見渡す限り、地平線しかなかった。
どこまで目を凝らしても、建物はおろか、木一本、電柱一本見当たらない。起伏のない平らな土地が、ただ果てしなく広がっている。遠くにあるはずの境界は、空と地面の色が混ざり合って曖昧になり、距離という概念そのものが頼りなく感じられた。
その中央に、集合住宅が建っている。
灰色の外壁に、等間隔に並んだ窓。四角いベランダと、側面に取り付けられた非常階段。特別な意匠は何ひとつなく、どこにでもありそうな団地だ。新しくもなく、かといって老朽化しているわけでもない。記憶の奥に引っかかるのに、「見覚えがある」と断言できない建物だった。
私は、その団地の前に立っていた。
いつからここにいるのかは分からない。ただ、「今日もここにいる」という感覚だけが、最初からそこにあった。違和感はない。理由を探す必要も感じなかった。そういう日常なのだと、自然に理解している。
風が吹いている。
決して強い風ではない。けれど、弱くもなかった。一定の速さで、一定の向きを保ったまま、絶えず肌を撫でていく。ただ、その風には音がなかった。草の擦れる音も、葉の揺れる音も、遠くの物音もない。
しばらくしてから、私は気づく。
風が触れるものが、ほとんど存在していないのだ。
草は生えていない。木も立っていない。道もなければ、標識もない。生活の痕跡と呼べるものが、団地以外には何ひとつない。風は行き場を失い、ただ空気を押し流すだけで通り過ぎていく。
静か、というより、音が欠けている。そんな印象だった。
空は夕焼けに染まっている。
赤と橙が溶け合い、ところどころにくすんだ紫が混じっている。太陽は地平線に近い位置で止まったまま、沈む気配を見せない。影は長く伸びきり、微動だにしなかった。
私はその空を見上げながら、特別な感想を抱かなかった。
夕方だ、と思う。それだけだ。
無意識に、腕時計へと視線を落とす。盤面は少し擦れていて、ガラスの縁に細かな傷がある。針は五時を少し過ぎたあたりを指していた。分針の位置は、なぜかはっきりしない。
時間を確認した、という感覚はない。習慣的に見ただけだ。
五時前後。
それで十分だった。
私は顔を上げ、団地の入口に視線を戻す。手動式のガラス扉で、自動ドアではない。玄関灯は点いていないが、内部は暗く見えなかった。夕焼けの光が、建物全体を包み込むように照らしているせいだろう。
中に人の気配は感じられない。けれど、無人だとも思わなかった。ここには、人が来る。それが当たり前のように分かっている。
「迷う人は、だいたいこの時間に来る」
私は、誰に聞かせるでもなく、そう思う。
理由は分からない。ただの経験則だ。夕方五時。まだ一日が完全には終わっていない時間。帰る場所があるはずで、けれど、ほんの少しの選択の違いで道を誤りやすい時間帯。
団地の前に立っていると、ときどき視界の端で何かが動く気がする。人影のようにも見えるし、陽炎が揺れたようにも見える。視線を向けると、そこには何もない。
それでも、不安はなかった。
いずれ、はっきりと姿を現す。いつもそうだ。
私は団地の外壁に手を触れる。ひんやりとしているが、冷たいわけではない。昼の熱を残しているはずなのに、どこか体温に近い、不思議な感触だった。長く触れていると、こちらの方が境界を失ってしまいそうで、自然と手を離す。
もう一度、空を見る。
夕焼けは変わらない。雲の形も、色の濃淡も、さっきから一切動いていない。それでも、不自然だとは思わなかった。そういう空なのだ、と受け入れている。
団地の内部から、かすかな気配が伝わってくる。足音でも、声でもない。ただ、誰かが近づいてきている、という感覚だけがある。
私は入口の前で、姿勢を整える。
これからやることは決まっている。説明して、案内して、見送る。それを繰り返すだけだ。特別な判断はいらない。迷う必要もない。
私は案内人なのだから。
その言葉に、誇りも疑問もなかった。名札があるわけでも、肩書きを与えられた記憶があるわけでもない。それでも、自分が何者かと問われたら、迷わずそう答える。
案内人。
迷ってきた人を、行き先へ導く役割。
風向きが変わったような気がする。実際に変わったのかどうかは分からない。相変わらず、風は何にも触れずに通り過ぎていく。
私は、誰に言うでもなく思う。
――そろそろだ。
理由は分からない。けれど、この感覚だけは外れたことがない。遠くで、足音のようなものが重なり合う。まだはっきりとは聞こえないが、確実にこちらへ向かってきている。
夕方五時。
今日も、この時間に。
私は団地の入口で待ち続ける。
迷う人が、姿を現すその瞬間を。
どこまで目を凝らしても、建物はおろか、木一本、電柱一本見当たらない。起伏のない平らな土地が、ただ果てしなく広がっている。遠くにあるはずの境界は、空と地面の色が混ざり合って曖昧になり、距離という概念そのものが頼りなく感じられた。
その中央に、集合住宅が建っている。
灰色の外壁に、等間隔に並んだ窓。四角いベランダと、側面に取り付けられた非常階段。特別な意匠は何ひとつなく、どこにでもありそうな団地だ。新しくもなく、かといって老朽化しているわけでもない。記憶の奥に引っかかるのに、「見覚えがある」と断言できない建物だった。
私は、その団地の前に立っていた。
いつからここにいるのかは分からない。ただ、「今日もここにいる」という感覚だけが、最初からそこにあった。違和感はない。理由を探す必要も感じなかった。そういう日常なのだと、自然に理解している。
風が吹いている。
決して強い風ではない。けれど、弱くもなかった。一定の速さで、一定の向きを保ったまま、絶えず肌を撫でていく。ただ、その風には音がなかった。草の擦れる音も、葉の揺れる音も、遠くの物音もない。
しばらくしてから、私は気づく。
風が触れるものが、ほとんど存在していないのだ。
草は生えていない。木も立っていない。道もなければ、標識もない。生活の痕跡と呼べるものが、団地以外には何ひとつない。風は行き場を失い、ただ空気を押し流すだけで通り過ぎていく。
静か、というより、音が欠けている。そんな印象だった。
空は夕焼けに染まっている。
赤と橙が溶け合い、ところどころにくすんだ紫が混じっている。太陽は地平線に近い位置で止まったまま、沈む気配を見せない。影は長く伸びきり、微動だにしなかった。
私はその空を見上げながら、特別な感想を抱かなかった。
夕方だ、と思う。それだけだ。
無意識に、腕時計へと視線を落とす。盤面は少し擦れていて、ガラスの縁に細かな傷がある。針は五時を少し過ぎたあたりを指していた。分針の位置は、なぜかはっきりしない。
時間を確認した、という感覚はない。習慣的に見ただけだ。
五時前後。
それで十分だった。
私は顔を上げ、団地の入口に視線を戻す。手動式のガラス扉で、自動ドアではない。玄関灯は点いていないが、内部は暗く見えなかった。夕焼けの光が、建物全体を包み込むように照らしているせいだろう。
中に人の気配は感じられない。けれど、無人だとも思わなかった。ここには、人が来る。それが当たり前のように分かっている。
「迷う人は、だいたいこの時間に来る」
私は、誰に聞かせるでもなく、そう思う。
理由は分からない。ただの経験則だ。夕方五時。まだ一日が完全には終わっていない時間。帰る場所があるはずで、けれど、ほんの少しの選択の違いで道を誤りやすい時間帯。
団地の前に立っていると、ときどき視界の端で何かが動く気がする。人影のようにも見えるし、陽炎が揺れたようにも見える。視線を向けると、そこには何もない。
それでも、不安はなかった。
いずれ、はっきりと姿を現す。いつもそうだ。
私は団地の外壁に手を触れる。ひんやりとしているが、冷たいわけではない。昼の熱を残しているはずなのに、どこか体温に近い、不思議な感触だった。長く触れていると、こちらの方が境界を失ってしまいそうで、自然と手を離す。
もう一度、空を見る。
夕焼けは変わらない。雲の形も、色の濃淡も、さっきから一切動いていない。それでも、不自然だとは思わなかった。そういう空なのだ、と受け入れている。
団地の内部から、かすかな気配が伝わってくる。足音でも、声でもない。ただ、誰かが近づいてきている、という感覚だけがある。
私は入口の前で、姿勢を整える。
これからやることは決まっている。説明して、案内して、見送る。それを繰り返すだけだ。特別な判断はいらない。迷う必要もない。
私は案内人なのだから。
その言葉に、誇りも疑問もなかった。名札があるわけでも、肩書きを与えられた記憶があるわけでもない。それでも、自分が何者かと問われたら、迷わずそう答える。
案内人。
迷ってきた人を、行き先へ導く役割。
風向きが変わったような気がする。実際に変わったのかどうかは分からない。相変わらず、風は何にも触れずに通り過ぎていく。
私は、誰に言うでもなく思う。
――そろそろだ。
理由は分からない。けれど、この感覚だけは外れたことがない。遠くで、足音のようなものが重なり合う。まだはっきりとは聞こえないが、確実にこちらへ向かってきている。
夕方五時。
今日も、この時間に。
私は団地の入口で待ち続ける。
迷う人が、姿を現すその瞬間を。



