「死んだ、ですか?」
平坦な、感情の伺えない声がハイデル城の廊下に響いた。
声の主はコルネリア・グレージュ。ハイデル王国の正規軍に所属する魔術師だ。数少ない魔術の才を持った人間──そのなかでも、大賢者魔術師ルーデンス・ハイデルベルクと同じく、生まれ持った魔術以外にも、多種多様な魔術を操ることのできる希少な魔術師だ。
平素はルーデンスの秘書官として勤めている。
暗い灰色の髪に赤みがかった紫の瞳を持つコルネリアは、平素はフードの奥に隠している美貌を歪めた。
十八歳という年齢とコルネリアの美貌は、ハイデル城のなかでも異彩を放っている。
コルネリアの前に立っているのは、悲壮な表情で立ち尽くしている男──近衛伝令団長である。
「ブルーノ、それは本当ですか?」
「残念ながら」
近衛伝令団長ことブルーノは項垂れる。
コルネリアは返事をせずに、じっとブルーノを睨み付ける。
死んだ。
コルネリアの上長であり、ハイデルの王弟であるルーデンス・ハイデルベルクが。
ハイデルの城下で地面を這いつくばる戦災孤児だったコルネリアを掬い上げてくれた、大賢者が──師匠が、死んだ?
「嘘ですね」
コルネリアは即答していた。
考えて発した言葉ではない。嘘だと、直感した。
「嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をついてください。ブルーノ」
「そんな不敬な嘘をつくものですか。しかし、呼び捨てってひどいな。一応は近衛伝令団を預かっている身ですけど」
「関係ない。今は公式な場でもないですし」
ブルーノはこれ見よがしに肩をすくめる。
「まあ、いいでしょう。そのほうが、あの御方の弟子らしい……あなたのお師匠は最後まで僕の名前も覚えてくださらなかったですし」
「…………」
コルネリアは周囲を行き交う人間の様子に、耳をそばだてる。
どうやら、ルーデンスの訃報などという馬鹿げた与太話はすでに公に報告されているようだ。
だが、慌ただしさはない。仮にも王弟の逝去、大賢者の不在という事態にも拘わらず……だ。
コルネリアの師匠が冷遇されているのは、今に始まったことではないとはいえ、腹立たしいことこのうえない。
ハイデル城周辺の防衛戦が退けた、巨大なドラゴン型魔獣──アレを退けたのは、ルーデンス・ハイデルベルクの尽力があってこそだ。その献身を、この人たちは一体なんだと思っているのか。
──それに。
「……愚かなことです」
ぼそりと吐き捨てた言葉は、目の前に立っているブルーノを鼻で笑わせただけだった。
あの人を早く探さなくては。こんなところで、グズグズしてはいられない。
コルネリアはすぐにその場を立ち去ろうと、踵を返そうとした──そのとき。
「お待ちを、コルネリア殿」
「どいてください、ブルーノ。忙しいので」
「いえ、ただ少々……そうですね、今宵にでも杯を共にできないかと」
「どういうこと?」
「献杯を捧げましょう。……我らがハイデル王国を守って散っていった、哀れなルーデンス・ハイデルベル王弟殿下に」
パシン、と乾いた音が響く。
コルネリアの平手が、ブルーノの頬を叩いた音だった。
ブルーノはコルネリアと同じく、平民出身だ。一兵卒から近衛伝令団長まで立身出世してきた手腕は本物である。甘い言葉と整った顔貌でもって、身分の高低を問わず人の懐に潜り込む。
だが、コルネリアにはその手は通じない。
「……恥を知りなさい」
コルネリアは直感していた。
ルーデンス・ハイデルベルクは、死んでなどいない。
そして、ブルーノという男は信用できない。
(探さなくちゃ、師匠を)
コルネリアは足早にハイデル城の廊下を突っ切る。
あの人がいないのならば、こんな場所には用はない。
まったく、嘆かわしい。
ハイデル王国の人間は、ルーデンス・ハイデルベルクの価値をまるでわかっていないのだ。本人でさえ。
「なあ、王都の西で小型の魔物が目撃されたらしいぞ」
「今まで、こんなことはなかったはずだが」
不安げな世間話が聞こえる。
(ああ、そういえば師匠が結界の修復をしないととかおっしゃってましたね)
彼が人知れずに、そして人智を超えた技でもって、ハイデル王国に貢献してきたことを、皆は気づいてすらいないのだ。だから、彼の不在を平気な顔で受け入れていられる。
どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ。
荷物を纏めるのは簡単だ。
横たわったコルネリアが三人分でいっぱいになってしまう小さな部屋である。
積み上げた魔術書の内容は、すべてコルネリアの頭の中にある。置いていったとて、どうせハイデル城のやつらは魔術書の価値などわからないだろう。
「それではお世話になりました」
簡単な片付けと、自分の痕跡を消す作業をして、ぺこりと頭を下げる。
世話になったのはルーデンスであって、この部屋にではないのだけれど。
結局、コルネリアが持ち出すのは背嚢一つだけ。容量にはまだまだ余裕があるから、城下で旅支度を調えよう。
(少しでも早く、ルーデンス師匠を探さなくては)
足早に廊下を歩く。
お世辞にも身ぎれいとはいえない旅支度のコルネリアを見ても、誰も声をかけてはこない。
魔術を使うコルネリアたちは、いつだって遠巻きにされている。それでいて、いいように利用されている。都合のいいときだけ。
あるいは──。
「コルネリアか。一体どこへ?」
はりのある青年の声が、コルネリアを呼び止めた。
ハイデル王国現王、アルベルトだった。
ルーデンスの兄であるアルベルトは黄金の髪と青い瞳、整った容姿。陽気で気さくな人柄で親しまれている。コルネリアからすれば、すべての責務から距離を取って、身分不相応な自由を謳歌しているだけにしか見えないが。
「国王陛下」
コルネリアは最敬礼で頭を垂れる。
それを制したアルベルトは、さも心配そうな表情を作った。
「コルネリアよ、その装束は?」
「……陛下はルーデンス殿下のことを?」
コルネリアの質問に質問で返す不敬を意にも介さず、アルベルトは表情を沈痛なものに変える。
「ああ、ああ。もちろん報告は聞いている。誠に残念なことだ」
残念なこと。
それだけか、たったそれだけなのか。
コルネリアは腹の底から怒りがこみ上げるのを、必死で堪えた。
アルベルトは伏せていた瞼をあげて、コルネリアの手を取った。振り払うことなど、もちろんできない。コルネリアのような庶民出身の人間が、こうしてアルベルトと言葉を交わしていることがすでに不敬であり、アルベルトの寛大なる慈悲の賜なのだから。
「……ところで、コルネリア。きみの身の振り方についてだが」
「はい?」
身の振り方?
今から、この狭苦しい城を出て行こうとしているのが見えないのか。
「きみは魔術の才があるのだろう、コルネリア。ルーデンスに拾われたのは、それが理由だと聞いているよ。ねえ、コルネリア」
私の名前を連呼するな、と吐き捨てそうになってコルネリアは唇を結ぶ。
ぶん殴ってやろうか、と心から思う。
「すまなく思う。我が弟は少しばかり憂鬱症の気があったから……拾った子のことまで、考えが及んでいなかったのだろう」
「陛下は、何をおっしゃろうとしているのでしょう」
「ああ、直截な言い方をすれば──俺の恋人にならないか?」
「は、はい?」
恋人。
なんだ、それは。
「もちろん妃とはいかない。きみは庶民だから」
「それで?」
「だから、恋人だ。妙案だろう。君の身柄はルーデンス預かりだったから、今まで私は身を引いていたが……コルネリア。私の恋人として城に留まらないか? 後ろ盾がいなくなっても、悲観して出奔することはな──」
「失礼いたします、陛下」
思わず話を遮って、コルネリアはアルベルトに背を向ける。
やっていられない。
「な、コルネリア──!?」
アルベルトが追いすがってくるのに目も向けず、魔術を紡ぐ。
「属性は水、性質は蜃気楼」
コルネリアは水蒸気で自らの姿をくらました。
師匠であるルーデンスよりも上手く操れる、数少ない術式だ。
コルネリアは急いで必要物資を調達して、ハイデル城下町を抜ける。
早く会いに行かなくては。
──必ず生きているはずの師匠に、ルーデンス・ハイデルベルクに。
平坦な、感情の伺えない声がハイデル城の廊下に響いた。
声の主はコルネリア・グレージュ。ハイデル王国の正規軍に所属する魔術師だ。数少ない魔術の才を持った人間──そのなかでも、大賢者魔術師ルーデンス・ハイデルベルクと同じく、生まれ持った魔術以外にも、多種多様な魔術を操ることのできる希少な魔術師だ。
平素はルーデンスの秘書官として勤めている。
暗い灰色の髪に赤みがかった紫の瞳を持つコルネリアは、平素はフードの奥に隠している美貌を歪めた。
十八歳という年齢とコルネリアの美貌は、ハイデル城のなかでも異彩を放っている。
コルネリアの前に立っているのは、悲壮な表情で立ち尽くしている男──近衛伝令団長である。
「ブルーノ、それは本当ですか?」
「残念ながら」
近衛伝令団長ことブルーノは項垂れる。
コルネリアは返事をせずに、じっとブルーノを睨み付ける。
死んだ。
コルネリアの上長であり、ハイデルの王弟であるルーデンス・ハイデルベルクが。
ハイデルの城下で地面を這いつくばる戦災孤児だったコルネリアを掬い上げてくれた、大賢者が──師匠が、死んだ?
「嘘ですね」
コルネリアは即答していた。
考えて発した言葉ではない。嘘だと、直感した。
「嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をついてください。ブルーノ」
「そんな不敬な嘘をつくものですか。しかし、呼び捨てってひどいな。一応は近衛伝令団を預かっている身ですけど」
「関係ない。今は公式な場でもないですし」
ブルーノはこれ見よがしに肩をすくめる。
「まあ、いいでしょう。そのほうが、あの御方の弟子らしい……あなたのお師匠は最後まで僕の名前も覚えてくださらなかったですし」
「…………」
コルネリアは周囲を行き交う人間の様子に、耳をそばだてる。
どうやら、ルーデンスの訃報などという馬鹿げた与太話はすでに公に報告されているようだ。
だが、慌ただしさはない。仮にも王弟の逝去、大賢者の不在という事態にも拘わらず……だ。
コルネリアの師匠が冷遇されているのは、今に始まったことではないとはいえ、腹立たしいことこのうえない。
ハイデル城周辺の防衛戦が退けた、巨大なドラゴン型魔獣──アレを退けたのは、ルーデンス・ハイデルベルクの尽力があってこそだ。その献身を、この人たちは一体なんだと思っているのか。
──それに。
「……愚かなことです」
ぼそりと吐き捨てた言葉は、目の前に立っているブルーノを鼻で笑わせただけだった。
あの人を早く探さなくては。こんなところで、グズグズしてはいられない。
コルネリアはすぐにその場を立ち去ろうと、踵を返そうとした──そのとき。
「お待ちを、コルネリア殿」
「どいてください、ブルーノ。忙しいので」
「いえ、ただ少々……そうですね、今宵にでも杯を共にできないかと」
「どういうこと?」
「献杯を捧げましょう。……我らがハイデル王国を守って散っていった、哀れなルーデンス・ハイデルベル王弟殿下に」
パシン、と乾いた音が響く。
コルネリアの平手が、ブルーノの頬を叩いた音だった。
ブルーノはコルネリアと同じく、平民出身だ。一兵卒から近衛伝令団長まで立身出世してきた手腕は本物である。甘い言葉と整った顔貌でもって、身分の高低を問わず人の懐に潜り込む。
だが、コルネリアにはその手は通じない。
「……恥を知りなさい」
コルネリアは直感していた。
ルーデンス・ハイデルベルクは、死んでなどいない。
そして、ブルーノという男は信用できない。
(探さなくちゃ、師匠を)
コルネリアは足早にハイデル城の廊下を突っ切る。
あの人がいないのならば、こんな場所には用はない。
まったく、嘆かわしい。
ハイデル王国の人間は、ルーデンス・ハイデルベルクの価値をまるでわかっていないのだ。本人でさえ。
「なあ、王都の西で小型の魔物が目撃されたらしいぞ」
「今まで、こんなことはなかったはずだが」
不安げな世間話が聞こえる。
(ああ、そういえば師匠が結界の修復をしないととかおっしゃってましたね)
彼が人知れずに、そして人智を超えた技でもって、ハイデル王国に貢献してきたことを、皆は気づいてすらいないのだ。だから、彼の不在を平気な顔で受け入れていられる。
どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ。
荷物を纏めるのは簡単だ。
横たわったコルネリアが三人分でいっぱいになってしまう小さな部屋である。
積み上げた魔術書の内容は、すべてコルネリアの頭の中にある。置いていったとて、どうせハイデル城のやつらは魔術書の価値などわからないだろう。
「それではお世話になりました」
簡単な片付けと、自分の痕跡を消す作業をして、ぺこりと頭を下げる。
世話になったのはルーデンスであって、この部屋にではないのだけれど。
結局、コルネリアが持ち出すのは背嚢一つだけ。容量にはまだまだ余裕があるから、城下で旅支度を調えよう。
(少しでも早く、ルーデンス師匠を探さなくては)
足早に廊下を歩く。
お世辞にも身ぎれいとはいえない旅支度のコルネリアを見ても、誰も声をかけてはこない。
魔術を使うコルネリアたちは、いつだって遠巻きにされている。それでいて、いいように利用されている。都合のいいときだけ。
あるいは──。
「コルネリアか。一体どこへ?」
はりのある青年の声が、コルネリアを呼び止めた。
ハイデル王国現王、アルベルトだった。
ルーデンスの兄であるアルベルトは黄金の髪と青い瞳、整った容姿。陽気で気さくな人柄で親しまれている。コルネリアからすれば、すべての責務から距離を取って、身分不相応な自由を謳歌しているだけにしか見えないが。
「国王陛下」
コルネリアは最敬礼で頭を垂れる。
それを制したアルベルトは、さも心配そうな表情を作った。
「コルネリアよ、その装束は?」
「……陛下はルーデンス殿下のことを?」
コルネリアの質問に質問で返す不敬を意にも介さず、アルベルトは表情を沈痛なものに変える。
「ああ、ああ。もちろん報告は聞いている。誠に残念なことだ」
残念なこと。
それだけか、たったそれだけなのか。
コルネリアは腹の底から怒りがこみ上げるのを、必死で堪えた。
アルベルトは伏せていた瞼をあげて、コルネリアの手を取った。振り払うことなど、もちろんできない。コルネリアのような庶民出身の人間が、こうしてアルベルトと言葉を交わしていることがすでに不敬であり、アルベルトの寛大なる慈悲の賜なのだから。
「……ところで、コルネリア。きみの身の振り方についてだが」
「はい?」
身の振り方?
今から、この狭苦しい城を出て行こうとしているのが見えないのか。
「きみは魔術の才があるのだろう、コルネリア。ルーデンスに拾われたのは、それが理由だと聞いているよ。ねえ、コルネリア」
私の名前を連呼するな、と吐き捨てそうになってコルネリアは唇を結ぶ。
ぶん殴ってやろうか、と心から思う。
「すまなく思う。我が弟は少しばかり憂鬱症の気があったから……拾った子のことまで、考えが及んでいなかったのだろう」
「陛下は、何をおっしゃろうとしているのでしょう」
「ああ、直截な言い方をすれば──俺の恋人にならないか?」
「は、はい?」
恋人。
なんだ、それは。
「もちろん妃とはいかない。きみは庶民だから」
「それで?」
「だから、恋人だ。妙案だろう。君の身柄はルーデンス預かりだったから、今まで私は身を引いていたが……コルネリア。私の恋人として城に留まらないか? 後ろ盾がいなくなっても、悲観して出奔することはな──」
「失礼いたします、陛下」
思わず話を遮って、コルネリアはアルベルトに背を向ける。
やっていられない。
「な、コルネリア──!?」
アルベルトが追いすがってくるのに目も向けず、魔術を紡ぐ。
「属性は水、性質は蜃気楼」
コルネリアは水蒸気で自らの姿をくらました。
師匠であるルーデンスよりも上手く操れる、数少ない術式だ。
コルネリアは急いで必要物資を調達して、ハイデル城下町を抜ける。
早く会いに行かなくては。
──必ず生きているはずの師匠に、ルーデンス・ハイデルベルクに。



