キミの感情

※※※

私と英太はカフェで出会ってから、水族館、ドライブ、映画とデートを重ねてやがて自然と付き合った。


「ねぇ花音。あのカフェ店員とどうなの?」

哲学の講義中、両瞼を腫らしたマスク姿の美咲が小声で私に聞いた。

「うん、順調だよ」

「へぇ。なんか友達から聞いたけどさ。そのイケメンちょっと変わってるらしいけど?」

「え? どういうところ?」

「なんか、普通笑わないようなとこで笑うらしいじゃん」


美咲の言葉に英太のことを思い返してみるが、特に気になることはない。


「……そうかな。特に気になることはないかな」

「ふぅん。そう」

私は黒板に視線を移すと、ニーチェの『忘却はよりよき前進を生む』という言葉についての解説をノートに書き留める。

「花音、あとでノート貸して。目腫れてて見えない」

「あ、ごめん。目、どのくらいかかるの?」

美咲はここ数ヶ月、ずっと大学を休んでいた。今日一緒に講義を受けるのは久しぶりだ。

「十日くらいかなぁ。でもどうしてもやりたかったんだ〜整形」

筆箱から小さな鏡を取り出して自身を見つめながら美咲は満足気に頷く。

「ふふ。あとすこししたら綺麗な二重瞼が一生モノ」

「素敵だね」

「でしょ。これでようやく持ってなかったモノが全部手に入るの」

美咲の言葉が少し気になったが、彼女が向ける笑顔に同調するように私も微笑み返した。

全ての講義が終わると私は英太の家に向かった。

いつもなら『いまから行くね』と連絡すればすぐ返事がくるのに既読のみだ。

エレベーターで二階に登り、インターホンを押すが返事はない。

(あれ……? いない?)

(でも昨日、約束したのに……)

まだ交際して数ヶ月だが、少なくとも私が知っている限り英太は約束を忘れるタイプではない。

そっとドアノブに手をかければ鍵は開いている。

(寝てる、のかな?)

「お邪魔、します」

私は玄関の入り口に靴を揃えてから部屋に上がると寝室に向かっていく。

寝室には明かりがついていて扉を開けば、ベッドに腰掛けている英太の後ろ姿が見えた。

「英太……?」

枕を抱え込んでいる英太の背中は震えている。

「……大丈夫?」

「花音……あのさ……」

何かを堪えている様子で英太は私の方を見ない。

「……僕の父さん、病気だったんだけど……さっき亡くなったって」

「……そ、んな……」

英太の様子がおかしかった理由を知った私は愕然とし、頬からは涙が零れ落ちた。

「ふっ……」

英太のそばに駆け寄ろうとして、呼吸が止まる。

一瞬気のせいかと思った。

「……英、太?」

「ごめ……っ、ダメだわ……ふ……っ」

だって、その声はまるで──。

「ふははははっ」

(!!)


英太はこちらを振り向きながら腹をかかえて笑っている。

「あ、の……英太? さっきの、冗談なの?」

「ふふっ、まさか本当だよ。明日お通夜だから実家帰るわ……てか、マスクしとかなきゃバレそう……あはははっ」

ひとしきり笑い終えると、英太は私の手を取った。


「僕は花音と一緒なんだよ」

その言葉にようやく私がなぜ英太に心をゆるし、惹かれたのかわかった気がした。

「僕には喜怒哀楽の『哀』がないんだ。花音が持ってないのは『怒』だよね?」

「知っ……てたの?」

「うん。偶然、見ちゃったんだよね。花音が女の子に罵声をあびせられながら、突き飛ばされたとこ。(うずくま)ってた花音を助けに行こうとしたら、大声で笑ってたのが印象的でさ」

璃子から彼氏を取られたと言いがかりをつけられて、階段から転落したのだが、璃子が怒れば怒るほどに可笑しくてたまらなかった。まさか誰かに見られているとは思わなかった。

「あとさ、哲学の講義一緒なんだよ」

「えっ、知らなかった」

「だよね。あの講義すごく人多いからさ。でね、僕は花音が美咲とかいう子と大学前のカフェに出入りしてるのを見て、バイト始めたんだよ。もっと花音のことが知りたくてさ」 

こういう時、普通の人ならどんな感情を抱くのだろうか。

「花音? どうしたの? びっくりしすぎて声でない?」

英太が笑顔を浮かべたままこちらを覗き込む。私はすぐに顔を振った。

「……嬉しい」

生きてきて、いまこの瞬間がたまらなく愛おしくて心を揺さぶられる。持ってない感情のことをずっと羨んでばかりだった。
まさか同じように持ってない人と巡り会えるなんて奇跡としか言いようがない。

「僕もだよ。いつか……お互い『持ってないモノ』を補い合えるといいよね」

見上げれば英太が優しく微笑んで、私をぎゅっと抱きしめた。