「透(とおる)、忘れ物はない?」
「多分、ないと思うよ」

 今から、ふたりで推しているアイドルガールズグループ『オレンジロマンス』のライブに行く。玄関で靴を履いている透に話しかけながら、もしかしてと思い、冷蔵庫を開けた。

 目の前には500mlの麦茶ペットボトルがあった。

「あっ、やっぱり麦茶忘れてる!」
「鞄に入れたと思っていたのに忘れてた!」
「もう、これ何回目?」

 口をへの字に曲げながら透にお茶を渡した。

「真希ちゃん、ありがとう!」

 透は三十二歳の私よりも三歳年下で、弟みたいだなと感じる可愛い恋人。今もへへへと笑いながらお茶を受け取る透が可愛くて愛おしいと感じている。

 透が持ってるペットボトルを眺めていると、三年前の記憶が鮮明に蘇る。あの時、あの場所で話すきっかけとなったのも、麦茶のペットボトルだった。

☆。.:*・゜


 三年前。

「ただいま、大雪のため、高速道路が通行止めとなっており~」

ライブのために泊まるホテルに向かう途中、高速道路だけではなく、あちこち雪山がすごかったり、とにかく大雪の影響で高速バスがかなり遠回りをすることになった。しかも渋滞も発生し、なかなかバスは前に進まない。

 十八時のバスに乗ってから三時間ぐらい経ち、外は真っ暗でバスの中はほんのり灯りがついている。結構混んでいるバスの真ん中、窓側の席で吹雪いて雪しか見えない景色をぼんやり眺めていた。いつもならもう着くはずの時間なのに、まだ着く気配が全くない。

ずっと座っているから、腰が痛くなってきたなぁ。

立ち上がって思い切り背伸びしたいけれど、隣に同じぐらいだと思われる年齢の男の人もいるし、微妙。とりあえず軽く背中を伸ばしてそらした。

 二十一時か――。

ライブは次の日で、まだライブ前日だったから時間には余裕はあるものの、無事に目的地に着くのかも不安になってきた。

 ぼんやりしていると「喉が乾いた……」と、隣の男の人が、少し苦しそうとも感じる震え声で呟いた。何事?と思い、ぼんやりしていた意識は一瞬で完全に戻ってきて、彼を二度見した。彼は調子悪そうな表情をしながらうつむいている。

 水分不足で調子が悪くなったのかな?

 私も過去、あれは暑い日だった。水分不足になって頭がクラクラして具合悪くなったことがある。心配になってきた。

 麦茶の500mlペットボトル、ホテルかライブ会場で飲もうかなと思っていたのが鞄に入っているけれど、いるか聞いてみようかな? 知らない人から飲み物をもらうのは怖いかな。まだ開けていないから大丈夫かな? とりあえず、声を掛けてみよう。

「あの……大丈夫ですか?」
「……」

 あれ、返事しない。返事をする余裕すらないのかな? そっとペットボトルを彼の前に出してみた。

「あっ」と彼が静かに反応した。

「良かったら、飲みますか? 麦茶、飲めます?」と尋ねてみた。

「ありがとうございます! お礼は必ずいたします……」

 弱々しく彼は言った。

「いや、麦茶一本ぐらい。お礼なんていらないです。まだ飲みかけの方のペットボトルにたくさん麦茶が入っていますし。気にしないでください」
「あぁ、ありがとうございます!」

 彼は蓋を開けると、半分ぐらいの量を一気飲んだ――そんなに喉が乾いていたのかな。

「雪でバスが大変ですよね」
「そうですね」

落ち着いたところを見計らって、話しかけてみた。

「かなり遅れていますけど、なにか予定があったり、お時間は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ライブは明日なので」

――明日のライブ?

「もしかして、オレンジロマンスのですか?」
「あ、はい。そうですけど」

 ぼそっと返事をする彼。微妙な反応だな。踏み込まれたくない領域だったのかな? 

 これ以上聞くのは微妙な雰囲気だったから、会話を止めた。少し経つと彼はペットボトルの写真を撮り、スマホをいじりだした。私もSNSに流れてくるフォロワーと見知らぬ人たちの呟きを何となくしばらく見ていた。

――えっ?

 私はとある呟きを見て、息を呑む。だって……。

『飲み物を忘れて、隣の人からお茶をもらった。そのあと話しかけてくれたけど、人見知りすぎてそっけない返事をしてしまった。ごめんなさい』と書いてあったからだ。

 画像は、まさにさっき私が渡した麦茶のペットボトルだった。だけど今隣にいる彼に直接その呟きを「見ました!」なんて言ってしまえば、微妙な空気になってしまうかもしれない。

何故、もしかしてストーカー?などと疑われてしまっても厄介。

 見なかったことにしようと思ったものの、やっぱり気になる。というか何故このタイミングで私のところにこの投稿が流れてきたのか。とても奇跡すぎる!

こっそりとプロフィールを覗いてみた。名前は本名か分からないけれど『赤西透』と書いてある。ちなみに私は『まきちゃん』というネームでSNSにいる。彼のプロフィールには『ソフトクリームと猫が大好き。オレンジロマンス結成時から応援してます』と書いてあった。今の投稿の前には『初期メンも出るから楽しみ』など、明日のライブについてもたくさん呟いている。

分かる。めちゃくちゃ分かります!と心の中で彼の呟きに共感しながら読み進めていった。

どうしよう。リアルに話しかけたくなってきた。というか、人見知りな人に話しかけたくなる習性がある。私の口が勝手に動いた。

「あの……明日は晴れるみたいですよ」
「あっ、そうなんですね」

 そっけない雰囲気はあるけれどさっきの呟きを見たら、そっけなくしてしまった態度を気にしてるぐらいだから優しい人なのかな?と思う。見た目もほわほわしている雰囲気だし。

「……明日のオレンジロマンス十五周年記念ライブ、グループ脱退しちゃった元センターのさやちゃんや他の脱退した一期生もステージに立つみたいですよね。私の青春時代ど真ん中の人たちだからすごく楽しみで」
「楽しみですよね。僕の予想では『白くて春い涙』を一期生で歌うのではないかと」
「生で拝めるの熱いですね!」
「ですよね! 僕、多分曲が流れた瞬間に泣いてしまいそうです。デビュー当時の努力とか思い出して」
「私も泣いちゃうかも」

 いっぱい喋ってくれてる! 人見知りな彼がこんなにも私と会話してくれていると心が弾むというか、楽しい気持ちになってくる。

「ちなみに私は天然で美人な、今も現役な一期生のるりちゃんが推しです。誰が推しですか?」
「誰と言われましても……オレロマのメンバー全員を応援したいですが、やっぱり、全員の中でだと、さやちゃんが一番気になっていました」
「さやちゃん良いですよね。私と同じ歳のさやちゃんも、もう二十九歳かぁ。十四歳の時からオレロマ好きだったからファン歴も長いな……」
 
 会話が弾んできた時、バスがスムーズに動き出した。私は時間を確認するために鞄からスマホを出した。

「今二十二時半か……このまま順調に進んでくれたら今日中にホテル着けるかな? ライブ明日で本当に良かった」
「ですよね」

 再び無言になり、そのままスマホでSNSを再び眺めた。彼の呟きが更新されている。

『隣の人、オレンジロマンスがデビューしたときからのファンらしい。どうしよう、話すのが楽しい』

 楽しんでくれているんだ。しかも文章終わりにニコニコ絵文字までついている。受け入れてくれてるんだと知ると、どんどん話しかけたくなってしまい、話しかけてしまった。ほぼ一方的なマシンガントークだったけれど、彼は最後まで迷惑がらずに相槌を打ち、会話をしてくれた。

「次は、終点~」

 二十三時と少し経った時間。到着のお知らせとお詫びのアナウンスがバス内に流れ、無事に目的地のバス停に到着した。

「あっ、無事に着いた!」

 事故もなく日付が変わる前に着き、ほっとする。荷物を手に持つと立ち上がり、彼の後ろに並んだ。

「長い時間、運転お疲れ様でした。無事に目的地まで、ありがとうございました!」

 バスから降りる時、彼は運転手に丁寧にお礼を言ってから降りていた。あらためて考えると、私たちもじっとしているのも大変だったけれど、バスの運転手が一番大変だ。長時間の運転で疲れるのに、安全に客を無事に目的地に届けないといけないのだから。ちょっとイライラ気味の客もいたし。私も隣の彼がいなければイライラしていたかもしれないな。なんだか彼、安定剤みたい。私も「お疲れ様でした。運転ありがとうございました」と言い降りた。

 バスから降り、キョロキョロと辺りを見渡していたら「ホテル、どっち方向ですか?」と、彼が話しかけてきた。

「私のホテル、どっちだろう。私、昔から方向音痴すぎて。脳の機能がほぼ全て妄想の方へ行ってしまったのか、学生時代も何回も通っている通学路で迷ったりするぐらいで……何回もマップ確認したのにな」

 いらないことをたくさんまた彼に話してしまったな。彼は本当にたくさん話したくなる何か不思議な力を持っている。

「……泊まる場所まで送ります、か?」

 モジモジしながら彼が尋ねてきた。

「でも遅いですし、逆の方向だったら申し訳なさすぎるので大丈夫です。私は多分こっちなので、でわ。明日はお互いに楽しみましょう!」

 軽く会釈をすると彼と別れ、ホテルの方向らしき道を歩いた。ふと振り向くと彼は立ち止まってこっちを見ていた。もしかして私の姿が見えなくなるまで見守ってくれているのかな? 早く彼の視界から消えないと。

信号まで行き左に曲がるとラーメン店があり……と、頭の中に地図を入れたはずなのに、さっぱり道が分からない。

 スマホで地図を開くと、スマホをグルグル回して地図を読もうと頑張った。でも地図を読むのも本当に苦手でそんなに遠くない場所なのに難しく。地図に目的地を設定して地図に指示された通りに進むだけな作業も、毎回困難すぎた。

「ハネリラホテルは、こっちかな……?」

 目的地設定をしてとりあえず数歩進んでみるも、地図の矢印とは逆の方へ進んでいた。スマホ画面とにらめっこしていると「すみません!」と、彼が背後から話しかけてきた。振り向くと彼が近くに来る。

「ホテルの名前は、なんですか?」
「ハネリラホテルです」
「あっ、僕の泊まる予定のホテルと一緒です」
「同じホテルですか? そしたらついて行っても良いですか? ちょっと道に迷って……」
「はい、ついてきても大丈夫です」
「本当にすみません」

 同じホテルだったのか! 見守ってくれていたのではなく、一方的にこっちが別れを告げたから、変に彼に気を使わせて、私が消えるまで待たせてしまう感じになってしまっていたのかもしれない。私から離れてホテルに向かった方が良いのかなとか、彼に考えさせてしまっていたのかも? 

 彼は地図も見ないで、迷わずに目的地であるホテルに向かう。頼もしいなと感じながら私は安心した気持ちでついて行き、無事に到着した。

「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、お茶など色々とありがとうございました」

 チェックインしエレベーターに乗り、軽く微笑み合いお礼を言い合うと、彼は五階、私は七階でエレベーターを降りた。部屋に着くと寒かったからすぐにシャワーを浴び湯船に浸かり、眠る準備をしてベッドに潜り込む。

 そして迷うことなく彼のSNSを見る。

『雪道でだいぶバスが遅れたけれど、無事にホテル到着。今日は喉が乾いてやばかった時に隣の優しい人からお茶をもらって、その人がオレンジロマンスの話もいっぱいしてくれて、楽しかったな。雪道で大変だった運転手さん、フォロワーさん、お疲れ様でした。僕もお疲れ! 明日のライブもいっぱい楽しむぞ!』

 あぁ、なんて純粋で可愛い投稿――。

 楽しかったな。の後にキラキラ絵文字ついていていて、さっきあげた麦茶のペットボトルとオレンジロマンスの生写真も載せている。しかも私のことを書いてくれているし、ほっこりとした。私も何か呟いてみようかな? どうせ本人にバレることはないだろうし。

『今日は雪がすごくて、高速バスに乗っていたけれどかなり時間がかかった。多分通常の二倍ぐらい?だけど、隣のお茶あげた人(喉乾いていて具合悪そうだったからあげた)とオレンジロマンスの話で盛り上がって、すごく楽しかったな』

 ニコニコ顔と花の絵文字を添えた。ついでに彼が載せていた、お揃いの麦茶ペットボトルの写真を私も撮って載せておこう。

 文章をSNSにあげると、睡魔が襲ってきてすぐに寝た。朝起きると、予想外の展開が――。



 何これ、バズってる――。

 朝食やメイクなども済まし、落ち着いてからSNSを覗くと、イイネの数がどんどん増えていっていた。普段は一桁か二桁いくかなぁ?ぐらいなのに、四桁になっていた。とにかくSNSの反応がすごかった。何故か気になり調べる。盛り上がり元は、自分の投稿を引用していた呟きだった。『並んで今流れてきた!もしかして運命のふたり?』と書かれていた文章と、彼と私の呟きが並んだ画面のスクショ画像が貼ってあった。コメント欄もすごくて『運命だ!ふたり気づいて』とか『ほっこりする』だとか、肯定的なコメントが溢れている。否定的なコメントはなく、ほっとした。

 まさかの展開で、驚きすぎた。コメントを全部読んでいると、DMが来た。なんと、彼からだった。

『まきちゃんさんは、昨日バスでお隣だった方ですか? 今SNSで僕たちの投稿が盛り上がっていると、フォロワーさんから聞いて覗いたらすごいことに』

『私も驚きました。どんどんイイネが増えていって。ご迷惑お掛けしました。』

『いえ、全然迷惑ではないです。昨日実は連絡先聞きたいなと思っていて、でも聞けなくて。昨日はあらためてありがとうございました。会話が楽しかったです。今こうしてまた交流できることがうれしいです』

『こちらこそありがとうございました。私も楽しかったです!』

『あの、会場までひとりで行けますか?』

 実は不安だった。少し複雑な道を歩いたり、地下鉄に乗ったりしないといけないし。

『実は少し不安で。でも迷ったらタクシーに乗ろうかと思います。気にかけてくださりありがとうございます。雪も降ってますし、お互いに気をつけて会場に向かいましょう!』

 最後の締めっぽい文章を送った。もうDMのやり取りは終わるかなと思いきや、また来た。

『一緒に、会場へ行きませんか?』と。
『ぜひ、お願いします!』と返事をすぐに送った。

 SNSでは積極的な彼。昨日のリアルで会話していた時の内気っぽい雰囲気とは違うギャップ。文章で本音を話せちゃうタイプなのか!と可愛く思えてきた。

でもきっと、このお誘いの言葉は、すごく勇気を出してくれたのだろうなぁ。

 私は何度もその文章を読み返した。そして笑顔が自然と溢れてきて止まらなくなった。

 そして、その時はライブの席が離れていて一緒に観ることはできなかったけれど、次からは隣で観戦するようになった。

☆。.:*・゜

「真希ちゃん、お茶見て笑ってぼんやりして……どうしたの? 大丈夫?」

 透のひとことで意識は現実に戻ってきた。

「大丈夫だよ! 透と初めてバスで話した時のことを思い出して。幸せの余韻に浸ってた。っていうか、少し急がないと高速バスの時間、間に合わなくなっちゃうね」
「そうだね、行こう」
「透、他の忘れ物はない?」
「大丈夫だよ」

 今は車も持っているから、ホテルまで車で行けばいいのだけど、あの日からライブがある時は高速バスで透と並んで座り、ホテルに向かうのが私たちの当たり前になっていた。

 手を繋いで、バスターミナルへ向かう。
 今日も、向かう。

 私たちが出会った場所へ――。


☆。.:*・゜