を傷付ける行為なんて恐ろしすぎるのに……。
人々を守ってくださる霊獣様を狙うなんて、してはいけないことだというのに……。
「怨霊と手を組み、私や人々に仇名す霊亀が相手だとしてもか?」
「胡蝶の一族として舞えぬのなら、せめてお館様のお役に立ってから散るべきではなくて?」
「……それ、は……」
きっと放っておいたら酷いことになる。
だから誰かが、暴走する霊亀を止めなければならない。
けれども私に、それが出来るの……?
返事が出来ずに俯く私の首元に、何かが巻き付かれたような感覚がする。
思わずぞっとして身をよじろうとすると、紅鴉が私の首に血のように真っ赤な襟巻を巻いていた。
「お館様から、貴女への餞よ」
「大切にするが良い」
「ありがとう……ございます……」
今までもらったことのない贈り物を頂いてしまったことに、驚きと同時に喜びが込み上げてくる。
最後の最後になって、多少は私を認めてくれたのかもしれない。
そうであるというのなら……。
私は彼の舞姫として相応しくあるべく、命に従うべきなのかもしれない……。
でも……。
喜びとは裏腹に、胸がずきりと痛む。
「くすくす、良かったわね」
襟巻を締めながら、紅鴉が艶やかな口元を歪ませる。
『それで無能の烙印が消せるもの』
紅鴉は言葉を発さずに、そう続けた。
==
彼は、何を夢見たのだろうか。
青年の姿をした霊亀の翁が、庭園に舞う蝶を眺めてぽつりと呟く。
「夢、か……」
彼の視線の先の藤の藤は、まだ蕾のままだ。
けれども、この先美しく咲き誇る予兆を感じさせるように、ふっくらと色付いている。
「春羽の娘っ子はまだ来ていないのか?」
「翁……。春羽家は、十年前に断絶しております」
「……あ、ああ。……そうだったな、そうだった……。あれからもう十年も、舞を見ていないのか……」
まだ咲かぬ藤を前に、翁はぼんやりとする。
「……あの娘っ子が生きておれば、今頃は立派な舞を見せてくれたろうになあ」
風に揺られる藤の蕾に留ろうと蝶が舞う様子を眺めて、彼はうとうととしかける。
「……ん?」
「どうしましたか? 翁」
しかし翁はすぐに目をぱっちりと開くと、屋敷の外側に視線を向けた。
「妙な気配を感じるな」
「妙な気配、とは……?」
「不穏なようで……懐かしいような……」
翁は何かに気付いた顔をすると、慌てて庭園から走り去った。
そう。
彼が焦がれていた、春羽の娘がいる場所へ……。
==
翁様と紅鴉に見送られ、私は偽物の翁様のお屋敷に送り出された。
「……お初にお目にかかります、霊亀の翁様」
どう入り込むか悩んでいたけど、あっという間にもうひとりの霊亀様にお目通し頂けることになって驚いた。
「春羽の娘、萄花です」
「顔を上げなさい」
彼の言葉に従い、顔を上げて偽者の翁様の顔を真っ直ぐに見る。
私はきっとこの先、この時の彼の表情を、忘れることが出来ないだろう。
悲しそうで、切なそうで、寂しそうで……でも愛おしそうに私を見つめる彼の表情を……。



