私の仕事は、迷い込んできた人を部屋へ案内することだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
特別な資格が必要なわけでもなければ、難しい判断を求められることもない。決められたことを、決められた順序で行うだけだ。
団地の入口で待っていると、やがて誰かが現れる。歩いてくる人もいれば、気づいたらすぐそばに立っている人もいる。現れ方はまちまちだが、共通しているのは、皆どこか戸惑った顔をしていることだ。
ここがどこなのか分からない。
なぜこんな場所に来てしまったのか分からない。
そういう表情をしている。
私は声をかける。
「こちらへどうぞ」
それだけだ。事情を聞くことはしない。名前も年齢も、職業も尋ねない。相手が泣いていようと、怒っていようと、呆然としていようと、やることは変わらない。
案内する。それが仕事だからだ。
迷い込んでくる人のことを、私は心の中で「お客様」と呼んでいる。別にそう呼ぶ決まりがあるわけではないが、その方が分かりやすい。来る人がいて、案内する側がいる。ただそれだけの関係だ。
お客様の反応は様々だ。
状況を理解しようと、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる人もいる。
何も言わず、ただ私の後ろをついてくる人もいる。
中には、ここがどこなのかを理解したような顔をする人もいるが、そういう人ほど、肝心なことを思い出せない場合が多い。
私は廊下を歩きながら、必要なことだけを説明する。
「お一人につき、一部屋です」
「部屋の中に入っていただきます」
「扉は、こちらで開けます」
言い回しは、毎回ほとんど同じだ。変える必要がない。説明が長くなると、かえって混乱させてしまう。
部屋は、最初から決まっている。
お客様に選択肢はないし、私が決めているわけでもない。ただ、扉の前に立つと「ここだ」と分かる。それ以上の理由は必要ない。
団地の廊下は、どこも似たような造りをしている。白っぽい壁に、均等な間隔で並ぶ扉。番号は振られているが、私がそれを意識することはほとんどない。数字を覚える必要がないからだ。
扉の前に立つと、私は一度だけお客様の方を見る。
「中には、あなたの記憶があります」
それが、次に伝えるべきことだ。
記憶、と言うと、大抵の人は首をかしげる。記憶は頭の中にあるもので、部屋の中に置かれているものではない、という常識があるからだろう。
だが、ここでは少し事情が違う。
扉を開けると、部屋の中には物がある。
通勤鞄だったり、使い古した靴だったり、割れたスマートフォンだったりする。特別な物ではない。むしろ、あまりにも日常的すぎて、最初はそれが重要なものだと気づかれないことも多い。
「触ってもいいですか」
そう聞かれることがある。
私は、首を横に振る。
「触れません」
理由も、一応は伝える。
「仏様ですから」
それだけだ。
重たい言葉だと感じる人もいるかもしれないが、私にとっては業務上の説明のひとつにすぎない。仏様だから触れない。それ以上の意味はない。
お客様の中には、その言葉に強く反応する人もいる。
「仏、様……?」
自分がそう呼ばれたことに戸惑う人。
否定しようとする人。
冗談だと思って笑う人。
どんな反応でも、私は訂正しない。
「そういう扱いになっています」
それで説明は終わりだ。
部屋の中にある物は、確かにその人の記憶だ。だが、すべての記憶があるわけではない。選ばれているのは、ごく一部だ。
その中でも、特に大事なのは――死の記憶。
私は、そのことも淡々と伝える。
「ここでは、亡くなったときのことを思い出していただきます」
口に出してみると、少し説明的な響きがあるが、事実だから仕方がない。
「思い出せれば、この部屋から出られます」
「出られなかった場合は?」
そう聞かれることもある。
私は、正直に答える。
「その場合は、ここに残ります」
一生、という言葉は使わない。だが、意味は伝わる。部屋から出られないということは、ここで過ごし続けるということだ。
成功と失敗は、同じ重さで扱われる。
思い出せた場合、部屋の中に変化が起きる。光の筋のようなものが現れ、天へと続く道ができる。それは、いつ見ても分かりやすい。見間違えることはない。
私は、それを確認する。
「こちらです」
そう言って道を示すと、お客様は光の中へと進んでいく。振り返る人もいれば、振り返らない人もいる。どちらでも構わない。
光の中に消えていく姿を見送ったら、その部屋の役目は終わりだ。
一方、思い出せなかった場合。
部屋は、何も変わらない。光の道も現れない。お客様は戸惑い、焦り、時には怒る。それでも、結果は同じだ。
私は、その部屋を閉じる。
中に人がいる状態で扉を閉めることに、特別な感情は湧かない。それも仕事の一部だからだ。
助けている、という意識はない。
救っている、と言われても、あまりしっくりこない。私はただ、決められた場所へ案内し、決められた説明をし、結果を確認しているだけだ。
感謝されることは、ほとんどない。
感謝される必要もない。
説明を終えると、私は再び入口へ戻る。
団地の外では、夕焼けが相変わらず空を染めている。太陽は沈まず、影は伸びたまま止まっている。
時間は、相変わらず五時前後だ。
次のお客様が来る気配がする。
私は、少しだけ姿勢を正す。
仕事は、まだ終わらない。
それ以上でも、それ以下でもない。
特別な資格が必要なわけでもなければ、難しい判断を求められることもない。決められたことを、決められた順序で行うだけだ。
団地の入口で待っていると、やがて誰かが現れる。歩いてくる人もいれば、気づいたらすぐそばに立っている人もいる。現れ方はまちまちだが、共通しているのは、皆どこか戸惑った顔をしていることだ。
ここがどこなのか分からない。
なぜこんな場所に来てしまったのか分からない。
そういう表情をしている。
私は声をかける。
「こちらへどうぞ」
それだけだ。事情を聞くことはしない。名前も年齢も、職業も尋ねない。相手が泣いていようと、怒っていようと、呆然としていようと、やることは変わらない。
案内する。それが仕事だからだ。
迷い込んでくる人のことを、私は心の中で「お客様」と呼んでいる。別にそう呼ぶ決まりがあるわけではないが、その方が分かりやすい。来る人がいて、案内する側がいる。ただそれだけの関係だ。
お客様の反応は様々だ。
状況を理解しようと、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる人もいる。
何も言わず、ただ私の後ろをついてくる人もいる。
中には、ここがどこなのかを理解したような顔をする人もいるが、そういう人ほど、肝心なことを思い出せない場合が多い。
私は廊下を歩きながら、必要なことだけを説明する。
「お一人につき、一部屋です」
「部屋の中に入っていただきます」
「扉は、こちらで開けます」
言い回しは、毎回ほとんど同じだ。変える必要がない。説明が長くなると、かえって混乱させてしまう。
部屋は、最初から決まっている。
お客様に選択肢はないし、私が決めているわけでもない。ただ、扉の前に立つと「ここだ」と分かる。それ以上の理由は必要ない。
団地の廊下は、どこも似たような造りをしている。白っぽい壁に、均等な間隔で並ぶ扉。番号は振られているが、私がそれを意識することはほとんどない。数字を覚える必要がないからだ。
扉の前に立つと、私は一度だけお客様の方を見る。
「中には、あなたの記憶があります」
それが、次に伝えるべきことだ。
記憶、と言うと、大抵の人は首をかしげる。記憶は頭の中にあるもので、部屋の中に置かれているものではない、という常識があるからだろう。
だが、ここでは少し事情が違う。
扉を開けると、部屋の中には物がある。
通勤鞄だったり、使い古した靴だったり、割れたスマートフォンだったりする。特別な物ではない。むしろ、あまりにも日常的すぎて、最初はそれが重要なものだと気づかれないことも多い。
「触ってもいいですか」
そう聞かれることがある。
私は、首を横に振る。
「触れません」
理由も、一応は伝える。
「仏様ですから」
それだけだ。
重たい言葉だと感じる人もいるかもしれないが、私にとっては業務上の説明のひとつにすぎない。仏様だから触れない。それ以上の意味はない。
お客様の中には、その言葉に強く反応する人もいる。
「仏、様……?」
自分がそう呼ばれたことに戸惑う人。
否定しようとする人。
冗談だと思って笑う人。
どんな反応でも、私は訂正しない。
「そういう扱いになっています」
それで説明は終わりだ。
部屋の中にある物は、確かにその人の記憶だ。だが、すべての記憶があるわけではない。選ばれているのは、ごく一部だ。
その中でも、特に大事なのは――死の記憶。
私は、そのことも淡々と伝える。
「ここでは、亡くなったときのことを思い出していただきます」
口に出してみると、少し説明的な響きがあるが、事実だから仕方がない。
「思い出せれば、この部屋から出られます」
「出られなかった場合は?」
そう聞かれることもある。
私は、正直に答える。
「その場合は、ここに残ります」
一生、という言葉は使わない。だが、意味は伝わる。部屋から出られないということは、ここで過ごし続けるということだ。
成功と失敗は、同じ重さで扱われる。
思い出せた場合、部屋の中に変化が起きる。光の筋のようなものが現れ、天へと続く道ができる。それは、いつ見ても分かりやすい。見間違えることはない。
私は、それを確認する。
「こちらです」
そう言って道を示すと、お客様は光の中へと進んでいく。振り返る人もいれば、振り返らない人もいる。どちらでも構わない。
光の中に消えていく姿を見送ったら、その部屋の役目は終わりだ。
一方、思い出せなかった場合。
部屋は、何も変わらない。光の道も現れない。お客様は戸惑い、焦り、時には怒る。それでも、結果は同じだ。
私は、その部屋を閉じる。
中に人がいる状態で扉を閉めることに、特別な感情は湧かない。それも仕事の一部だからだ。
助けている、という意識はない。
救っている、と言われても、あまりしっくりこない。私はただ、決められた場所へ案内し、決められた説明をし、結果を確認しているだけだ。
感謝されることは、ほとんどない。
感謝される必要もない。
説明を終えると、私は再び入口へ戻る。
団地の外では、夕焼けが相変わらず空を染めている。太陽は沈まず、影は伸びたまま止まっている。
時間は、相変わらず五時前後だ。
次のお客様が来る気配がする。
私は、少しだけ姿勢を正す。
仕事は、まだ終わらない。



