「あつ…」
その日は真夏で、灼熱の日差しとアスファルトにクラクラするような日だった。
信号待ちしていると、近くで老夫婦が立ち止まっている。2人は、キョロキョロしていた。手元にはチラシ。それを見た私は、腕時計を確認し、声をかける。
「あの…」
日傘をさした女性が私の方を見た。女性の手元のチラシを指さす。
「そこ、探してるんですか?」
「あぁ…そうなんです。」
「近いので良かったら、案内します。時間もあるし。」
「え!いいの?あなた、この子、場所教えてくれるって!」
少し離れていた男性が帽子を抑えながら、近づいてきた。
「いいんですか?」
「はい。すぐそこなんで。」
「ありがとうね〜。」
2人を連れて少し歩く。建物の近くで指をさした。
「あそこです。スタッフが入口で看板持ってますね。」
「あら、ほんと!」
「ここだったのか。」
老夫婦がうれしそうに言った。
「じゃあ、私はここで。楽しんでくださいね。」
ひらりと手を振る。チラシは、落語のイベントだった。
「ありがとうね、助かったわ〜。」
ニコニコと笑う老夫婦に、こちらも笑顔を向ける。老夫婦と別れ、少し歩き、表情を落とした。
「あっち…」
ダクダクと流れる汗をタオル生地のハンカチで拭う。駅に入ると日陰だから少し涼しいが、人の多さの熱さがあった。駅内のベンチに座る。
「ン〜…?」
声の方を見た。ベンチの近くのコインロッカー。そこには異国の女性が大きな荷物を持ってコインロッカーの使用に関する看板を見ている。
「…」
ペットボトルを取り出して、残っている水を飲み切った。空になったペットボトルを少し握る。ペコッという音に女性が振り向いた。目があったので、片眉と口角をあげる。こうした方が声をかけやすいはず。すると女性は、ぱぁっと顔を綻ばせて、近づいてきた。
「アノ…Excuse me…」
「Yes。Can I help you?」
授業で記憶にある範囲の英語で返す。女性がコインロッカーを指差した。
「Can I use oneday?」
少し考える。多分聞き取れてると思う。
「No problem。Oneday,OK。 Price up nothing。」
知ってる英語を駆使して返事する。単語を並べただけだけど、伝わるかな。不安だったけど、相手は理解できたようでさらに笑顔になった。
「This〜〜…〜?」
「え?」
なんか難しかった。聞き取れない。あと、返事の英語分からないかも。すると相手がスマホを取り出した。そうか、翻訳機能。それを見て、私もスマホを取り出す。最初からこれで良かったんだ。相手がスマホの画面を見せてきた。
『これは1000円であってますか?何時でも取り出せますか?』
それに返事しようとして少し手が止まる。相手が打ち込んだ文を見る。英語じゃない。
「Best language?」
「Spanish。」
スペイン語ね。日本語からスペイン語の翻訳でスマホを打つ。
『1000円ですよ。何時でも取り出せます。』
スマホの画面を見せると相手は私に満面の笑みを見せる。
「Thank you…アリガト!」
「Enjoy Japan〜。」
手を振って立ち去る。駅のゴミ箱にペットボトルを捨て、取り出したままのスマホで、時間を見る。そろそろ電車に乗るか。電車に乗り、ぼうっとする。なぜか昔から人が困っているところに立ち会うことが多い。ただ私が見つけてるだけなのかもしれない。別に親切にしたいとか何か見返りを求めてるとか、正義感がってことはないけど見捨てる理由もない。だから、助ける…というか、対応する。周りはそれを親切だって言ったり、周りをよく見てるとかいうけど、そう言われると居心地が悪くなる。勝手に優しいとか親切とかのレッテルを貼られているから。私にとって、対応とか処理とかいう気持ちが強いからなのかな。うーん、なんとなく生きづらい。自分が死んでくような感覚…。
ぐるぐると考えていたら、目的の駅に着いた。飲み物を買おうと自販機の方に行く。
「…??」
自販機の前には人がいた。しゃがみ込んで何度もカードリーダーに触れている。大きいリュックに麦わら帽子。海外からの観光客だろう。こんな暑い日に飲み物が買えないと倒れてしまいそうだ。立て続けに起きている出来事に頬をポリ…とかいた。自販機に近づく。
「ちょっと…Sorry。」
後ろから手を伸ばそうとすると、その人が少し横に動いたので、自販機の前に立つ。
「Drink…。」
説明しようとして、止めた。やって見せたらいいかな。ドリンクボタンを押してから、カードリーダーにスマホをかざした。ピッという軽やかな音の後にガコンと重みのある音がした。水を取り出して、どうぞ、というように横にずれた。
「オォ…」
その人がもう一度、自販機の前に行く。私は隣で見ていた。私と同じようにして、飲み物が出てくる。その人は飲み物を取って、立ち上がった。
(大きい…)
しゃがみ込んでいたから気づかなかったけど、その人は身長が高かった。見上げる。相手もこちらを見た。目が合う。その瞬間、彼が笑顔になった。
「ありがとう!」
(わ…)
相手は想像よりも若かった。麦わら帽子から溢れるウェーブした金髪、生き生きとした緑の目、本来は白いであろう肌は暑さでほんのり赤く、頬と鼻の頭に少しそばかすがある。かいている汗でさえ、水やりの後の向日葵のような爽やかさがあった。
「…っ、あ、じゃあこれで!どういたしまして!えと、ユアウェルカム!」
足早に立ち去る。頬の熱さとクラクラする頭は、この真夏日のせいか。これが私とゼンくんの出会いだった。
夏休みが終わり、新学期が始まった。あの日の出来事は「綺麗な人だったな…」といういい非日常の思い出として頭に残っている。
「夏休みの課題を集めて、委員長が持ってくるように。」と先生が言い、教室を出た後、各々が仲の良い友人たちと話す。教卓に積み上がる課題。私も自分のものを積み上げ、席に戻ろうとすると、1人の女子生徒が友人とふざけていたせいで、教卓にぶつかった。バサバサと崩れる課題。
「もう、やめてよ〜。」
女子生徒は、ぶつかった友人と引き続きふざけあう。床に散らばっている課題。床を眺めて、小さくため息をついた。しゃがみ込み拾い上げる。
「ちょっと、あゆ〜!小鳥遊さんがノート拾ってくれてるよ〜?あゆがぶつかったんじゃない?委員長でしょ〜!」
「いいじゃーん!小鳥遊さんが親切でしてくれてるんだからさ。ありがとね〜!優しい〜!」
「…。」
ケラケラと笑う声が聞こえる。すぅっと息を吸い、飲み込んだ。何かが喉に詰まっているような感覚。コク、という音が喉から聞こえた。その時、視界に自分のではない手が入ってきた。その大きい手はノートを拾う。
「久遠くん〜!そこ、隣のクラスだよ!」
廊下から男子生徒の声が聞こえた。
(久遠?)
その手をなぞるように視線を動かし、相手の顔を見る。
「あ…」
「久しぶり。」
向日葵さん。眩しい笑顔がそこにはあった。
「えっ!誰?隣のクラス?転校生?」
「金髪!え、外国人?ハーフ?」
クラスの女子生徒たちが色めき立つ。ポカンと口を開けて見ていると、向日葵さんは手早く床に散らばった課題を集めて、教卓に置いた。
「あ、ありが…えっ⁈」
そのまま私が拾って持っていたノートも手から奪い、教卓に置くと、私の手を握り、教室から出た。ずんずんと長い足で歩くので、私は引きずられるようについていく。
「く、久遠くん⁉︎あっ、えっと次の授業までには戻ってきてねー!」
廊下にいた男子生徒がこちらに叫んだ。連れられて着いた先は、階段の踊り場。ホームルームが終わったばかりで人はいない。
「あ、えと…。」
「急にごめんね。」
向日葵さんが手を離した。じわじわと手の温もりを実感する。
「改めて久しぶり。僕は久遠ゼン。」
「…日本語?」
あのとき、私は勘違いをしていた。向日葵さんは日本語を話せたらしい。
「日本とニュージーランドのハーフなんだよね。親が家で日本語を話すから、日本語は話せるよ。」
ニコ、と笑う久遠くん。
「あのときはありがとう。自販機の使い方が分からなくって。喉がカラカラだったから助かったよ。」
「あ、いや…」
「夏に引っ越してきたんだ。廊下から君が見えて、びっくりしちゃった。」
階段の踊り場に差し込む光が、彼の金髪をキラキラとさせ、思わず見惚れる。
「ところで、恩人さん、名前聞いていい?」
私の顔を覗き込むように話しかけてきた。あまり見るのも失礼かと思い、ドギマギしてしまう。
「タカナシ、ミユウ、デス…。」
緊張して片言になってしまった。
「ミユウ!いい名前だね。僕のこともゼンって呼んで!これからよろしくね!」
「よろしく…ゼンくん。」
手を伸ばされたので、握手をする。彼…ゼンくんはうれしそうに笑った。
「小鳥遊さんって隣のクラスの転校生と知り合いなの⁉︎」
ゼンくんと教室に戻った後、すぐに1限だったので、クラスメイトはそわそわしていた。1限が終わった瞬間に女子生徒に囲まれる。
「たまたま会ったことがあって…」
「えぇ〜⁉︎いつ⁉︎」
「夏休み…」
こんなに人に囲まれることはないから居心地が悪すぎる。
「ミユウ!」
廊下から声が聞こえた。ゼンくんが窓からこちらを見ていた。
「ミユウのクラスメイトのみんな、僕の話なら僕に。ミユウをあんまり困らせないで。」
ゼンくんは、笑っているがしっかりと言う。「確かにな。」同じクラスの男子生徒が笑った。女子生徒が「別にいいじゃんね〜…」と言いながら、私の席から散る。私はほっと一息ついた。ゼンくんの方を見ると手を振られたので、振り返す。はっきり人に言うことが出来る、そのことが羨ましかった。その日から、ゼンくんは私を見つけると声をかけてくれた。「元気?」なんて隣のクラスだから、ほぼ毎日見かけるのにそんなことを聞いてくる彼が、なんだか面白くて。私の日常に彼の存在が馴染んでくるのが心地よかった。
「終わった…。」
放課後。私は、委員会の仕事がやっと終わったところだった。美化委員である私は、今日、学校の掃除用具の整理当番が当たっていた。しかし、一緒にやる予定だったクラスメイトが「試合前で、部活に早く行かないと。」とのことで、1人で仕事をしたのだった。「1人で出来たりしないかな?」と言われて「いいよ。」って返したのは私だけどさ。ずっとそわそわして、お願いされたら断れない。正直、舌打ちをしたい気持ちはあったけど。先生に完了報告をして、帰る準備をし、廊下を歩く。
「小鳥遊さん。」
名前を呼ばれて振り返った。そこにいる人物に見覚えはあった。去年、1年のときに同じクラスだった男子生徒だ。申し訳ないけど、接点がほぼなかったので名前は出ない。
「あのさ…」
男子生徒が一歩こっちに近づく。足を止め、向き直り、何の用事か、と首を傾けた。
「オレ…小鳥遊さんのことが好きで…よかったら付き合ってほしいんだけど…。」
目の前まで来た男子生徒を見る。この人はなんで私がここにいることが分かったんだろう。それとも見つけたから急に?なんとなく、不信感がにじんだ。申し訳ないけど、私は名前を覚えていない相手とお付き合いするような人間ではない。去年もそんなに話した記憶もないし。
「あの、ごめんね?あんまり、知らないから…その、お付き合いはちょっと…」
へら、と笑いながら、穏便にすむようにやんわりと断る。
「え?」
途端に相手の空気が変わったのを感じた。
「なんで?去年、声かけてくれたじゃん。提出物を運んでたら、手伝ってくれたよね?職員室に行くまで楽しく話してたじゃん。オレに気があったからでしょ?」
彼の発言に唖然とした。それは流石になくないか?頭痛さえしてきた。
「や…そんなつもりじゃなくて…」
その時のことを思い出せないけど、どうせいつもみたいに気になって手伝っただけだ。その時の私を恨む。あまりの理解のできなさにくらりとして一歩引くと、相手はさらに一歩踏み込んできた。
「今だって、別に嫌がってないし、結構アリなんでしょ?」
私のあやふやな言葉だけを聞いて、納得がいっていない男子生徒は、もう一歩近づいてきた。私が下がろうとした瞬間に手首を掴む。
「ひっ…」
どうしよう。怖い。
「だいたいさ、優しくするってことは、悪くは思ってないわけでしょ?」
相手はその後も言葉を続けるけど、恐怖で頭に入ってこない。私は親切にしただけなのに。なんでこんな目にあうの。目が熱くなり、視界が滲むのを感じた。
「何してんの?」
「は?」
後ろから声が聞こえた。男子生徒が怪訝な顔で私の後ろを見る。
「ミユウの手、離して。」
「ゼンくん…」
後ろを振り返ると、そこには、いつもの向日葵のような笑顔ではなく、怒った顔の彼がいた。
「なんだよ。」
男子生徒が、私の手首を握る手に力を入れた。
「いたっ…」
ゼンくんが私に近づき、男子生徒の手首を掴んだ。
「ミユウを離して。嫌がってるの、顔見てわかんない?」
ゼンくんの手に力が入ったのが分かった。男子生徒の手首から、ミシ、と音がした。
「いってぇ!なんだよ!」
男子生徒が私から手を離し、ゼンくんの手を払う。
「だいたい、小鳥遊、お前が思わせぶりなのが悪いんだろ!」
そう言って、私とゼンくんを交互に睨み、立ち去って行った。力が抜ける。
「は、っ…」
「ミユウ!大丈夫?」
ゼンくんが力の抜けた私を支えるために控えめに背中に手をまわす。
「あ…ごめ、大丈夫だよ。」
「無理しないで。顔、青ざめてる。」
廊下の階段に座らせてくれる。わざわざ階段にハンカチをひいてくれた。紳士だ。
「渡り廊下から、ミユウが見えて…。なんか様子がおかしかったから。」
ゼンくんは、図書室に本を返しに行っていたらしく、その帰りの渡り廊下で、私が男子生徒に話しかけられていたのを見かけたらしい。途中から私の顔色が悪くなったのと腕を掴まれたのを見て、走ってきてくれたようだ。少し乱れた制服を直しながら説明してくれた。
「ありがとう…。」
安心して、つい涙が溢れた。それを見て、ゼンくんが焦る。
「え⁉︎ハンカチ…あ!」
私の下に敷かれたハンカチを見た。その焦った様子が面白くて、落ち着く。
「大丈夫。自分のあるから。」
自分のハンカチで目元を拭い、笑う。立ち上がりかけていたゼンくんがもう一度、隣に座った。
「なんとなく、人が困ってたら、やっとくかって手伝ったりするんだけど…なんかそれが良くなかったみたい。私だって全部が全部好きでやってるわけでもないけど、頼まれたりしたら全部引き受けちゃって…」
困っちゃうね、と付け足し笑う。
「ミユウは悪くない。」
「でも、もっと、ゼンくんみたいに、しっかりはっきり自由に話せたらなって…」
「僕はミユウの優しさに助けられたから…」
ゼンくんは立ち上がり、階段を少し降りて私の前に跪き私の顔を覗き込み、手を差し出す。何だろうと思い、その手に私の手を乗せると、両手で優しく包み込まれた。
「でも、何かを頼まれても、自分を大切に出来る方を選んで欲しい。自由な方が、ミユウは素敵だと思う。今でもとっても素敵だけど。」
勇気づけるように、ぎゅっと手を握られる。男子生徒に手首を掴まれたときとは違い、心がぽかぽかする。
「出来るかなぁ…」
「僕がついてるよ。」
「心強いかも…」
笑って、私たちは、しばらく階段で話すのだった。
「ね、これ…」
「?」
授業中、後ろの女子生徒から背中を突かれ、こっそり手を伸ばすと手に綺麗に折り込まれた紙が乗せられた。
『小鳥遊美優さんへ』
メモを折った手紙が回ってきた。委員長からだ。私宛に?
「…。」
内容は『次の休み時間に女子トイレに来てほしい』というようなものだった。無視もできないので、休み時間に女子トイレに行くと委員長が待っていた。2人しかいないその空間で手を握られている。夏も過ぎ、握られた手は少しひんやりしている。
「あの…」
「あゆさ〜、久遠くんのこと、好きなんだよね!応援してよ!なんか、あゆの良いところとか言って、興味持ってもらって!」
「えぇ…。」
「いいじゃん!小鳥遊さん、いつも優しいし助けてくれるし〜、友達じゃん!」
友達、ね。なんとも言えない気持ちだけど、顔には出さない。
「…自分でどうにかした方がいいんじゃないかな?」
そう言って、やんわりと握られている手を外す。
「え〜…じゃあ、もういい。」
少し怒ったような拗ねたような反応をして、委員長はふいっと顔を逸らし、どこかに行った。
「ふぅ…。」
息を漏らす。ちゃんと選んで、断ることが出来た、その事実に私はじわりと自分の中に自信がついたのを感じた。
「…?」
ここ最近、何か変だった。いつも話しかけてきていたゼンくんが私と話さなくなった。廊下で見かけるけど、目が合わない。かと言って何か失礼なことをした記憶もない。隣のクラスや廊下で見るゼンくんは、いつも人に囲まれている。誰か仲良い人が出来たのかな、だから私とは話さなくなっちゃったのかな、そんなことを考えて少し寂しくなっていた。
「ね〜小鳥遊さん、これさ、図書室に持って行ってくれない?今日返却しなきゃいけなくて…お願い!」
同じクラスの男子生徒が話しかけてきた。
「今から部活なんだけど…。」
「小鳥遊さん、美術部だから遅刻とかないでしょ?ねぇ、お願い!」
私に手を合わせ、チラリと片目を開ける。
「…分かったよ。」
「ありがとう!」
男子生徒が満面の笑みで教室を飛び出した。残された本を見る。図書室からクラスに貸し出されている学級文庫は思ったより分厚くて重いものが多い。
「よい…しょ。」
とりあえず、全部を抱えて歩き出す。うん、何とか持って行けそう。ふらふらと歩きながら、図書室を目指す。
「ミユウ?」
廊下を出たときにゼンくんに会った。
「何してるの?」
そう言いながら、私の腕の中の本を半分より多く持ってくれた。10冊ちょっとあったのに、私の手には3冊ほどしか残っていない。
「あ、これ図書室だから…」
「いいよ。一緒に持っていく。」
「あ、ありがと…」
「でも、ミユウ、図書委員じゃないでしょ?」
ゼンくんが持っている本を見せるように言った。
「うーん、頼まれちゃって…」
へへ…と笑うと、ゼンくんが少し困ったように笑った。呆れちゃったかな。渡り廊下を通ると風が吹いた。
「わぷっ!」
「わっ!」
私とゼンくんが同時に声をあげる。寒い。秋が終わって冬が近づいている気配だ。足早に図書室に入り、本を返す。
「本当にありがとう、助かっちゃった。」
「どういたしまして。見かけて良かった。」
私が言うとゼンくんが笑った。なんだ、避けられている気がしたのは気のせいだったのかな。
「あ、ちょっと…」
ちょいちょいとゼンくんに手招きをする。
「?」
ゼンくんは私に合わせて、少しかがんだ。跳ねている金髪を撫でる。
「ミユウ?」
「あ!ごめん!さっきの風かな?髪が跳ねてて…はい、直った。」
「あぁ…」
不思議そうにしていたゼンくんが、自分でも頭を触った。そのまま私の手を握って、目を閉じ、その手に頬擦りをする。彼のそばかすに触れて、ドキッとした。
「ゼンくん⁉︎」
「優しいミユウが好きだけど…あんまり僕以外に優しくしないで…」
祈るようにそう言われ、体温が上がる。
「そっ!そうだね!今回みたいに大変なこともあるし、気をつけるね!」
声が裏返った。寒かったはずなのに、顔が燃えるように熱い。少し寂しそうに笑うゼンくんの顔は、季節に置いていかれる向日葵のような…心が締め付けられるような気持ちになるような微笑みだった。ゼンくんが、少しキョロと周りを見る。
「ゼンくん?」
どうしたの?と顔を見ると、ゼンくんは、何でもないよ、と首を振った。寒い日だったのに、彼のそばかすに触れた指はいつまでも熱くって、まるで指先に心臓があるみたいにドキドキしていた。そんな私たちを見ていた人物がいたなんて、そのときは気づきもしなかった。
ある日と同じように授業中に手紙がまわってくる。『放課後、音楽準備室の前に来るように』とのことだ。吹奏楽部の委員長らしい指定場所だけど、今日は部活がないはず。人がいないから、話すのには最適ってこと?何を言われるのか検討もつかないけど。この前断ったことを何か言われるのかな。シャープペンでこめかみを押さえる。そんなことでは頭痛は治らなかった。
「久遠くんと仲良くするのもうやめてよ。」
「はぁ?」
放課後、音楽準備室前に着くと、開口一番にそう言われた。言われた内容も不快だったし、そもそも最近はあまり話していなかったので、想定外の言いがかりに少し苛立った。
「だから〜、小鳥遊さんと仲良くしてたら、久遠くんが色んな人が話せないじゃん。」
「そんなことなくない?」
「そんなことあるの!」
委員長が強く言う。何なの?でも気の強そうな委員長のことだから私の言い分なんて関係ないんだろう。
「最近、話してないもん。」
そう返すと委員長が、キッと私を睨んだ。
「嘘つき!昨日仲良くしてるの、あゆ見たもん!」
ドン!っと委員長が私を押した。尻餅をついた私の髪を掴む。
「きゃあ⁉︎やめてよ!痛い!」
「小鳥遊さんこそ、あゆの手を掴むのやめてよ!」
私の髪を掴む委員長の手を掴むけど、上から掴まれてるので、引き剥がそうとしても上手く力が入らない。
「何してんの?」
第三者の声が聞こえた。
「「え…?」」
委員長と2人で振り返る。少し髪が千切れた。痛い。
「久遠くん!」
委員長が私の髪から手を離す。
「ミユウの机にカバンがあるのに見当たらないから…なんか変だと思って…探して良かった。」
ゼンくんがポケットに手を入れる。
『ゼンくんへ』
そう書かれた手紙を取り出した。
「これ、ミユウからの手紙じゃないよね。書いたの君?」
ぴらぴらと手紙を見せる。
「何それ〜、何が書いてある手紙なの?」
委員長が言う。私をチラリと見て、意地悪そうな顔をした。
「目立つ僕と話すのはうんざりで、もう顔も見たくないってさ。」
「えー、小鳥遊さん、ひどいね〜。」
しらじらしく委員長が言う。
「誰かがミユウの名前で書いたんだろうなって思ったから、ミユウと話さなければ、その間に僕に近づいてくるだろうって思ったんだけど…」
ゼンくんがため息をついた。私と話さない間、ゼンくんは色んな人に囲まれていた。1人に絞れなかったんだろう。
「でもやっと分かった。君さ、ミユウを名乗るなら名前くらい、ちゃんと書きなよ。」
「は⁉︎裏に書いてあるじゃない!『小鳥遊美優』って!」
手紙を指さす委員長。それを見て、すぅと冷たい目をするゼンくん。
「ねぇ、ミユウの字も知らないの?」
「え?」
委員長がポカンとした。
「ミユウの名前はね、『自由』って書いてミユウなんだよ。クラスメイトなのに本当に知らないの?」
「え?」
委員長が私を見た。肯定の意味で目を閉じ、首を傾ける。カッと顔を赤くする委員長。
「なっ…だいたい、こんな地味な子と仲良くして、あゆを相手にしないのがおかしいじゃん!」
「そんなの僕の自由だし、君よりミユウの方が素敵だよ。君だってミユウに親切にしてもらったことあるんじゃないの?それなのにミユウを下に見たようなこと言って、最低だね。」
委員長の叫びに、ゼンくんが返す。
「〜〜〜‼︎」
委員長は何も返せなくなって、私の顔を見ることなく、走ってその場からいなくなった。
「ミユウ、大丈夫?」
ゼンくんが私の横に屈んだ。
「大丈夫だよ。私だって手を力任せに掴み返しちゃったし。」
「立てる?」
「うん。」
一つにまとめていた髪が崩れていたので、ヘアゴムを取る。
「あ〜ぁ、ボサボサだ。」
手櫛で髪を整える。ゼンくんが手を伸ばし、私の髪を一束掬い、微笑んだ。
「いつものミユウも可愛いけど、そうやって髪を下ろしたら、お姫様みたいだね。」
「え…」
「お手をどうぞ。」
ゼンくんのウェーブした金髪が撫でるように揺れ、生き生きとした目が私を優しく見る。白いはずの肌がほんのり赤く、そばかすがチャーミングだ。そんなキラキラした向日葵のような彼が、優しく私の手を取るものだから、心臓がバクバクして真夏のように顔が熱い。息だって苦しい気がしてきて、なんだか…
「死んじゃいそう…」
「なんで⁉︎」
私のつぶやきに、ゼンくんはびっくりしたような声をあげるのだった。
その日は真夏で、灼熱の日差しとアスファルトにクラクラするような日だった。
信号待ちしていると、近くで老夫婦が立ち止まっている。2人は、キョロキョロしていた。手元にはチラシ。それを見た私は、腕時計を確認し、声をかける。
「あの…」
日傘をさした女性が私の方を見た。女性の手元のチラシを指さす。
「そこ、探してるんですか?」
「あぁ…そうなんです。」
「近いので良かったら、案内します。時間もあるし。」
「え!いいの?あなた、この子、場所教えてくれるって!」
少し離れていた男性が帽子を抑えながら、近づいてきた。
「いいんですか?」
「はい。すぐそこなんで。」
「ありがとうね〜。」
2人を連れて少し歩く。建物の近くで指をさした。
「あそこです。スタッフが入口で看板持ってますね。」
「あら、ほんと!」
「ここだったのか。」
老夫婦がうれしそうに言った。
「じゃあ、私はここで。楽しんでくださいね。」
ひらりと手を振る。チラシは、落語のイベントだった。
「ありがとうね、助かったわ〜。」
ニコニコと笑う老夫婦に、こちらも笑顔を向ける。老夫婦と別れ、少し歩き、表情を落とした。
「あっち…」
ダクダクと流れる汗をタオル生地のハンカチで拭う。駅に入ると日陰だから少し涼しいが、人の多さの熱さがあった。駅内のベンチに座る。
「ン〜…?」
声の方を見た。ベンチの近くのコインロッカー。そこには異国の女性が大きな荷物を持ってコインロッカーの使用に関する看板を見ている。
「…」
ペットボトルを取り出して、残っている水を飲み切った。空になったペットボトルを少し握る。ペコッという音に女性が振り向いた。目があったので、片眉と口角をあげる。こうした方が声をかけやすいはず。すると女性は、ぱぁっと顔を綻ばせて、近づいてきた。
「アノ…Excuse me…」
「Yes。Can I help you?」
授業で記憶にある範囲の英語で返す。女性がコインロッカーを指差した。
「Can I use oneday?」
少し考える。多分聞き取れてると思う。
「No problem。Oneday,OK。 Price up nothing。」
知ってる英語を駆使して返事する。単語を並べただけだけど、伝わるかな。不安だったけど、相手は理解できたようでさらに笑顔になった。
「This〜〜…〜?」
「え?」
なんか難しかった。聞き取れない。あと、返事の英語分からないかも。すると相手がスマホを取り出した。そうか、翻訳機能。それを見て、私もスマホを取り出す。最初からこれで良かったんだ。相手がスマホの画面を見せてきた。
『これは1000円であってますか?何時でも取り出せますか?』
それに返事しようとして少し手が止まる。相手が打ち込んだ文を見る。英語じゃない。
「Best language?」
「Spanish。」
スペイン語ね。日本語からスペイン語の翻訳でスマホを打つ。
『1000円ですよ。何時でも取り出せます。』
スマホの画面を見せると相手は私に満面の笑みを見せる。
「Thank you…アリガト!」
「Enjoy Japan〜。」
手を振って立ち去る。駅のゴミ箱にペットボトルを捨て、取り出したままのスマホで、時間を見る。そろそろ電車に乗るか。電車に乗り、ぼうっとする。なぜか昔から人が困っているところに立ち会うことが多い。ただ私が見つけてるだけなのかもしれない。別に親切にしたいとか何か見返りを求めてるとか、正義感がってことはないけど見捨てる理由もない。だから、助ける…というか、対応する。周りはそれを親切だって言ったり、周りをよく見てるとかいうけど、そう言われると居心地が悪くなる。勝手に優しいとか親切とかのレッテルを貼られているから。私にとって、対応とか処理とかいう気持ちが強いからなのかな。うーん、なんとなく生きづらい。自分が死んでくような感覚…。
ぐるぐると考えていたら、目的の駅に着いた。飲み物を買おうと自販機の方に行く。
「…??」
自販機の前には人がいた。しゃがみ込んで何度もカードリーダーに触れている。大きいリュックに麦わら帽子。海外からの観光客だろう。こんな暑い日に飲み物が買えないと倒れてしまいそうだ。立て続けに起きている出来事に頬をポリ…とかいた。自販機に近づく。
「ちょっと…Sorry。」
後ろから手を伸ばそうとすると、その人が少し横に動いたので、自販機の前に立つ。
「Drink…。」
説明しようとして、止めた。やって見せたらいいかな。ドリンクボタンを押してから、カードリーダーにスマホをかざした。ピッという軽やかな音の後にガコンと重みのある音がした。水を取り出して、どうぞ、というように横にずれた。
「オォ…」
その人がもう一度、自販機の前に行く。私は隣で見ていた。私と同じようにして、飲み物が出てくる。その人は飲み物を取って、立ち上がった。
(大きい…)
しゃがみ込んでいたから気づかなかったけど、その人は身長が高かった。見上げる。相手もこちらを見た。目が合う。その瞬間、彼が笑顔になった。
「ありがとう!」
(わ…)
相手は想像よりも若かった。麦わら帽子から溢れるウェーブした金髪、生き生きとした緑の目、本来は白いであろう肌は暑さでほんのり赤く、頬と鼻の頭に少しそばかすがある。かいている汗でさえ、水やりの後の向日葵のような爽やかさがあった。
「…っ、あ、じゃあこれで!どういたしまして!えと、ユアウェルカム!」
足早に立ち去る。頬の熱さとクラクラする頭は、この真夏日のせいか。これが私とゼンくんの出会いだった。
夏休みが終わり、新学期が始まった。あの日の出来事は「綺麗な人だったな…」といういい非日常の思い出として頭に残っている。
「夏休みの課題を集めて、委員長が持ってくるように。」と先生が言い、教室を出た後、各々が仲の良い友人たちと話す。教卓に積み上がる課題。私も自分のものを積み上げ、席に戻ろうとすると、1人の女子生徒が友人とふざけていたせいで、教卓にぶつかった。バサバサと崩れる課題。
「もう、やめてよ〜。」
女子生徒は、ぶつかった友人と引き続きふざけあう。床に散らばっている課題。床を眺めて、小さくため息をついた。しゃがみ込み拾い上げる。
「ちょっと、あゆ〜!小鳥遊さんがノート拾ってくれてるよ〜?あゆがぶつかったんじゃない?委員長でしょ〜!」
「いいじゃーん!小鳥遊さんが親切でしてくれてるんだからさ。ありがとね〜!優しい〜!」
「…。」
ケラケラと笑う声が聞こえる。すぅっと息を吸い、飲み込んだ。何かが喉に詰まっているような感覚。コク、という音が喉から聞こえた。その時、視界に自分のではない手が入ってきた。その大きい手はノートを拾う。
「久遠くん〜!そこ、隣のクラスだよ!」
廊下から男子生徒の声が聞こえた。
(久遠?)
その手をなぞるように視線を動かし、相手の顔を見る。
「あ…」
「久しぶり。」
向日葵さん。眩しい笑顔がそこにはあった。
「えっ!誰?隣のクラス?転校生?」
「金髪!え、外国人?ハーフ?」
クラスの女子生徒たちが色めき立つ。ポカンと口を開けて見ていると、向日葵さんは手早く床に散らばった課題を集めて、教卓に置いた。
「あ、ありが…えっ⁈」
そのまま私が拾って持っていたノートも手から奪い、教卓に置くと、私の手を握り、教室から出た。ずんずんと長い足で歩くので、私は引きずられるようについていく。
「く、久遠くん⁉︎あっ、えっと次の授業までには戻ってきてねー!」
廊下にいた男子生徒がこちらに叫んだ。連れられて着いた先は、階段の踊り場。ホームルームが終わったばかりで人はいない。
「あ、えと…。」
「急にごめんね。」
向日葵さんが手を離した。じわじわと手の温もりを実感する。
「改めて久しぶり。僕は久遠ゼン。」
「…日本語?」
あのとき、私は勘違いをしていた。向日葵さんは日本語を話せたらしい。
「日本とニュージーランドのハーフなんだよね。親が家で日本語を話すから、日本語は話せるよ。」
ニコ、と笑う久遠くん。
「あのときはありがとう。自販機の使い方が分からなくって。喉がカラカラだったから助かったよ。」
「あ、いや…」
「夏に引っ越してきたんだ。廊下から君が見えて、びっくりしちゃった。」
階段の踊り場に差し込む光が、彼の金髪をキラキラとさせ、思わず見惚れる。
「ところで、恩人さん、名前聞いていい?」
私の顔を覗き込むように話しかけてきた。あまり見るのも失礼かと思い、ドギマギしてしまう。
「タカナシ、ミユウ、デス…。」
緊張して片言になってしまった。
「ミユウ!いい名前だね。僕のこともゼンって呼んで!これからよろしくね!」
「よろしく…ゼンくん。」
手を伸ばされたので、握手をする。彼…ゼンくんはうれしそうに笑った。
「小鳥遊さんって隣のクラスの転校生と知り合いなの⁉︎」
ゼンくんと教室に戻った後、すぐに1限だったので、クラスメイトはそわそわしていた。1限が終わった瞬間に女子生徒に囲まれる。
「たまたま会ったことがあって…」
「えぇ〜⁉︎いつ⁉︎」
「夏休み…」
こんなに人に囲まれることはないから居心地が悪すぎる。
「ミユウ!」
廊下から声が聞こえた。ゼンくんが窓からこちらを見ていた。
「ミユウのクラスメイトのみんな、僕の話なら僕に。ミユウをあんまり困らせないで。」
ゼンくんは、笑っているがしっかりと言う。「確かにな。」同じクラスの男子生徒が笑った。女子生徒が「別にいいじゃんね〜…」と言いながら、私の席から散る。私はほっと一息ついた。ゼンくんの方を見ると手を振られたので、振り返す。はっきり人に言うことが出来る、そのことが羨ましかった。その日から、ゼンくんは私を見つけると声をかけてくれた。「元気?」なんて隣のクラスだから、ほぼ毎日見かけるのにそんなことを聞いてくる彼が、なんだか面白くて。私の日常に彼の存在が馴染んでくるのが心地よかった。
「終わった…。」
放課後。私は、委員会の仕事がやっと終わったところだった。美化委員である私は、今日、学校の掃除用具の整理当番が当たっていた。しかし、一緒にやる予定だったクラスメイトが「試合前で、部活に早く行かないと。」とのことで、1人で仕事をしたのだった。「1人で出来たりしないかな?」と言われて「いいよ。」って返したのは私だけどさ。ずっとそわそわして、お願いされたら断れない。正直、舌打ちをしたい気持ちはあったけど。先生に完了報告をして、帰る準備をし、廊下を歩く。
「小鳥遊さん。」
名前を呼ばれて振り返った。そこにいる人物に見覚えはあった。去年、1年のときに同じクラスだった男子生徒だ。申し訳ないけど、接点がほぼなかったので名前は出ない。
「あのさ…」
男子生徒が一歩こっちに近づく。足を止め、向き直り、何の用事か、と首を傾けた。
「オレ…小鳥遊さんのことが好きで…よかったら付き合ってほしいんだけど…。」
目の前まで来た男子生徒を見る。この人はなんで私がここにいることが分かったんだろう。それとも見つけたから急に?なんとなく、不信感がにじんだ。申し訳ないけど、私は名前を覚えていない相手とお付き合いするような人間ではない。去年もそんなに話した記憶もないし。
「あの、ごめんね?あんまり、知らないから…その、お付き合いはちょっと…」
へら、と笑いながら、穏便にすむようにやんわりと断る。
「え?」
途端に相手の空気が変わったのを感じた。
「なんで?去年、声かけてくれたじゃん。提出物を運んでたら、手伝ってくれたよね?職員室に行くまで楽しく話してたじゃん。オレに気があったからでしょ?」
彼の発言に唖然とした。それは流石になくないか?頭痛さえしてきた。
「や…そんなつもりじゃなくて…」
その時のことを思い出せないけど、どうせいつもみたいに気になって手伝っただけだ。その時の私を恨む。あまりの理解のできなさにくらりとして一歩引くと、相手はさらに一歩踏み込んできた。
「今だって、別に嫌がってないし、結構アリなんでしょ?」
私のあやふやな言葉だけを聞いて、納得がいっていない男子生徒は、もう一歩近づいてきた。私が下がろうとした瞬間に手首を掴む。
「ひっ…」
どうしよう。怖い。
「だいたいさ、優しくするってことは、悪くは思ってないわけでしょ?」
相手はその後も言葉を続けるけど、恐怖で頭に入ってこない。私は親切にしただけなのに。なんでこんな目にあうの。目が熱くなり、視界が滲むのを感じた。
「何してんの?」
「は?」
後ろから声が聞こえた。男子生徒が怪訝な顔で私の後ろを見る。
「ミユウの手、離して。」
「ゼンくん…」
後ろを振り返ると、そこには、いつもの向日葵のような笑顔ではなく、怒った顔の彼がいた。
「なんだよ。」
男子生徒が、私の手首を握る手に力を入れた。
「いたっ…」
ゼンくんが私に近づき、男子生徒の手首を掴んだ。
「ミユウを離して。嫌がってるの、顔見てわかんない?」
ゼンくんの手に力が入ったのが分かった。男子生徒の手首から、ミシ、と音がした。
「いってぇ!なんだよ!」
男子生徒が私から手を離し、ゼンくんの手を払う。
「だいたい、小鳥遊、お前が思わせぶりなのが悪いんだろ!」
そう言って、私とゼンくんを交互に睨み、立ち去って行った。力が抜ける。
「は、っ…」
「ミユウ!大丈夫?」
ゼンくんが力の抜けた私を支えるために控えめに背中に手をまわす。
「あ…ごめ、大丈夫だよ。」
「無理しないで。顔、青ざめてる。」
廊下の階段に座らせてくれる。わざわざ階段にハンカチをひいてくれた。紳士だ。
「渡り廊下から、ミユウが見えて…。なんか様子がおかしかったから。」
ゼンくんは、図書室に本を返しに行っていたらしく、その帰りの渡り廊下で、私が男子生徒に話しかけられていたのを見かけたらしい。途中から私の顔色が悪くなったのと腕を掴まれたのを見て、走ってきてくれたようだ。少し乱れた制服を直しながら説明してくれた。
「ありがとう…。」
安心して、つい涙が溢れた。それを見て、ゼンくんが焦る。
「え⁉︎ハンカチ…あ!」
私の下に敷かれたハンカチを見た。その焦った様子が面白くて、落ち着く。
「大丈夫。自分のあるから。」
自分のハンカチで目元を拭い、笑う。立ち上がりかけていたゼンくんがもう一度、隣に座った。
「なんとなく、人が困ってたら、やっとくかって手伝ったりするんだけど…なんかそれが良くなかったみたい。私だって全部が全部好きでやってるわけでもないけど、頼まれたりしたら全部引き受けちゃって…」
困っちゃうね、と付け足し笑う。
「ミユウは悪くない。」
「でも、もっと、ゼンくんみたいに、しっかりはっきり自由に話せたらなって…」
「僕はミユウの優しさに助けられたから…」
ゼンくんは立ち上がり、階段を少し降りて私の前に跪き私の顔を覗き込み、手を差し出す。何だろうと思い、その手に私の手を乗せると、両手で優しく包み込まれた。
「でも、何かを頼まれても、自分を大切に出来る方を選んで欲しい。自由な方が、ミユウは素敵だと思う。今でもとっても素敵だけど。」
勇気づけるように、ぎゅっと手を握られる。男子生徒に手首を掴まれたときとは違い、心がぽかぽかする。
「出来るかなぁ…」
「僕がついてるよ。」
「心強いかも…」
笑って、私たちは、しばらく階段で話すのだった。
「ね、これ…」
「?」
授業中、後ろの女子生徒から背中を突かれ、こっそり手を伸ばすと手に綺麗に折り込まれた紙が乗せられた。
『小鳥遊美優さんへ』
メモを折った手紙が回ってきた。委員長からだ。私宛に?
「…。」
内容は『次の休み時間に女子トイレに来てほしい』というようなものだった。無視もできないので、休み時間に女子トイレに行くと委員長が待っていた。2人しかいないその空間で手を握られている。夏も過ぎ、握られた手は少しひんやりしている。
「あの…」
「あゆさ〜、久遠くんのこと、好きなんだよね!応援してよ!なんか、あゆの良いところとか言って、興味持ってもらって!」
「えぇ…。」
「いいじゃん!小鳥遊さん、いつも優しいし助けてくれるし〜、友達じゃん!」
友達、ね。なんとも言えない気持ちだけど、顔には出さない。
「…自分でどうにかした方がいいんじゃないかな?」
そう言って、やんわりと握られている手を外す。
「え〜…じゃあ、もういい。」
少し怒ったような拗ねたような反応をして、委員長はふいっと顔を逸らし、どこかに行った。
「ふぅ…。」
息を漏らす。ちゃんと選んで、断ることが出来た、その事実に私はじわりと自分の中に自信がついたのを感じた。
「…?」
ここ最近、何か変だった。いつも話しかけてきていたゼンくんが私と話さなくなった。廊下で見かけるけど、目が合わない。かと言って何か失礼なことをした記憶もない。隣のクラスや廊下で見るゼンくんは、いつも人に囲まれている。誰か仲良い人が出来たのかな、だから私とは話さなくなっちゃったのかな、そんなことを考えて少し寂しくなっていた。
「ね〜小鳥遊さん、これさ、図書室に持って行ってくれない?今日返却しなきゃいけなくて…お願い!」
同じクラスの男子生徒が話しかけてきた。
「今から部活なんだけど…。」
「小鳥遊さん、美術部だから遅刻とかないでしょ?ねぇ、お願い!」
私に手を合わせ、チラリと片目を開ける。
「…分かったよ。」
「ありがとう!」
男子生徒が満面の笑みで教室を飛び出した。残された本を見る。図書室からクラスに貸し出されている学級文庫は思ったより分厚くて重いものが多い。
「よい…しょ。」
とりあえず、全部を抱えて歩き出す。うん、何とか持って行けそう。ふらふらと歩きながら、図書室を目指す。
「ミユウ?」
廊下を出たときにゼンくんに会った。
「何してるの?」
そう言いながら、私の腕の中の本を半分より多く持ってくれた。10冊ちょっとあったのに、私の手には3冊ほどしか残っていない。
「あ、これ図書室だから…」
「いいよ。一緒に持っていく。」
「あ、ありがと…」
「でも、ミユウ、図書委員じゃないでしょ?」
ゼンくんが持っている本を見せるように言った。
「うーん、頼まれちゃって…」
へへ…と笑うと、ゼンくんが少し困ったように笑った。呆れちゃったかな。渡り廊下を通ると風が吹いた。
「わぷっ!」
「わっ!」
私とゼンくんが同時に声をあげる。寒い。秋が終わって冬が近づいている気配だ。足早に図書室に入り、本を返す。
「本当にありがとう、助かっちゃった。」
「どういたしまして。見かけて良かった。」
私が言うとゼンくんが笑った。なんだ、避けられている気がしたのは気のせいだったのかな。
「あ、ちょっと…」
ちょいちょいとゼンくんに手招きをする。
「?」
ゼンくんは私に合わせて、少しかがんだ。跳ねている金髪を撫でる。
「ミユウ?」
「あ!ごめん!さっきの風かな?髪が跳ねてて…はい、直った。」
「あぁ…」
不思議そうにしていたゼンくんが、自分でも頭を触った。そのまま私の手を握って、目を閉じ、その手に頬擦りをする。彼のそばかすに触れて、ドキッとした。
「ゼンくん⁉︎」
「優しいミユウが好きだけど…あんまり僕以外に優しくしないで…」
祈るようにそう言われ、体温が上がる。
「そっ!そうだね!今回みたいに大変なこともあるし、気をつけるね!」
声が裏返った。寒かったはずなのに、顔が燃えるように熱い。少し寂しそうに笑うゼンくんの顔は、季節に置いていかれる向日葵のような…心が締め付けられるような気持ちになるような微笑みだった。ゼンくんが、少しキョロと周りを見る。
「ゼンくん?」
どうしたの?と顔を見ると、ゼンくんは、何でもないよ、と首を振った。寒い日だったのに、彼のそばかすに触れた指はいつまでも熱くって、まるで指先に心臓があるみたいにドキドキしていた。そんな私たちを見ていた人物がいたなんて、そのときは気づきもしなかった。
ある日と同じように授業中に手紙がまわってくる。『放課後、音楽準備室の前に来るように』とのことだ。吹奏楽部の委員長らしい指定場所だけど、今日は部活がないはず。人がいないから、話すのには最適ってこと?何を言われるのか検討もつかないけど。この前断ったことを何か言われるのかな。シャープペンでこめかみを押さえる。そんなことでは頭痛は治らなかった。
「久遠くんと仲良くするのもうやめてよ。」
「はぁ?」
放課後、音楽準備室前に着くと、開口一番にそう言われた。言われた内容も不快だったし、そもそも最近はあまり話していなかったので、想定外の言いがかりに少し苛立った。
「だから〜、小鳥遊さんと仲良くしてたら、久遠くんが色んな人が話せないじゃん。」
「そんなことなくない?」
「そんなことあるの!」
委員長が強く言う。何なの?でも気の強そうな委員長のことだから私の言い分なんて関係ないんだろう。
「最近、話してないもん。」
そう返すと委員長が、キッと私を睨んだ。
「嘘つき!昨日仲良くしてるの、あゆ見たもん!」
ドン!っと委員長が私を押した。尻餅をついた私の髪を掴む。
「きゃあ⁉︎やめてよ!痛い!」
「小鳥遊さんこそ、あゆの手を掴むのやめてよ!」
私の髪を掴む委員長の手を掴むけど、上から掴まれてるので、引き剥がそうとしても上手く力が入らない。
「何してんの?」
第三者の声が聞こえた。
「「え…?」」
委員長と2人で振り返る。少し髪が千切れた。痛い。
「久遠くん!」
委員長が私の髪から手を離す。
「ミユウの机にカバンがあるのに見当たらないから…なんか変だと思って…探して良かった。」
ゼンくんがポケットに手を入れる。
『ゼンくんへ』
そう書かれた手紙を取り出した。
「これ、ミユウからの手紙じゃないよね。書いたの君?」
ぴらぴらと手紙を見せる。
「何それ〜、何が書いてある手紙なの?」
委員長が言う。私をチラリと見て、意地悪そうな顔をした。
「目立つ僕と話すのはうんざりで、もう顔も見たくないってさ。」
「えー、小鳥遊さん、ひどいね〜。」
しらじらしく委員長が言う。
「誰かがミユウの名前で書いたんだろうなって思ったから、ミユウと話さなければ、その間に僕に近づいてくるだろうって思ったんだけど…」
ゼンくんがため息をついた。私と話さない間、ゼンくんは色んな人に囲まれていた。1人に絞れなかったんだろう。
「でもやっと分かった。君さ、ミユウを名乗るなら名前くらい、ちゃんと書きなよ。」
「は⁉︎裏に書いてあるじゃない!『小鳥遊美優』って!」
手紙を指さす委員長。それを見て、すぅと冷たい目をするゼンくん。
「ねぇ、ミユウの字も知らないの?」
「え?」
委員長がポカンとした。
「ミユウの名前はね、『自由』って書いてミユウなんだよ。クラスメイトなのに本当に知らないの?」
「え?」
委員長が私を見た。肯定の意味で目を閉じ、首を傾ける。カッと顔を赤くする委員長。
「なっ…だいたい、こんな地味な子と仲良くして、あゆを相手にしないのがおかしいじゃん!」
「そんなの僕の自由だし、君よりミユウの方が素敵だよ。君だってミユウに親切にしてもらったことあるんじゃないの?それなのにミユウを下に見たようなこと言って、最低だね。」
委員長の叫びに、ゼンくんが返す。
「〜〜〜‼︎」
委員長は何も返せなくなって、私の顔を見ることなく、走ってその場からいなくなった。
「ミユウ、大丈夫?」
ゼンくんが私の横に屈んだ。
「大丈夫だよ。私だって手を力任せに掴み返しちゃったし。」
「立てる?」
「うん。」
一つにまとめていた髪が崩れていたので、ヘアゴムを取る。
「あ〜ぁ、ボサボサだ。」
手櫛で髪を整える。ゼンくんが手を伸ばし、私の髪を一束掬い、微笑んだ。
「いつものミユウも可愛いけど、そうやって髪を下ろしたら、お姫様みたいだね。」
「え…」
「お手をどうぞ。」
ゼンくんのウェーブした金髪が撫でるように揺れ、生き生きとした目が私を優しく見る。白いはずの肌がほんのり赤く、そばかすがチャーミングだ。そんなキラキラした向日葵のような彼が、優しく私の手を取るものだから、心臓がバクバクして真夏のように顔が熱い。息だって苦しい気がしてきて、なんだか…
「死んじゃいそう…」
「なんで⁉︎」
私のつぶやきに、ゼンくんはびっくりしたような声をあげるのだった。



