大賢者って、大仰な二つ名だよな。
王弟殿下も大賢者様も、他人に呼ばれて気持ちのいい呼称じゃない。サイズの合わない靴を履いているみたいに、居心地が悪かった。一応はルーデンスって名前があるんだから、呼んでくれてもいいのにって、ずっと思っていた。言わないけど。
この世界では魔術師が希少だって話をしたよね。
少し語弊があって、ハイデル王国における魔術師は『今は希少』な存在なんだ。
昔は魔術が盛んだった頃もあったらしくて、城の図書館に文献だけはたくさん残っている。要するに、魔術ってのはロストテクノロジーだったわけだね。
でも、魔術を使う人間がゼロだったわけでもない。
一応は、ハイデル王国にはごく稀に魔術の才能を持った特別な人間が産まれることがあるんだ。ただし、その『魔術師』が生涯で使えるのは、いくつかの非常に原始的な魔術だけ。本人がなにかのきっかけで偶然開発したもの──たとえば、火を出すとか、水を操るとか、そういう単純な術を使えるにすぎなかったんだ。ほとんどの場合はビックリ隠し芸の域を出ないものばかり。
で、俺がどうして大賢者なんて呼ばれてるか。
俺がこの世界に持って生まれた、たった一つの魔術が原因だ。
──『修復』。
なんの属性も持たない、地味な魔術だ。
俺は壊れてしまった、あるいは失われてしまったものを修理することができる。
でもね。俺の『修復』の得意分野は、魔術だった。魔術書や文献、あるいは遺跡に残っている魔術の痕跡(俺は『魔法術式』と呼んでいる)を修復して、俺はこの世界に魔術を蘇らせたわけだ。たとえば、ハイデル城を中心とした大結界とかね。俺が独力で編み出したわけじゃない。
それなのに、いつの間にやら俺は『大賢者様』としてヴァル=ネクルとの戦いの最前線に立つようになっていた。魔族や魔獣と戦うのに、俺の修復した魔術は都合がよかったんだ。忌み子である俺にも、一応は居場所ができた。
その時点では、俺は世界で唯一の魔術師だったともいえる。魔術をなんとなく使えるというレベルの人たちは、自分を魔術師とは呼ばないんだ。魔術使いって単語がハイデル王国では一般的かな。
でも。せっかく修復した『魔術術式』も、俺が独占してたんじゃ意味がない。
魔術を使う才能がある人間なら、誰でも複雑な魔術を使うことができる方程式みたいなものだからね。
だから、俺は魔術の才能のある人間を探して、魔術師を増やそうとしていた。孤児だったコルネリアを拾って魔術の手ほどきをしていたのも、そういう理由だ。
あとはまあ、少し寂しかったというのもある。
誰も俺のことを、名前で呼んでくれない状態は、やっぱり空しい。
だから、ね。
俺と同じように『魔術師』が増えたら、俺のことをただのルーデンスとして呼んでくれる人がいるんじゃないかと期待してた。
結局、魔術師が少しばかり増えたところで、俺はこう呼ばれるようになった。
──『大賢者様』ってね。
ちょっと拍子抜けだったけれど、別にいいんだ。耐えられる。
……人生、耐えることばかりだった。
◇◆◇
「ルゥくん、ルゥくん! すごい、私、才能が開花しちゃったかも!?」
アルルさんは意気揚々と街道を歩いている。
風精霊を操って魔獣をやつけたのが、相当に嬉しいらしい。超ご機嫌だ。
「精霊術って、すごいんだね」
「まあね! でも、ルゥくんと会ってからグッと風精霊様の加護が強力になった気ががするよ。これが守るべきものを背負った強さってことかな」
「そうかもね」
「それに、道案内も助かったよ~!」
「は、はは……」
死ぬかと思ったよ。
はい。アルルさんは、まさかの俺を超える方向音痴でした。
あの森にいたのも、迷子だったんだって。
というか、俺は今まで魔術に頼りきりで、自分で方向を見て歩くってことを怠っていただけだったということが判明したんだ。
前世の中学で習った理科の知識が大いに役に立ちました。この世界の太陽も東から登って西に沈み、いわゆる北極星ってものも存在する。
あとは、ひたすらに歩くだけ。いやあ、できないって思い込むのはよくないね。……自分が殺されるほど疎まれていることにも気づかなかったことといい、恥ずべきことだ。
思い込みってよくない。まじで。
そういうわけで、俺の知識を総動員してどうにか森を抜けてからは、小さな宿場が転々とあったので、屋根に困ることもなかった。
ただ、途中で何度か危険な目にあったのだ。魔獣とか、追い剥ぎとか。今の俺のサイズでも十分に対処できるレベルの危険がね。
とはいえ、アルルさんだって一人旅をするだけの実力があった。
数時間前も、獰猛な野獣をねじ伏せたところだ。アルルさんは風の精霊術を巧みに操って、小さな俺を守るべく勇敢に戦ってれくた。本来のアルルさんの専門は風精霊の加護による治癒術なのだろうが、彼女の中には『戦う美少女』への憧れがあるらしい。俺もほんの少しだけ内緒で手助けはしたけどね。
「ほら、ほら。ルゥくん、安心して着いてきてね。もうすぐ、お父さんの赴任地だから!」
「う、うん」
歩いて、歩いて、歩いた。
本当にひさしぶりによく歩いている。王城住まいで魔術研究なんてしていると、まあ必然的に引きこもりになるからね。
いざ魔族と事を構えることになったら、戦馬に乗ったり、あるいは俺だけが使える飛翔魔術で敵軍を攪乱したり……長距離を歩くなんて、あんまり経験してこなかった。
あ、ちなみに、ぶかぶかの靴による靴擦れはその都度アルルさんに治療してもらっているから快適だ。落ち着いたら、まずは靴と服を調達しないとな。万全の状態で、殺人犯どもに復讐する必要がある。
◇◆◇
「あ、見えてきたよ」
小さな雑木林を突っ切って、ゆるりと小高い丘に登ったところで、集落が見えてきた。
堅牢そうな造りの防御策に囲まれている。人口はだいたい五十世帯くらいかな。
南側には、今俺たちが立っているゆるっとした小高い丘。
東側に切りたった岩山があって、西側には森がある。
そして、北側には湖が。
なんというか、『孤立』って単語がどこからともなくポップアップしてくる。そんな光景である。
「小さな村でしょ。でも、この村は昔から辺境伯の騎士団に干し魚を供給してくれるんだ」
「干し魚か」
なるほど、兵糧ってやつだ。
物流がちゃんとしているって強いよ。
「でも、最近は岩山から魔獣が出てきてるらしくて。それで、お父さんがこの村の守護になったってわけ」
「出世だね」
「んー、どうかな。お父さん、ちょっと抜けてるところあって……シュタイナー辺境伯騎士団でお仕事してるって、いまだに信じられないんだよね」
アルルさんがちょっと肩をすくめる。おお、年頃の娘仕草だ。
わかるよ、父親の仕事場での姿って想像つかないよね。
「ところで、アルルさん」
「ん?」
「……なんだか、騒がしくない?」
もう目と鼻の先になった集落だが、防御策の向こうがかなり賑やかだ。
柵の間から観察してみると、村人らしき人たちが逃げ惑っている。これは穏やかじゃない。
集落への出入り口はすっかり開け放たれている。見るからに緊急事態だ。というか、村の人たちは何から逃げているんだ。
「蜘蛛だ!」
村人を追いかけ回しているのは、蜘蛛だった。しかも、かなりデカい。小柄な大人くらいある。気持ち悪い。毛深い足がウゾウゾ動き、口元がモゾモゾと蠢いている。動きもカサカサしてるし、びょんびょん跳ねるし。うげ、ビジュアル最悪。
ああ、もちろんこいつらは魔獣だ。蜘蛛型魔獣。
「まずいな、行こう」
「え、ちょ、ルゥくん!?」
走り出した俺のあとから、アルルさんが着いてくる。
魔術でこいつらを蹴散らすのもいいが、あまり知らない土地で暴れるのはよろしくない。ハイデル王国一帯では、人間業を超えた魔術を使う者イコール魔族という考えが一般的なのだ。不要な混乱は避けたい。
俺は走った。
アルルさんなら、やってくれる。
(って。なんか足遅いな、俺……!)
産まれてから、身体を鍛えるってことをしてこなかった。変に鍛えると、兄への謀反を企てるために力を蓄えてるとか思われるし。ちなみに魔術だって、そうだ。どんなに強力な魔術を手に入れても、みだりに使うことは許されなかった。魔王国との戦いのときにだけ魔術師として戦地に赴くよう命令され、命がけで戦うことで存在を許されていた。
さらに、今の俺は子どもなので、物理的に足が短いんだよね……。
でも、なんとかなった。
蜘蛛型魔獣たちがワラワラといる広場っぽいところにたどり着く。
逃げ遅れている村人と蜘蛛型魔獣の間に飛び込む。
瞬間、小声で魔術を発動する。
「……属性は風、その有り様は堅牢なる盾」
俺の周りの風──空気が圧縮されて、見えない盾を構築する。飛びかかってきた蜘蛛型魔獣が壁に激突して、べちゃっと地面に落下して、頭の上に「?」を出している。
俺はできる限り大きな声で叫んだ。
「あ、アルルさん! 助けてー!」
俺の声が響いて、アルルさんが杖を掲げる。
……今の大丈夫だよな、白々しくなかったよな?
「わ、我が声に応えよ! 風精霊!」
アルルさんが掲げた杖の先、芯のないランタンから新緑色の風が吹く。風精霊だ。
(よし、今だ)
アルルさんの風精霊が吹かせる鋭い風が、蜘蛛型魔獣たちをその場に釘付けにしている。必要なのは、あとほんの少しの決定打だけだ。
俺は小声で魔術を編み上げる。
「属性は風、その有り様は……鋭き槍」
魔術を放ったその瞬間、蜘蛛型魔獣たちのどてっ腹に穴が空く。思ったよりも柔らかい、幼体なのかもな。
目に見えない風に貫かれた蜘蛛たちが、バラバラと崩れ落ちる。
逃げ回っていた村人たちが蜘蛛たちの惨状を見て、ちょっと悲鳴をあげ──喝采した。
「精霊使いだ! ああ、助かった!」
「もしかして、守護騎士さんの娘さんじゃないか?」
「ああ! 例の……」
杖を構えていたアルルさんに注目が集まる。
「あ、えへへ。ども!」
アルルさんはそれに気づいて、ちょっと照れたようにぺこりと頭を下げる。
その間に、俺は耳を澄ませた。
(……まだやりあってるな)
今の一撃ですべての蜘蛛を駆逐できたわけではない。
まだ蜘蛛型魔獣から村を守るべく戦っている声がする。「そっちに行ったぞ!」とか「隠れろ、隠れろ!」とか。かなり緊迫感がある。
(あ、でもあっちは大丈夫そうかな?)
俺の目が届く範囲にいる魔獣をバシバシ貫きながら、声の方に近づいていく。
村人たちは、アルルさんを取り囲んであれこれ質問攻めにするのに忙しいみたいで、俺の方には注意を向けていない。アルルさんもそれどころじゃなさそうだし。
そうこうしているうちに、向こうから屈強な集団がやってくる。武装している。ってことは、彼らがシュタイナー辺境伯が派遣した守護団だろう。
「……ふぅ、みんな無事かい?」
枯れた感じの中年男性が、やれやれといった風にやってきた。
人だかりを掻き分けて、アルルさんが男に駆け寄る。
「お父さま」
「……アルル?」
「はい、ただいま帰りました」
誇らしそうにアルルさんは胸を張った。
◇◆◇
騎士団から派遣された守護が住んでいる邸宅。
そんなイメージからは想像できない、質素な家だった。
俺たちを向かえ迎えてくれたのも、やっぱり騎士という煌びやかな称号とはほど遠い、素朴なおじさんだった。甲冑を脱ぐと、ホントに普通のおじさん。
アルルさんの父はハンス・ヴィッテルさんという、優しげな男の人だった。くるくるとした麦色の癖毛に、目尻の皺が深い垂れ目が優しげな印象。とはいえ、よくよく体つきを見ると鍛えているのがわかる。
「そうか、アルルが世話になったね」
お茶をご馳走になりながらアルルさんから事情を話してもらうと、ハンスさんが快活に笑った。
いい顔立ちだな、と俺は思った。こういう年の取り方をしたい。まあ、まずは大人サイズに戻るところからだけど。
「いえ、俺の方がお世話になってて」
「あはは。アルルは私たちの自慢の娘だが、少しお喋りだろう。気疲れしていないかい?」
と、ハンスさん。
「それは、まあ。大丈夫です」
実際、かなり口数が多いほうだとは思うが──アルルさんのお喋りはむしろ助かったくらいだ。暗殺未遂、子ども化、こんな状況でも余計なことを考え過ぎずに済んだからね。
「アルルも立派になったね、助かったよ……あの蜘蛛、このところ目撃情報が多くて警戒していたんだが」
「ふふ、お父さま。アルルはいつまでも子どもじゃありませんよ!」
「まだまだ子どもだよ、私からしたらね」
「んもう!」
ぷぅっと頬を膨らませていたアルルさんが、居住まいを正す。
「それで、お父さま。この子……ルゥくんをうちで世話してあげられない? 事情は話した通りです」
アルルさんにならって、俺も頭を下げる。
「そうか、私としては構わないが……」
ふむ、とハンスさんは考えこむ。
万が一、ここで断られても仕方ないなと、と俺はぼんやりと考える。守護としてこの集落に着任したばかりだし、イレギュラー対応は避けたいよね。
「いいじゃありませんか、あなた。しばらくの間でしたら、問題ないでしょう?」
助け船を出してくれた優しげな女性はマリィさん。彼女はハンスさんの奥方……つまりアルルさんのお母さんだ。
アルルに似た藍色の長い髪を、ゆるく編み込んで肩に垂らしている。ハンスさんよりちょっと若いのに、おっとりとした安心感がある。
お茶のお代わりを淹れてくれたマリィさんは俺ににっこりと微笑んで、「それに」と付け加える。
「あなた。顔に書いてありますよ。断りたくないって」
「はは。そうかな。ありがとう、マリィ」
ハンスさんとマリィさんの間に流れる、穏やかで柔らかな空気……これは、子どもが巣立った中年期を迎えてなお、ラブラブなご夫婦とみた!
「よかったね、ルゥくん」
アルルさんが、俺以上に喜んで食卓から勢いよく立ち上がる。彼女の天真爛漫で善良な性格はヴィッテル家の環境のおかげなんだろう。
王家の忌み子、ハイデル城の腫れ物として生きてきた俺には、ちょっと眩しすぎるね。
「……あっ」
アルルさんが息を呑む。
なんだ、とアルルさんが見ているほうを振り返ると。
「まだいたのか、この蜘蛛……!」
蜘蛛型魔獣が、窓から侵入しようとしていた。
(討ち漏らしてたか、しまったな……)
でも、ここには幸い手練れであろうハンスさんもいる。俺が派手な魔術を使わずとも、対処は難しくないはず──そんなことを、一瞬にも満たない時間でグルグルと思考して、検討していた──そのとき。
誰よりも早く、アルルさんが動いた。
「我が声に応えよ、風精霊!」
おお、素早い。
一陣の風が蜘蛛型魔獣を吹き飛ばす。あの勢いなら、集落の外まで吹っ飛んだだろう。
アルルさん、この短期間で本当に腕を上げているな。
「ふふん、今の私は調子いいんだから」
アルルさん、自信満々である。
でも、本当にその自信が実力につながっているみたいだ。
「大丈夫、ルゥくん?」
「うん。ありがとう、アルルさ……うわ!」
「ほぎゃ!」
慢心って怖いね。
……アルルさんが、こけた。
それも、盛大に。
「あだ! え、あ? うわああ、杖が!」
アルルさんの杖──長杖の先端に、風精霊を封じたランプが括り付けられているファンタジックなデザインのやつだ。その杖が、アルルさんが倒れ込んだ勢いで地面に叩きつけられる。
「あ、うわあ……」
ガッシャン、と。
残酷な音が響き渡る。
ランプを覆ってるガラスが、バキバキに割れてしまった。ああ、無情。この世界でガラスって結構な高級品なのに。
気まずい沈黙。
「や、やばいぃ!」
アルルさんの悲鳴が響き渡る。
その瞬間だった。
ヴィッテル家の中を、ひゅうひゅうと風が吹き出した。
「か、風が!」
家の中で暴れているのはランプから飛び出した風精霊だ。
上から下から、左右から、風がびゅうびゅう吹いている。
「きゃあ!」
マリィさんの長いスカートが風に舞い上がる。夫であるハンスさんが、大慌てで裾を押さえている。なんでそんなに初々しいのか、この中年夫婦は。
「アルルさん、これって」
「風精霊がはしゃいじゃってます!」
「はしゃいでるの?」
「楽しいことが大好きな精霊さんなので……はやくランプに入れないと……」
「どうなるの?」
「たぶん、はしゃぎすぎて……竜巻が起きます」
「えええっ」
竜巻って、まじですか。
◇◆◇
アルルさんが、青い顔で呟く。
「やばやば。風精霊は風精霊を呼ぶ、っていう性質があるんだよ。このままじゃ大嵐になるかも……」
竜巻。大嵐。
こんな集落の真ん中でそんなものが起きたら、大変なことになってしまう。
湖が近い分、水害も心配だ。
集落の北側にある湖はかなり巨大だ。海って言われたら一瞬信じるくらい。それくらいになると、波もあるんだよね。
「……漁師の小舟に被害があったらまずいな」
ハンスさんが低く唸る。
さっきまでイチャついていたハンスさんとマリィさんが、きりっと引き締まった表情で何かを話し合っている。
「大変。村の人たちに少しでも被害をだすわけにはいかないわ」
「マリィ、すぐに避難を促してきてくれ」
「はい、あなた」
ハンスさんとマリィさんが阿吽の呼吸で動き出す。
自分たちの家財よりも、集落の安全を第一に動いているらしい。
俺は思った。
(……これ、まずいぞ)
ハンスさんたちは、この集落を守るって名目で赴任したばかりだ。それが風精霊が大はしゃぎして、集落をめちゃくちゃにしてしまったなんてことになったら……立場がないどころの騒ぎではない。
「はやくランプを直さないと」
アルルさんも漁っているらしく、今にも泣き出しそうになっている。
これは、あれだね。
俺が持って生まれた魔術を使う、久しぶりの機会だ。
俺は腹をくくった。
この期に及んで、力の出し惜しみなんてしていられん。
「アルルさん、俺に任せてくれないかな」
「なに、ルゥくん。子どもは危ないから下がって……え?」
「俺に任せて、アルルさん」
「任せるって、何を……?」
風精霊は、「きゃはは」と甲高い笑い声のような音を立てながら、家の中をめちゃくちゃにしている。
メリ、メリッ。
嫌な音がしたかと思うと。
「あああ、屋根がぁあぁ!」
ハンスさんの家の屋根がふっとんだ。……やーね。
外から悲鳴が聞こえてくる。もうこれ、竜巻まで秒読みなのでは?
「ランプが治れば、アルルさんが風精霊を戻せるんだよね?」
「う、うん」
アルルさんが戸惑いながら、頷いた。
俺は壊れた芯なしランタンを拾い上げて、右手をかざす。
砕け散ったガラスが、パキパキと音を立てて修復されていく。
「え、これって……魔術!?」
「助けてくれた御礼に……はい」
「え、え、えええー!」
アルルさんが目を丸くして、俺とランタンを見比べる。
うん、わかりやすく瞳がキラキラしているね。
「すごい」
元通りになったランタンをうっとりと眺めているアルルさんが、ハッと我に返る。
そうだね、この状況を収めないといけない。
アルルさんが立ち上がり、俺が『修復』したランタンを掲げる。
「──契約者アルル・ヴィッテルの名において、風精霊に希う……この小さき宮に再び宿たまえ」
ひゅうひゅうと吹き荒れていた風精霊の動きがピタリと止まる。
俺には何も見えないが、アルルさんには風精霊たちの姿がはっきりと見えているみたいだ。
「……おお、風精霊たちも気に入ってくれているみたい。気まぐれで気難しい精霊なので、心配してたんだ」
「性格とかあるのか」
「もちろん。このランタンも気に入ってもらうのに、二十個くらい試したんです」
アルルさんが事もなげに言う。衝撃の事実である。
そんなものを壊すんじゃない。
静寂。
そよ風が吹いて、ゆらゆらとランタンが揺れる。
「……よかった。うまくいった」
ほっと息をついているアルルさん。
家の外では村人たちがザワザワしている。そりゃそうだ。家の屋根が吹っ飛んだんだから。村に被害がないといいけれど。
アルルさん、蜘蛛型魔獣から集落を救ったお手柄少女になったり、家の屋根を吹き飛ばすお騒がせガールになったりと忙しいね。なんというか、飽きない。今まで俺の身の回りにはいなかったタイプだ。
いや、まあ、王弟で魔術師である俺の前でドタバタするような人間はほとんどいなかった……ってだけか。
「ねえ! さっきの!」
「あ、あー」
はい、魔術ね。
俺がもともと使うことのできたオリジナル、『修復』の魔術。あまり騒がれたくはないんだけれど。
「やるじゃん、ルゥくん!」
アルルさんは、とっても気安く俺の肩を叩いた。
バシバシ、と音が立つくらい。痛い、痛い。俺よりもちょっと年上なアルルさんとの体格差が、肩関節へのダメージとなって襲いかかる。
「いだだ!」
「魔術、私生まれて初めて見たよ」
アルルさんはニコニコと笑っている。
なんだか、拍子抜けしてしまう。たしかに、『修復』は地味な魔術ではあるけれど。
「すごくいいね、便利だし、優しい」
「優しい?」
「だって、壊れた物を直せるんでしょ」
アルルさんは、ニコニコと微笑んでいる。
風精霊の加護で、あっという間に生傷を治せるアルルさんに言われると、本当にそんな気がしてくる。
(……ショボい魔術なら、こういう反応なのかな)
内心でそう思いつつも、悪い気はしない。
優しいだなんて、この人生でほとんど言われたことがない。産まれてからずっと、周囲に気を許せる人なんていなかったからね……正直、前世でそれなりに草臥れたサラリーマンをやってなかったら、身が持たなかったかも。
「……でも、アルルさんは治療よりも、カッコよく魔獣を倒す精霊術のほうがいいんじゃないの?」
少し意地悪を言ってしまった。
俺の手助けで活躍していたときに、あんなに嬉しそうにしていたじゃないか……ってね。
大人げないかもしれないけど、今の俺はアルルさんから見たら「年下のお子ちゃま」だ。
「え? ああ、それは……私の精霊術が強ければ、ルゥくんのこと守れるからね!」
アルルさんは事もなげに、そう言った。
守る、守る……守る!
俺は痺れた。それだ、と思った。
王弟殿下だ、大賢者様だと持ち上げられても、満たされない。それどころか、かえって薄ら寒い気持ちだった。
強力な魔術が使えても、どうせ俺はハイデル王国の道具にすぎないし──そう思っていた。
(くそ、恥ずかしいな……大人として!)
今まで、頭のどこかではわかってたけれど、腹に落ちていなかった。
満たされないのなんて、当たり前だ。俺には護るものがなかったんだからさ!
守ろうとしていたのは、己の身の安全くらい……それも結局、暗殺なんていう残念な結末を迎えたわけで。
(よし、決めた)
俺は自分の手を見つめる。
小さな手だ。子どもの手だ。ぎゅっと握っても、頼りない拳しかできない。
(俺は……今度こそ、大事な人やモノを守る)
そうだ。強さってのは、誰かを守るためにある。
クサい台詞だけど、今の俺には染み渡る。
少年漫画も深夜アニメも、嘘なんかついてなかったんだ。
(……アルルさんたちに、恩返しをしたい)
今の俺にとって、守りたいものといえばこの縁だ。
──あと、気がかりと言えばハイデルの王都に残してきた弟子のコルネリアか。
彼女も如才ないというか、底知れないところのある子だから、俺が暗殺されたとしても冷静に立ち回っていると思うけれど。
「収まった、のかい?」
「二人とも大丈夫? 怪我はなかった、ルゥさん」
ハンスさんとマリィさんが戻ってきた。家の惨状よりも先に、我が子と出会ったばかりの俺を心配してくれるのだから、本当に心根の美しい人たちだ。
村にも大きな被害はなかったようで、それを聞いたアルルさんが心底ホッとした表情で座り込んだ。
「はぁ、よかった……それにしても、屋根……どうしようね……やばやば……」
アルルさんが、吹っ飛んだ屋根を見上げて途方にくれている。
けっこう凹んでいるみたいだね。
「アルルさん」
じゃあ、俺がやるべきことは一つだけ。
「ランタンより大きいモノでも、俺、一応直せると思う」
色々な魔術が使えるけれど、俺が一番最初に覚えた魔術は『修復』なんだから。
王弟殿下も大賢者様も、他人に呼ばれて気持ちのいい呼称じゃない。サイズの合わない靴を履いているみたいに、居心地が悪かった。一応はルーデンスって名前があるんだから、呼んでくれてもいいのにって、ずっと思っていた。言わないけど。
この世界では魔術師が希少だって話をしたよね。
少し語弊があって、ハイデル王国における魔術師は『今は希少』な存在なんだ。
昔は魔術が盛んだった頃もあったらしくて、城の図書館に文献だけはたくさん残っている。要するに、魔術ってのはロストテクノロジーだったわけだね。
でも、魔術を使う人間がゼロだったわけでもない。
一応は、ハイデル王国にはごく稀に魔術の才能を持った特別な人間が産まれることがあるんだ。ただし、その『魔術師』が生涯で使えるのは、いくつかの非常に原始的な魔術だけ。本人がなにかのきっかけで偶然開発したもの──たとえば、火を出すとか、水を操るとか、そういう単純な術を使えるにすぎなかったんだ。ほとんどの場合はビックリ隠し芸の域を出ないものばかり。
で、俺がどうして大賢者なんて呼ばれてるか。
俺がこの世界に持って生まれた、たった一つの魔術が原因だ。
──『修復』。
なんの属性も持たない、地味な魔術だ。
俺は壊れてしまった、あるいは失われてしまったものを修理することができる。
でもね。俺の『修復』の得意分野は、魔術だった。魔術書や文献、あるいは遺跡に残っている魔術の痕跡(俺は『魔法術式』と呼んでいる)を修復して、俺はこの世界に魔術を蘇らせたわけだ。たとえば、ハイデル城を中心とした大結界とかね。俺が独力で編み出したわけじゃない。
それなのに、いつの間にやら俺は『大賢者様』としてヴァル=ネクルとの戦いの最前線に立つようになっていた。魔族や魔獣と戦うのに、俺の修復した魔術は都合がよかったんだ。忌み子である俺にも、一応は居場所ができた。
その時点では、俺は世界で唯一の魔術師だったともいえる。魔術をなんとなく使えるというレベルの人たちは、自分を魔術師とは呼ばないんだ。魔術使いって単語がハイデル王国では一般的かな。
でも。せっかく修復した『魔術術式』も、俺が独占してたんじゃ意味がない。
魔術を使う才能がある人間なら、誰でも複雑な魔術を使うことができる方程式みたいなものだからね。
だから、俺は魔術の才能のある人間を探して、魔術師を増やそうとしていた。孤児だったコルネリアを拾って魔術の手ほどきをしていたのも、そういう理由だ。
あとはまあ、少し寂しかったというのもある。
誰も俺のことを、名前で呼んでくれない状態は、やっぱり空しい。
だから、ね。
俺と同じように『魔術師』が増えたら、俺のことをただのルーデンスとして呼んでくれる人がいるんじゃないかと期待してた。
結局、魔術師が少しばかり増えたところで、俺はこう呼ばれるようになった。
──『大賢者様』ってね。
ちょっと拍子抜けだったけれど、別にいいんだ。耐えられる。
……人生、耐えることばかりだった。
◇◆◇
「ルゥくん、ルゥくん! すごい、私、才能が開花しちゃったかも!?」
アルルさんは意気揚々と街道を歩いている。
風精霊を操って魔獣をやつけたのが、相当に嬉しいらしい。超ご機嫌だ。
「精霊術って、すごいんだね」
「まあね! でも、ルゥくんと会ってからグッと風精霊様の加護が強力になった気ががするよ。これが守るべきものを背負った強さってことかな」
「そうかもね」
「それに、道案内も助かったよ~!」
「は、はは……」
死ぬかと思ったよ。
はい。アルルさんは、まさかの俺を超える方向音痴でした。
あの森にいたのも、迷子だったんだって。
というか、俺は今まで魔術に頼りきりで、自分で方向を見て歩くってことを怠っていただけだったということが判明したんだ。
前世の中学で習った理科の知識が大いに役に立ちました。この世界の太陽も東から登って西に沈み、いわゆる北極星ってものも存在する。
あとは、ひたすらに歩くだけ。いやあ、できないって思い込むのはよくないね。……自分が殺されるほど疎まれていることにも気づかなかったことといい、恥ずべきことだ。
思い込みってよくない。まじで。
そういうわけで、俺の知識を総動員してどうにか森を抜けてからは、小さな宿場が転々とあったので、屋根に困ることもなかった。
ただ、途中で何度か危険な目にあったのだ。魔獣とか、追い剥ぎとか。今の俺のサイズでも十分に対処できるレベルの危険がね。
とはいえ、アルルさんだって一人旅をするだけの実力があった。
数時間前も、獰猛な野獣をねじ伏せたところだ。アルルさんは風の精霊術を巧みに操って、小さな俺を守るべく勇敢に戦ってれくた。本来のアルルさんの専門は風精霊の加護による治癒術なのだろうが、彼女の中には『戦う美少女』への憧れがあるらしい。俺もほんの少しだけ内緒で手助けはしたけどね。
「ほら、ほら。ルゥくん、安心して着いてきてね。もうすぐ、お父さんの赴任地だから!」
「う、うん」
歩いて、歩いて、歩いた。
本当にひさしぶりによく歩いている。王城住まいで魔術研究なんてしていると、まあ必然的に引きこもりになるからね。
いざ魔族と事を構えることになったら、戦馬に乗ったり、あるいは俺だけが使える飛翔魔術で敵軍を攪乱したり……長距離を歩くなんて、あんまり経験してこなかった。
あ、ちなみに、ぶかぶかの靴による靴擦れはその都度アルルさんに治療してもらっているから快適だ。落ち着いたら、まずは靴と服を調達しないとな。万全の状態で、殺人犯どもに復讐する必要がある。
◇◆◇
「あ、見えてきたよ」
小さな雑木林を突っ切って、ゆるりと小高い丘に登ったところで、集落が見えてきた。
堅牢そうな造りの防御策に囲まれている。人口はだいたい五十世帯くらいかな。
南側には、今俺たちが立っているゆるっとした小高い丘。
東側に切りたった岩山があって、西側には森がある。
そして、北側には湖が。
なんというか、『孤立』って単語がどこからともなくポップアップしてくる。そんな光景である。
「小さな村でしょ。でも、この村は昔から辺境伯の騎士団に干し魚を供給してくれるんだ」
「干し魚か」
なるほど、兵糧ってやつだ。
物流がちゃんとしているって強いよ。
「でも、最近は岩山から魔獣が出てきてるらしくて。それで、お父さんがこの村の守護になったってわけ」
「出世だね」
「んー、どうかな。お父さん、ちょっと抜けてるところあって……シュタイナー辺境伯騎士団でお仕事してるって、いまだに信じられないんだよね」
アルルさんがちょっと肩をすくめる。おお、年頃の娘仕草だ。
わかるよ、父親の仕事場での姿って想像つかないよね。
「ところで、アルルさん」
「ん?」
「……なんだか、騒がしくない?」
もう目と鼻の先になった集落だが、防御策の向こうがかなり賑やかだ。
柵の間から観察してみると、村人らしき人たちが逃げ惑っている。これは穏やかじゃない。
集落への出入り口はすっかり開け放たれている。見るからに緊急事態だ。というか、村の人たちは何から逃げているんだ。
「蜘蛛だ!」
村人を追いかけ回しているのは、蜘蛛だった。しかも、かなりデカい。小柄な大人くらいある。気持ち悪い。毛深い足がウゾウゾ動き、口元がモゾモゾと蠢いている。動きもカサカサしてるし、びょんびょん跳ねるし。うげ、ビジュアル最悪。
ああ、もちろんこいつらは魔獣だ。蜘蛛型魔獣。
「まずいな、行こう」
「え、ちょ、ルゥくん!?」
走り出した俺のあとから、アルルさんが着いてくる。
魔術でこいつらを蹴散らすのもいいが、あまり知らない土地で暴れるのはよろしくない。ハイデル王国一帯では、人間業を超えた魔術を使う者イコール魔族という考えが一般的なのだ。不要な混乱は避けたい。
俺は走った。
アルルさんなら、やってくれる。
(って。なんか足遅いな、俺……!)
産まれてから、身体を鍛えるってことをしてこなかった。変に鍛えると、兄への謀反を企てるために力を蓄えてるとか思われるし。ちなみに魔術だって、そうだ。どんなに強力な魔術を手に入れても、みだりに使うことは許されなかった。魔王国との戦いのときにだけ魔術師として戦地に赴くよう命令され、命がけで戦うことで存在を許されていた。
さらに、今の俺は子どもなので、物理的に足が短いんだよね……。
でも、なんとかなった。
蜘蛛型魔獣たちがワラワラといる広場っぽいところにたどり着く。
逃げ遅れている村人と蜘蛛型魔獣の間に飛び込む。
瞬間、小声で魔術を発動する。
「……属性は風、その有り様は堅牢なる盾」
俺の周りの風──空気が圧縮されて、見えない盾を構築する。飛びかかってきた蜘蛛型魔獣が壁に激突して、べちゃっと地面に落下して、頭の上に「?」を出している。
俺はできる限り大きな声で叫んだ。
「あ、アルルさん! 助けてー!」
俺の声が響いて、アルルさんが杖を掲げる。
……今の大丈夫だよな、白々しくなかったよな?
「わ、我が声に応えよ! 風精霊!」
アルルさんが掲げた杖の先、芯のないランタンから新緑色の風が吹く。風精霊だ。
(よし、今だ)
アルルさんの風精霊が吹かせる鋭い風が、蜘蛛型魔獣たちをその場に釘付けにしている。必要なのは、あとほんの少しの決定打だけだ。
俺は小声で魔術を編み上げる。
「属性は風、その有り様は……鋭き槍」
魔術を放ったその瞬間、蜘蛛型魔獣たちのどてっ腹に穴が空く。思ったよりも柔らかい、幼体なのかもな。
目に見えない風に貫かれた蜘蛛たちが、バラバラと崩れ落ちる。
逃げ回っていた村人たちが蜘蛛たちの惨状を見て、ちょっと悲鳴をあげ──喝采した。
「精霊使いだ! ああ、助かった!」
「もしかして、守護騎士さんの娘さんじゃないか?」
「ああ! 例の……」
杖を構えていたアルルさんに注目が集まる。
「あ、えへへ。ども!」
アルルさんはそれに気づいて、ちょっと照れたようにぺこりと頭を下げる。
その間に、俺は耳を澄ませた。
(……まだやりあってるな)
今の一撃ですべての蜘蛛を駆逐できたわけではない。
まだ蜘蛛型魔獣から村を守るべく戦っている声がする。「そっちに行ったぞ!」とか「隠れろ、隠れろ!」とか。かなり緊迫感がある。
(あ、でもあっちは大丈夫そうかな?)
俺の目が届く範囲にいる魔獣をバシバシ貫きながら、声の方に近づいていく。
村人たちは、アルルさんを取り囲んであれこれ質問攻めにするのに忙しいみたいで、俺の方には注意を向けていない。アルルさんもそれどころじゃなさそうだし。
そうこうしているうちに、向こうから屈強な集団がやってくる。武装している。ってことは、彼らがシュタイナー辺境伯が派遣した守護団だろう。
「……ふぅ、みんな無事かい?」
枯れた感じの中年男性が、やれやれといった風にやってきた。
人だかりを掻き分けて、アルルさんが男に駆け寄る。
「お父さま」
「……アルル?」
「はい、ただいま帰りました」
誇らしそうにアルルさんは胸を張った。
◇◆◇
騎士団から派遣された守護が住んでいる邸宅。
そんなイメージからは想像できない、質素な家だった。
俺たちを向かえ迎えてくれたのも、やっぱり騎士という煌びやかな称号とはほど遠い、素朴なおじさんだった。甲冑を脱ぐと、ホントに普通のおじさん。
アルルさんの父はハンス・ヴィッテルさんという、優しげな男の人だった。くるくるとした麦色の癖毛に、目尻の皺が深い垂れ目が優しげな印象。とはいえ、よくよく体つきを見ると鍛えているのがわかる。
「そうか、アルルが世話になったね」
お茶をご馳走になりながらアルルさんから事情を話してもらうと、ハンスさんが快活に笑った。
いい顔立ちだな、と俺は思った。こういう年の取り方をしたい。まあ、まずは大人サイズに戻るところからだけど。
「いえ、俺の方がお世話になってて」
「あはは。アルルは私たちの自慢の娘だが、少しお喋りだろう。気疲れしていないかい?」
と、ハンスさん。
「それは、まあ。大丈夫です」
実際、かなり口数が多いほうだとは思うが──アルルさんのお喋りはむしろ助かったくらいだ。暗殺未遂、子ども化、こんな状況でも余計なことを考え過ぎずに済んだからね。
「アルルも立派になったね、助かったよ……あの蜘蛛、このところ目撃情報が多くて警戒していたんだが」
「ふふ、お父さま。アルルはいつまでも子どもじゃありませんよ!」
「まだまだ子どもだよ、私からしたらね」
「んもう!」
ぷぅっと頬を膨らませていたアルルさんが、居住まいを正す。
「それで、お父さま。この子……ルゥくんをうちで世話してあげられない? 事情は話した通りです」
アルルさんにならって、俺も頭を下げる。
「そうか、私としては構わないが……」
ふむ、とハンスさんは考えこむ。
万が一、ここで断られても仕方ないなと、と俺はぼんやりと考える。守護としてこの集落に着任したばかりだし、イレギュラー対応は避けたいよね。
「いいじゃありませんか、あなた。しばらくの間でしたら、問題ないでしょう?」
助け船を出してくれた優しげな女性はマリィさん。彼女はハンスさんの奥方……つまりアルルさんのお母さんだ。
アルルに似た藍色の長い髪を、ゆるく編み込んで肩に垂らしている。ハンスさんよりちょっと若いのに、おっとりとした安心感がある。
お茶のお代わりを淹れてくれたマリィさんは俺ににっこりと微笑んで、「それに」と付け加える。
「あなた。顔に書いてありますよ。断りたくないって」
「はは。そうかな。ありがとう、マリィ」
ハンスさんとマリィさんの間に流れる、穏やかで柔らかな空気……これは、子どもが巣立った中年期を迎えてなお、ラブラブなご夫婦とみた!
「よかったね、ルゥくん」
アルルさんが、俺以上に喜んで食卓から勢いよく立ち上がる。彼女の天真爛漫で善良な性格はヴィッテル家の環境のおかげなんだろう。
王家の忌み子、ハイデル城の腫れ物として生きてきた俺には、ちょっと眩しすぎるね。
「……あっ」
アルルさんが息を呑む。
なんだ、とアルルさんが見ているほうを振り返ると。
「まだいたのか、この蜘蛛……!」
蜘蛛型魔獣が、窓から侵入しようとしていた。
(討ち漏らしてたか、しまったな……)
でも、ここには幸い手練れであろうハンスさんもいる。俺が派手な魔術を使わずとも、対処は難しくないはず──そんなことを、一瞬にも満たない時間でグルグルと思考して、検討していた──そのとき。
誰よりも早く、アルルさんが動いた。
「我が声に応えよ、風精霊!」
おお、素早い。
一陣の風が蜘蛛型魔獣を吹き飛ばす。あの勢いなら、集落の外まで吹っ飛んだだろう。
アルルさん、この短期間で本当に腕を上げているな。
「ふふん、今の私は調子いいんだから」
アルルさん、自信満々である。
でも、本当にその自信が実力につながっているみたいだ。
「大丈夫、ルゥくん?」
「うん。ありがとう、アルルさ……うわ!」
「ほぎゃ!」
慢心って怖いね。
……アルルさんが、こけた。
それも、盛大に。
「あだ! え、あ? うわああ、杖が!」
アルルさんの杖──長杖の先端に、風精霊を封じたランプが括り付けられているファンタジックなデザインのやつだ。その杖が、アルルさんが倒れ込んだ勢いで地面に叩きつけられる。
「あ、うわあ……」
ガッシャン、と。
残酷な音が響き渡る。
ランプを覆ってるガラスが、バキバキに割れてしまった。ああ、無情。この世界でガラスって結構な高級品なのに。
気まずい沈黙。
「や、やばいぃ!」
アルルさんの悲鳴が響き渡る。
その瞬間だった。
ヴィッテル家の中を、ひゅうひゅうと風が吹き出した。
「か、風が!」
家の中で暴れているのはランプから飛び出した風精霊だ。
上から下から、左右から、風がびゅうびゅう吹いている。
「きゃあ!」
マリィさんの長いスカートが風に舞い上がる。夫であるハンスさんが、大慌てで裾を押さえている。なんでそんなに初々しいのか、この中年夫婦は。
「アルルさん、これって」
「風精霊がはしゃいじゃってます!」
「はしゃいでるの?」
「楽しいことが大好きな精霊さんなので……はやくランプに入れないと……」
「どうなるの?」
「たぶん、はしゃぎすぎて……竜巻が起きます」
「えええっ」
竜巻って、まじですか。
◇◆◇
アルルさんが、青い顔で呟く。
「やばやば。風精霊は風精霊を呼ぶ、っていう性質があるんだよ。このままじゃ大嵐になるかも……」
竜巻。大嵐。
こんな集落の真ん中でそんなものが起きたら、大変なことになってしまう。
湖が近い分、水害も心配だ。
集落の北側にある湖はかなり巨大だ。海って言われたら一瞬信じるくらい。それくらいになると、波もあるんだよね。
「……漁師の小舟に被害があったらまずいな」
ハンスさんが低く唸る。
さっきまでイチャついていたハンスさんとマリィさんが、きりっと引き締まった表情で何かを話し合っている。
「大変。村の人たちに少しでも被害をだすわけにはいかないわ」
「マリィ、すぐに避難を促してきてくれ」
「はい、あなた」
ハンスさんとマリィさんが阿吽の呼吸で動き出す。
自分たちの家財よりも、集落の安全を第一に動いているらしい。
俺は思った。
(……これ、まずいぞ)
ハンスさんたちは、この集落を守るって名目で赴任したばかりだ。それが風精霊が大はしゃぎして、集落をめちゃくちゃにしてしまったなんてことになったら……立場がないどころの騒ぎではない。
「はやくランプを直さないと」
アルルさんも漁っているらしく、今にも泣き出しそうになっている。
これは、あれだね。
俺が持って生まれた魔術を使う、久しぶりの機会だ。
俺は腹をくくった。
この期に及んで、力の出し惜しみなんてしていられん。
「アルルさん、俺に任せてくれないかな」
「なに、ルゥくん。子どもは危ないから下がって……え?」
「俺に任せて、アルルさん」
「任せるって、何を……?」
風精霊は、「きゃはは」と甲高い笑い声のような音を立てながら、家の中をめちゃくちゃにしている。
メリ、メリッ。
嫌な音がしたかと思うと。
「あああ、屋根がぁあぁ!」
ハンスさんの家の屋根がふっとんだ。……やーね。
外から悲鳴が聞こえてくる。もうこれ、竜巻まで秒読みなのでは?
「ランプが治れば、アルルさんが風精霊を戻せるんだよね?」
「う、うん」
アルルさんが戸惑いながら、頷いた。
俺は壊れた芯なしランタンを拾い上げて、右手をかざす。
砕け散ったガラスが、パキパキと音を立てて修復されていく。
「え、これって……魔術!?」
「助けてくれた御礼に……はい」
「え、え、えええー!」
アルルさんが目を丸くして、俺とランタンを見比べる。
うん、わかりやすく瞳がキラキラしているね。
「すごい」
元通りになったランタンをうっとりと眺めているアルルさんが、ハッと我に返る。
そうだね、この状況を収めないといけない。
アルルさんが立ち上がり、俺が『修復』したランタンを掲げる。
「──契約者アルル・ヴィッテルの名において、風精霊に希う……この小さき宮に再び宿たまえ」
ひゅうひゅうと吹き荒れていた風精霊の動きがピタリと止まる。
俺には何も見えないが、アルルさんには風精霊たちの姿がはっきりと見えているみたいだ。
「……おお、風精霊たちも気に入ってくれているみたい。気まぐれで気難しい精霊なので、心配してたんだ」
「性格とかあるのか」
「もちろん。このランタンも気に入ってもらうのに、二十個くらい試したんです」
アルルさんが事もなげに言う。衝撃の事実である。
そんなものを壊すんじゃない。
静寂。
そよ風が吹いて、ゆらゆらとランタンが揺れる。
「……よかった。うまくいった」
ほっと息をついているアルルさん。
家の外では村人たちがザワザワしている。そりゃそうだ。家の屋根が吹っ飛んだんだから。村に被害がないといいけれど。
アルルさん、蜘蛛型魔獣から集落を救ったお手柄少女になったり、家の屋根を吹き飛ばすお騒がせガールになったりと忙しいね。なんというか、飽きない。今まで俺の身の回りにはいなかったタイプだ。
いや、まあ、王弟で魔術師である俺の前でドタバタするような人間はほとんどいなかった……ってだけか。
「ねえ! さっきの!」
「あ、あー」
はい、魔術ね。
俺がもともと使うことのできたオリジナル、『修復』の魔術。あまり騒がれたくはないんだけれど。
「やるじゃん、ルゥくん!」
アルルさんは、とっても気安く俺の肩を叩いた。
バシバシ、と音が立つくらい。痛い、痛い。俺よりもちょっと年上なアルルさんとの体格差が、肩関節へのダメージとなって襲いかかる。
「いだだ!」
「魔術、私生まれて初めて見たよ」
アルルさんはニコニコと笑っている。
なんだか、拍子抜けしてしまう。たしかに、『修復』は地味な魔術ではあるけれど。
「すごくいいね、便利だし、優しい」
「優しい?」
「だって、壊れた物を直せるんでしょ」
アルルさんは、ニコニコと微笑んでいる。
風精霊の加護で、あっという間に生傷を治せるアルルさんに言われると、本当にそんな気がしてくる。
(……ショボい魔術なら、こういう反応なのかな)
内心でそう思いつつも、悪い気はしない。
優しいだなんて、この人生でほとんど言われたことがない。産まれてからずっと、周囲に気を許せる人なんていなかったからね……正直、前世でそれなりに草臥れたサラリーマンをやってなかったら、身が持たなかったかも。
「……でも、アルルさんは治療よりも、カッコよく魔獣を倒す精霊術のほうがいいんじゃないの?」
少し意地悪を言ってしまった。
俺の手助けで活躍していたときに、あんなに嬉しそうにしていたじゃないか……ってね。
大人げないかもしれないけど、今の俺はアルルさんから見たら「年下のお子ちゃま」だ。
「え? ああ、それは……私の精霊術が強ければ、ルゥくんのこと守れるからね!」
アルルさんは事もなげに、そう言った。
守る、守る……守る!
俺は痺れた。それだ、と思った。
王弟殿下だ、大賢者様だと持ち上げられても、満たされない。それどころか、かえって薄ら寒い気持ちだった。
強力な魔術が使えても、どうせ俺はハイデル王国の道具にすぎないし──そう思っていた。
(くそ、恥ずかしいな……大人として!)
今まで、頭のどこかではわかってたけれど、腹に落ちていなかった。
満たされないのなんて、当たり前だ。俺には護るものがなかったんだからさ!
守ろうとしていたのは、己の身の安全くらい……それも結局、暗殺なんていう残念な結末を迎えたわけで。
(よし、決めた)
俺は自分の手を見つめる。
小さな手だ。子どもの手だ。ぎゅっと握っても、頼りない拳しかできない。
(俺は……今度こそ、大事な人やモノを守る)
そうだ。強さってのは、誰かを守るためにある。
クサい台詞だけど、今の俺には染み渡る。
少年漫画も深夜アニメも、嘘なんかついてなかったんだ。
(……アルルさんたちに、恩返しをしたい)
今の俺にとって、守りたいものといえばこの縁だ。
──あと、気がかりと言えばハイデルの王都に残してきた弟子のコルネリアか。
彼女も如才ないというか、底知れないところのある子だから、俺が暗殺されたとしても冷静に立ち回っていると思うけれど。
「収まった、のかい?」
「二人とも大丈夫? 怪我はなかった、ルゥさん」
ハンスさんとマリィさんが戻ってきた。家の惨状よりも先に、我が子と出会ったばかりの俺を心配してくれるのだから、本当に心根の美しい人たちだ。
村にも大きな被害はなかったようで、それを聞いたアルルさんが心底ホッとした表情で座り込んだ。
「はぁ、よかった……それにしても、屋根……どうしようね……やばやば……」
アルルさんが、吹っ飛んだ屋根を見上げて途方にくれている。
けっこう凹んでいるみたいだね。
「アルルさん」
じゃあ、俺がやるべきことは一つだけ。
「ランタンより大きいモノでも、俺、一応直せると思う」
色々な魔術が使えるけれど、俺が一番最初に覚えた魔術は『修復』なんだから。



