数日後、ぼろ宿の湯殿にて。
俺は長年の間待ちわびた、記念すべき瞬間を手拭い一枚を腰に巻いた状態で迎えていた。
目の前にもくもくと上がる湯気、硫黄独特の少し癖になる香り、そして、その特徴的な赤茶色の湯。
なにもかもが俺の理想としていた温泉だ。
すでに身体は洗い流していた。
俺はうっかり心が高ぶるのを落ちつけつつ、足もとからゆっくりと湯に入る。そして肩まで湯に浸かると、
「はぁ~」ついつい声が漏れる。
ただそれは一つじゃなくて、衝立の向こう側からも重なるように聞こえてきていた。
「あはは、隊長。真似しないでくださいよ~」
どうやら女湯ではイザベルのほうも、ちょうど湯に入っていたらしい。
うっかりその光景を想像しかけるが、俺はそれをやめて、もう一度息を吐いた。
「はは、そのつもりはなかったよ」
「分かってますよ。温泉といえば、はーと息をつくところまでが一セットですから」
「そこまでではない気がするけどね」
「そうなんですよ、そこは譲りませんから! にしても、温泉が復活して本当によかったですね」
「うん。あそこまで喜ばれるなんて、温泉がこの町にとってどれだけ大事なものだったか、改めてよく分かったよ」
湯が出なくなっていたのは、やはりソルベロスが湯を凍り付かせていたことが原因だったらしい。
山からの距離がある分、あの深夜の退治から数日遅れこそしたが、マアリの温泉は無事にその息を吹き返した。
湯が出た際には、住民たちはそりゃもう大騒ぎだ。自然と祭りのようなものが始まって、一気ににぎやかになる。
それも、バルトロさんが魔物を退治したのは俺とイザベルの手柄だと言って回るものだから、さっきまでは追いかけ回されて「ありがとう!」「君たちは救世主だ!」なんて大げさに褒めそやされてしまい大変だった。
それをどうにか逃れてボロ宿へと戻ってきて、今だ。
やっと、安寧を手に入れることができていた。
「あの大馬鹿三人組……じゃなくて『三羽烏』も、その親玉だった隣町の領主も、この町の領主代理も、みーんなまとめてブタ箱行きみたいですし、とりあえずは一件落着です」
「うん。ただ、ソルベロスの肥大化についてはなにも分かっていないみたいだけどね」
「まぁその辺は、おいおい調査してくれますよ。なにせ、辺境伯様まで耳に入れて貰えるって話です」
「それじゃあ、心配ないね」
「はい。私たちは、まったり待ってましょう」
またしても、はぁという気持ちよさげな声が、衝立の奥から聞こえる。たしかに、ここから先は俺たちが関われるような話ではない。
ならば、変に気をやきもきさせていてもしょうがない。
「気持ちいいですね、隊長」
「あぁ。最高の気分だよ」
まずはやっとたどり着いたこの幸福な時間に、文字通り浸らせてもらうこととする。
しばらくはお互いの気配を壁一枚挟んだ奥に感じつつも互いに無言になる。少しして、彼女のほうから切り出してきたのは、
「これからどうします?」という、少し重めの話だ。
そういえば、まだなんにも考えていなかった。決まっていることといえば、せいぜい向こう一か月くらいの話だ。
「俺はしばらくここに滞在するつもりだよ。イザベルはどうするんだい?」
「んー」
考えるような声がしたのち、少し間が空く。
「……隊長は、私といたいですか?」
そののちに繰り出された質問は予想外のもので、俺は風呂底につけていた手を滑らせて、顔まで湯につけてしまう。
そんなもの、この数週間で答えは決まっていた。
ただ、それがイザベルの行動を変えてしまうのもよくない気がして、俺は少し口にするのを躊躇する。
「えっと、今のなしで! 私ももうちょっとここにいようと思ってます。そのあとは未定です、今のところ」
「……そうか。じゃあ、もう少しここにいようか」
「はいっ! 湯治ですね。そうだ。隊長、上がったらお酒飲みに行きません? たぶん、どこも大きく割引してくれますよ! 恩人割!」
「はは、なかなか図太いね」
「使えるものは使えってことです。そんなにお金があるわけでもないです」
とりとめもない会話をしているうちに、かなりの長湯になっていた。
さすがにのぼせてきて、俺たちはそれぞれほとんど同じ時間に湯から上がる。
しかし、女性のほうが身支度に時間がかかるから、湯殿の外でイザベルを待っていたら、宿の中には見慣れない人がいた。
随分とかっちりした制服を着た男だと思ったら、
「アレクト・ヴァーナード様ですね。お待ちしておりました」
俺の客人だったらしい。
明らかに面倒な匂いがしていた。俺は気が進まなくて、つい頭に手をやる。
「は、はぁ。そうですが。あなたは?」
「とにかく外へいらしてください。ウィンストン卿がお待ちです」
とんだビッグネームに俺は目が丸くなる。
ウィンストンという名前に、この敬称をつけられるような人物は、一人しか思い浮かばなかったからだ。
もしその人だったとすれば、一応面識はある。ただ今の彼がわざわざ俺を訪ねてくるわけがない。
なにせ俺の知る彼は、今や辺境伯貴族の当主だ。



