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「温泉がない……?」
「はい。私も来てから驚いたんですけど、どうやら本当みたいです。まったく湯が出なくなっちゃったとか」
思いがけない再会はあったが、とりあえずは温泉に入り、長旅の疲れを癒したい。
そんなふうに思っていた俺にとって、それは致命的かつ衝撃的な事実だった。
マアリの町の温泉の特徴は、その赤茶色の湯だ。
腰痛、切り傷、湿疹、神経痛など、あらゆるものに効き目があるそれは、湯治目的で外から来る人も多い名泉である。
ただここ、マアリの町では川にさえ流れているような普遍的なものであり、枯れる心配など、向こう数百年はない。
過去にはそう聞いていたのだけれど、状況が変わってしまったらしい。
俺はなかば呆然としながら、石畳の温泉街を歩く。
「まぁ、とりあえず一旦休みましょう? あ、隊長。これいいんじゃないですか、ベーコンとビール!」
さすがに反応せざるをえないワードだった。
それで俺はそちらを振り向くのだけれど、そこにあったのは、空き家状態になった店であり、見たそばから、貼り付けられていたメニュー表が吹き飛ばされていく。
「ははは、なかなか大変なことになっているね……」
「や、やってるお店もありますから! 私、先についていましたから、ちゃんとリサーチ済みです。気を取り直して行きますよ! 騎士団時代はお酒を飲む年齢じゃなかったので、隊長と飲めるの楽しみです!」
イザベルは俺の手を無理に取ると、路地の裏側へと入っていく。
すると、そこにはたしかに看板が出ている小さな酒場があった。
イザベルが扉を開けると、こちらに背中を向ける店主が出迎えるだけで、他に人はいない。それでもイザベルは堂々と席につき、メニュー表を手に取る。
「隊長、なににします? やっぱりビールですよね?」
俺はといえば、なんとなく緊張感すらある雰囲気にやや戸惑いつつ、メニューを決める。
それでイザベルが手を挙げ、店主を呼んだところ、
「おまえさん……」
その男性店主は俺のほうを見て、ぴたりと動きを止める。
はっきりと目をしかめた男は厳めしい顔つきのまま、こちらへとにじり寄ってきた。
俺はそれで椅子を少し後ろに引いて視線を逸らすのだけれど、
「やっぱり、アレクトさんじゃないか! 久しいな!」
よく見れば、その顔には見覚えがあった。
「たしか、ここの自治会の……」
「あぁ、この町で自治会長をしていたバルトロだ! 十年前は随分世話になった」
そう、かつて騎士団の任務でマアリを訪れた際、彼には案内役をしてもらうなど、いろいろと助けてもらったのだ。
「あのときは、近くの山にいきなり危険な魔獣が現れたっていう話でしたね。あれ以来、魔物は出てないですか」
「あぁ、出てないぜ。そもそもは魔物が出るような場所じゃないからなぁ。いやはや、懐かしいなぁ」
さっきまでのぶっきらぼうな態度が一変して、バルトロさんは豪快に笑いながら、俺の肩をその大きな手で、がしがしと叩く。
それに身体を揺らされつつ俺が苦笑いしていると、
「先に注文していいですかー?」
イザベルがメニュー表を立てながら、ジト目で口を挟んだ。
するとバルトロさんは、彼女と俺を比べるように何度か顔を行ったり来たりさせる。
「そーいや、この子、アレクトさんの知り合いだったのかい」
「えぇ。騎士団時代に副官を務めてもらっていたことがあるんです」
「ほー。なるほどなぁ。この子は昨日も来たんだが、正直ただの痛い嬢ちゃんかと思ってたぜ。昨日なんて、『いつになったら来るのかなぁ、早く会いたいです、私のヒーロー』って一人でぶつくさ喋りながら、深酒して――」
「はい、そこまで!!!!」
イザベルによって、かなり勢いよく机が叩かれて、俺は思わず目を見開く。
よく分からないが、どうやらよほど聞かれたくないことだったらしい。バルトロさんも、これには一度黙り込むのだが……
「それで、挙句の果てには瓶三本空けてよぉ」
すぐにまた俺のほうを向き話を続けようとするから、イザベルはいよいよ実力行使に出た。
メニュー表を開いて、バルトロさんのほうへと突き付ける。
「分かりました、店長さんにお酒驕ります! ビールでもワインでも、なんでも飲んでいいですから、早くお酒と料理持ってきてください! ビール二つとベーコン、ボイルドエッグ! あと、アーモンドチーズ!」
この必死さには、さすがのバルトロさんも気圧されたらしく、席を立つ。
「忘れてくださいね、今の話♪」
それから俺にも明らかな作り笑いでこう忠告してくるから、とりあえず頷いておいた。
そんな、なんだか寸劇みたいな一幕もありつつ、ようやっと酒と料理が運ばれてくる。
バルトロさんはといえば、遠慮なしにビールを手にして、俺の横にどかっと座って、乾杯は結局、三人でやることとなった。
「むぅ。なんでこうなるの」
と、イザベルは不貞腐れていたが、今度はさっきのような実力行使まではしないらしい。
それに俺としては、せっかくだからバルトロさんに聞きたいこともあった。
なにについてかといえば、もちろん温泉に関してだ。
「いつから、こんな事態になったんです?」
塩気の強いベーコンのおかげもあって、酒がある程度進んできたところで、俺はこう尋ねてみる。
「つい先月だったかな。お湯が出なくなって、しかもこのあたりの新聞に書かれたせいで、すぐに情報が広まった。今月はもうほとんど人が来なくなってしまったな」
「お湯が出なくなった理由にあたりはついているのですか」
「いいや。今は泉源や配管を調査をしている段階らしいが、進展はないみたいだ。本当に急なことだったからなぁ」
不思議な話だった。
温泉が枯れるという話ならば過去にも聞いたことはあるが、さすがにいきなり出なくなるというのは違和感がある。
「生活もかなり大変なのでは?」
「あぁ、察しがいいな、さすがアレクトさん。この町は温泉街だ。逆に言えば、このあたりから湧くのはすべて湯だし、農業には向かない。宿でやっていくしかないんだが、とにかく人が来ないから、休業しているところも多い。ここもこのヘンテコな嬢ちゃんが来たのが、一週間ぶりの客だったよ」
なかなか酷い状況だ。
そして、その言いぐさもまた、愛のあるいじりと言えばそうなのかもしれないが、結構にとげがある。
これはまたイザベルが怒り出してしまうかもしれない。
俺がそう思って恐る恐る彼女のほうへと目を向ければ、まさにビールの入ったカップが机に叩きつけられ、中身が跳ね上がる。
「もうめっちゃおいしいれす!! 二重丸れす!! もう一杯!!」
が、出てきた言葉はなんの脈絡もない。
しかも、顔は真っ赤であり、かつそのまま机に崩れ込んでいってしまう。
「あー、このお嬢ちゃん、酔うのがほんと早いんだよなぁ。昨日もこの感じだったし」
「……すいません、うちの元部下が」
「はは、意外と飲んでくれるからいいんだよ。昨日は、うちの妻も店に入ってたんだが、飲みっぷりを気に入ってたな。アレクトさんも、遠慮なく飲んでくれよ」
「はは……。面目ない、俺はワインでもビールでもちびちび飲むのが好きなんです」
「見た目に似合わない飲み方だなぁ。それに変わってる」
「よく言われますよ」
俺はそう返しつつ、目の前のイザベルへと目をやる。
彼女はへらへらと笑いながら、どういうわけか、ゆらゆら身体を揺すっていた。
まるで、道端に生えるすすきのような、その珍妙にも見える仕草を俺が半ば呆れながら見守っていると、彼女は突然勢いよく、机に突っ伏す。
しかも、少し待ってみても、そのまま起き上がってこない。
「おい、イザベル?」
俺は心配になって、その顔を覗き見ようとする。すると、不意に頬に手が伸びてくる。
「なっ」
俺はとっさに身を引こうとするのだが、そのほっそりとしており、ひんやりした感触の指はむしろ耳の裏まで伸びてくる。
「やっぱ、いいですねぇ。その顔、すごくいいです。ずっと眺めてたいかも」
とろんととろけ切った顔で、こんなことを言うのだ。
かつてとは違う大人っぽい色気を纏ったその表情に、俺はついうっかり一瞬どきりとさせられるが、そういう場合じゃない。
「……きちんと連れて帰りますので」
「はは、お嬢ちゃんもきっとそれを望んでるだろうよ」
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