1
夕焼け小やけ。まさにそんな表現が似合う空だった。
——これに赤とんぼなんかが飛んでいたりしたら、もっと風情があるんだろうな。
岡村康之は、自分の長い影を見ながらそんな事を考えていた。今日は、友人とは一緒に帰ろうとせず、一人で校門を出た。
そんな日もある。いつもいつも友人達と戯れる気力を持ち合わせているわけではないのだ。
「だるいな」
さして疲れているわけでもないのに、そんな一言をもらす。
康之は、どこにでもいるような、ごく普通の男子中学生だ。
ごく普通。そうは言ってみたものの、人間はそんな言葉ひとつで簡単に表せる生き物ではない。
感情があって、性格があって、特技があって、好きなものがある。それは人によってことごとく違う。
例えば、ラーメンが好きな人の中にも、短気な人や穏やかな人がいるし、ラーメン好きで短気な人の中には、犬が好きな人や猫の方がいいという人もいる。そんなふうに一人一人違う考え方を持っているものだから、ああだこうだと言い出せばキリがない。
岡村康之は自分の事を「俺」と言い、成績はまあまあでスポーツも人並みに出来る。好きな食べものはたまごかけご飯と煎餅で、嫌いなものはモラルが無い人間。三月生まれのうお座で血液型はAB型。家族構成は両親と康之の三人。家は一軒家。友人はそれなりにいるけれど、彼女は募集中。彼女にしたいタイプは……。こんなふうに康之について言い出すと、本当にキリがないから、それをひとまとめにして「ごく普通」の少年と、周りは評価するのだ。
康之は、運動部に所属している。彼が通う中学は、原則として必ずひとつの部活に所属しなければならないという校則があり、生徒たちは一年生から三年生の夏まで、いずれかの部活動に入部して活動に励んでいる。
康之が運動部に所属しているが、選手であるかといえば、答えはNOになる。
運動が苦手というわけでもないけれど、たいして好きでもない康之は、マネージャーとして活動しているのだ。康之はスポーツ医学に興味があり、漠然としたものではあるが、将来はその方向に進みたいと思っている。だから、選手としてではなく、選手をサポートする側につきたいと申し出たら、珍しいやつもいるもんだという反応はされたが、案外すんなりと受け入れてもらえた。
康之がマネージャーとして所属している部活は陸上部だが、とあるひとつの役割だけは、全ての運動部において彼が担っている。
それは、スポーツテーピング。選手の筋肉や関節をサポートするために体の各所にテープを貼っていくその処置を、康之は得意としているのだ。
一般的に「テーピング」というと、伸び縮みしない固定テーピングを思い浮かべる人が多い。
固定テーピングは関節の動きを固定することで、可動域を制限して、痛みの出る方向への動きを抑える役割があるので、怪我の応急処置や、再発の強い不安がある時の対策として利用されている。固定テーピングは、手順が複雑なため、専門の知識を持った人に巻いてもらうほうが良い。
康之も「自分が出来ます」と言えるような自信はまだ無いため、固定テーピングで誰かの処置をするのは控えている。では、康之はなにをするのか。彼はテーピングで関節を固定するのではなく、逆に筋肉の伸縮を補助するためのテーピングを得意としていた。
固定テーピングが、怪我の応急処置などに使われるのに対して、伸縮テーピングは、怪我の防止や、以前の怪我の再発が気になる時に使われる。つまり、怪我の予防という点で、伸縮テーピングには高い期待が寄せられるということだ。
「ちわっす」
突然、背後から声がした。康之にとって馴染み深いその声は、幼なじみの古川愛斗のものだった。よく目立つ赤いジャージを着て、タオルを首に巻いている。小さいときから変わらない坊主頭が、汗で光っていた。
「よう」
康之は言った。幼なじみなんだから、別に「ちわっす」なんて言わなくてもいいのになと思いながら。
「今日はお前、早いんだな」
「うん」
「テーピングしてくれってヤツはいなかったのか?」
「まあね。俺の仕事はそれだけじゃないけど」
康之が言うと、愛斗は「お前からテーピングを取ったら何が残るんだよ」と笑った。つくづく失礼な奴だと、康之は苦笑する。
「でも、ホントに俺がやってるテーピングは誰でも出来るのに、どうして覚えようとしないんだろ。怪我してからじゃ遅いのにな」
そう続けて、康之はため息をついた。
「まあ、お前がいるからみんな安心して練習出来るんだろ。その調子で、みんなのフォローしてあげろよ」
愛斗はそう言って康之の背中を叩いた。かなり強い力だったらしく、バチンと大きな音が響き、叩かれた本人はゲホゲホと咳き込んだ。
「おれも頼んじゃおっかな」
愛斗は自分のせいで咳をしている康之には目もくれず、ちょうど通りがかった空き地に入っていって、端の方に置かれているビールケースの上に腰を下ろした。
「俺の都合も、ちょっとは考えろよ」
呆れたように言いつつも、康之も後に続く。
「おれさ、実は今ロードワーク中なんだよね」
康之の主張を無視して、愛斗は続ける。愛斗は学校の部活には入らず、地域のシニア野球チームに所属している。周りに彼の仲間がいないところを見ると、どうやら自主トレをしているらしい。
「明日試合あるんだけどさ、なんかふくらはぎに違和感があるんだよ。ランニングしすぎたかな」
愛斗はヘヘヘと笑いながら、ジャージをめくり、ふくらはぎを康之に見せた。
「ふうん」
康之が頷きながら、そっと愛斗のふくらはぎに触れてみると、心なしか筋肉が固くなっているような気がした。
「筋肉の使いすぎで疲れてるんだと思うよ。でも今日はテーピングしない」
「はあ? なんでだよ」
愛斗はあからさまに不服そうな顔をした。
「まずは、ゆっくり体を休めなきゃ。それでも明日違和感が残ってるようなら、俺ん家に寄ってくれればいいからさ。その時はテーピングしてやるよ」
「なんで今してくれねぇんだよ」
「テーピングのテープは長時間貼ってると、肌がかぶれたり剥けたりするから。それに、まだテーピングが必要かどうか分からないから。俺のテープはタダで使ってるわけじゃないから、なるべく無駄遣いはしたくないんだよ」
「あ、そ。じゃ、明日まだおかしかったらお前に頼めばいいんだな」
「だからそう言ってるじゃん」
ジャージの裾を下げながら立ち上がる愛斗に向かって、康之はツンと言い放った。
「冷たいヤツ。いつからお前はそんな態度を俺に取るようになったわけ?」
歩き出した康之に、愛斗がまとわりついてくる。今日はもう走れないと分かって、暇になったのだろう。
家が隣で、どうせ帰る方向も一緒だし、康之をからかいながら帰路につけばいいと思ったに違いない。
「今日は康之んちに泊まろうかなぁ」
「やめてくれ。てゆーか勝手に決めんなよ」
「だって、どうせ明日お前んち寄るんだしさ、いいじゃんかあ」
「お前、テーピングしてもらう気満々だな。なんか欲が見え見えでキモい」
「キモい?失礼だな。おれはお前の才能をたかーく評価してるだけだぜ」
「こんなの、才能でもなんでもないよ」
康之は俯き、呟くように言った。
「ふーん。でも康之がそう思っていたとしても、おれはそういう、他のヤツが滅多にやらないような特技があるっていうの、うらやましいと思うけどな」
愛斗は軽いシャドーピッチングをしながら言った。
「……そうかな」
康之は俯いたまま、答えた。いくら愛斗に褒められようとも、自分がやっているテーピングなど、覚えれば誰でも出来ると思っている康之には、どんな賞賛の言葉もお世辞にしか聞こえなかった。
「お前が将来なりたいって言ってたスポーツトレーナーに近づくためにも、充分なスキルじゃん」
愛斗は必死で康之を励ましている。親友でもある康之が、自信を失わないようにと彼なりに気遣っているつもりだった。
康之もそれは分かっている。愛斗が人を励まそうとする時、普段より雄弁になるのは以前から知っていた。これまでも、幾度となく愛斗の言葉に救われてきた。助けられてばかりだと気付いて、康之は何となく面映ゆい気持ちになる。
「分かったよ、ありがとな」
そう言ってから、康之は自分なりに愛斗の役に立てればいいなと思ったのだった。
2
次の日、やはり愛斗は康之の家を訪ねてきた。朝からインターホンを何度も鳴らすものだから、近所にその音が聞こえていないかと、内心ヒヤヒヤしながら康之は扉を開けた。
「おはよっ!」
ニッコリと笑った愛斗は、パンパンに膨れ上がったスポーツバッグを肩から下げ、黒い野球帽を被っていた。ユニフォームはまだ着ておらず、アンダーシャツにジャージという出で立ちだった。
「おはよう」
康之はぼんやりとした口調でそう言うと、愛斗を家の中に入れた。彼がここに来たという事は、康之にテーピングをしてもらうつもりなのだろう。
「悪いな、朝から」
「いいよ、どうせ部活あるし」
珍しく詫びてきた愛斗の顔は見ずに、康之はぶっきらぼうにそう言った。
「右のふくらはぎだろ?」
「うん。一晩休めたつもりなんだけどよ、やっぱし疲れてんのかな」
「あまり酷かったら病院行けよ」
康之はそう言って、愛斗をリビングに通し、カーペットの上でうつぶせになるように促した。そして部活に持って行こうと準備していた鞄から、テープとハサミを取り出す。
愛斗のジャージをまくりあげた康之は、ひとまずテープを三十センチほどの長さに切った。
「膝曲げるぞ」
一応、愛斗に断っておいて、彼の膝を九十度に曲げる。その後、つま先を持ち、軽く足首を手前に曲げ、かかとの裏からふくらはぎにかけてまっすぐに、切ったテープを貼った。
次に康之は、先程の倍の長さのテープを用意して、その真ん中をかかとの裏に貼り、アキレス腱のところでテープが交差するように、ふくらはぎの両端を包むように残りの部分を貼った。三枚目のテープは、一枚目より少し長めで切った。長さでいうと、三十五センチくらいだ。そしてそのテープでかかとをくるむように八の字に貼ると、最後のテープを二十五センチほど切って用意する。最後は足の甲の部分に、剥がれ止めのテープを貼って完成だ。
ふくらはぎに貼るテープは長すぎないよう、膝の裏まで行かないようにすることがポイントだと、康之は心得ている。
「終わり」
ジャージの裾を元に戻しながら、康之が言った。
「なんか、モゾモゾするな」
ヘヘッと笑って愛斗が立ち上がり、軽く動かしてみせる。
「だけど、動きやすくなったかもしれないな、うん」
愛斗はそう言うと、「サンキュー」と頭を下げて、康之の返事も待たずに家を出ていってしまった。風のように素早い奴だと康之は苦笑して、後に残ったテープのかすを片付ける。いつものように、彼の心の中には、ちょっとした達成感が芽生えていた。
そんな気持ちなど、他の人からしてみれば、すぐに忘れてしまうようなちっぽけなものなのかもしれない。だが、康之がテーピング作業を続けていける糧になっているのは、確かなのだ。
物事の価値観は人によって違う。時代は進み、いろいろな物が簡単に手に入るようになった今、尽きることのない人々の欲望は、人それぞれの価値観によって様々に変わるものなのだ。
物事の価値観も、どう捉えるかも、十人十色の時代。そう言っても、過言ではない。
「もうこんな時間かぁ」
テレビの字幕に表示されている時計を見て、康之は呟く。最近独り言が多いなと思いながら、学校に行く支度をして、テレビを消した後、家を出た。
今日はよく晴れていて、暑い。愛斗が軽装だったのも頷ける。
康之は歩きながら、今日はたくさんドリンクを作らなきゃいけないなとか、タオルもいっぱい要るななどと考えていた。
なんせ、歩いているだけで汗が出るのだ。この気候の中を、走ったり跳んだりする部員達は大変だなと思った。だけどみんなは、陸上が好きだからそれを続けているのだろうし、「暑い暑い」と言いながらも練習を楽しんでいるのだ。案外大変だなんて思っていないのかもしれない。
「おはよ!」
学校の校舎のてっぺんが、家々の隙間から見えてきたとき、康之の背後から声がとんできた。まだ少しあどけなさが垣間見える、明るく気持ちの良い少年の声だった。
康之はその声を聞いて、パッと体を道の端に寄せた。すると後ろからは「ちぇっ」と、残念そうな声が聞こえて、自転車のブレーキ音が辺りに響いた。
「お前、やめろよそれ、いつかホントに人轢くぞ」
康之は振り返らずにそう言った。
「ごめんって」
悪びれた様子が微塵も感じられない返事が返ってくる。きっとこいつはこれからもこの悪戯をやめる気がないんだろうなと、康之は思った。
「いい加減にしないと、お前の全身をテープでぐるぐる巻きにするぞ」
「剥がすときに痛そうだからやめて!」
康之は、やめてほしい理由はそれかよと突っ込みたくなる衝動をこらえた。こいつと話していたら、調子が狂う。
康之はようやく、お調子者の友人、高田昌人の顔を見た。昌人はこう見えて、陸上部の短距離のエースだ。康之より少し小柄な体でビュンビュン走るものだから、そのギャップには驚かされる。
でも、彼はよく怪我もする。
「康之がいなかったら、オレ陸上続けていないかもな」
いつだったか、康之が彼の擦り傷を手当てしたときに、そう言われた。単なるおだての言葉だったとしても、康之にとってはすごく嬉しい言葉だった。
「そんな大袈裟な……」と呟く水面下で、ぐっと嬉し涙をこらえていた。
「スポーツに怪我は付き物さ」
晶人の口癖だ。人がスポーツで怪我をするから、それを治療する人もいる。だから世の中には、必要の無い役割についている人なんていないんじゃないかと、康之はそれを聞く度に思う。
アスリートに比べると、康之のようなポジションは日の目を見ることは少ない。だが、そんな役割を担う人がいてアスリートを支えるからこそ、彼らが輝いて見えるのかもしれない。
学校に着いてグランドに行くと、すでに運動部がそれぞれの持ち場で練習を始めていた。野球部とサッカー部がそれぞれ練習場所としている場所の境目にトラックがあって、そこが陸上部の練習場だ。
近くには砂場があり、幅跳びの選手が固まって談笑している。トラックでは中、長距離選手が黙々と走り続けていて、そのすぐそばの直線レーンでは、短距離の選手が走り込みをしている。
晶人は直線レーンにいる部員達の所まで駆けていって、「おはよーございまーす!!」と元気に挨拶をしていた。
康之はというと、選手達全員に軽く挨拶をして、陸上部の練習場所の近くの木陰にいる女子生徒の元に歩いていった。
「おはよ」
康之の声に、その女子生徒が振り向いた。
「おはよう」
微かに見せる笑みと共に、彼女も挨拶を返す。
鳥山未来。それが彼女の名前だ。
「今日は暑いから、いっぱいドリンク作らなきゃいけないな」
康之はそう言って、未来が持とうとしていた数個のドリンクボトルが入ったケースを代わりに持った。
「ありがとう、ヤス」
「おう」
ぶっきらぼうにそう言って、康之は歩き出した。木陰の近くには部室があって、その中には冷蔵庫が置いてあるため、いつもそこでドリンクをそこで冷やしている。ちなみに部室は、康之と未来で綺麗に掃除をしたため、以前は荒れ果てて見るに堪えなかった室内も、今は部員の休憩場所として重宝されている。
部室の冷蔵庫の横には、康之の背丈よりも大きな戸棚があって、その中には部費で買いためている救急道具がある。湿布や絆創膏、包帯などはもちろんの事、なぜかうがい薬や胃腸薬まで置いてあるものだから、入部当初、康之が見た時は笑いそうになった。
そして、その隣には、康之が小遣いで買いためたテーピング用のテープが積み重なって置かれている。
「部費で買えばいいのに」とみんなは言うが、なぜか康之は自腹で買わなければならない気がしていたのだ。
冷蔵庫にドリンクを全てしまい終えて外に出ると、康之は晶人に呼ばれた。
「タイム計ってくれよ」
人懐っこく、ニッと笑って言うものだから、断ろうにも断れなかった。むろん、断る気もなかったが。康之は声を張り上げるのが苦手なので、位置についての合図は、他の部員にやってもらう事にした。
晶人が走ろうとしている距離は百メートル。スタート地点で、晶人とスターターの影が揺れている。
「位置について!」
風がスターターの声を運んでくる。
「用意、スタート!」
その声と共に、晶人が走り出した。康之は慌てて親指を動かす。矢のようなスピードとは言いすぎかもしれないが、康之は晶人の走りをそんなふうに感じた。
晶人が走り終えた時、ストップウォッチのタイムは十秒四八と表示されていた。
「これ、すごいんじゃない?」
日本記録や世界記録には疎い康之でさえ、そのタイムが凄い事は分かった。康之の五十メートルの記録は八秒ちょっとなのに、晶人はその倍の距離をたったの約二秒差で走ってしまったからだ。
「俺、やるだろ!」
頬を紅潮させ、腕で額の汗を拭いながら、晶人が言った。まんざらでもない笑みを浮かべて、康之が持っていたストップウォッチをひったくる。
「うん」
ストップウォッチが無くなった手を引っ込めながら、康之は返事をした。本当に凄いと思った時には、人はどうやら賞賛の言葉を忘れてしまうようだ。
お世辞を言おうとする時にどんどん出てくるような褒め言葉は、出てこなかった。康之は、改めて晶人を見た。
当の本人はスターターをしてくれた部員とはしゃいでいるために、見られていることに気付いていないようだ。引き締まった脚から繰り出されるあの駿足な走りは、これからどこまで伸びていくのだろう。
彼はまだ自分と同じ中学生だ。体がまだまだ発展途上なぶん、伸びしろはむしろたくさんある。自分達が想像しているよりもずっと、大きく飛躍するかもしれない。
康之がそう思う反面、また別のことが脳裏をよぎった。頑張ることは悪くないのに、頑張っている人に限って、「故障」に悩まされる。
頑張りすぎれば、体が悲鳴をあげるのはもちろんだが、それに限らず、ときに突然体を痛めたりしてしまう。
たちが悪い。自分はもっと強くなりたいから努力をするのに、体はときに、否応なしにそれを裏切るのだ。だから、もしかすると、道を踏み誤れば、晶人もそんな目に遭ってしまうかもしれない。今でも怪我の多い彼の体は、脚は、もしかするといつ壊れてもおかしくないのかもしれない。
嫌だ。自分の目の前に、怪我によって夢を絶たれる人が現れるのは、嫌だ。そんなの、俺がスポーツトレーナーを目指している意味がなくなるじゃないか。
自分が関わっている人が怪我をして競技から離れるのは、康之自身の夢が絶たれるのと同じことのように感じた。
例えば晶人や愛斗が試合で良い成績を出せたなら自分のことのように嬉しく感じるし、その逆もまた然りだ。
根本的に自分は人のサポートをするのが好きなのかもしれないなと、康之は思った。好きなことなら、どれだけ時間を割いてもそれに打ち込める。学校の勉強など、すすんでやるのも嫌なのに、テーピングの手順はすぐに覚えられた。だけど、楽をするだけじゃ、ダメだ。人として成長できない。成功も失敗も、苦楽も含めて全ての経験が、自分を作っていくのだ。
「休憩してくるな!」
晶人が康之の肩を叩いて駆け出していった。
「部室の冷蔵庫にドリンクあるから!」
康之は晶人の背中に向かって叫ぶ。片手をあげてみせた晶人を眺めていると、「康之!」と、横から声をかけられた。
康之が振り返る。
サッカーの練習用ユニホームを着た少年が、そこに立っていた。
「どうしたの?」
「うん、今さっきスマホにメッセージが来たんだけどさ、愛斗の奴ら、勝ったって。部活中悪いかなって思ったけど、どうしても伝えたくて」
はにかみながらそう言った少年の顔を、康之は見る。康之とも愛斗とも仲の良い彼は、多奈川充という名で、ミッチーと呼ばれている。背の高い彼は、康之や愛斗と並んでいると、よく目立っているらしい。いつだったか、クラスメイトがそう言っていた。
「良かったじゃん。でも学校にスマホなんか持って来たら駄目なはずだけど」
「カタイこと言うなよ。 俺だけじゃなく、みんな隠し持ってるって」
充が苦笑する。
それもそうか。康之は、口には出さず心の中で呟いた。
「じゃあな、俺練習戻るわ」
踵を返して立ち去る充に、「ありがとう」と呟いて、康之も陸上部に戻った。
空が青い。今頃、愛斗も笑顔で同じ空を見ているのだろうか。俺が「おめでとう」と腹の底から思い切り叫んだら、愛斗に届くかもしれない。そんなことを康之に思わせるほどに綺麗な空だった。
今夜、愛斗から連絡があるかもしれないから、その時は「もう知ってる」と言って驚かせてやろう。
康之は、休憩が終わった部員達が残していったボトルを水道水で洗いながら、込み上げてくる笑みをこらえていた。こんなところで一人ニヤニヤしていたら、変な奴だと思われてしまう。
隣で半分の数のボトルを洗っている未来をチラリと横目で見る。彼女は黙々とブラシでボトルの内側を洗っているため、康之の視線には気付いていないようだった。
「ヤス、何してるの?」
未来の声に、康之はハッと我にかえる。手元を見ると、水道の水がびちゃびちゃと腕を濡らしていた。
「ちょっと考え事」
へへへっとごまかし笑いをして、水を止めた。
「ヤスがそこまで考え事するなんて、珍しいね」
「なんだよそれ、まるで俺が何も考えていない馬鹿な奴みたいじゃん」
「そこまで言ってないよ。周りの声も聞こえない程に考え事してるヤスなんて初めて見たから」
「ふーん」
言いながら康之は内心ひやひやしていた。自分の想いを見透かされてしまったのではないかと思ったからだ。
「気にしてたんでしょ?」
未来が、覗き込むようにして康之の顔を見てくる。
「な、何がだよ」
彼女の視線が何だか怖い。慌てて目をそらし、水道を見つめる。
「古川くんの試合のこと」
しかしその後、康之はその言葉で拍子抜けをした。てっきり、「私の事が気になるんでしょ?」という意味で聞かれたと思ったのだ。そりゃそうだ。未来は超能力者じゃない。俺の心の中の事なんて、分かるはずがないんだ。康之はそう思い直して、「もう知ってるよ」と答えた。
「そうなの!?」
驚いた顔で、未来が聞いてくる。
「うん、あいつ、勝ったらしいよ」
「野球の試合にしては、終わるのが早いね。コールドゲームだったのかな」
「そうかもしれない」
確かに、未来の言う通りだ。野球の試合にしては、早く終わっている。コールドゲームか、あまりにもスムーズにイニングが進んでいったかのどちらかだなと、康之は思った。
「もうすぐお昼だね」
「うん」
時計を見る。あと三十分ほどで今日の部活は終わりだ。それまでに、人数分のボトルに再びドリンクを足しておかなければならない。
「急がなきゃ」
康之はそう言って、カゴにボトルを放り込むと、部室に戻っていった。
「部活終わったら、古川くんのところ行くんでしょ?」
「うん、テーピングやったの外してやらないといけないし、どうせ俺んち来るだろうし」
「テーピングしてあげたんだ」
「うん。ふくらはぎに違和感があるって言ってたから」
「へえ、ヤスってやっぱ頼られてるんだね」
未来は笑顔でそう言った。康之は、彼女の横顔を見る。うなじに、透明の汗の粒が光っていた。
「そうかな」
あらかじめ未来が作っていたドリンクを、やかんからボトルに流し込みながら、康之は言った。
「そうだよ、そうじゃなきゃ、古川くんも他の皆もいちいち頼んでこないって」
そう言われればそんな気がする。ど素人の自分に頼むよりも、保健室や病院に行った方が良いだろうし、もしかしたら部活の顧問の中には知識を持っている教師がいるかもしれないのに、わざわざこちらに来てくれるのは、やはり頼りにされているのかなと思った。
「そうだったら、何か嬉しいな」
康之は笑った。やかんの先の液体が微かに揺れてテーブルに零れる。慌ててしっかりと握りしめた。
「頑張って、夢が叶うといいね」
未来は話の最後にそう言ってくれた。今は、康之のように夢を持った若者は少ないと言われている。
幼稚園や小学校の頃には「ぼく、野球選手になりたい」とか「わたしはケーキ屋さんになるの」と言っていた人達が、歳をとって自分の能力を知り、また、現実を知り、夢が夢で終わってしまう事もある。だけど、本当は、踏み出す勇気が足りないのだと、康之は思っている。
現実を知っても、努力をすれば何かが変わるかもしれない。例えば歌手になりたいと思っている人が、自分には歌唱力がないと知って夢を諦める。だけど、歌唱力を鍛えて、オーディションなどにチャレンジすれば、道は拓けるかもしれない。
夢を夢で終わらせる事は、自分の可能性を自分で潰しているのと同じ事なのだ。
現実は甘くない。そんな事、分かっている。だけど、甘くないから、夢を諦めなければならないわけじゃない。
周りから口を酸っぱくして言われて、最初の一歩が踏み出せないで後悔するのと、周りの反対を押し切って、挑戦して、後悔するのとでは、きっと後味が違うだろう。何事もやってみなければ分からないのだから、夢が叶うかどうかも挑戦しないと分からない。
それが康之の信念だった。これから先、いろんな苦難が待ち受けているだろう。その苦難に負けるか否かは、自分次第なのだ。
世の中に不可能なんて無い気がするなんて言ったら、絶対誰かに笑われる。笑われるのが嫌なら黙っておけばいい。想いを秘めておいても、自分が信じた道を進むことはできる。もしかしたら、どんな時でも自分を信じている人が、最後に笑えるのかもしれない。
康之が予想した通り、家に帰ると愛斗が待っていた。
いつの間にか帰ってきていた母親が家の中に招き入れたらしく、愛斗は康之の部屋でジュースを飲みながら本棚に並んでいる漫画を読んでくつろいでいたため、康之は呆れ返って言葉を失った。
「よう、康之! おかえり」
朝と同じ格好をして、康之が部屋に入るなりそう言ってきたものだから、一体どっちが部屋の主なのか分からない。
「……ただいま」
ムスッとした声で康之は言って、鞄を乱暴に置いた。言おうと思っていた愛斗に対する祝福の言葉など、頭から吹っ飛んでいた。
「なんで愛斗を部屋に入れたんだよ」と母親に抗議をしても、「兄弟みたいな友達だからいいじゃない」とごまかされてしまうのは目に見えている。康之は込み上げてきた感情をぐぐっと押し殺した。
「康之、俺ら勝ったぞ!」
読んでいた漫画を閉じて、愛斗が康之の顔を見上げる。
「よかったな」
知ってるよとは言わなかった。言ってはいけないような気がした。
「コールド勝ち。やるだろ!」
「ああ」
一人で満面の笑みを浮かべる愛斗を尻目に、康之はベッドに腰掛けた。すかさず愛斗が横に寄ってくる。
「お前のおかげかもしんねーな」
「は?」
「最終回、俺さ、ランニングホームラン決めたんだ。打球はかなりきわどかったけど、点差も離れてたし、アウトになってもいいかなって思ったけど、走ったからにはホームに帰りたいだろ?……で、思いっきり走ったら成功しちゃったよ。お前がふくらはぎにテーピングしてくれたから、走ろうと思ったんだろうし、実際に走れたんだと思うよ」
「おだてたって、何にもやらないぞ」
「マジなんだって!」
そんなに必死で言わなくても、分かってるよ。心の中で言う。
嬉しい。
自分でも人の役に立てる。人を喜ばせてあげられる。
それはとても大事なことのような気がした。願わくば、いつまでもこの気持ちを忘れないでいたい。そしてこれからも、自分の特技を活かして人の役に立ちたい。
愛斗のようにきちんとお礼を言ってくれる人がいるからこそ、自分は頑張れる。感謝の言葉とは、相手を動かす原動力のようなものなのかもしれない。
「こちらこそ、ありがとう」
康之がぼそりと言った言葉は、再び漫画を読み進めている愛斗にもきっと届いたはずだ。愛斗は顔を上げなかったが、ほんの少し笑っている気がした。
結局愛斗は夕方まで居座って、漫画を十冊ほど鞄に放り込んで帰っていった。一週間ほどで返すと言っていたが、あてにならない。
もしかしたら明日返ってくるかもしれないし、一ヶ月以上も待たなければならないかもしれない。それでも愛斗はちゃんと返してくれるから別にいいのだけれど、本棚に隙間が出来るから妙にそわそわしてしまう。
平凡すぎる悩みだ。悩みなどと言うのもおかしいぐらいに。だけど、平凡なのは良い。退屈かもしれないけれど、良い。
非凡な人にはそれなりの悩みがあり、それはなかなか他人には理解されないのかもしれない。それならば、悩みも喜びも、何もかもが色んな人と分かち合える平凡な人生のほうが、自分に合っているような気がする。
ひとえに平凡と言っても、人生には沢山の快楽と、同じくらいの苦難が待ち受けている。いや、苦難は、快楽よりも多いかもしれない。
だけどみんな生きている。次々と襲い掛かる苦難に負けず、懸命に生きているから、案外人間は強い生き物なのだろうか。
夢を見る。
希望が湧く。そして夢を自分の手で掴むユメを見る。
夢は人を強くさせる糧だ。康之は夕暮れの空を窓越しに見つめた。
綺麗な紅の空だ。時間は午後七時になろうとしている。夏の昼は長い。もうすぐ階下からは夕飯だと告げる母親の声が聞こえるだろう。もしかしたらこの世界は誰かの夢の中の出来事なのかもしれないなと、紅色を見ながら康之は思った。
愛斗のふくらはぎのテープを剥がしてやるのを忘れていたのを思い出す。でも、自分で剥がしてくれるだろう。それくらい、あいつにだって出来るはずだ。
たまには呼ばれる前に下に降りていこうか。
康之はそう思って、紅の空に背を向けたのだった。
夕焼け小やけ。まさにそんな表現が似合う空だった。
——これに赤とんぼなんかが飛んでいたりしたら、もっと風情があるんだろうな。
岡村康之は、自分の長い影を見ながらそんな事を考えていた。今日は、友人とは一緒に帰ろうとせず、一人で校門を出た。
そんな日もある。いつもいつも友人達と戯れる気力を持ち合わせているわけではないのだ。
「だるいな」
さして疲れているわけでもないのに、そんな一言をもらす。
康之は、どこにでもいるような、ごく普通の男子中学生だ。
ごく普通。そうは言ってみたものの、人間はそんな言葉ひとつで簡単に表せる生き物ではない。
感情があって、性格があって、特技があって、好きなものがある。それは人によってことごとく違う。
例えば、ラーメンが好きな人の中にも、短気な人や穏やかな人がいるし、ラーメン好きで短気な人の中には、犬が好きな人や猫の方がいいという人もいる。そんなふうに一人一人違う考え方を持っているものだから、ああだこうだと言い出せばキリがない。
岡村康之は自分の事を「俺」と言い、成績はまあまあでスポーツも人並みに出来る。好きな食べものはたまごかけご飯と煎餅で、嫌いなものはモラルが無い人間。三月生まれのうお座で血液型はAB型。家族構成は両親と康之の三人。家は一軒家。友人はそれなりにいるけれど、彼女は募集中。彼女にしたいタイプは……。こんなふうに康之について言い出すと、本当にキリがないから、それをひとまとめにして「ごく普通」の少年と、周りは評価するのだ。
康之は、運動部に所属している。彼が通う中学は、原則として必ずひとつの部活に所属しなければならないという校則があり、生徒たちは一年生から三年生の夏まで、いずれかの部活動に入部して活動に励んでいる。
康之が運動部に所属しているが、選手であるかといえば、答えはNOになる。
運動が苦手というわけでもないけれど、たいして好きでもない康之は、マネージャーとして活動しているのだ。康之はスポーツ医学に興味があり、漠然としたものではあるが、将来はその方向に進みたいと思っている。だから、選手としてではなく、選手をサポートする側につきたいと申し出たら、珍しいやつもいるもんだという反応はされたが、案外すんなりと受け入れてもらえた。
康之がマネージャーとして所属している部活は陸上部だが、とあるひとつの役割だけは、全ての運動部において彼が担っている。
それは、スポーツテーピング。選手の筋肉や関節をサポートするために体の各所にテープを貼っていくその処置を、康之は得意としているのだ。
一般的に「テーピング」というと、伸び縮みしない固定テーピングを思い浮かべる人が多い。
固定テーピングは関節の動きを固定することで、可動域を制限して、痛みの出る方向への動きを抑える役割があるので、怪我の応急処置や、再発の強い不安がある時の対策として利用されている。固定テーピングは、手順が複雑なため、専門の知識を持った人に巻いてもらうほうが良い。
康之も「自分が出来ます」と言えるような自信はまだ無いため、固定テーピングで誰かの処置をするのは控えている。では、康之はなにをするのか。彼はテーピングで関節を固定するのではなく、逆に筋肉の伸縮を補助するためのテーピングを得意としていた。
固定テーピングが、怪我の応急処置などに使われるのに対して、伸縮テーピングは、怪我の防止や、以前の怪我の再発が気になる時に使われる。つまり、怪我の予防という点で、伸縮テーピングには高い期待が寄せられるということだ。
「ちわっす」
突然、背後から声がした。康之にとって馴染み深いその声は、幼なじみの古川愛斗のものだった。よく目立つ赤いジャージを着て、タオルを首に巻いている。小さいときから変わらない坊主頭が、汗で光っていた。
「よう」
康之は言った。幼なじみなんだから、別に「ちわっす」なんて言わなくてもいいのになと思いながら。
「今日はお前、早いんだな」
「うん」
「テーピングしてくれってヤツはいなかったのか?」
「まあね。俺の仕事はそれだけじゃないけど」
康之が言うと、愛斗は「お前からテーピングを取ったら何が残るんだよ」と笑った。つくづく失礼な奴だと、康之は苦笑する。
「でも、ホントに俺がやってるテーピングは誰でも出来るのに、どうして覚えようとしないんだろ。怪我してからじゃ遅いのにな」
そう続けて、康之はため息をついた。
「まあ、お前がいるからみんな安心して練習出来るんだろ。その調子で、みんなのフォローしてあげろよ」
愛斗はそう言って康之の背中を叩いた。かなり強い力だったらしく、バチンと大きな音が響き、叩かれた本人はゲホゲホと咳き込んだ。
「おれも頼んじゃおっかな」
愛斗は自分のせいで咳をしている康之には目もくれず、ちょうど通りがかった空き地に入っていって、端の方に置かれているビールケースの上に腰を下ろした。
「俺の都合も、ちょっとは考えろよ」
呆れたように言いつつも、康之も後に続く。
「おれさ、実は今ロードワーク中なんだよね」
康之の主張を無視して、愛斗は続ける。愛斗は学校の部活には入らず、地域のシニア野球チームに所属している。周りに彼の仲間がいないところを見ると、どうやら自主トレをしているらしい。
「明日試合あるんだけどさ、なんかふくらはぎに違和感があるんだよ。ランニングしすぎたかな」
愛斗はヘヘヘと笑いながら、ジャージをめくり、ふくらはぎを康之に見せた。
「ふうん」
康之が頷きながら、そっと愛斗のふくらはぎに触れてみると、心なしか筋肉が固くなっているような気がした。
「筋肉の使いすぎで疲れてるんだと思うよ。でも今日はテーピングしない」
「はあ? なんでだよ」
愛斗はあからさまに不服そうな顔をした。
「まずは、ゆっくり体を休めなきゃ。それでも明日違和感が残ってるようなら、俺ん家に寄ってくれればいいからさ。その時はテーピングしてやるよ」
「なんで今してくれねぇんだよ」
「テーピングのテープは長時間貼ってると、肌がかぶれたり剥けたりするから。それに、まだテーピングが必要かどうか分からないから。俺のテープはタダで使ってるわけじゃないから、なるべく無駄遣いはしたくないんだよ」
「あ、そ。じゃ、明日まだおかしかったらお前に頼めばいいんだな」
「だからそう言ってるじゃん」
ジャージの裾を下げながら立ち上がる愛斗に向かって、康之はツンと言い放った。
「冷たいヤツ。いつからお前はそんな態度を俺に取るようになったわけ?」
歩き出した康之に、愛斗がまとわりついてくる。今日はもう走れないと分かって、暇になったのだろう。
家が隣で、どうせ帰る方向も一緒だし、康之をからかいながら帰路につけばいいと思ったに違いない。
「今日は康之んちに泊まろうかなぁ」
「やめてくれ。てゆーか勝手に決めんなよ」
「だって、どうせ明日お前んち寄るんだしさ、いいじゃんかあ」
「お前、テーピングしてもらう気満々だな。なんか欲が見え見えでキモい」
「キモい?失礼だな。おれはお前の才能をたかーく評価してるだけだぜ」
「こんなの、才能でもなんでもないよ」
康之は俯き、呟くように言った。
「ふーん。でも康之がそう思っていたとしても、おれはそういう、他のヤツが滅多にやらないような特技があるっていうの、うらやましいと思うけどな」
愛斗は軽いシャドーピッチングをしながら言った。
「……そうかな」
康之は俯いたまま、答えた。いくら愛斗に褒められようとも、自分がやっているテーピングなど、覚えれば誰でも出来ると思っている康之には、どんな賞賛の言葉もお世辞にしか聞こえなかった。
「お前が将来なりたいって言ってたスポーツトレーナーに近づくためにも、充分なスキルじゃん」
愛斗は必死で康之を励ましている。親友でもある康之が、自信を失わないようにと彼なりに気遣っているつもりだった。
康之もそれは分かっている。愛斗が人を励まそうとする時、普段より雄弁になるのは以前から知っていた。これまでも、幾度となく愛斗の言葉に救われてきた。助けられてばかりだと気付いて、康之は何となく面映ゆい気持ちになる。
「分かったよ、ありがとな」
そう言ってから、康之は自分なりに愛斗の役に立てればいいなと思ったのだった。
2
次の日、やはり愛斗は康之の家を訪ねてきた。朝からインターホンを何度も鳴らすものだから、近所にその音が聞こえていないかと、内心ヒヤヒヤしながら康之は扉を開けた。
「おはよっ!」
ニッコリと笑った愛斗は、パンパンに膨れ上がったスポーツバッグを肩から下げ、黒い野球帽を被っていた。ユニフォームはまだ着ておらず、アンダーシャツにジャージという出で立ちだった。
「おはよう」
康之はぼんやりとした口調でそう言うと、愛斗を家の中に入れた。彼がここに来たという事は、康之にテーピングをしてもらうつもりなのだろう。
「悪いな、朝から」
「いいよ、どうせ部活あるし」
珍しく詫びてきた愛斗の顔は見ずに、康之はぶっきらぼうにそう言った。
「右のふくらはぎだろ?」
「うん。一晩休めたつもりなんだけどよ、やっぱし疲れてんのかな」
「あまり酷かったら病院行けよ」
康之はそう言って、愛斗をリビングに通し、カーペットの上でうつぶせになるように促した。そして部活に持って行こうと準備していた鞄から、テープとハサミを取り出す。
愛斗のジャージをまくりあげた康之は、ひとまずテープを三十センチほどの長さに切った。
「膝曲げるぞ」
一応、愛斗に断っておいて、彼の膝を九十度に曲げる。その後、つま先を持ち、軽く足首を手前に曲げ、かかとの裏からふくらはぎにかけてまっすぐに、切ったテープを貼った。
次に康之は、先程の倍の長さのテープを用意して、その真ん中をかかとの裏に貼り、アキレス腱のところでテープが交差するように、ふくらはぎの両端を包むように残りの部分を貼った。三枚目のテープは、一枚目より少し長めで切った。長さでいうと、三十五センチくらいだ。そしてそのテープでかかとをくるむように八の字に貼ると、最後のテープを二十五センチほど切って用意する。最後は足の甲の部分に、剥がれ止めのテープを貼って完成だ。
ふくらはぎに貼るテープは長すぎないよう、膝の裏まで行かないようにすることがポイントだと、康之は心得ている。
「終わり」
ジャージの裾を元に戻しながら、康之が言った。
「なんか、モゾモゾするな」
ヘヘッと笑って愛斗が立ち上がり、軽く動かしてみせる。
「だけど、動きやすくなったかもしれないな、うん」
愛斗はそう言うと、「サンキュー」と頭を下げて、康之の返事も待たずに家を出ていってしまった。風のように素早い奴だと康之は苦笑して、後に残ったテープのかすを片付ける。いつものように、彼の心の中には、ちょっとした達成感が芽生えていた。
そんな気持ちなど、他の人からしてみれば、すぐに忘れてしまうようなちっぽけなものなのかもしれない。だが、康之がテーピング作業を続けていける糧になっているのは、確かなのだ。
物事の価値観は人によって違う。時代は進み、いろいろな物が簡単に手に入るようになった今、尽きることのない人々の欲望は、人それぞれの価値観によって様々に変わるものなのだ。
物事の価値観も、どう捉えるかも、十人十色の時代。そう言っても、過言ではない。
「もうこんな時間かぁ」
テレビの字幕に表示されている時計を見て、康之は呟く。最近独り言が多いなと思いながら、学校に行く支度をして、テレビを消した後、家を出た。
今日はよく晴れていて、暑い。愛斗が軽装だったのも頷ける。
康之は歩きながら、今日はたくさんドリンクを作らなきゃいけないなとか、タオルもいっぱい要るななどと考えていた。
なんせ、歩いているだけで汗が出るのだ。この気候の中を、走ったり跳んだりする部員達は大変だなと思った。だけどみんなは、陸上が好きだからそれを続けているのだろうし、「暑い暑い」と言いながらも練習を楽しんでいるのだ。案外大変だなんて思っていないのかもしれない。
「おはよ!」
学校の校舎のてっぺんが、家々の隙間から見えてきたとき、康之の背後から声がとんできた。まだ少しあどけなさが垣間見える、明るく気持ちの良い少年の声だった。
康之はその声を聞いて、パッと体を道の端に寄せた。すると後ろからは「ちぇっ」と、残念そうな声が聞こえて、自転車のブレーキ音が辺りに響いた。
「お前、やめろよそれ、いつかホントに人轢くぞ」
康之は振り返らずにそう言った。
「ごめんって」
悪びれた様子が微塵も感じられない返事が返ってくる。きっとこいつはこれからもこの悪戯をやめる気がないんだろうなと、康之は思った。
「いい加減にしないと、お前の全身をテープでぐるぐる巻きにするぞ」
「剥がすときに痛そうだからやめて!」
康之は、やめてほしい理由はそれかよと突っ込みたくなる衝動をこらえた。こいつと話していたら、調子が狂う。
康之はようやく、お調子者の友人、高田昌人の顔を見た。昌人はこう見えて、陸上部の短距離のエースだ。康之より少し小柄な体でビュンビュン走るものだから、そのギャップには驚かされる。
でも、彼はよく怪我もする。
「康之がいなかったら、オレ陸上続けていないかもな」
いつだったか、康之が彼の擦り傷を手当てしたときに、そう言われた。単なるおだての言葉だったとしても、康之にとってはすごく嬉しい言葉だった。
「そんな大袈裟な……」と呟く水面下で、ぐっと嬉し涙をこらえていた。
「スポーツに怪我は付き物さ」
晶人の口癖だ。人がスポーツで怪我をするから、それを治療する人もいる。だから世の中には、必要の無い役割についている人なんていないんじゃないかと、康之はそれを聞く度に思う。
アスリートに比べると、康之のようなポジションは日の目を見ることは少ない。だが、そんな役割を担う人がいてアスリートを支えるからこそ、彼らが輝いて見えるのかもしれない。
学校に着いてグランドに行くと、すでに運動部がそれぞれの持ち場で練習を始めていた。野球部とサッカー部がそれぞれ練習場所としている場所の境目にトラックがあって、そこが陸上部の練習場だ。
近くには砂場があり、幅跳びの選手が固まって談笑している。トラックでは中、長距離選手が黙々と走り続けていて、そのすぐそばの直線レーンでは、短距離の選手が走り込みをしている。
晶人は直線レーンにいる部員達の所まで駆けていって、「おはよーございまーす!!」と元気に挨拶をしていた。
康之はというと、選手達全員に軽く挨拶をして、陸上部の練習場所の近くの木陰にいる女子生徒の元に歩いていった。
「おはよ」
康之の声に、その女子生徒が振り向いた。
「おはよう」
微かに見せる笑みと共に、彼女も挨拶を返す。
鳥山未来。それが彼女の名前だ。
「今日は暑いから、いっぱいドリンク作らなきゃいけないな」
康之はそう言って、未来が持とうとしていた数個のドリンクボトルが入ったケースを代わりに持った。
「ありがとう、ヤス」
「おう」
ぶっきらぼうにそう言って、康之は歩き出した。木陰の近くには部室があって、その中には冷蔵庫が置いてあるため、いつもそこでドリンクをそこで冷やしている。ちなみに部室は、康之と未来で綺麗に掃除をしたため、以前は荒れ果てて見るに堪えなかった室内も、今は部員の休憩場所として重宝されている。
部室の冷蔵庫の横には、康之の背丈よりも大きな戸棚があって、その中には部費で買いためている救急道具がある。湿布や絆創膏、包帯などはもちろんの事、なぜかうがい薬や胃腸薬まで置いてあるものだから、入部当初、康之が見た時は笑いそうになった。
そして、その隣には、康之が小遣いで買いためたテーピング用のテープが積み重なって置かれている。
「部費で買えばいいのに」とみんなは言うが、なぜか康之は自腹で買わなければならない気がしていたのだ。
冷蔵庫にドリンクを全てしまい終えて外に出ると、康之は晶人に呼ばれた。
「タイム計ってくれよ」
人懐っこく、ニッと笑って言うものだから、断ろうにも断れなかった。むろん、断る気もなかったが。康之は声を張り上げるのが苦手なので、位置についての合図は、他の部員にやってもらう事にした。
晶人が走ろうとしている距離は百メートル。スタート地点で、晶人とスターターの影が揺れている。
「位置について!」
風がスターターの声を運んでくる。
「用意、スタート!」
その声と共に、晶人が走り出した。康之は慌てて親指を動かす。矢のようなスピードとは言いすぎかもしれないが、康之は晶人の走りをそんなふうに感じた。
晶人が走り終えた時、ストップウォッチのタイムは十秒四八と表示されていた。
「これ、すごいんじゃない?」
日本記録や世界記録には疎い康之でさえ、そのタイムが凄い事は分かった。康之の五十メートルの記録は八秒ちょっとなのに、晶人はその倍の距離をたったの約二秒差で走ってしまったからだ。
「俺、やるだろ!」
頬を紅潮させ、腕で額の汗を拭いながら、晶人が言った。まんざらでもない笑みを浮かべて、康之が持っていたストップウォッチをひったくる。
「うん」
ストップウォッチが無くなった手を引っ込めながら、康之は返事をした。本当に凄いと思った時には、人はどうやら賞賛の言葉を忘れてしまうようだ。
お世辞を言おうとする時にどんどん出てくるような褒め言葉は、出てこなかった。康之は、改めて晶人を見た。
当の本人はスターターをしてくれた部員とはしゃいでいるために、見られていることに気付いていないようだ。引き締まった脚から繰り出されるあの駿足な走りは、これからどこまで伸びていくのだろう。
彼はまだ自分と同じ中学生だ。体がまだまだ発展途上なぶん、伸びしろはむしろたくさんある。自分達が想像しているよりもずっと、大きく飛躍するかもしれない。
康之がそう思う反面、また別のことが脳裏をよぎった。頑張ることは悪くないのに、頑張っている人に限って、「故障」に悩まされる。
頑張りすぎれば、体が悲鳴をあげるのはもちろんだが、それに限らず、ときに突然体を痛めたりしてしまう。
たちが悪い。自分はもっと強くなりたいから努力をするのに、体はときに、否応なしにそれを裏切るのだ。だから、もしかすると、道を踏み誤れば、晶人もそんな目に遭ってしまうかもしれない。今でも怪我の多い彼の体は、脚は、もしかするといつ壊れてもおかしくないのかもしれない。
嫌だ。自分の目の前に、怪我によって夢を絶たれる人が現れるのは、嫌だ。そんなの、俺がスポーツトレーナーを目指している意味がなくなるじゃないか。
自分が関わっている人が怪我をして競技から離れるのは、康之自身の夢が絶たれるのと同じことのように感じた。
例えば晶人や愛斗が試合で良い成績を出せたなら自分のことのように嬉しく感じるし、その逆もまた然りだ。
根本的に自分は人のサポートをするのが好きなのかもしれないなと、康之は思った。好きなことなら、どれだけ時間を割いてもそれに打ち込める。学校の勉強など、すすんでやるのも嫌なのに、テーピングの手順はすぐに覚えられた。だけど、楽をするだけじゃ、ダメだ。人として成長できない。成功も失敗も、苦楽も含めて全ての経験が、自分を作っていくのだ。
「休憩してくるな!」
晶人が康之の肩を叩いて駆け出していった。
「部室の冷蔵庫にドリンクあるから!」
康之は晶人の背中に向かって叫ぶ。片手をあげてみせた晶人を眺めていると、「康之!」と、横から声をかけられた。
康之が振り返る。
サッカーの練習用ユニホームを着た少年が、そこに立っていた。
「どうしたの?」
「うん、今さっきスマホにメッセージが来たんだけどさ、愛斗の奴ら、勝ったって。部活中悪いかなって思ったけど、どうしても伝えたくて」
はにかみながらそう言った少年の顔を、康之は見る。康之とも愛斗とも仲の良い彼は、多奈川充という名で、ミッチーと呼ばれている。背の高い彼は、康之や愛斗と並んでいると、よく目立っているらしい。いつだったか、クラスメイトがそう言っていた。
「良かったじゃん。でも学校にスマホなんか持って来たら駄目なはずだけど」
「カタイこと言うなよ。 俺だけじゃなく、みんな隠し持ってるって」
充が苦笑する。
それもそうか。康之は、口には出さず心の中で呟いた。
「じゃあな、俺練習戻るわ」
踵を返して立ち去る充に、「ありがとう」と呟いて、康之も陸上部に戻った。
空が青い。今頃、愛斗も笑顔で同じ空を見ているのだろうか。俺が「おめでとう」と腹の底から思い切り叫んだら、愛斗に届くかもしれない。そんなことを康之に思わせるほどに綺麗な空だった。
今夜、愛斗から連絡があるかもしれないから、その時は「もう知ってる」と言って驚かせてやろう。
康之は、休憩が終わった部員達が残していったボトルを水道水で洗いながら、込み上げてくる笑みをこらえていた。こんなところで一人ニヤニヤしていたら、変な奴だと思われてしまう。
隣で半分の数のボトルを洗っている未来をチラリと横目で見る。彼女は黙々とブラシでボトルの内側を洗っているため、康之の視線には気付いていないようだった。
「ヤス、何してるの?」
未来の声に、康之はハッと我にかえる。手元を見ると、水道の水がびちゃびちゃと腕を濡らしていた。
「ちょっと考え事」
へへへっとごまかし笑いをして、水を止めた。
「ヤスがそこまで考え事するなんて、珍しいね」
「なんだよそれ、まるで俺が何も考えていない馬鹿な奴みたいじゃん」
「そこまで言ってないよ。周りの声も聞こえない程に考え事してるヤスなんて初めて見たから」
「ふーん」
言いながら康之は内心ひやひやしていた。自分の想いを見透かされてしまったのではないかと思ったからだ。
「気にしてたんでしょ?」
未来が、覗き込むようにして康之の顔を見てくる。
「な、何がだよ」
彼女の視線が何だか怖い。慌てて目をそらし、水道を見つめる。
「古川くんの試合のこと」
しかしその後、康之はその言葉で拍子抜けをした。てっきり、「私の事が気になるんでしょ?」という意味で聞かれたと思ったのだ。そりゃそうだ。未来は超能力者じゃない。俺の心の中の事なんて、分かるはずがないんだ。康之はそう思い直して、「もう知ってるよ」と答えた。
「そうなの!?」
驚いた顔で、未来が聞いてくる。
「うん、あいつ、勝ったらしいよ」
「野球の試合にしては、終わるのが早いね。コールドゲームだったのかな」
「そうかもしれない」
確かに、未来の言う通りだ。野球の試合にしては、早く終わっている。コールドゲームか、あまりにもスムーズにイニングが進んでいったかのどちらかだなと、康之は思った。
「もうすぐお昼だね」
「うん」
時計を見る。あと三十分ほどで今日の部活は終わりだ。それまでに、人数分のボトルに再びドリンクを足しておかなければならない。
「急がなきゃ」
康之はそう言って、カゴにボトルを放り込むと、部室に戻っていった。
「部活終わったら、古川くんのところ行くんでしょ?」
「うん、テーピングやったの外してやらないといけないし、どうせ俺んち来るだろうし」
「テーピングしてあげたんだ」
「うん。ふくらはぎに違和感があるって言ってたから」
「へえ、ヤスってやっぱ頼られてるんだね」
未来は笑顔でそう言った。康之は、彼女の横顔を見る。うなじに、透明の汗の粒が光っていた。
「そうかな」
あらかじめ未来が作っていたドリンクを、やかんからボトルに流し込みながら、康之は言った。
「そうだよ、そうじゃなきゃ、古川くんも他の皆もいちいち頼んでこないって」
そう言われればそんな気がする。ど素人の自分に頼むよりも、保健室や病院に行った方が良いだろうし、もしかしたら部活の顧問の中には知識を持っている教師がいるかもしれないのに、わざわざこちらに来てくれるのは、やはり頼りにされているのかなと思った。
「そうだったら、何か嬉しいな」
康之は笑った。やかんの先の液体が微かに揺れてテーブルに零れる。慌ててしっかりと握りしめた。
「頑張って、夢が叶うといいね」
未来は話の最後にそう言ってくれた。今は、康之のように夢を持った若者は少ないと言われている。
幼稚園や小学校の頃には「ぼく、野球選手になりたい」とか「わたしはケーキ屋さんになるの」と言っていた人達が、歳をとって自分の能力を知り、また、現実を知り、夢が夢で終わってしまう事もある。だけど、本当は、踏み出す勇気が足りないのだと、康之は思っている。
現実を知っても、努力をすれば何かが変わるかもしれない。例えば歌手になりたいと思っている人が、自分には歌唱力がないと知って夢を諦める。だけど、歌唱力を鍛えて、オーディションなどにチャレンジすれば、道は拓けるかもしれない。
夢を夢で終わらせる事は、自分の可能性を自分で潰しているのと同じ事なのだ。
現実は甘くない。そんな事、分かっている。だけど、甘くないから、夢を諦めなければならないわけじゃない。
周りから口を酸っぱくして言われて、最初の一歩が踏み出せないで後悔するのと、周りの反対を押し切って、挑戦して、後悔するのとでは、きっと後味が違うだろう。何事もやってみなければ分からないのだから、夢が叶うかどうかも挑戦しないと分からない。
それが康之の信念だった。これから先、いろんな苦難が待ち受けているだろう。その苦難に負けるか否かは、自分次第なのだ。
世の中に不可能なんて無い気がするなんて言ったら、絶対誰かに笑われる。笑われるのが嫌なら黙っておけばいい。想いを秘めておいても、自分が信じた道を進むことはできる。もしかしたら、どんな時でも自分を信じている人が、最後に笑えるのかもしれない。
康之が予想した通り、家に帰ると愛斗が待っていた。
いつの間にか帰ってきていた母親が家の中に招き入れたらしく、愛斗は康之の部屋でジュースを飲みながら本棚に並んでいる漫画を読んでくつろいでいたため、康之は呆れ返って言葉を失った。
「よう、康之! おかえり」
朝と同じ格好をして、康之が部屋に入るなりそう言ってきたものだから、一体どっちが部屋の主なのか分からない。
「……ただいま」
ムスッとした声で康之は言って、鞄を乱暴に置いた。言おうと思っていた愛斗に対する祝福の言葉など、頭から吹っ飛んでいた。
「なんで愛斗を部屋に入れたんだよ」と母親に抗議をしても、「兄弟みたいな友達だからいいじゃない」とごまかされてしまうのは目に見えている。康之は込み上げてきた感情をぐぐっと押し殺した。
「康之、俺ら勝ったぞ!」
読んでいた漫画を閉じて、愛斗が康之の顔を見上げる。
「よかったな」
知ってるよとは言わなかった。言ってはいけないような気がした。
「コールド勝ち。やるだろ!」
「ああ」
一人で満面の笑みを浮かべる愛斗を尻目に、康之はベッドに腰掛けた。すかさず愛斗が横に寄ってくる。
「お前のおかげかもしんねーな」
「は?」
「最終回、俺さ、ランニングホームラン決めたんだ。打球はかなりきわどかったけど、点差も離れてたし、アウトになってもいいかなって思ったけど、走ったからにはホームに帰りたいだろ?……で、思いっきり走ったら成功しちゃったよ。お前がふくらはぎにテーピングしてくれたから、走ろうと思ったんだろうし、実際に走れたんだと思うよ」
「おだてたって、何にもやらないぞ」
「マジなんだって!」
そんなに必死で言わなくても、分かってるよ。心の中で言う。
嬉しい。
自分でも人の役に立てる。人を喜ばせてあげられる。
それはとても大事なことのような気がした。願わくば、いつまでもこの気持ちを忘れないでいたい。そしてこれからも、自分の特技を活かして人の役に立ちたい。
愛斗のようにきちんとお礼を言ってくれる人がいるからこそ、自分は頑張れる。感謝の言葉とは、相手を動かす原動力のようなものなのかもしれない。
「こちらこそ、ありがとう」
康之がぼそりと言った言葉は、再び漫画を読み進めている愛斗にもきっと届いたはずだ。愛斗は顔を上げなかったが、ほんの少し笑っている気がした。
結局愛斗は夕方まで居座って、漫画を十冊ほど鞄に放り込んで帰っていった。一週間ほどで返すと言っていたが、あてにならない。
もしかしたら明日返ってくるかもしれないし、一ヶ月以上も待たなければならないかもしれない。それでも愛斗はちゃんと返してくれるから別にいいのだけれど、本棚に隙間が出来るから妙にそわそわしてしまう。
平凡すぎる悩みだ。悩みなどと言うのもおかしいぐらいに。だけど、平凡なのは良い。退屈かもしれないけれど、良い。
非凡な人にはそれなりの悩みがあり、それはなかなか他人には理解されないのかもしれない。それならば、悩みも喜びも、何もかもが色んな人と分かち合える平凡な人生のほうが、自分に合っているような気がする。
ひとえに平凡と言っても、人生には沢山の快楽と、同じくらいの苦難が待ち受けている。いや、苦難は、快楽よりも多いかもしれない。
だけどみんな生きている。次々と襲い掛かる苦難に負けず、懸命に生きているから、案外人間は強い生き物なのだろうか。
夢を見る。
希望が湧く。そして夢を自分の手で掴むユメを見る。
夢は人を強くさせる糧だ。康之は夕暮れの空を窓越しに見つめた。
綺麗な紅の空だ。時間は午後七時になろうとしている。夏の昼は長い。もうすぐ階下からは夕飯だと告げる母親の声が聞こえるだろう。もしかしたらこの世界は誰かの夢の中の出来事なのかもしれないなと、紅色を見ながら康之は思った。
愛斗のふくらはぎのテープを剥がしてやるのを忘れていたのを思い出す。でも、自分で剥がしてくれるだろう。それくらい、あいつにだって出来るはずだ。
たまには呼ばれる前に下に降りていこうか。
康之はそう思って、紅の空に背を向けたのだった。



