──ピンポーン。
(忘れ物かしら?)
全ての段ボールが家に運び込まれ、引越し業者が帰宅したのは五分前のことだ。
私は立ち上がり、玄関の扉を開ければ白のワンピースを身に纏った女性が立っていた。女性の長い黒髪は一つに括られていて耳元に黒い薔薇のピアスが見える。
(あれ、あの……ピアスどこかで?)
一瞬そんなことが頭によぎったがそんなことはどうでもいい。
「……あの……どちら様でしょうか?」
私の言葉にすぐに女性が涼しげな目元をにこりと細めてみせた。このすっきりとしたどこかミステリアスな印象を与える目も見たことがあるような気がするが、気のせいだろうか。
「突然すみません。初めまして、向かいに住んでいる、杉原です」
向かいに住んでいる住人ということと、杉原と名乗った女性の名に覚えがないことにほっとする。
「あっ……、お向かいの方だったんですね。今日から向かいに越してきました、小林です」
「荷解きでお忙しいと思いつつ、ご挨拶かねて訪ねさせて頂きました」
「いえとんでもないです。本来ならこちらからご挨拶にお伺いするところなのに」
「ふふ。段ボールすごいですね」
「そうなんです」
杉原さんの視線を辿るように私もダンボールの山に目を移してから、はっとする。
「あ、ちょっと待ってくださいね」
私はテーブルの上に出していた、引越しのご挨拶用の洗剤を杉原さんに差し出した。
「つまらないものですが……」
「あら、ありがとう。ねえ、小林さん。下のお名前は?」
「えっと……」
「私は美穂子よ」
にっこりと微笑む杉原さんに困惑しながらも、答えないわけにもいかない空気感から私は小さく口を開いた。
「……里奈です」
「里奈さんね。不躾だけどお子さん、男の子?」
「え……?」
「お名前は悠聖くんで二年生とか」
「な……っ、んで……」
「そんな顔しないで。あれよ」
美穂子が人差し指が指している方を目で辿ると、ダンボールの側面に『悠聖 2年教科書』とマジックで書いた自分の文字が見えた。
「あ……、びっくりした。そう、です。二年生の息子がいます」
「奇遇ね〜。うちの息子も二年生なの。名前は春夏秋冬の春に人で、春人。いま病気で入院中なのだけどね。ちなみにご主人は?」
「……主人は、いま…て車でお昼ご飯を買いに行ってまして……」
「ふふっ、そうじゃなくて〜。お名前とお勤め先教えてくださる? この辺りは田舎だから、何かあったときにお互い助かると思うの」
(お互い、助かる?)
都会育ちの私には非常識に思えるが、田舎では当たり前なのだろうか?
「うちは隣町の××建設なの」
断ろうとしたのを察したのか先に自分の夫の勤め先を口にした美穂子は、私が答えるのをじっと笑みを浮かべて待っている。
なんだか見えない威圧感のようなものを感じて、私は渋々、夫の名前と会社名を口に出した。
「……◯△銀行で名前は、小林悠作です」
「ありがとう。メモしておくわね」
美穂子はスマホを取り出し私達家族の個人情報を入力すると、にこりと微笑んだ。
「じゃあ、里奈さん。今日のところはこれで失礼するわね」
「はい……失礼します。あ! 最後にラインも」
私は少し顔を引き攣らせたまま、美穂子とラインの交換を済ませる。
「じゃあ今度こそ、またね。里奈さんとは仲良くなれそうだわ」
そう言って杉原さんは白いワンピースを揺らしながら向かいの家へと帰っていった。
「なんなの……なんか気味悪い……」
けれど今日から次の転勤まで二年はここに住まなければならない。
「……って、それより早く片さないと」
私は深いため息を吐き出してから、山になっているダンボールの片付けに戻った。



