キミの感情



僕が花音に『哀』の感情の欠如を告白してから、二か月が過ぎた。同じ悩みをもつ僕らの交際は順調で、ありのままの姿を受け入れてくれる花音の存在は日増しに大きく愛おしくなっていた。

(急がないと……)

バイトを終えた僕は店長に挨拶を済ませると、彼女に会いたくて足早に自宅アパートへ向かっていく。

(今日はハンバーグだって言ってたな)

花音から昨日、送られてきたメールを見ながら僕は口元を緩めた。

自宅アパートに到着するとすぐにエレベーターに乗り、玄関の扉を開く。

「おかえりなさい〜」

花音が駆け寄ってきて、部屋はハンバーグのいい匂いが漂っている。

「遅くなってごめん。美味しそうだね」

「お口に合うかわからないけど」

「もう何度も食べたから美味しいに決まってるよ」

「あ、そうだね」

「…………」

目の前にいるのは間違いなく彼女本人なのに、何故だろう。何処か違和感を感じる。声もいつもより少し高めで鼻にかかっているように思う。

「英太どうしたの? 早く食べよ?」

「……うん」

彼女が僕の腕に手を絡めると、料理の並んだダイニングテーブルへと連れて行く。

「あれ、ソース?」

「あ、ごめん。これしか売ってなくて〜」

テーブルには真新しい市販のソースのボトルが置いてある。僕は先ほど抱いた彼女への違和感が間違いないことを確信する。

「……花音はハンバーグにソースかけるんだ?」

「あったり前じゃん〜」

僕はその瞬間に、花音が腕に絡めている手を強く振り解いた。

「きゃ……っ、何すんのよ」

「……花音も僕もハンバーグにはケチャップなんだ」

「あ、えっと今日は……あたしソースな気分で」

「花音はあたしなんて言わないよ。君は誰?」

目の前の花音の顔が醜く歪む。彼女は髪をかきあげると、ため息を吐き出した。

「──もうバレたんだ」

目の前の女は髪の毛の先をくるくると回しながらテーブルに腰掛けると、スマホを取り出した。そのスマホは間違いなく花音のものだが、女は難なく指紋認証でロックを解除する。

「今日からあたしが荒木花音だから」

「何、だって?」

「これなーんだ?」

女がスマホの画面をこちらに向けた。

自撮りと思われる画面の中には病室のベッドの上で女性が顔に白い布を被せられていて、遺体だということがすぐにわかる。そしてその横でピースサインをしているのは花音。

(どういうことだ……?)

明らかに目の前の花音もおそらく写真の中の花音も偽者に間違いない。
一瞬双子かと思ったが、花音は一人っ子だと話していたことを思い出す。

「やっと欲しかったものが手に入ったの」

「それは花音のこと?」

「正解! どうやって花音のもの全部手に入れたか教えてあげよっか?」

「……興味深いね、ぜひ」

よほど聞いて欲しかったのか、女が饒舌に話し始める。

「この半年、パパ活したお金で整形したんだ〜。花音の写真を使って少しずつね。それでさ〜、やっと傷跡完璧に治ったから〜さっき花音をビルの屋上に呼び出したの。今からあたし死ぬ〜ってラインしてね」

そこまで聞いて予想がついた僕はぐっと拳を握った。

「花音たら慌ててきてさ〜。あたしが本気で死ぬと思って説得まで始めちゃって、気絶させるのなんて簡単だった〜。あとは気絶した花音とあたしの服を入れ替えてスマホの指紋認証も変えて顔面潰してから、ぽいっとビルから落としたの」

「……へぇ……」

「でね。ここからは俳優並みの演技で友達が自殺した〜って救急に連絡してうちの両親を呼び出して状況説明して。この自撮りはうちの両親がくるまで花音と二人きりだったから記念に撮ったの〜、あ! 美咲と二人だ〜」

何がおかしいのか、美咲はテーブルに掌をたたきつけながら馬鹿笑いをしている。

それを冷静に見つめていれば僕の中に知らない感情が揺らめいていく。

「花音……死んだ、んだ……」

視界の焦点が合わないまま、そう言葉に出せば真っ黒な感情が蛇のようにトグロを巻いていく。

「あはは。違う違う〜死んだのは美咲だって。花音は英太の目の前にいる、あたしだよ」

美咲がそう言って椅子から立ち上がると僕の目の前に立つ。手をこちらに伸ばして僕の頬に触れる。

「ほらみて。花音だよ? だから悲しまないで」

「……哀しむ?」

僕は花音が本当に大好きだった。でも愛する彼女がもうこの世にいないことを聞いても涙はおろか、やっぱり哀しむことができない。

「僕は……わからない……」

一度でいい。涙というものを流して見たかった。もう二度と会えない彼女を思って泣き叫んでみたかった。

「英太大丈夫だよ。これからもずっと一緒にいようね」

上目遣いでこちらをうっとりとみつめる女に吐き気がする。
外見を変えただけで花音になれるとでも思っているのだろうか。
こんな愚かな女を助けるためにビルに行き、殺された花音は最期の瞬間、どんな気持ちだっただろうか。

花音はそんな目に遭わないといけないほどに悪い人間だっただろうか。

ふいに全身が沸騰したように熱くなって、言葉にならない感情が入り混じり、僕を支配して駆け巡っていく。

「あれ、どうしたの? 英太?」

「ぶっ……ぶあはははははっ」

僕はその場に倒れ込むと、腹がよじれるほどに笑った。

「な、に……笑って……」

顔を引き攣らせている美咲を見ながら、僕は軽蔑の視線を向けた。

「哀しいからだよ」

吐き捨てるようにそう言うと、目の前の花音の仮面を被った美咲の首を締め上げていく。

「……ぐっ……お、ぇ……が……」

「……ふふ……あはははっ」

どのくらい力を込めていただろうか?
美咲の首から両手を離せば、彼女は壊れた人形のように倒れ込み二度と動くことはなかった。

「おやすみ」

僕は転がっている美咲を見下ろしながら、微笑む。そして天井を見つめた。

「……ごめんね、花音。やっぱりダメだった。君を失ったのに僕は……涙のひとつも出やしない」

花音はどう思っているだろう。殺されても笑うことしかできない僕のことを。

その場に座り込みうずくまった僕の脳裏にふと、ニーチェの言葉がよぎる。

──『忘却は、よりよき前進を生む』

恋人や家族が居なくなっても『哀』がわからない僕が『哀』を知る術はこの世のどこにもない。

もう『哀』を知ろうとする事も、愛する花音の事も忘れてしまおう。
今までだって『哀』を知らなくとも生きてこれたのだから。    

「全部……忘れよう」

一番楽になれる方法は、深く考えずに忘れてしまうことだと頭ではわかっているのに、うまくいかない。目を閉じれば花音との思い出が浮かんで、胸が張り裂けそうになってくる。

「……花音……っ」

その時だった、手の甲に一粒、水滴が落ちて当たった。

「え?……これ……」

恐る恐る頬に触れれば、間違いなくそれはあたたかく僕の瞳から溢れ落ちていた。

「……これが……涙。これが……『哀』……?」

目の奥が熱くて心が痛くて苦しくて、全てを拒絶して叫び出したい感情。

「……やっと……知ることができた」

この先、僕がこのずっと欲しかった感情を体験する日は二度とこないかもしれない。それほど深く彼女を愛していたから。

「花音……ありがとう」

まだまだ感情は不安定だ。
僕はすぐにニヤけそうになる口元を押さえながら、彼女を想い涙を流した。



2025.12.12 遊野煌