♢
夜の森は、どこまでも暗く、そして静かだった。
月明かりは大木に阻まれて頼りなく届く程度で、高性能な魔導ランプで照らしてみても、少し先はよく見えない。
音だって、ほとんどなかった。
喋らずに歩いたなら、足音のほかには、獣の類が葉を揺らす音ぐらいしか入ってこないだろう。
そんななか俺たちはといえば……
「いやぁ、どこだろうなー、ここー。迷っちゃったなぁ、うわーん、たいちょー、遭難です、遭難〜」
「遭難だなぁ、こりゃ」
「はい、そーなんです! 完全に!」
バカみたいに朗らかなやりとりをしつつ、どんどんと森の奥へと進んでいた。
なにも本当に遭難したから、無理に声を張り上げることで空元気を保とうとしているわけではない。
ただ、遭難したふりをしているだけだ。
誰に向けてかは、まったく分からない。
が、その誰かに出会ってしまった時の保険として、こんな演技をひたすら繰り返していた。
「……イザベル、こんなことして、本当にいいのかな」
俺は途中で、改めてこう尋ねる。イザベルはそれに、「いいんですよー」と軽く答える。
「なにせ私たちは単に迷っただけですから。それに、隊長はこのままマアリの町を放って置けますか?」
「それは無理な話だけどね」
「なら、今は進むのみです!」
泉源の近くが立ち入り禁止とされているならば、近くの山で遭難したことにして、確認しに行けばいい。
その突飛とも言えるアイデアは、何気ない会話の中から、イザベルが発案したものだった。
マアリの街に来る際、俺はその道の悪さから実際に軽く遭難しかけた。
そんな話を雑談の中でしたところ、「それだー!」とイザベルが叫んで、その日の夜が今だ。
俺としては、やるにしても、もう少し準備をしてから――と思ったのだが、行動力の権化たる彼女に引きずられてこうなった。
ただそれでも、時間がないなりに、できる対策は打っていた。
俺は近場の木を剣で持って、傷をつける。
「隊長、気になってたんですけど、さっきからなんでそんなことしてるんです?」
「目印だよ。迷った時に帰ってこれるだろう?」
「……ほんと心配性ですね。というか、魔法を使えば余裕なのでは?」
「魔力が切れているかもしれないだろう」
念には念を、だ。
イザベルが右目を引き攣らせて、明らかに引いた顔をしているが、そこはしょうがない。俺は一定間隔で、次々に目印をつけていく。
そんな折、耳元で虫の羽音がして、
「うわ!」
俺は思わず声をあげ、肩をすぼめる。それにイザベルがくすりと笑った。
「わ、悪いね。虫は昔から苦手なんだよ」
「知ってますよ。今の、とっても可愛かったです」
「……こんなおじさんが可愛いわけがないだろう」
「筋骨隆々なのに、そんな感じだからこそ可愛いんですよ。異論は認めません! とやかく言うなら、もう虫除けの魔術してあげませんよ」
「わ、分かった。もう可愛くてもいいから、それは勘弁してくれ」
「ふふん。いい子ですね、隊長」
その後も、虫に襲われるハプニングは幾度か起きた。
が、温泉復活のためにはその程度では諦められない。俺は常に周囲を警戒しながらも、深い山の奥に、どんどんと踏み入っていく。
「遭難です〜」
「そーだなぁ」
「そーなんですー」
もはや、時間や距離の感覚がなくなっていた。
あとどのくらいで泉源につくのか、そもそもどこにあるのか。
それを考えないようにしつつ、少し元気がなくなってきたイザベルと、ひたすら同じやりとりを繰り返す。
そのうちにだんだんと、周囲の黒い魔素は濃くなってきていた。
それで警戒心を強めていたら、それはすぐ近くの草むらからいきなりに飛び出してきた。
「……魔虫。よりにもよってそうくるか」
モルテルビー、その針には猛毒を持つ巨大な蜂で、主に南方地域に分布する魔物だ。
その群れは統率がとれているうえ獰猛であり、敵にすると厄介な魔物である。
まぁ俺にとってなにより厄介なのは、
「さすがに無理かもしれない」
虫ということそのものだが。



