※
私達が越してきて二ヶ月が経った。あれから構えていた割に杉原さんが訪ねてくることも、ラインもなく、私の杉原さんへの懸念はなくなっていた。
田舎暮らしにも少し慣れ、悠聖も楽しそうに小学校に通ってくれてほっとしている。
「……はぁ、夕飯どうしよう。雨だとなんか買い物めんどくさいなぁ」
今年の梅雨入りは早く、長引くそうで窓の外は今日も雨模様だ。車の運転は得意だが、田舎のため食料品が安く買える大型スーパーまでは30分ほどかかる。
(オムライスでいっか)
私は冷蔵庫を覗き込むと卵と冷凍しておいた鶏肉があることを確認する。
その時、二階からパタパタと階段を降りてくる音が聞こえてくる。その足音は先ほど小学校から帰ってきたばかりの悠聖だ。
「ねぇママー。今からお向かいさんのお家に遊びに行ってもいい?」
(いま、なんて言った?)
甘えたように声でこちらを見上げている悠聖に、私はもう一度聞き返す。
「え……? お向かいさん……?」
「うん。お向かいさんの美穂子さんだよ? 知らないの?」
キョトンとしながら、杉原さんを美穂子さんと親しげに呼ぶ悠聖に私は目を見開いていた。
「悠聖、どういうこと?……杉原さんとお話ししたことなんて……ないはずでしょ?」
「毎日話してるよ」
「毎日?!……なんで……」
私は悠聖の言葉に耳を疑う。
「美穂子さんね、登校する子供の見守りに校門に来てるんだよ。だから毎朝、おしゃべりしてる」
にこりと笑う我が子に私はうまく笑えない。
「そ、そうなの……」
「僕と美穂子さんは友達なんだ。だからいいでしょ?」
「……今日はだめよ、パパに聞いてみないと……」
──ピンポーン
ふいに、インターホンが鳴り響く。
「あれ? ママ、誰かきたよ〜」
「悠聖、待ちなさいっ」
私の制止もきかずに悠聖がすぐに玄関先に駆け出していく。
そして私が止める間もなく、悠聖は玄関扉を開ければ見覚えのある白いワンピースを着た女性が立っていた。
「美穂子おばさんっ」
「あら悠聖くん、帰ってたのね。おかえりなさい」
悠聖が手を広げた美穂子に抱きつくと、前歯が抜けたばかりの口元を大きく開けて、にこりと笑った。
(人見知りの悠聖が……こんなに懐いて……)
「悠聖、いきなり抱きつくなんてご迷惑でしょ」
私は小さな手を掴んで引き寄せようとするが、悠聖は美穂子から離れない。
「やだやだ。だって、美穂子おばさん大好きなんだもん」
「まぁ。ありがとう」
美穂子が悠聖の髪を優しく撫でる。
「里奈さん。悠聖君から聞いてるでしょ? うちに遊びに来たいって言うから預かるわね。十七時にまた連れてくるから」
耳に髪をかけながら彼女が微笑む。今日も服装は目を引く白いワンピースなのだが、その耳元にはまたも不気味な黒い薔薇を模ったピアスが見えた。
(たまたま同じ服装なのかもしれないけど……やっぱり気味悪い……)
私は無理矢理笑みを張り付けると、悠聖を強引に美穂子から引き離した。
「いえ大丈夫です。お子さんもご病気だと伺ってますし、ご主人様の夕飯の支度もあるでしょうし」
「あら遠慮しないでよ、お向かいさんなんだし」
そう言って美穂子は悠聖に手をさしだす。
「結構です。悠聖はこう見えて手がかかるし、ご迷惑おかけしてもいけないので」
「あらぁ、そんなことないわよね?」
彼女が手を差し出したまま、悠聖に視線を向けると小さな手が握り返した。そして悠聖は私と繋いでいた手を振り払った。
「ママ、美穂子おばさんの家行くね。一緒にゲームするって約束したんだ」
いつもならすぐに言うことをきく悠聖が駄々をこねて段々イライラしてしまう。
「ダメって言ってるわよね! 悠聖いいかげんにしなさい」
「やだやだっ!行きたいもん」
「もう里奈さん、こんなささいな事で怒ったら悠聖君が可哀想よ。本当に、家に来ることは気になさらないで。悠聖君の好きだって言ってたチーズケーキももう買っちゃったし」
彼女がウインクすると悠聖が嬉しそうに頷く。
「さ、悠聖くん、いきましょ」
「わーい、行ってきます〜」
「ちょっと……待っ」
「じゃあまた十七時に」
美穂子は私の言葉を遮ると切長の目を緩やかに細め、玄関扉をパタリと閉めた。
「なん、なんのよ……あの人……」
あんな風に悠聖が言うことを聞かないのは初めてだ。
「いつの間に……悠聖と……」
美穂子と話すのは二回目だが、やっぱり何とも言えない苛立ちと不気味さが入り乱れる。
無理矢理、悠聖を閉じ込めることもできたが今度は隠れて美穂子と会うかもしれないと思うとできなかった。
私は夫の悠作にラインを入れると返事を待ちつつ、夕飯の準備に取り掛かった。
※
(そろそろ……悠聖帰ってくるかしら)
夕食の支度を終え、取り込んだ洗濯物を畳み終わると私はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
スマホを開けばあと二分で約束の時間だ。
悠作には向かいの美穂子に悠聖を預けてよいものか相談のLINEを送ったのだが、すぐに『構わないんじゃないか』と返事があった。
実家が田舎の悠作にとっては都会育ちの私とは感覚が違うのかもしれない。それとも私が神経質になりすぎているからなのだろうか?
──ピンポーン
(帰ってきた)
十七時ぴったりにインターホンが鳴り、私は慌てて玄関の扉を開けて絶句した。
「ママただいま。楽しかったー」
満面の笑みの悠聖は、この家を出た時と《《違う》》。
「え……悠聖?」
「どしたの? ママ」
悠聖に着せていた洋服は青の車がプリントされたトレーナーとベージュのズボンの組み合わせだったのに、真っ白なスウェットの上下になっている。
「里奈さん、時間ギリギリまでごめんなさいね」
「あの、杉原さん……この服……」
「あぁ、気にしないで。随分前に買ったのだけど着る機会がなくて……春人に着せてみたらピッタリ、あっ……間違えちゃった……悠聖君に着せたらピッタリだったから貰って」
「いや、悪いので洗ってお返しします」
語尾を強めた私に彼女は、長い黒髪を耳にかけながら小首を傾けた。
「遠慮しないで。お向かいさんなんだし。それに悠聖くんは何となく春人に似てるのよ」
「似てる?」
「ええ、我が子みたいに大事に思ってるわ」
美穂子は悠聖の頭をそっと頭を撫でた。
「また遊びましょうね」
「うんっ! 美穂子さん、今日はありがとう!」
「ええ、勿論。じゃあ失礼します」
美穂子はこちらに向かって微笑むと白いパンプスを鳴らしながら、鼻歌混じりに自宅へと戻っていった。悠聖が無事に帰宅し、彼女が自宅に戻っても私の心には靄がかかる。
「ママ? 怖い顔してどしたの?」
「悠聖、遊びに行くまでは杉原さんのこと、美穂子おばさんって呼んでたでしょ? どうして、美穂子さんって呼び方変えたの?」
「あ、美穂子おばさんより、美穂子さんって呼んだ方が仲良しみたいでしょ?って言われて、僕もそうだなって思って」
悠聖がはにかむように笑った。
「そうなのね……」
子供の前とはいえ思わず顔が引き攣る。
(子供に……それもよその家の子に自分のことをさん付けで呼ばせるなんて……)
私は悠聖の手を引いて浴室に連れて行く。
「悠聖、ご飯の前にお風呂入ってくれる?」
「うん、分かった」
私は悠聖が湯船に浸かるのを確認してから浴室扉を閉めると、スウェットをゴミ袋に入れて玄関先に出した。勿論、中身がわからないように掃除用のタオルに包んでだ。
(気のせいなんかじゃない。気持ち悪い)
(……それにやっぱり見たことある気がする)
(悠作に話さないと)
私は明かりが灯る向かいの窓を凝視してから扉を閉めると、夫の帰りを待った。
私達が越してきて二ヶ月が経った。あれから構えていた割に杉原さんが訪ねてくることも、ラインもなく、私の杉原さんへの懸念はなくなっていた。
田舎暮らしにも少し慣れ、悠聖も楽しそうに小学校に通ってくれてほっとしている。
「……はぁ、夕飯どうしよう。雨だとなんか買い物めんどくさいなぁ」
今年の梅雨入りは早く、長引くそうで窓の外は今日も雨模様だ。車の運転は得意だが、田舎のため食料品が安く買える大型スーパーまでは30分ほどかかる。
(オムライスでいっか)
私は冷蔵庫を覗き込むと卵と冷凍しておいた鶏肉があることを確認する。
その時、二階からパタパタと階段を降りてくる音が聞こえてくる。その足音は先ほど小学校から帰ってきたばかりの悠聖だ。
「ねぇママー。今からお向かいさんのお家に遊びに行ってもいい?」
(いま、なんて言った?)
甘えたように声でこちらを見上げている悠聖に、私はもう一度聞き返す。
「え……? お向かいさん……?」
「うん。お向かいさんの美穂子さんだよ? 知らないの?」
キョトンとしながら、杉原さんを美穂子さんと親しげに呼ぶ悠聖に私は目を見開いていた。
「悠聖、どういうこと?……杉原さんとお話ししたことなんて……ないはずでしょ?」
「毎日話してるよ」
「毎日?!……なんで……」
私は悠聖の言葉に耳を疑う。
「美穂子さんね、登校する子供の見守りに校門に来てるんだよ。だから毎朝、おしゃべりしてる」
にこりと笑う我が子に私はうまく笑えない。
「そ、そうなの……」
「僕と美穂子さんは友達なんだ。だからいいでしょ?」
「……今日はだめよ、パパに聞いてみないと……」
──ピンポーン
ふいに、インターホンが鳴り響く。
「あれ? ママ、誰かきたよ〜」
「悠聖、待ちなさいっ」
私の制止もきかずに悠聖がすぐに玄関先に駆け出していく。
そして私が止める間もなく、悠聖は玄関扉を開ければ見覚えのある白いワンピースを着た女性が立っていた。
「美穂子おばさんっ」
「あら悠聖くん、帰ってたのね。おかえりなさい」
悠聖が手を広げた美穂子に抱きつくと、前歯が抜けたばかりの口元を大きく開けて、にこりと笑った。
(人見知りの悠聖が……こんなに懐いて……)
「悠聖、いきなり抱きつくなんてご迷惑でしょ」
私は小さな手を掴んで引き寄せようとするが、悠聖は美穂子から離れない。
「やだやだ。だって、美穂子おばさん大好きなんだもん」
「まぁ。ありがとう」
美穂子が悠聖の髪を優しく撫でる。
「里奈さん。悠聖君から聞いてるでしょ? うちに遊びに来たいって言うから預かるわね。十七時にまた連れてくるから」
耳に髪をかけながら彼女が微笑む。今日も服装は目を引く白いワンピースなのだが、その耳元にはまたも不気味な黒い薔薇を模ったピアスが見えた。
(たまたま同じ服装なのかもしれないけど……やっぱり気味悪い……)
私は無理矢理笑みを張り付けると、悠聖を強引に美穂子から引き離した。
「いえ大丈夫です。お子さんもご病気だと伺ってますし、ご主人様の夕飯の支度もあるでしょうし」
「あら遠慮しないでよ、お向かいさんなんだし」
そう言って美穂子は悠聖に手をさしだす。
「結構です。悠聖はこう見えて手がかかるし、ご迷惑おかけしてもいけないので」
「あらぁ、そんなことないわよね?」
彼女が手を差し出したまま、悠聖に視線を向けると小さな手が握り返した。そして悠聖は私と繋いでいた手を振り払った。
「ママ、美穂子おばさんの家行くね。一緒にゲームするって約束したんだ」
いつもならすぐに言うことをきく悠聖が駄々をこねて段々イライラしてしまう。
「ダメって言ってるわよね! 悠聖いいかげんにしなさい」
「やだやだっ!行きたいもん」
「もう里奈さん、こんなささいな事で怒ったら悠聖君が可哀想よ。本当に、家に来ることは気になさらないで。悠聖君の好きだって言ってたチーズケーキももう買っちゃったし」
彼女がウインクすると悠聖が嬉しそうに頷く。
「さ、悠聖くん、いきましょ」
「わーい、行ってきます〜」
「ちょっと……待っ」
「じゃあまた十七時に」
美穂子は私の言葉を遮ると切長の目を緩やかに細め、玄関扉をパタリと閉めた。
「なん、なんのよ……あの人……」
あんな風に悠聖が言うことを聞かないのは初めてだ。
「いつの間に……悠聖と……」
美穂子と話すのは二回目だが、やっぱり何とも言えない苛立ちと不気味さが入り乱れる。
無理矢理、悠聖を閉じ込めることもできたが今度は隠れて美穂子と会うかもしれないと思うとできなかった。
私は夫の悠作にラインを入れると返事を待ちつつ、夕飯の準備に取り掛かった。
※
(そろそろ……悠聖帰ってくるかしら)
夕食の支度を終え、取り込んだ洗濯物を畳み終わると私はダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
スマホを開けばあと二分で約束の時間だ。
悠作には向かいの美穂子に悠聖を預けてよいものか相談のLINEを送ったのだが、すぐに『構わないんじゃないか』と返事があった。
実家が田舎の悠作にとっては都会育ちの私とは感覚が違うのかもしれない。それとも私が神経質になりすぎているからなのだろうか?
──ピンポーン
(帰ってきた)
十七時ぴったりにインターホンが鳴り、私は慌てて玄関の扉を開けて絶句した。
「ママただいま。楽しかったー」
満面の笑みの悠聖は、この家を出た時と《《違う》》。
「え……悠聖?」
「どしたの? ママ」
悠聖に着せていた洋服は青の車がプリントされたトレーナーとベージュのズボンの組み合わせだったのに、真っ白なスウェットの上下になっている。
「里奈さん、時間ギリギリまでごめんなさいね」
「あの、杉原さん……この服……」
「あぁ、気にしないで。随分前に買ったのだけど着る機会がなくて……春人に着せてみたらピッタリ、あっ……間違えちゃった……悠聖君に着せたらピッタリだったから貰って」
「いや、悪いので洗ってお返しします」
語尾を強めた私に彼女は、長い黒髪を耳にかけながら小首を傾けた。
「遠慮しないで。お向かいさんなんだし。それに悠聖くんは何となく春人に似てるのよ」
「似てる?」
「ええ、我が子みたいに大事に思ってるわ」
美穂子は悠聖の頭をそっと頭を撫でた。
「また遊びましょうね」
「うんっ! 美穂子さん、今日はありがとう!」
「ええ、勿論。じゃあ失礼します」
美穂子はこちらに向かって微笑むと白いパンプスを鳴らしながら、鼻歌混じりに自宅へと戻っていった。悠聖が無事に帰宅し、彼女が自宅に戻っても私の心には靄がかかる。
「ママ? 怖い顔してどしたの?」
「悠聖、遊びに行くまでは杉原さんのこと、美穂子おばさんって呼んでたでしょ? どうして、美穂子さんって呼び方変えたの?」
「あ、美穂子おばさんより、美穂子さんって呼んだ方が仲良しみたいでしょ?って言われて、僕もそうだなって思って」
悠聖がはにかむように笑った。
「そうなのね……」
子供の前とはいえ思わず顔が引き攣る。
(子供に……それもよその家の子に自分のことをさん付けで呼ばせるなんて……)
私は悠聖の手を引いて浴室に連れて行く。
「悠聖、ご飯の前にお風呂入ってくれる?」
「うん、分かった」
私は悠聖が湯船に浸かるのを確認してから浴室扉を閉めると、スウェットをゴミ袋に入れて玄関先に出した。勿論、中身がわからないように掃除用のタオルに包んでだ。
(気のせいなんかじゃない。気持ち悪い)
(……それにやっぱり見たことある気がする)
(悠作に話さないと)
私は明かりが灯る向かいの窓を凝視してから扉を閉めると、夫の帰りを待った。



