マジか、マジか……!
いくら探しても出てこない。鞄の中にもポケットの中にも入ってない!
なんで? 最後にいつ出した? 今日出した? 朝出した! あの時は朝の憂鬱は一日の何パーセント分の幸せを持っていってるのかについて書いて、それで……そう、そっから見てない。登校して教室入るまでのどっかで落としたんだ……!
くそっ、腹が空いたまま授業を受けると眠気と空腹のどちらが勝つのかについて調べようとしたばっかりに……! 結果どっちが勝つとかじゃなくてこんなのただの体調不良だし機嫌が最悪なだけだったってのに。一時間目終わって即行弁当食うはめになったしな、運動部でもないのによ。
冷静になるとマジで無駄な探求だったよ本当。なんで思いついちゃったんだろ、なんで実行した? なぜ人は真理を求めるのかに近いものを感じるけども、そんな本能に負けてるから失くしたことに気づかないんだよ、バカタレが! 一番重要なことすっぽ抜けてるじゃねぇか、マジいい加減にしろ自分。
気づいてしまえばもう死んだ目をして黒板を睨みつけることしかできなかった。これは自分で招いた不幸である。史上最悪の。
だって男子校でこんなの拾われたらおしまいだ。このままじゃ、このままじゃもう、俺のクソポエムが世に出て人の目についてしまう……!
「うっす、太郎。今日はやけに機嫌悪いな」
「なんだ? 亀いじめてる奴でも見つけたかー?」
くそっ、こっちはそれどころじゃないってのに、少し隙を見せればこれだ! これだから暇を持て余した男子校生はウザい!
「浦島太郎じゃねぇ。浦島一郎だっての」
「あはは! 浦島が苗字で名前が一郎なの、これお前の両親も名付けの時に引っ張られてるよな!」
「いーよなぁ? 主人公ぽくて。地味で根暗でメガネで男子校で浦島太郎なの、お前らしさ全開過ぎる」
「全員マジで死ね」
「やだ〜! 俺らのことも亀みたいに優しくして〜!」なんて、馬鹿笑いするクラスの奴らはその一言で全部切り捨てて無視に限る。マジでこのやり取り一生やらされてる……多分一番悪いのは親。太郎が俺のあだ名になるのくらい想像ついただろーが、もっと今時なのつけてくれよマジで。
いや違う、今はそんなことはどうでもいい。太郎だろうがなんだろうがどうでもいいのだ。
俺のクソポエムメモ帳はどこへ……?
「なぁ太郎〜購買行こうぜー! お前早弁してたろ? そろそろ行かねーとパンなくなるくね?」
「! そうだった、早く行かないと!」
あーもう、なんか色々上手く回ってない!
「イライラし過ぎじゃね? 生理?」とかデリカシーないこと言われてぶん殴った。そんで購買行ってパン買って昼休み中探したけど見つからなくて、さっさと帰りたかったけど仕方なしに放課後も探したのに見つからなくて、絶望しつつ運動部の部室前を通りかかったその時だった。
「相馬のそれ何?」
「わかんねー。さっき拾った」
聞こえてきた会話にハッと声の方へ振り向くと、サッカー部の団体がゾロゾロと部室から出てくるところで、そこに混ざった同じクラスの相馬が手にする黒い表紙の手のひらサイズのメモ帳が目に入った。
俺、の、だ!
静かに絶望する俺の視線の先で、サッカー部員達が顔を寄せ合ってそのメモ帳を覗き始める。
「何か色々書いてあんだよ」
「どれ? 『雨の日の赤信号はいつもより綺麗』……え? どういう?」
「『雨の匂いは土と埃の匂いに近いけど、雨だけ嫌じゃない』だって。匂いわかる?」
「『雨が好きな奴嫌いだけど雨が好きな自分は受け入れられるのなんで?』雨のことばっか書いてんなこいつ」
違う! 違うんだ! この頃はわざと雨について書き出してたから! 多分梅雨だっただけでもっと他にもある、いやもう見ないでくれ!
「こんなんずっと書いてんの? 痛すぎる……友達居ないん? 孤独なの? 暇なの? どっち?」
「どっちにしろ大怪我してんだろそいつ。男子よな? 男子校だし。女の子でもギリだぞ」
「仕方ねぇ。この黒歴史はきちんと捨てて俺らで供養してやろーぜ」
! そうっ、それがいい! なんだわかってんじゃんサッカー部! 見直したわ!
バレないように少し離れた中庭のベンチに移動しながら俺はもう、心の中で両手を目一杯あげて喜んでいた。これで捨てたところを回収すれば任務達成だ。俺が書いたなんてバレることもないだろう、名前が書いてあるわけでもないんだから。
——それなのに。
「いや、俺はこれ書いた本人に返そうと思う」
……は?
それは、このメモを拾った本人であるらしい相馬の一言だった。何気なしに呟いた感じで、奴はペラペラとめくりながらメモの中身をじっくり確認している。
「え、なんで?」
だからサッカー部の奴らが理解できない顔で訊ねた。このクソポエムを読んでおいてなんでそんな結論に?と。もちろん俺も同じように心の中で。
それに相馬は、ジッとメモから目を離さずに答えた。
「多分これ、書いた人的に捨てられたくないんじゃないかと思うんだよな」
「いや、捨ててやるのが親切のパターンじゃね?」
「うーん、そういうもん?」
そして曖昧な返事をした相馬がそのままメモ帳を自分の鞄に入れると、自然とその話題は終わりを迎えてサッカー部団体は揃って帰路に着くことになり——って、なんで? なんでその判断? なんで鞄に入れた??
意味わかんねぇ!
仕方なしに俺も帰ることにしたけれど、いくら考えてもその理由がわからなかった。
相馬隼人は同じクラスのサッカー部の爽やか君。関わりが薄くてそんなイメージしかなくて、わざわざ持って帰ってまでして馬鹿にするような奴でもないだろうとは思うけど、なんでメモ帳を鞄に入れたのか、そのメモ帳をどうするつもりなのか、俺にはさっぱり奴の行動原理が理解ができなかった。
一体どういうつもりなんだ……無事に何ごとも起きないといいけど。
——けれど残念ながら、次の日の朝イチから奴はとんでもない行動を起こした。
「誰かこのメモ帳落とした奴いるー?」
……わかった。こいつデリカシーないんだ。
朝練が終わったであろうサッカー部員がゾロゾロと教室に入ってきたと思ったら、相馬がデカい声で俺のメモ帳を皆に見えるように掲げながら呼びかける。
その瞬間ドバッとふき出た汗が止まらなくなって、ガチガチに歯を食いしばって前を睨みつけることしかできなくなる。
やめろ、やめろ! まさか中身大公開とかしないよな……? みんなの前で朗読とかしないよな……!
「おい相馬、やっぱ居ねーし、居てもそもそも名乗り出ねーだろ」
「そうか? 俺だったら声かけてくれた方が助かるけどな」
「お前その中身読んでそれ言えんの逆に真っ直ぐ過ぎんだよ……これだからサッカーしかやってこなかった子は」
「人の心の闇を知った方がいいぞそろそろ。そういうメモ帳なんだから。雨の日について普通の人はそんなこと書かないの」
「そうそう、思ってもその場で友達に言って終わるの。わかる? わかんないよなーお前には」
おいおいやめろ、中身に触れんな! やめろ!
「雨の日の赤信号が綺麗とか、俺好きだけどなー」
やめろ!!
——と、心の中で叫びながら相馬の方へ目を向けた瞬間、ぴたりと相馬の視線と合う。
……え? まさか!
「太郎もそう思う?」
「なんで俺!」
間髪入れずに答えていた俺に、クラス中がどっと沸いた。相馬は気づいているのかいないのか、平然とした顔で近づいてくるとメモ帳の中身を見せてくる。該当の雨のページである。
「これ、どう思う?」
どう思うじゃねぇよ……。
「現実逃避かなんかじゃね? 知らんけど」
平静を装って反射で出した俺の返事に、サッカー部の陽キャ達が盛り上がる。「太郎冷て〜! もっと寄り添えよメガネなんだから」とか言われて、「死ね」と返した。
あーもう、イライラする。俺が書いたと思われたのか、俺が書くわけないと思われたからかはわからないけれど、もうこの際ここできちんと言っておかなければならない。
「あのさ、そうやって沢山の前で中身晒すのはイジメと同じだぞ。お前にはないわけ? わかんないの? そういうの。ノンデリかよ」
俺の言葉に、相馬はハッと息を呑んだ。するとまた周囲から俺に野次が飛ぶ。
「おいそれは尖りすぎだぞ太郎!」
「言うてお前だってわかんねーくせに!」
「相馬をいじめるな!」
「亀以外にも優しくしろ!」
「死ねしか語彙ないくせに!」
しらねーよクソが!
楽しそうにやいやいうるさい奴らからふんっと顔を逸らすと、目の前に立つ男の小さな呟きが聞こえてきた。
「これってイジメになんの?」
ったく、爽やか星人め。きっとこういう人間には隠を極めし人間の気持ちがわかんないだな。単純な頭の作りでうらやましーわ。
「書いた奴が死んだらお前の責任だな。それが遺書になんだろ、しっかり大事にしまっとけよ」
「根暗メガネー!」
「相馬かわいそうー!」
不本意ながらクラスのいじられ役としての自覚はあるので、仕方なく野次の全てを受け入れて、メモ帳の持ち主が俺だとバレることなくその場はなんとかおさまった。
が、メモ帳について俺からはもう触れることができない空気感になり、相馬とも特別仲がいいわけではないのでこれはもう諦めるしかないなと心を決める。
俺のクソポエム二冊目よ、さようなら。
そうして新しく家から持ってきた三冊目を俺が取り出したのは昼休みのこと。
今回の騒動で生まれた感情についてまとめようと、校舎裏で隠れるように弁当を食いながら早速新しいメモを開いていたところだった。
ちょうど奥まった場所にあるこの場所は、昼休みになると他の校舎で影になっている部分と違ってピンポイントに日が差しこみ、この時間帯にもってこいの穴場となる。だから普段は薄暗くてこんなところ誰も近寄らなかった。
もちろん今日も誰にも会うわけないと思いこんでいた。すっかり夢中になっていた俺は気づかなかった。
「なぁ、それ」
ガバッと顔を上げると、そこには相馬が立っていた。
目線は完全に俺の手元、メモ帳に釘付けである。
「それ、これと同じじゃない?」
そう言って奴がポケットから取り出したのは、そう。俺のクソポエム帳二代目。黒い表紙に手のひらサイズの、五冊セットで全く同じデザインと大きさの俺の三代目と、誰がどう見ても全く同じもの。
どうしよう、どうする?
完全に一致しているのがバレた今、違うと言い切るのは無理矢理がすぎる。
「同じだなー」
とりあえず同意することにして、
「で? お前こんなとこで何してんの?」
自分のことは棚に上げて相馬にそんな質問を投げかける。すると相馬は目の前にある校外からの目隠しも兼ねて植っている木の方へ向かうとゴソゴソと何かを手にして戻ってきた。
「ソックス干してた」
「ソックス」
「そう。朝練で履いたやつ今日水こぼれたとこ踏んじゃってさ。部室に干しといたら前汚ねぇって怖い先輩に怒られて、校舎裏で干してた」
「あ、そう……」
そうなんだ、知らんけど。
とりあえずメモ帳について意識がそれた感じになったので、そのまま「じゃあな、部活頑張れよ」なんてらしくない言葉まで残して立ち去るために腰を上げようとすると、「で?」と相馬がまた目の前にやってくる。
どうやら逃してはくれないらしい。
「それなんか書いてたよな。もしかしてさ、これも書いたの太郎?」
「…………」
そこまで見えてたんじゃもう、詰みじゃね?
「……だったらどうするんだよ」
最悪だ……だってこいつ、デリカシーなんて爪の先もない男だぞ。クラス全員の前でこれ書いたの誰ですかをやったやつだ。
「次は俺が書いたってみんなに発表でもするのか? こいつはあんな顔してこんなこと書いてるぞって。それでまた浦島太郎に盛り上げ役させようって話ですか」
終わった。元々クソみたいな人生だったけど、これで完璧に終わった。現代版ポエム書きの浦島太郎ここに爆誕の瞬間である。現代では亀でなく俺がいじめられる最悪な内容修正が入るのだ……きっとクラスの奴らはこんな奴が居たのだと、後世へ語り継ぐのだろう……。
と、一瞬で諦めの境地にまで達した俺を見つめる目の前の男の二つの瞳は、やけにじっと動かなかった。そして、
「すげーな」
その一言を呟くと、徐々にその目が潤うように、キラキラと輝き始める。
え、なんで?
「俺さ、全部読んだんだけど」
「全部読んだのかよ!」
「うん。なんか、わかった。わかんなかったけど、わかったんだよ。知らなかったのに知ってたってゆーか」
そして、「この感覚をなんてゆーかというと」と、相馬は二代目のメモ帳をパラパラとめくり、これこれと俺に差し出してくる。
「『世間では始めから名前がついていたのに、自分がその名前を知ったのは今この時。そうなるとこの感覚は今生まれたことになるのか? それともずっと前から心にあった?』これ。この感じ。読みながら全部名前つけてもらったみたいな、見つけてもらったみたいな気持ちでさ、だから捨てちゃダメだと思った。だってこれ、これ書いた人の心の歴史だろ? 写真だったらアルバムってゆーか。大事なものだと思った」
「…………」
心の歴史。写真だったらアルバム。
……いやまぁ、立派な黒歴史だけれども。
「そっか、今自分で話しながらわかった。だから勝手に覗いて人に晒したらいけないのか。プライバシーの侵害とか、個人情報の流出みたいな。そういうことだよな? 合ってる?」
「あ、合ってる合ってる」
「そりゃイジメになるよなー……犯罪だもん。ごめんな太郎。でもまさかこれ書いたのが太郎だったとは。マジでこれっぽっちも思わなかった。太郎はこういう感情全部捨てるタイプだと思ってた……」
「俺をなんだと思ってんの」
つまり人でなしだから面白おかしくいじり倒して大丈夫って思われてるってこと?と訊ねると、違う違うと相馬は首を振る。
「なんか、機械みたいな奴だなって思ってた。でも違ったからすげービックリ。すげー、マジすげー」
「いや語彙……俺はお前のことただの爽やかマンだと思ってたけど、ただの子供だということが今、よーくわかった」
新しいことに目をキラキラさせてすげーを連呼するのは小学生までなのよ。
「機械みたいな奴ってのは引っかかるけどまぁいいや。とりあえず理解したんならさっさと返せよそれ。そんでこの話はここまでな」
そう言って奴の手元に手を伸ばすと、ふっと遠くへやられて届かなくなる。
は?
「何だよ」
「嫌だ。もっと知りたい」
もっと、知りたい?
「え、何を?」
「こういう知らない気持ちみたいなの」
「勝手に探せば?」
「できないから、一緒にやりたい」
「はぁ?!」
「昼休みここ来ればできる?」
「いや、」
「今日もう終わるからまた来るわ。な? ちゃんと秘密にするし、プライバシー理解したし。な?」
子犬のように人懐っこい顔して相馬は「な?」を連呼してくる。な、な、
「なんでそんなに知りたいわけ……?」
圧に押されて身を引きながら訊ねると、キョトンとしたのち奴は言った。
「だって知った方が楽しーじゃん!」
そしてとびきりの、爽やか少年の笑顔である。
眩しい、眩しすぎる。マジ消し飛ぶからやめろ……隠の人間にはキツすぎる。
「わ、わかった、わかったから……」
とりあえずまた明日ということで解散して陽の力からどうにか逃れたけれど、気がついた。
二代目メモ帳、ちゃっかりあいつ持って帰りやがったわ。
いくら探しても出てこない。鞄の中にもポケットの中にも入ってない!
なんで? 最後にいつ出した? 今日出した? 朝出した! あの時は朝の憂鬱は一日の何パーセント分の幸せを持っていってるのかについて書いて、それで……そう、そっから見てない。登校して教室入るまでのどっかで落としたんだ……!
くそっ、腹が空いたまま授業を受けると眠気と空腹のどちらが勝つのかについて調べようとしたばっかりに……! 結果どっちが勝つとかじゃなくてこんなのただの体調不良だし機嫌が最悪なだけだったってのに。一時間目終わって即行弁当食うはめになったしな、運動部でもないのによ。
冷静になるとマジで無駄な探求だったよ本当。なんで思いついちゃったんだろ、なんで実行した? なぜ人は真理を求めるのかに近いものを感じるけども、そんな本能に負けてるから失くしたことに気づかないんだよ、バカタレが! 一番重要なことすっぽ抜けてるじゃねぇか、マジいい加減にしろ自分。
気づいてしまえばもう死んだ目をして黒板を睨みつけることしかできなかった。これは自分で招いた不幸である。史上最悪の。
だって男子校でこんなの拾われたらおしまいだ。このままじゃ、このままじゃもう、俺のクソポエムが世に出て人の目についてしまう……!
「うっす、太郎。今日はやけに機嫌悪いな」
「なんだ? 亀いじめてる奴でも見つけたかー?」
くそっ、こっちはそれどころじゃないってのに、少し隙を見せればこれだ! これだから暇を持て余した男子校生はウザい!
「浦島太郎じゃねぇ。浦島一郎だっての」
「あはは! 浦島が苗字で名前が一郎なの、これお前の両親も名付けの時に引っ張られてるよな!」
「いーよなぁ? 主人公ぽくて。地味で根暗でメガネで男子校で浦島太郎なの、お前らしさ全開過ぎる」
「全員マジで死ね」
「やだ〜! 俺らのことも亀みたいに優しくして〜!」なんて、馬鹿笑いするクラスの奴らはその一言で全部切り捨てて無視に限る。マジでこのやり取り一生やらされてる……多分一番悪いのは親。太郎が俺のあだ名になるのくらい想像ついただろーが、もっと今時なのつけてくれよマジで。
いや違う、今はそんなことはどうでもいい。太郎だろうがなんだろうがどうでもいいのだ。
俺のクソポエムメモ帳はどこへ……?
「なぁ太郎〜購買行こうぜー! お前早弁してたろ? そろそろ行かねーとパンなくなるくね?」
「! そうだった、早く行かないと!」
あーもう、なんか色々上手く回ってない!
「イライラし過ぎじゃね? 生理?」とかデリカシーないこと言われてぶん殴った。そんで購買行ってパン買って昼休み中探したけど見つからなくて、さっさと帰りたかったけど仕方なしに放課後も探したのに見つからなくて、絶望しつつ運動部の部室前を通りかかったその時だった。
「相馬のそれ何?」
「わかんねー。さっき拾った」
聞こえてきた会話にハッと声の方へ振り向くと、サッカー部の団体がゾロゾロと部室から出てくるところで、そこに混ざった同じクラスの相馬が手にする黒い表紙の手のひらサイズのメモ帳が目に入った。
俺、の、だ!
静かに絶望する俺の視線の先で、サッカー部員達が顔を寄せ合ってそのメモ帳を覗き始める。
「何か色々書いてあんだよ」
「どれ? 『雨の日の赤信号はいつもより綺麗』……え? どういう?」
「『雨の匂いは土と埃の匂いに近いけど、雨だけ嫌じゃない』だって。匂いわかる?」
「『雨が好きな奴嫌いだけど雨が好きな自分は受け入れられるのなんで?』雨のことばっか書いてんなこいつ」
違う! 違うんだ! この頃はわざと雨について書き出してたから! 多分梅雨だっただけでもっと他にもある、いやもう見ないでくれ!
「こんなんずっと書いてんの? 痛すぎる……友達居ないん? 孤独なの? 暇なの? どっち?」
「どっちにしろ大怪我してんだろそいつ。男子よな? 男子校だし。女の子でもギリだぞ」
「仕方ねぇ。この黒歴史はきちんと捨てて俺らで供養してやろーぜ」
! そうっ、それがいい! なんだわかってんじゃんサッカー部! 見直したわ!
バレないように少し離れた中庭のベンチに移動しながら俺はもう、心の中で両手を目一杯あげて喜んでいた。これで捨てたところを回収すれば任務達成だ。俺が書いたなんてバレることもないだろう、名前が書いてあるわけでもないんだから。
——それなのに。
「いや、俺はこれ書いた本人に返そうと思う」
……は?
それは、このメモを拾った本人であるらしい相馬の一言だった。何気なしに呟いた感じで、奴はペラペラとめくりながらメモの中身をじっくり確認している。
「え、なんで?」
だからサッカー部の奴らが理解できない顔で訊ねた。このクソポエムを読んでおいてなんでそんな結論に?と。もちろん俺も同じように心の中で。
それに相馬は、ジッとメモから目を離さずに答えた。
「多分これ、書いた人的に捨てられたくないんじゃないかと思うんだよな」
「いや、捨ててやるのが親切のパターンじゃね?」
「うーん、そういうもん?」
そして曖昧な返事をした相馬がそのままメモ帳を自分の鞄に入れると、自然とその話題は終わりを迎えてサッカー部団体は揃って帰路に着くことになり——って、なんで? なんでその判断? なんで鞄に入れた??
意味わかんねぇ!
仕方なしに俺も帰ることにしたけれど、いくら考えてもその理由がわからなかった。
相馬隼人は同じクラスのサッカー部の爽やか君。関わりが薄くてそんなイメージしかなくて、わざわざ持って帰ってまでして馬鹿にするような奴でもないだろうとは思うけど、なんでメモ帳を鞄に入れたのか、そのメモ帳をどうするつもりなのか、俺にはさっぱり奴の行動原理が理解ができなかった。
一体どういうつもりなんだ……無事に何ごとも起きないといいけど。
——けれど残念ながら、次の日の朝イチから奴はとんでもない行動を起こした。
「誰かこのメモ帳落とした奴いるー?」
……わかった。こいつデリカシーないんだ。
朝練が終わったであろうサッカー部員がゾロゾロと教室に入ってきたと思ったら、相馬がデカい声で俺のメモ帳を皆に見えるように掲げながら呼びかける。
その瞬間ドバッとふき出た汗が止まらなくなって、ガチガチに歯を食いしばって前を睨みつけることしかできなくなる。
やめろ、やめろ! まさか中身大公開とかしないよな……? みんなの前で朗読とかしないよな……!
「おい相馬、やっぱ居ねーし、居てもそもそも名乗り出ねーだろ」
「そうか? 俺だったら声かけてくれた方が助かるけどな」
「お前その中身読んでそれ言えんの逆に真っ直ぐ過ぎんだよ……これだからサッカーしかやってこなかった子は」
「人の心の闇を知った方がいいぞそろそろ。そういうメモ帳なんだから。雨の日について普通の人はそんなこと書かないの」
「そうそう、思ってもその場で友達に言って終わるの。わかる? わかんないよなーお前には」
おいおいやめろ、中身に触れんな! やめろ!
「雨の日の赤信号が綺麗とか、俺好きだけどなー」
やめろ!!
——と、心の中で叫びながら相馬の方へ目を向けた瞬間、ぴたりと相馬の視線と合う。
……え? まさか!
「太郎もそう思う?」
「なんで俺!」
間髪入れずに答えていた俺に、クラス中がどっと沸いた。相馬は気づいているのかいないのか、平然とした顔で近づいてくるとメモ帳の中身を見せてくる。該当の雨のページである。
「これ、どう思う?」
どう思うじゃねぇよ……。
「現実逃避かなんかじゃね? 知らんけど」
平静を装って反射で出した俺の返事に、サッカー部の陽キャ達が盛り上がる。「太郎冷て〜! もっと寄り添えよメガネなんだから」とか言われて、「死ね」と返した。
あーもう、イライラする。俺が書いたと思われたのか、俺が書くわけないと思われたからかはわからないけれど、もうこの際ここできちんと言っておかなければならない。
「あのさ、そうやって沢山の前で中身晒すのはイジメと同じだぞ。お前にはないわけ? わかんないの? そういうの。ノンデリかよ」
俺の言葉に、相馬はハッと息を呑んだ。するとまた周囲から俺に野次が飛ぶ。
「おいそれは尖りすぎだぞ太郎!」
「言うてお前だってわかんねーくせに!」
「相馬をいじめるな!」
「亀以外にも優しくしろ!」
「死ねしか語彙ないくせに!」
しらねーよクソが!
楽しそうにやいやいうるさい奴らからふんっと顔を逸らすと、目の前に立つ男の小さな呟きが聞こえてきた。
「これってイジメになんの?」
ったく、爽やか星人め。きっとこういう人間には隠を極めし人間の気持ちがわかんないだな。単純な頭の作りでうらやましーわ。
「書いた奴が死んだらお前の責任だな。それが遺書になんだろ、しっかり大事にしまっとけよ」
「根暗メガネー!」
「相馬かわいそうー!」
不本意ながらクラスのいじられ役としての自覚はあるので、仕方なく野次の全てを受け入れて、メモ帳の持ち主が俺だとバレることなくその場はなんとかおさまった。
が、メモ帳について俺からはもう触れることができない空気感になり、相馬とも特別仲がいいわけではないのでこれはもう諦めるしかないなと心を決める。
俺のクソポエム二冊目よ、さようなら。
そうして新しく家から持ってきた三冊目を俺が取り出したのは昼休みのこと。
今回の騒動で生まれた感情についてまとめようと、校舎裏で隠れるように弁当を食いながら早速新しいメモを開いていたところだった。
ちょうど奥まった場所にあるこの場所は、昼休みになると他の校舎で影になっている部分と違ってピンポイントに日が差しこみ、この時間帯にもってこいの穴場となる。だから普段は薄暗くてこんなところ誰も近寄らなかった。
もちろん今日も誰にも会うわけないと思いこんでいた。すっかり夢中になっていた俺は気づかなかった。
「なぁ、それ」
ガバッと顔を上げると、そこには相馬が立っていた。
目線は完全に俺の手元、メモ帳に釘付けである。
「それ、これと同じじゃない?」
そう言って奴がポケットから取り出したのは、そう。俺のクソポエム帳二代目。黒い表紙に手のひらサイズの、五冊セットで全く同じデザインと大きさの俺の三代目と、誰がどう見ても全く同じもの。
どうしよう、どうする?
完全に一致しているのがバレた今、違うと言い切るのは無理矢理がすぎる。
「同じだなー」
とりあえず同意することにして、
「で? お前こんなとこで何してんの?」
自分のことは棚に上げて相馬にそんな質問を投げかける。すると相馬は目の前にある校外からの目隠しも兼ねて植っている木の方へ向かうとゴソゴソと何かを手にして戻ってきた。
「ソックス干してた」
「ソックス」
「そう。朝練で履いたやつ今日水こぼれたとこ踏んじゃってさ。部室に干しといたら前汚ねぇって怖い先輩に怒られて、校舎裏で干してた」
「あ、そう……」
そうなんだ、知らんけど。
とりあえずメモ帳について意識がそれた感じになったので、そのまま「じゃあな、部活頑張れよ」なんてらしくない言葉まで残して立ち去るために腰を上げようとすると、「で?」と相馬がまた目の前にやってくる。
どうやら逃してはくれないらしい。
「それなんか書いてたよな。もしかしてさ、これも書いたの太郎?」
「…………」
そこまで見えてたんじゃもう、詰みじゃね?
「……だったらどうするんだよ」
最悪だ……だってこいつ、デリカシーなんて爪の先もない男だぞ。クラス全員の前でこれ書いたの誰ですかをやったやつだ。
「次は俺が書いたってみんなに発表でもするのか? こいつはあんな顔してこんなこと書いてるぞって。それでまた浦島太郎に盛り上げ役させようって話ですか」
終わった。元々クソみたいな人生だったけど、これで完璧に終わった。現代版ポエム書きの浦島太郎ここに爆誕の瞬間である。現代では亀でなく俺がいじめられる最悪な内容修正が入るのだ……きっとクラスの奴らはこんな奴が居たのだと、後世へ語り継ぐのだろう……。
と、一瞬で諦めの境地にまで達した俺を見つめる目の前の男の二つの瞳は、やけにじっと動かなかった。そして、
「すげーな」
その一言を呟くと、徐々にその目が潤うように、キラキラと輝き始める。
え、なんで?
「俺さ、全部読んだんだけど」
「全部読んだのかよ!」
「うん。なんか、わかった。わかんなかったけど、わかったんだよ。知らなかったのに知ってたってゆーか」
そして、「この感覚をなんてゆーかというと」と、相馬は二代目のメモ帳をパラパラとめくり、これこれと俺に差し出してくる。
「『世間では始めから名前がついていたのに、自分がその名前を知ったのは今この時。そうなるとこの感覚は今生まれたことになるのか? それともずっと前から心にあった?』これ。この感じ。読みながら全部名前つけてもらったみたいな、見つけてもらったみたいな気持ちでさ、だから捨てちゃダメだと思った。だってこれ、これ書いた人の心の歴史だろ? 写真だったらアルバムってゆーか。大事なものだと思った」
「…………」
心の歴史。写真だったらアルバム。
……いやまぁ、立派な黒歴史だけれども。
「そっか、今自分で話しながらわかった。だから勝手に覗いて人に晒したらいけないのか。プライバシーの侵害とか、個人情報の流出みたいな。そういうことだよな? 合ってる?」
「あ、合ってる合ってる」
「そりゃイジメになるよなー……犯罪だもん。ごめんな太郎。でもまさかこれ書いたのが太郎だったとは。マジでこれっぽっちも思わなかった。太郎はこういう感情全部捨てるタイプだと思ってた……」
「俺をなんだと思ってんの」
つまり人でなしだから面白おかしくいじり倒して大丈夫って思われてるってこと?と訊ねると、違う違うと相馬は首を振る。
「なんか、機械みたいな奴だなって思ってた。でも違ったからすげービックリ。すげー、マジすげー」
「いや語彙……俺はお前のことただの爽やかマンだと思ってたけど、ただの子供だということが今、よーくわかった」
新しいことに目をキラキラさせてすげーを連呼するのは小学生までなのよ。
「機械みたいな奴ってのは引っかかるけどまぁいいや。とりあえず理解したんならさっさと返せよそれ。そんでこの話はここまでな」
そう言って奴の手元に手を伸ばすと、ふっと遠くへやられて届かなくなる。
は?
「何だよ」
「嫌だ。もっと知りたい」
もっと、知りたい?
「え、何を?」
「こういう知らない気持ちみたいなの」
「勝手に探せば?」
「できないから、一緒にやりたい」
「はぁ?!」
「昼休みここ来ればできる?」
「いや、」
「今日もう終わるからまた来るわ。な? ちゃんと秘密にするし、プライバシー理解したし。な?」
子犬のように人懐っこい顔して相馬は「な?」を連呼してくる。な、な、
「なんでそんなに知りたいわけ……?」
圧に押されて身を引きながら訊ねると、キョトンとしたのち奴は言った。
「だって知った方が楽しーじゃん!」
そしてとびきりの、爽やか少年の笑顔である。
眩しい、眩しすぎる。マジ消し飛ぶからやめろ……隠の人間にはキツすぎる。
「わ、わかった、わかったから……」
とりあえずまた明日ということで解散して陽の力からどうにか逃れたけれど、気がついた。
二代目メモ帳、ちゃっかりあいつ持って帰りやがったわ。



