愚者の園

「言霊には力が宿っている」

 蛍光灯の類のひとつもない、薄暗い部屋だった。光源となっているのは、頼りなく揺れる一本の蝋燭だけ。
 俗世から切り離されたようにも感じる空間の中心に、彼女は座っていた。

「きみが発する言葉も同じだ。誰かを傷つけもするし、癒しもする」

 美しい、和装の少女だ。その少女を見つめたまま、少年はごくりと唾を呑んだ。

 はじめて彼女と会ったのは、数ヶ月前のことだ。祖父に伴われ、この屋敷を訪れたときのこと。広い屋敷で迷った少年は、彼女の住む離れに足を踏み入れてしまったのだ。
 敷居を跨いだ一度目は偶然だったが、二度目の今夜は少年の執念だった。

「じゃあ、じゃあ。俺がこのみは死んでないって言い続けたら、このみは死なないの? このみは帰ってくる?」

 必死の問いかけに、少女はゆるりと首を傾げた。動作に合わせ、夜の底に似た色の髪が揺れる。

「そうだね」

 少女の相槌は、柔らかだった。

「きみはずっと願っていればいい。大丈夫、今は見つけられなくとも、きみが願い、言葉にし続けていれば、届くだろう。いつか、きっと、彼女のもとへ」
「このみの? このみを攫った神様のところ?」

 ――これじゃあ、まるで神隠しだ。

 大人たちがそう囁き合っていたことを、少年は知っていた。
 神隠し。神様に選ばれた子ども。その子どもが戻ることは二度とないのだという。
 人間がどうやったとしても登れない、高い、高い岩の上。妹の小さな靴は、そこで見つかった。ヘリコプターから隊員が回収した靴を確認した両親は泣いていた。妹のお気に入りだった黒色のスニーカー。

 そのスニーカーに少年が手を伸ばしたのは、「視えるかもしれない」と思ったからだった。
 仕組みはわからない。けれど、少年の右手には、不思議を視る力があった。
 人や物に触れると、指先から勝手に過去が流れ込むことがある。
 だから、妹の靴に触れたら、「なにか」がわかるかもしれないと期待したのだ。それなのに、結局なにも視ることはできなかった。
 指先から伝わったのは真っ白な閃光で、それだけだった。

 ――なんで。なんで、なにも見えなかったんだろう。

 ままならなさに、膝の上で拳を握り込む。
 いつも。いつも。知りたくもない情報を少年に押しつけていた不可思議は、知りたいと心の底から望んだ今日に限って、なにも映してはくれなかった。
 
 ――だから、ここにやってきたのに。

 唇を噛み締めて、握った拳に視線を落とす。
 不思議な家で出会った、不思議な彼女であれば、妹の居場所を知っているかもしれない。自分には視えなかったけれど、彼女であれば、あるいは。
 そんな夢のような可能性に縋って、家を飛び出した。夜の街を必死に走って辿り着くことはできたけれど、無意味だったのだ。
 きつく握り込んだ右手の甲に、伸びてきた白い手が重なる。あぁ、また、なにも視えない。失意に苛まれながら、少年は視線を持ち上げた。

「あ……」

 炎に揺られた瞳が黄金色に光っている。美しすぎる色に、少年は釘付けになった。湖面に光る、美しい月みたいだ。
 少年に予言を授ける調子で、彼女は口火を切った。

「今は無理でも、きみは大きくなる。いつか、きみの力で彼女のもとに辿り着ける日が来るかもしれない。きみが諦めなければ。そして、――」

 柔らかな声が不意に途切れ、そして。
 その続きは、少年の記憶からなぜかすっぽりと抜け落ちてしまっている。