巻き戻り大賢者は、やり直し人生を無双する~殺されかけた不遇な俺は、古代魔術で返り咲く~

 対処療法。

 場当たり的対応。

 ロクアット湖畔村にワラワラ沸いてくる蜘蛛型魔獣の討伐は、そんな様相を呈していた。

「……働き者だな」

 夜明け直後。

 漁から戻ってくる小舟を眺めながら、俺は考えをまとめていた。

 ハンスさんはすでに早朝の練兵をしているし、マリィさんはハンスさんや自警団の皆さんに訓練後に振る舞う朝食の支度中。で、アルルさんは爆睡中。

 そういうわけで居候の俺が、早朝の湖畔市場への買い出し役を仰せつかっているわけだ。

 ロクアット湖畔の岸辺に沿って、苫屋がいくつか建っている。ちょっとした屋根があるだけの建物は、水揚げしたばかりの新鮮な魚を干し魚に加工するための作業場だ。

 市場では取れたての魚のほかに、ちょっとしたハーブ類も売られている。漁に参加しない人間が、小さな畑で育てているんだって。淡水魚はちょっと泥臭いから、充実した食生活のために必要に迫られてるってところもあるだろうな。ロクアットは汽水湖──淡水と海水の混じり合った水質らしく、干し魚の生産が盛んなのだ。この干し魚が、シュタイナー領の貴重なタンパク源なのだそうだ。味も、まあまあ美味い。

 俺がロクアット湖畔村にやってきてから、十日ばかりが経っている。

 そのたった十日間で、三回の蜘蛛型魔獣による襲撃があった。しかも、到着初日の襲撃を除いてだ。

 これは異常な頻度だし、村の皆さん曰く、どんどん襲撃の感覚が短くなっているらしい。

「同一種族の大量発生、大きさがまちまち……頻度が増えてる……これ、やっぱそういうことだよな」

 俺だって一応は、ハイデル王国の中枢にいて魔王国ヴァル=ネクル国境の防衛をやっていた。

 この状況が何を表しているのかくらいは、わかる。

「干し魚とハーブをください」

「はいよ。ルゥさん、こないだはありがとうね。うちの小舟をあっという間に直しちゃうんだもん、驚いたよ」

「いえいえ」

「将来は王国に出仕したりしてね!」

「あはは……」

 それは勘弁してください。

 次に王城に行くときは、俺を殺した野郎をぶっ飛ばしに行くときなので。



◇◆◇



 ヴィッテル家に帰ると、ちょうど朝の訓練帰りのハンスさんと鉢合った。

 優しげなおじさんだけれど、額に汗を浮かべている姿は精悍だ。

 立ち回りを見ていると剣の腕はそれなりか、もしかしたら精鋭揃いのシュタイナー辺境伯騎士団の中では振るわない方なのかもしれないけれど、少なくとも後進の指導に当たっても問題ないくらいの使い手のようだ。

「ハンスさん、お疲れ様です」

「ああ、ルゥくん。お疲れ様、朝早くからありがとう」

「いえ、これくらいはさせてください」

 ハンスさんは俺をお客様扱いせずに、積極的に生活のあれこれを手伝わせてくれる。彼なりの気遣いなのだろう。

 ゆくゆくは俺の職の手配も……という話が出ているが、俺が『修復』の魔術を使えることもあって、あまり緊急感はない。就職先はね、問題ないですよ。

 そんなことよりも、あれですよ。蜘蛛型魔獣の話ですよ。

 子どもの姿で何か言っても、あんまり説得力がないけれど──一応、推論は伝えておきたい。

「……あの、ハンスさん」

「なんだい?」

「あの蜘蛛たちのことなんですが、あれって……たぶん、あいつらを産んでいる本体(やつ)がいるんじゃないかなって」

 そう。あれは多分、蜘蛛型魔獣の『幼体』だ。

 大きさがまちまちだったのは、継続的に、大量の『幼体』が産み出されているからだろう。つまりは、文字通りの親玉がいる。

 そいつは今まで襲いかかってきたザコよりも、強力な魔獣である可能性が高い。

 ああ、とハンスさんが俺の目を見た。ちょっと驚いた表情で。

 この反応はもしかして、ハンスさんも気づいているのか。

 ちょっと困ったような表情でハンスさんが頬を掻いた。

「君は聡明だな、ルゥくん! ……だとしたら、心配だよねぇ」

「うん」

 魔獣の繁殖は、かなり厄介だ。

 ほら、Gのつく害虫だってそうだろう。外から侵入したビジターだったら、そいつを倒せばいい。けれど、家の中で繁殖されたら──はい、一匹見かけたら五十匹いると思えってやつですね。

「大丈夫、きちんと我々が殲滅をするから。君は心配しなくていいよ」

「……はい。ハンスさんも無理しないでくださいね」

「ははは! そうだね、年寄りの冷や水はよろしくないな」

 ハンスさんは上半身のシャツをはだけて、手早く汗を拭う。やっぱりいい身体してるな。

 俺もこの年齢から鍛えれば、こんな風になれるだろうか。縮む前も極端に弛んでいたり、太っていたりしたわけじゃないけれど……まあ、文官の身体ってかんじだったからな。

 再びシャツを纏いながら、ハンスさんが続ける。

「おそらく、東の断崖にある洞窟にアリアドネが住み着いているのだと思う」

「アリアドネ……」

 女性と蜘蛛が融合したような、かなり気味の悪い魔獣だ。

 魔獣のなかでも、人型魔族に近い種族だ。知能もやや高く、やっかいな存在。

「それって、どうするんですか?」

「もちろん、駆除するよ。本隊に報告を上げているから、近々応援が来るはずだ」

「そっか。じゃあ、安心です」

 駆除。当たり前のようにハンスさんは言うけれど、魔物を倒すのはそんなに簡単なことではない。

「でも、駆除する前に、アリアドネが襲ってきたら……?」

 俺が言うと、ハンスさんはくしゃりと俺の頭を撫でた。

 大きくて優しい手だ。

「一応、集落の人たちには避難の手ほどきをしているんだが……君にも伝えておかないとね」

 すっかり身支度を調えたハンスさんは、小走りに家に駆け込んだ。

 ハンスさんが向かうはキッチン。すでに、マリィさんが、皆さんに振る舞う朝食を用意している。ピタパンのサンドイッチ的なやつとか、鍋一杯の豆と魚のスープとか。

 俺がキッチンに入ると、ハンスさんが炊事を手伝っていた。

「スープは先に稽古場に持っていくよ」

「ええ、ありがとう」

 ひょい、とハンスさんが寸胴を持ち上げてキッチンから出て行った。

 鍋一杯のとろみのあるスープはかなり重いはずだ。

「今、バスケットにサンドイッチを詰めますからね。あとでハンスに届けてくれますか?」

「はい、マリィさん」

 それくらいの手伝いならお安い御用だ。

 魔術を使うまでもない。

「これ、ルゥさんのぶんの朝ごはん。食べながら待っててね」

「俺、手伝いますよ」

「いいのよ。うちの子(アルル)なんて、まだ寝ているんだから」

 マリィさんは笑う。アルルを責めるよう口調でもない。

 本当に、柔らかい空気を纏った人だ。

 少なくともハイデル王城には、いないタイプ。

「あはは。じゃあ、いただきます」

 ピタパンのサンドイッチは、素朴な味で美味しい。

 ピタパンはそば粉っぽい味で、ほぐした魚のそぼろみたいなものを巻いてある。ラップサンドみたいなものだ。この世界にラップはないから、ろう紙のようなもので巻いてある。

「美味しいです」

「そう、よかった。この村の名物で、あの人も気に入っているの」

 マリィさんの声が弾んでいる。

 あの人ことハンスさんのことを、心から尊敬しているんだっていうのが声に滲んでいる。

 俺が食べ終わる頃に、バスケットいっぱいのピタサンドの支度ができた。

「それじゃ、行ってきます」

 朝日が昇って、すっかり夜が明けた。

 よし。バスケットをひっくり返さないように、慎重に運ばないと。



「おーい、ルゥくん。こっちだよ」

 広場に集まっている若者たちの中心で、ハンスさんが片手をあげた。自警団に入った若者たち──わりと尖った感じの人相の若者たちにかなり慕われている様子が見て取れる。

 漁業が盛んなロクアット湖畔村のなかで今すぐ自警団に入るということは、そういうことだ。定職についていないゴロツキね。

 サンドイッチを配っていると、好奇の目が突き刺さる。

「へえ、この坊主が魔術を使うのか」

 大柄な男が、俺のほっぺを両手で挟んでむにゅむにゅする。

 子どもとはいえ、十歳前後だ。そこまでむっちりしているわけではないはずだが。……その、はずだが。

 どうしたもんかな、と思っていると、髭面の男がピタサンドを頬張りながら間に割って入ってくれた。

「おいおい、年下だと思って失礼なことするなよ。その魔術とやらで、蜘蛛どもに壊されたウチの船をあっという間に直してくれたんだ。うちのお袋が助かってたんだぞ」

「へえ、やるな。坊主」

「だから坊主じゃなくてよォ。ええっと……」

 髭面氏が言い淀む。ああ、挨拶も自己紹介もしてないもんな。

「……ルゥ」

「ルゥか! 改めて、ありがとうな!」

 髭面氏がニカッと笑う。俺のほっぺを無断でむにっていた大柄氏も、ばつが悪そうにぺこりと頭を下げた。

「うん。役に立ってよかった」

 人と関わる。今まで俺がやってこなかったことだ。

 悪くないかもな。

 二十人くらいの自警団の皆さんに朝食を配り終わると、ハンスさんは仕事があるとかで早々に戻っていく。

 ここでスッと席を外すのが、心憎いね。

 髭面氏と大柄氏もハンスさんのことを買っているらしい。

「人徳者ってのは、ああいうことを言うんだよなァ」

「シュタイナーの騎士様っていうから、どんな気取った奴が来るのかと思ってたけどな!」

「違いない。ま、もうちょっと強けりゃ文句ないけどな!」

「バーカ、そこがいいんだよ。ギリギリ俺らと同じか、ちょっと腕が立つくらい」

「ま、俺たちすぐにハンスさんより強くなるぜ!」

 なるほどね。

 この様子だと、彼らが本当にハンスさんよりも腕っ節が強くなったとて、この村の守護であるハンス・ヴィッテルを軽んじることはないだろう。根本的に尊敬されているし、慕われている。あの徳の高い人格だから納得だ。愛妻家だし。

(さて、俺も帰るか)

 ハンスさんが席を外したのに、そのハンスさんの家の居候の子どもが居ちゃ意味ないもんね。部活後の部室で顧問やコーチの愚痴を言う時間って、意外と大事だったりするんだ。

 バスケットに入っているピタサンドは、ここにいる人数より遥かに多い。

 自警団の朝訓練に行けば腹いっぱいに食べられるし、あるいは家にいる家族に土産を持って帰ることができるわけだ。そういうの、俺がいるとやりにくいだろうからね。鍋とバスケットはあとでハンスさんの家に届けてくれることになっている。

「それじゃ、俺はこのへんで」

「おう、またな!」

 大柄氏と髭面氏に手を振って、その場を後にしようとした。

 ああ、爽やかな朝──だと思ったのに。

 やたらと通る声が、俺の耳に届いた。

「……お前ら恥ずかしくないわけ?」

 他人を威圧することと、支配に長けた声色だ。俺はゆっくりと振り返る。

 目の下に真っ黒いクマをこしらえた男が、ゆっくりと自警団の皆様に近づいてきていた。

 髭面氏が、怯えた声でご機嫌をとろうとしている。

「いや、うちの親も歳だし」

「兄貴には迷惑かけませんので、ね?」

 はい、なるほどね。

 俺は理解した。あいつは、元々この村のゴロツキの元締めだった人だろう。

 ハンスさんが赴任して、あの人柄でゴロツキたちを自警団としてまとめあげてしまった──それを面白くなく思っているのが、あの男だ。

 どろりと淀んだ表情で、バスケットに入っているピタパンのサンドイッチを睨む。

「はっ、こんなメシで余所者に尻尾振りやがってよォ」

 誰に断ることもなく、男はバスケットに手を伸ばす。

 それを見ている誰も、その無体を止めることができない。きっとロクアット湖畔村に生まれ育った彼らは、彼の支配を長年受けてきたのだろう。小さな村のゴロツキの王。

 男はピタサンドに下品に齧りつく。

 ぐしゃ、ぐしゃ、と何度か咀嚼して──。

「はっ、貧乏臭ぇ」

 ピタサンドを──マリィさんが心を込めて拵えた差し入れを、地面に叩きつけた。

 ああ、ああ。大変に胸糞悪い光景だ。

「お、あ、ちょっと。兄貴。勘弁してくださいよ……あ、朝飯なんすよ」

「んー? なんだよ、文句あんのか。おい。餌付けされやがってよ」

 がしゃん、とさらに嫌な音がする。

 男が気だるげに話しながら、スープの入った鍋を蹴り飛ばした。残っていたスープが地面に巻き取らされる。

(……クソが)

 どろどろとした怒りが腹の中で渦巻く。

 こういうことは、ハイデル王城でも直面したことがある。それは例えば、下女たちの間で行われるイジメであったり、兵士や官僚たちの間で行われる威嚇まがいの『交渉』であったりとか。王城暮らしだった俺は、何度もそれを目にしてきた──そして、見て見ぬふりをしてきた。

 腐っても王弟である自分が口出しをすることはあるまじきことだと、そう言い聞かせられてきた。さらには、忌み子である俺が少しでも王城のなかで影響力を発揮することを、兄を擁立する皆様は極度に嫌っていた。

 俺は、それに従っていた。

 小さく縮こまって、心を硬く殺して。

「ふざけんな!」

 ──俺は、もう、やめたんだ。目を背けることも、賢しらぶることも。

「あ?」

「その人たちに謝れ」

 クマ男のほうに、まっすぐに足を進める。

 ガキサイズに身体が縮んでいることも、自警団の皆さんが「マジかお前」みたいな表情で硬直していることも、関係ない。

「なあ、謝れよ」

 繰り返した俺の言葉に、クマ男は嘲笑を返してくる。

「んあ? 誰だよ、おめーは」

「俺のことは関係ない。その人たちに謝れ。それから、ハンスさんにも、マリィさんにも」

「あー、はいはい。騎士殿のとこのアマが連れ込んだガキか」

 クマ男がへらへらと笑って舌なめずりをする。

 はいはい。獲物を見つけた的な演出ね。そういう小芝居ね……そういうの、反吐が出るんだ。

「ちょ、その子は関係ないっすよ兄貴!」

 さっき俺の頬をムニムニしてきた大柄な男が、俺とクマ男の間に割り込んできた。

 声が震えているし、腰が引けている。相当にビビっているんだろう。

「どいてろ、雑魚がよ」

「う、わ!」

 クマ男に押しのけられて、大柄氏がよろめく。

 なるほど、見た目よりも腕っ節が強い。力で他人を屈服させるのが手癖になっている人間特有の、躊躇いのない暴行によるものだ。

「……その人は関係ないだろ、俺だよ」

 クマ男を睨み付ける。

「俺が、お前に、言ってるんだ。その人たちに謝れ」

 十歳そこそこの子どもに突っかかられた小さなお山の大将は、ニヤけた顔を隠そうともせずに言った。

「ガキよぉ、この村で上手くやってくのに必要なこと、知ってるか?」

「知らないね。世間知らずなガキなんで」

 十メートル、五メートル、三メートル……どんどんクマ男との距離が詰まっていく。

「じゃあ、教えてやる!」

 俺は小さく口の中で呟く。

「……その属性は土、その有り様は潤滑」

 そして、次の瞬間。

「う、うわぁ~」

 棒読みにならないように、俺はなるべく情けない声をあげる。

 ほぼ同時に、俺に殴りかかろうとしたクマ男の足元が、ぬるりと滑る。

「うお!?」

 クマ男が地面にべしゃっと激突した。

「く、くそ」

「あ、あれぇ?」

 恥をかいたクマ男は、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。

「クソガキ、何をしやがった」

「何もしてないよ~!」

 まあ、これは嘘。嘘も方便。ちゃんと、何かしています。

「て、てめぇ。うわ」

 ぬるぬると滑る足元の泥に、クマ男がもんどりうつ。

「す、隙ありっ」

 俺はクマ男の首元に手を伸ばして、胸ぐらを掴む。もちろん、その前に魔術を練り上げておくことも忘れない。属性は風、その有り様は鎧。

「てめぇ、調子に乗りやがって……」

 クマ男が、リーチに入った俺を思い切り殴りつける──けれど。

「がぁ!?」

 悲鳴をあげたのは、クマ男のほうだった。

 こいつが殴ったのは俺じゃない。硬く凝固した風──空気の鎧だ。当然、殴った拳のほうにダメージが入る。

「いっっってぇ!」

 悶絶するクマ男。

 俺は淡々と事実を告げる。クマ男の耳元で、このクソ野郎にだけ聞こえるように。

「……これくらいで済んでよかったな。もっと痛くすることもできたんだが」

 これは半分事実で、半分嘘だ。

 今の俺に残っている魔力量だと、これが限界だった。まあ、元の状態──大人の俺なら、こいつの拳が砕けるくらいの術式を編むことは余裕だっただろうけれど。

「魔術って知ってるか?」

「あ?」

「便利なんだよ、魔術って」

 クマ男にだけ聞こえる声で囁く。

 俺が『修復』の魔術を使うことは、噂で聞いているだろう──だが、一般人の魔術に対する認識など、正直たかが知れている。

「モノを修理できるんなら、壊すことだって簡単にできる。お前のことバラバラに引き裂くこともな」

「ひっ」

 嘘も方便、その三。

 魔術というのは、そんな単純で便利なものではない。だが、効果は覿面だったようだ。

「な、なんなんだよ、まじで……」

 クマ男の目に怯えが混じる。いいね、存分に怯えてくれ。

 ずるずると、何度もぬかるみに躓きながら、クマ男が後ずさる。

「わ、悪かった! 悪かったよ」

「謝るのは俺じゃなくて、あっち」

「く……」

 胸ぐらから手を離してやる。

 すかさず、さっき交流を深めた髭面の男が、クマ男に飛びかかる。

「兄貴、いい加減にしてくれよ!」

 今だ、と思った。瞬間、俺はいくつかの魔術を練り上げる。

 具体的には、髭面氏がクマ男を圧倒するように支援した。

「「うお!?」」

「な、なんだ。お前……いままでそんな力……」

 髭面氏とクマ男が、共に驚いたリアクションをする。

 完全に視線が泳いでいるクマ男と、目が合った。

 俺は口の動きだけで伝える。

 ──謝れよ。

「あ、ぐ、わ……悪かったよ、クソ」

 クマ男はきょとんとしている自警団のみんなに雑に頭を下げて、そそくさと逃げようとする。



 ……おっと。一つ、やり残したことがあるな。

 

「なあ、ちょっと待ってくれ」

 逃げていこうとする男を呼び止める。

「あ?」

 俺は小さく男に耳打ちする。

「何か勘違いしているみたいだけど、俺なんかよりもずっと強い人がいるぞ」

「だ、誰だよそれは」

 うん。ここで明言しないのが大事。

「そんなのもわからないの?」

「く、くそ! このガキ、覚えてろよ」

 俺を軽く突き飛ばして逃げていく男の背中に、声をかける。

「本当に強い人ってのは、得てしてそうは見えないもんだ。……半端者には、特に」

 自警団の皆さんは、「おお」と唸っている。

 逃げ帰ったクマ男の背中を見届けて、俺は地面に落ちたピタサンドイッチを拾いあげた。

「……はぁ、くだらない奴」

 砂まみれになっているピタサンド。無理矢理に食べられそうなところを囓って、呑み込んだ。

 ああ、まったく腹が立つ。だが、少しは懲りてくれただろうか。なんて思っていたら。

 ──どん、と。

 背中に衝撃を受けた。

「お前、やるなぁ! ルゥ……いや、兄貴!」

 尻餅をついていた大柄さんが、いつの間にか俺の後ろに立っていた。

「えっ」

 いやいや、兄貴って。

 こっちは十歳くらいのキッズですよ。

「何が何だかわからねーけど、あいつと話つけるなんて……度胸が据わってるじゃねぇか!」

「そ、そうかな」

「ああ、そうだよ! かー、スカッとした」

 大柄氏と仲がいい髭面氏が頷く。

 その場にいた自警団の皆さんに取り囲まれて、身動きがとれなくなってしまった。

「ありがとうな、ルゥの兄貴。俺たちのために、あいつにもの申してくれるとは!」

「おう、さすがはハンス団長のとこの食客だなァ」

 ぶふっ、と思わず口の中に残っていた砂を吹き出す。

「食客じゃないって……」

「そうなのか? てっきり騎士見習いかと」

 そんなわけがないだろう。完全に保護者です、ハンスさんたちは。

 となると、荒事を起こしたのは不味かったかもしれない。荒事を起こしてヨシという場は、この世界だってほとんど存在しないけれど。

「あ、あの。俺があの人と喧嘩したのは、こう、秘密で……ハンスさんにバレると怖いんだ」

「おう、もちろんだぜ。兄貴!」 

「おお、兄貴が恐れるってことは、やっぱりハンス団長の腕って……!」

「ははは」

 はい、ここで否定も肯定もしない。

 これでハンスさんの株がさらに上昇することになる。

「とにかく、今日のことはナイショで!」

「おうよ!」

 男と男の約束だな、なんてマッチョなことをおっしゃる自警団の皆さんである。

 ん、兄貴?

(それにしても……なんか、清々しいな)

 怒りにまかせて、陰湿に力を振るう。

 決して褒められたことじゃないし、王族としても相応しくない。

 でも、俺を取り巻く人たちの笑顔を見ると……そう悪くない気分だった。

(んー、正義感の奴隷にだけはならないようにしないとな……!)

 自らの正義への固執。それすなわち、暴君への道だからね。

 とはいえ、腹の底に渦巻いていたこの世界への「クソが」という鬱憤が和らいでいるのは事実なわけで。うん、大事なモノを踏み躙られて澄まし顔でいるなんて、もう二度としたくないな。

 ──などと思っていたら、髭面氏がコソッと俺に耳打ちしてきた。

「でもさ、兄貴。アルルちゃんにはルゥの兄貴がカッコよかったって言っておくぜ!」

「え、は?」

「わかるよ、可愛いもんな。アルルちゃん」

 ……いや、そういうんじゃないから!



 その日の夜、ハンスさんが妙な表情で家に帰ってきた。

「ただいま……」

 マリィさんが炊事の手を止めて、首を傾げる。

「どうしたの、あなた」

「いや、なんだか村の皆さんが妙に私に対して丁重でね……?」

「はあ」

「特にこう、元気のいい若者からの視線がいつもと違うというか」

 しきりに首を傾げているハンスさん。

 俺は黙って、マリィさんを手伝って芋の皮を剥いていた。



◇◆◇



 ──男は焦っていた。

 湖の水面に映る目の下のクマが、日に日に濃くなる。

 居ても立ってもいられずに、村の防御策を出て、ただひたすらに歩いていた。

「くそ、俺が……この村のやつらを守ってたんじゃねぇのかよ……」

 小さい頃から腕っ節の強さだけが自慢だった。

 寒い朝に漁に出るほどの忍耐力もなく、外部との交渉をやっていけるほどの人当たりの良さもない。

 だから、男は考えた。その腕っ節で、居場所を作ろうと。生意気な人間をしばき倒して、大人しくさせた。治安維持だ。ついでに、子分や弟分たちを引き攣れて、たまに村の近くに現れるちょっとした魔獣を撃退したりもしていた。もちろん、村人たちから謝礼をいただいていた。当然の権利だ。

「なんなんだよ、騎士の野郎も、あのガキも……!」

 あの冴えない騎士が来てからすべてがおかしくなった。

 はじめは、あんな優男の中年に何ができるものかと馬鹿にしていた。

 自警団に入らないかという誘いは、考えるまでもなく断った。男にとっては必要のない誘いだったし、あの騎士だって少し経てばいなくなるはずだった。実際、男は何度かあの騎士──ハンス・ヴィッテルに嫌がらせのようなものを仕掛けたのだ。

 だが、一人、また一人と、ハンスにけしかけた仲間が、奴の自警団に加わっていった。

 いい人だから、とか、恩がある、とか。ワケのわからないことを言って、ハンス・ヴィッテルを慕うようになったのだ。

 男の居場所はなくなった。

 あれだけ感謝されていた魔獣退治も、男が大量の蜘蛛型魔獣に手を焼いて村への侵入を許してしまってから、まったく依頼が来なくなった。あの大量の蜘蛛だ。仕方がないではないか。そう、仕方ないのだ。

「あいつら、頭悪ぃんだよ! どうせ取り巻きで終わるんだよ、何が騎士様だ……!」

 男は苛立ちを、目の前に垂れ下がってきたツルにぶつける。手にしていた混紡で思い切りツルをぶん殴る。



 弟分や子分たちが、弱いのが悪い。

 あんなに大量の蜘蛛が湧くのが悪い。

 村人たちが男に頼り切りなのが悪い。



 ──何が悪かったのだろう。

 なぜ、男は今、こうして焦燥感に駆られているのだろう。

「手柄だ……手柄さえ、立てれば」

 そうすれば、またこの村に男の居場所はできるはずだった。方法は考えてある。

 あの蜘蛛どもを産み出す親玉を、自分が倒せばいい。

 ハンスが取り巻きの騎士団員たちと話しているのを立ち聞きした。

 なんでも、東の断崖にあいた穴──洞窟にアリアドネとかいう蜘蛛の魔獣が住み着いているらしい。

 たかが、魔獣一匹。

 それならば、男にも潰せるだろう。

「とにかく、あのすばしっこい魔獣(やつ)らが大量にいるのが、ダメだったんだ。そうでなけりゃ……一匹程度なら、俺だって」

 産卵を終えた、蜘蛛一匹程度なら。

 ……そう。今から、一人でも狩りにいけるはずだ。