「太郎……なんでここに?」
「ご存知の通り、補習だったもんで」
「補習……あぁそっか、それで集まり悪かったのもあって機嫌悪かったのか……」
と、自分で呟きながらその言葉で思い出したみたいに、相馬はまた空気を尖らせ始める。
多分、さっきの先輩のことを言ってるんだと思う。まだ収まらないみたいな、忌々しい思い出を振り返る感じで怒りを飛ばしている。
「お前ってそんな風に怒ってんの引きずるタイプなんだな」
てっきりさっぱり忘れるタイプなんだと思ってたので思わずそう口にすると、相馬がまた俺に意識を向けたと思ったら、ぐっと眉間に皺を寄せて俺のかけているメガネを奪っていった。ほんの、瞬きの間の出来ごとである。
え、なんで?
「よし、帰ってよし」
「は? いや、見えねーし」
「じゃあ見えない奴はそっち座って待ってろ」
と、奴が指差した先は、以前も利用した少し離れた位置にある中庭のベンチだ。
え、なんで? 再びである。
「なんか探してんじゃねぇの? 手伝おうか?」
「メガネないと何もできない雑魚は座っててください」
「は? 奪ったのお前だろ!」
「じゃあ返すから何も言わずこっちも見ずさっさと帰ってください」
「はぁぁ? お前何様……?」
なんだこの自分勝手な生き物は。本当に相馬か? え、あの爽やかで純粋キッズの相馬であってる?
あれ? めっちゃ新しくね?
雑魚だの帰れだの言われてカチンときてたはずなのに、なんだろう、急にそわそわしてきた。なんか楽しくなってきた……!
だから、言われた通りに良い子に待つことにする。待ってろってことは話してくれるつもりがあるってことだもんなと。すっかり暗くなった中庭のベンチに一人で座ってる不審者になってしまうけど仕方ない。相馬の気が済むまで付き合うことにした。
そして、しょんぼりした相馬が戻ってきたのは二十分後くらい。部室の中だけじゃなくて部室の外周り、グラウンドの方まで見に行っているのを俺は眺めながら、そんなに大切なものなのかな……とか考えていた。
はい、とすんなりメガネを手渡されたので受け取ると、「行こっか……」と力のない声で相馬が目を合わせずに歩き出すのでそれに続いた。
……あれ?
何も話してくれない。ただただ無言で歩き続ける二人になっている。
折角待ってたのに?
「おい、この前の公園寄ってこーぜ」
「なんで……?」
「お前と話したいから」
そう答えると、相馬は驚いた顔をする。
「太郎、俺のこと嫌になったんじゃないの……?」
「は?」
「え、だって、あんま楽しそうにしなくなったっていうか、書いてきたのもちゃんと読んでくれなくなったし、それに、」
「! ちょ、ちょっと待て」
相馬の言葉も気になったけれど、それどころじゃない事態が起こった。だって、あのバイクが停まっている。きちんとあの日の男付きで。
タイミング悪く、その時ちょうどコンビニの前を通りすがるところだった。ハッと意識を向けたコンビニ内。レジには例の相馬の好きな人がいる。つまり、バイト上がりの彼女を迎えにきた彼氏の図……?
嘘だろ! まさかのこのタイミングで?! と、一人焦っていると、
「あ、お疲れっす」
「おー、お疲れサッカー部」
……ん?
彼氏であろうその男と相馬が隣で挨拶をし始めた。まるで知り合いのようなその口振りで——、
「こいつ、浦島太郎です」
「浦島一郎です」
きちんと例のやり取りもこなしてひと笑い取ると、和やかに、「じゃあ」と、相馬は俺をつれてその場をあとにした。
……え、え? どういうこと??
「知り合い?」
「うん」
「え、じゃあもしかしてお前……知ってたの?」
あの人に彼氏が居るってこと。と、口にしなくても、相馬には伝わっていた。
「うん。てか、始めからそういう初恋」
「……え、」
まさかの宣言に言葉を失う俺と、振り返った相馬の目が合った。
相馬は俺の表情を確認するや否や、ははっと、声を出して笑う。
「何それ、もしかして心配してくれてた?」
それがなんだか喜んでるように見えたし、相馬にとっては大したことじゃなかったのだと知った瞬間でもあった。
なんだよ、全部杞憂だったってことかよ。
「……してたわバーカ」
なら良かったわ、クソが。
「偶然彼氏に送られてコンビニ来たの見ちゃってさ、そっから失恋じゃんって……おいふざけんなよ、返せよ俺の心労分の何かをよぉぉ……」
「うわ、地獄みたいな声出すじゃん」
そうして今度はゲラゲラと笑う相馬を恨みを込めて睨みつけながら、結局そのまま二人で例の感想会を開いた公園へと向かい、自然とあの日と全く同じようにベンチに腰を下ろしていた。
さて、じゃあここからは答え合わせの時間だ。
「まず。お前さ、さっきのさ、知ってたってやつ、始めからそういう初恋だったって……」
「うん。元々彼氏いんの知ってたよ。大学生になってすぐ付き合い出して、たまに家の前で鉢合わせたりしてた」
「マジかよ……お前、彼氏持ちの年上の女だってわかってて好きになったの?」
「うーん、てか、それより前から好きだったのかも。気づいたのがこの前って感じ」
「おま、どんだけハードな恋愛に首突っ込んでんだよ……ハートが強すぎる」
そうだ、そう。ハートが強いのだ。相馬ってこう、爽やかでお人好しのくせに、芯が強くてちょっとやそっとじゃ傷つかない感じのブレない人間だと思う。
だから自分の気持ちも考えたことない、繊細な機微に触れたことのない人間だったんだと思う。
そっか……じゃあ始めからそういう覚悟と一緒に生まれた初恋だったってことか……難儀な……ん?
「待って。つまり今までのポエムも全部それ前提で読むべきだったってことじゃねぇの……?」
マジかよ! そしたら全然話が変わってくるじゃねーか!
「なんでそういう大事なこと言わねーんだよ! ほんっとお前ってわかってないな! ほんと!」
そして、「ほら、今から読むから出せよ」と、メモ帳を出すよう手を出すと、今までふわふわしてたくせにさっと相馬が冷たく重い雰囲気になる。え、何? 怒ってんの?と、焦り出した俺に、相馬は、
「ごめん」
と、勢いよく頭を下げた。隣に座る相馬の後頭部を見ることになるくらいに、それはもう、深々と。
「メモ帳、無くした。部活始まる前に読んでて、練習終わって戻ってきたら無くなってて、ちゃんと鞄にしまったんだけど、その、探してたら先輩が捨てたって言ってきて、そんなん読んで集中してないからだとか意味わかんないこと言い出して、それで俺、あいつはもうここで殺そうと思って」
「おいおいおいおい!」
なんて過激な思考展開なんだと引いた俺に、ガバッ顔を上げた相馬が「だってさ!」と、ギラギラさせた目で訴えてくる。
「あいついつも俺に難癖つけてくんだよ。それはいいの、俺が上手い分あいつにとって目障りなんだろなってだけだから。運動部の先輩後輩とか、練習中のいざこざとか、もうそんなんはどうでもいいの。でも今回のこれはさ、これは違うじゃん! おかしいだろ、だってこれはっ、これはさ、こんなことされるなんて想像もしてなくて、俺、太郎の大事なもん預かってたのに、それなのに無くして、見つけらんなかった……っ」
大きく見開かれた目が、怒りに真っ赤に染まっていたその瞳が、今度はゆらゆらと揺れながら声色と共に水分を含んでいく。
……嘘だろ、マジか。
「ご、ごめん太郎、俺の、俺のせいでなくなっちゃった。お前の大切なものが詰まってるってわかってたのに、ちゃんとわかってたのに、全部無くなっちゃった! 宝物だったのに、それなのに俺、俺にはこうやって謝ることしかできない……っ!」
ボロボロと涙を流しながら自分の袖で雑に拭う相馬は、ついにしゃくりあげながら言葉も発せないほどに本格的に泣き出してしまった。
俯いて何度も涙を拭う相馬に、そうかと理解する。
お前はそんなになって怒るくらいに俺のクソポエムを、俺の心を大事に思ってくれてたんだなと。
「いいんだよ、泣くなよ相馬。あのメモ帳はさ、俺にとってはただのゲロの掃き溜めだよ。俺の中で勝手に生まれてくるもん吐き出してただけだからさ。だから宝物でもなんでもないし、そんな気にすることないって。まぁ、お前が書いたやつもう一回読めなくなったのは残念だけど、それはまた書いてくれるだろ? また四冊目一緒にやればいいじゃん」
な?と、慰めるつもりでいまだに落ち着かないその肩にポンと手を置くと、
「違う!」
思い切り、その手を払われた。真っ赤になった相馬の目が、真っ直ぐに俺に向けられる。
「俺にとっては宝物だ! あれに出会って世界が変わったんだから!」
「たとえお前でもそんな言い方すんな!」と、激昂する相馬の感情を真っ正面から浴びて、思わず息を呑んだ。こんなに苛烈な感情を浴びたのは初めてで、まるで真夏の日差しのような、表面だけでは飽き足らず、内面まで浸透してくる火傷しそうなほどに強い熱さがそこにあった。
「俺はさ、ほんと、サッカーしかしてこなかったんだよ、冗談抜きで。六歳から始めてさ、サッカーありきでできた友達とそのままここまで来て、高校だってそれで入ってるし、全部がサッカーでうまく流れ作業みたいに回ってた。ムカついても結局走ってるうちに忘れるし、サッカーしてればなんとかなるし。でもさ、メモ帳拾って、自分の中にもそういう感情あるなって、今まで走って忘れてきたものとか、見ようとしてなかったものに気づかされて、自分について初めてちゃんと考えたんだよ。そしたら楽しかったんだ。自分とか世界とか、知って新しくなるのがすごく楽しかった」
相馬はもう、泣いていなかった。ガラスのように透き通るその二つの目を尖らせて、俺の心に向けてくる。相馬の今までと、その根っこの部分にある心を。
「そのせいで失恋前提の恋に気づいても、そのせいで痛いポエムを書くことになっても、ずっと楽しかった。知ったり気づいたことで辛い気持ちになってもさ、俺には全部一緒に抱えてくれる太郎が居たから。太郎は全部受け入れてくれただろ? 同じだけ自分の心を俺にも見せてくれて、一緒に楽しんでくれたから。太郎のメモ帳は俺の心の歴史だったよ。俺の心の生みの親で、太郎と俺の唯一の繋がりだったよ。それなのにさ、そんな大事なものをさ、お前はゲロの掃き溜めなんて言いやがって、ほんと、ほんと信じられない……」
「なんでお前はいつもそうなの?」なんて恨めしい目で俺を見る相馬に言われて、自然と「ごめん」と謝っていた。謝ってから、あれ? なんで謝ってんだろ?と思ったけど、まぁいいやと流した。だってなんか、謝った俺を見て相馬が満足してたから。
全く、なんなんだろうなこいつは。ほんと……変な奴。
変でさっぱりわかんないのに、なんでこんなにこいつの言うことはいつも心刺さるんだろう。
気づけば、自然と声を出して笑っている自分がいた。
だって相馬の言う通りだと思ったから。
メモ帳を拾って相馬と関わるようになって、確かにずっと楽しかった。自分だけの世界の見え方が変わって、俺のクソポエムメモ帳は俺一人のための感情のはけ口ではなくなり、いつの間にか二人のための宝物に変わっていたから。
「ただの爽やかサッカー少年だと思ってたのに、怒ったり泣いたり忙しい奴。もしかしてそれも宝物のおかげってわけですか」
照れくさくなって揶揄うように言ってやると、グッと痛いところをつかれたような顔をした相馬が、また俺のかけているメガネを奪っていった。
「いや、何なのそれマジで」
「メガネ取ったら太郎は見えねーんだろ」
あ、つまり見るなってことか。見せたくない場面だったからメガネ奪ってたってこと? 今は多分、その怒ったり泣いたりした自分を自覚した顔を見られるのが恥ずかしい、的な? じゃあ部室の時は無くしたのを知られたくないとか、そんな自分を見られたくない、とか?
なるほどなと、可愛いところあるじゃんと思ったら、加虐心が生まれてしまう。
「あのさ、俺とお前の仲だから特別に教えてやるけど、実はこれ伊達メガネなんだよ」
だからそんなことしても無駄だぞと、お前の全部がお見通しだぞと、伝えてやると、相馬がムッとした表情で俺を睨みつける。「意地悪いよな、太郎って」と。
そして、
「言っとくけどな、そんなこと俺だって気づいてんだよ。太郎が俺が補習じゃないのわかった時からな」
「……あ?」
「あの時メガネしてないのになんでこんな小さい字読めてんだよって、こいつほんとは見えてんじゃんって、嘘つかれてるんだってすっげー嫌な気分だった。ポエムも本気で読んでくんないし、さっさと部活行けみたいな感じだし、本格的に嫌われたのかなってショックだったんだからな」
「いやっ、それはお前が失恋してると思ったら気まずかっただけで、」
「だな。そういうことかってさっき察したわ。俺はサッカー以外知らなかっただけでただのバカじゃないもんで。だから気も使えるんだよ。そう、例えば、大切な秘密かもしれない何かに気づいた時、その都合に合わせてやったりさ」
なるほど、さすが団体競技の中で生きてきたサッカー部の爽やかストライカー。
「もうとっくに伊達なの気づいてるけどそっちの都合に合わせてやってたんだよ、察して見ない振りしろバカ太郎」
何それ。
「そんなんもう、やってることポエムじゃん」



