風が吹いている。血の臭いが混じった生ぬるい風だ。
ハイデル王国の防衛線は、隣国との国境線にあたる山脈へ向かってただ広がっていく荒野だ。
その地平に無数の下級魔族が蠢いている。彼らは知能じみたものを持つ人型の魔性で、彼らとほぼ同数の言葉を解さない獣型の魔性──魔獣たちとともに、ハイデル王国の首都を目指して猛然と進軍する。
対するハイデル王国の軍勢もの、かき集めた傭兵団や近隣の国々からの義援隊も含めた大規模なもの。ほとんど総力戦に近い。地上は騎兵と歩兵が必死に抗い、数少ない魔術の使い手は空を飛ぶ魔獣と交戦している。
魔王国ヴァル=ネクルとハイデル王国の間では小競り合いが頻発しているが、今回のコレは大規模な衝突だ。それも、かなり。
「ルーデンス王弟殿下!」
俺の名を呼ぶ声がして、振り返る。イケメンがいた。
馴染みの近衛伝令団の団長だ。ああ、まだ生きていたんだ。彼が率いる近衛伝令団は、危険な魔獣が蠢き味方の矢と弾が雨と降る前線をメッセンジャーとして駆け回る精鋭部隊だ。当然、腕が立つ。それに誰にでも気さくな男だ。俺のような腫れ物にもね。
「王弟殿下はやめてくれ。簡潔に呼んでくれてかまわないよ」
「では、大賢者殿」
こっぱずかしい呼び名だった。周囲が勝手に呼びはじめたときに、ちゃんと止めておけばよかったな。俺ごときに大げさすぎる二つ名だ。
先ほどかっこつけて「簡潔に呼んでくれてかまわない」とか芝居がかったことを言った手前、今更やめてくれとも言い出しにくくて、俺は黙って続きを促した。
「……うん。用件は」
「ここは危険です、退避を」
「はは。退避か」
思わず乾いた笑いが漏れ出る。
無理だろ。この局面で逃げるなんて。
「俺だって王家の人間で、一応は魔術師だ。その俺が尻尾を巻いて逃げ出して、君たちが命がけで戦うと? 妙な話だ、理不尽極まりない」
本心だった。
俺が逃げれば、我が国には間違いなく甚大な被害が出る。
「大賢者様、木は確かですか」
「ごめん、やっぱりその大賢者って呼び方もなしで」
連呼されると、やっぱり恥ずかしかった。
近衛伝令団長は、噛みしめるように俺の名を呼んで、なおも食い下がってきた。
「では、ルーデンス・ハイデルベルク殿下」
「うん」
「お逃げください」
「ダメだ」
俺はゆっくりと首を横に振る。
「……俺はここから、逃げてはいけない」
◆◇◆
ハイデル王国と国境を接する魔王国ヴァル=ネクル──魔族の形成する国との泥沼の紛争は、俺が生まれる前から続いている。
激化と小康状態を繰り返している戦いで、見知った顔が次々に命を落としているのだ。誰が生きていて、誰が命を落としたか。たまにわからなくなる。
まあ、俺が前線に立つようになってからは、ハイデル王国の死傷者はかなり減少したはずだが。
とにかく、この大隊長さんは生きていた。伊達に何百人もの部下を率いているわけではない。その何百人のうち、どれくらいがこの修羅場を生き残っているのだろう。
「王家は君たちにこの国を背負って戦えと、その命を賭けろと命じてるんだ。そんなハイデルベルク家の人間が逃げるわけにはいかないだろう」
「しかし」
近衛伝令団長が少し口ごもる。
「アルベルト国王陛下はすでに退避しております」
「……ああ、そう」
本当に、理不尽だ。
いや、この世の中には理にかなっていることのほうが少ないか。
アルベルトは俺の兄だ。輝く金髪と華やかな笑顔、整った容姿──理想的な若き国王だ。少なくとも、表向きは。
──俺は生まれたときからアルベルトの影で、あの兄が背負うべきものを押しつけられてきた。
アルベルトが『理想の若き国王』でいられるように、周囲は奔走している。
もちろん、俺にも。
責任、重圧、そして、国のためにすべてを捧げる人生。もちろん、俺には輝かしい王座も王冠も与えられない。変に目立って面倒な政治や後継争いに巻き込まれるよりはいい。俺は納得してるんだ……本当に。
「それは良い知らせだ。国王陛下に何かあれば、下らない政争で国内がゴタつくだろうし」
これも本心だ。
魔王国との戦いが続く状態でも──いや、だからこそかもしれないけれど、ハイデル王国は儀式や様式を重んじる。時間と資金は有限なのにね。
「どうされますか、ルーデンス殿下」
「国王陛下が安全な場所にあらせられるのであれば、なおさら俺が退くわけにはいかないな」
俺の兄──アルベルト・ハイデルベルクは若くして王位についた、ハイデル王国の『陽光王』だ。金髪に碧眼を持った見目麗しい姿は、国民を魅了してやまない。
それに対して双子の弟である俺は、黒髪に一筋の銀髪、赤い眼を持った日陰者だ。影に、陰に、兄を支えるために奔走している。日向とか、ない。
というわけで、この局面でも俺は逃げるわけにはいかないのだ。
「兄が無事なのであれば、それはハイデルにとって僥倖だな」
「……御意」
近衛伝令団長はそれ以上は何も言わなかった。
彼もわかっているのだろう。王家の人間が矢面に立っていることの意味を。
──俺のような陰気な人間であっても、王弟という立場の人間が前線に立っていれば、兵士たちが少しは踏みとどまれる。自分たちに戦いを命じた人間が、ぬくぬくと安全な場所にいるのにいるのではなく、一緒に命がけで現場に立っているという実感は彼らにとってのせめてもの救いになっているのだ。
だからこそ俺が退くわけにはいかない。
いや、そりゃそうだろう。
兵士のみなさんの気持ちを考えたら、逃げるなんて不可能だ。自分たちが命がけで戦っているのに、自分たちよりも力のある人間が尾っぽ巻いて逃げているなんて、考えるだけでも腹が立つ。そして、俺には力がある。残念なことに。
この世界では、魔術を使える人間は希少だ。
そして俺は、魔術を使う才にだけは恵まれた。
「理不尽だが、それが俺の人生か」
貧乏くじを誰かが引かなくてはいかないのならば、俺が引こう。人間は降りかかる理不尽と残酷な運命には逆らえない。
そう。耐えることこそ、人生の本質だ。
……ぞく、と首筋が疼いた。俺の勘が告げている。巨大な魔力を持った何かが近づいてきている、と。
「ああ、そろそろデカいのが来るな」
俺は大きく息を吸う。
雑魚どもを退けてきたハイデル王国の結界は、すでに綻び始めている……そろそろ修理しないとな。この戦いが終わったら、また徹夜続きの作業かな。
巨大機構をワンオペで修理するのつらい。まあ、俺以外にいじれる人間がいないので仕方がないのだけれど。この国においては、魔術を使える人間はそれだけで貴重な人材なのだ。
「……っ! この気配は」
お、さすが手練れの近衛伝令団長。危機察知能力に優れている。
すでに逃げる体勢になっているし。
──ハイデル王国と魔王国ヴァル=ネクルとの国境線である、大山脈アルデバラン。
その稜線を何かが悠々と超えてくる──巨大なドラゴンだった。魔獣のなかでも際だって強力で凶暴な存在。魔獣のなかの魔獣。人類を蹂躙するもの。
「まじか」
その姿を目にして、俺は思わず声を漏らす。
「あー……まずいな」
大きい。大きすぎる。
人の足では超えるのに数日かかる大山脈を、その巨大な魔獣は軽々と超えてきた。
翼を使うこともなく、ただ、歩いて。
要するに、こういうことだ。
──あのドラゴンは、ただ歩くだけでハイデル王国の軍勢をすべて磨り潰すことができる。アレが山を降りててきたら、それでおわり。あの黒々とした炎を揺らめかせる体躯の下で、俺たちはぷちっと潰される。
俺に「逃げろ」と進言してきた近衛伝令団長の姿は、すでにどこにも見えない。
さすがの逃げ足、いや、判断力だ。
まだドラゴンを見上げている人達は、少々判断が遅いかな。いや、兵士達も、将校達も、足がすくんでいるのか。俺が言うのもなんだけれど、これは一刻も早く逃げた方がいい。犠牲は少ないほうがいいから。
俺は大きく深呼吸をした。やるしかない。
──瞼を下ろして、呼吸に集中する。
身体から余計な力を抜きながら、頭のてっぺんから足の先まで、俺は俺自身を点検する。
溜め込んできた魔力は足りている。よし。
筋肉や関節が不具合を起こしている箇所もない。よし。
心拍数も、呼吸も、問題ない。よし、よし、よし。
──さて、やろうか。
俺は大きく深呼吸をして──全魔力を放出する。
アレを倒せる、イメージを、何度も何度も頭の中で反復する。
俺が何をしようとしているのか、それに気づいた兵士達の鬨の声が聞こえてきた。
それと同時に、痛切に叫ぶ声も聞こえた。俺の名を呼ぶのは、清らかなハスキーボイス。相反する二つの性質を兼ね備えた類い希なる声。まずい奴に見とがめられたみたいだ。
「師匠! 何してるんですか!」
視界の端に灰色の髪の少女が飛び込んできて、俺を叱りつける。敬意と怒りと呆れと、少しの心配を滲ませた声色。
コルネリア・グレージュ。
俺と同じく魔導師で、一応は俺の弟子だ。
この子はいつも、いいところに来てくれる。
「ちょうどよかった。コーデリア、ありったけの防御魔術を展開できるように準備しておいてくれ。こっちでも善処するが、念のために」
「何をされるおつもりですか! どうして、あなたはいつも無茶を……」
「すまん、小言はあとで聞くよ」
「ちょっと、師匠!? お待ちください、ルーデンス様──」
悪いけれど、時間がない。
危険で厄介な仕事だが、やれる奴がやるべきだ。
──跳躍。
俺は上空に向かって、まっすぐに飛んだ。
向かう先は、あの馬鹿でかいドラゴン。
今から実行するのは、とても単純な攻撃だ。
膨大な魔力をまとった体当たり。小細工もなにもない、ただ放物線を描いて飛んでいく。
山脈レベルで巨大な魔獣に、ただの体当たりで勝てるのかって?
勝てるよ。たぶん。
あの無駄に禍々しいドラゴンを見た瞬間に、俺は勝ち筋が描けた。描けてなきゃ、無謀な特攻なんてしない。
巨大ドラゴンを、俺はこの攻撃で撃破できる。
──痛いとか辛いとか、死ぬ可能性とか、そういうことを考えなければ。
着弾。
衝撃。
轟音、断末魔。
巨大ドラゴンの土手っ腹に風穴をあけて、俺は──墜落した。
全魔力を放出した、って言っただろ。あれ、比喩じゃないから。
でも、まだ仕事は残っている。
「吹きすさべ……!」
俺は墜落しながらも、ドラゴンが纏っていた真っ黒い炎──いわゆる瘴気が舞い上がるのを、魔術で吹かせる特大の突風で山脈の向こうに押し返す。
これでいい。
これで兵士の皆さんへの被害はないはずだ。多少のお漏らしはあるかもしれないが、コルネリアがどうにかするだろう。若いけれど、彼女は腕がいいんだ。よし、大丈夫。
──俺は、安心して墜ちた。
ああ、念のため言っておくけれど。
いつものことだから、問題ない。
◆◇◆
「はあ、さすがに徒歩は疲れるな」
数時間後、俺は森の中を彷徨っていた。
ドラゴン撃破のために魔力を全放出したので、魔力はからっけつだ。さすがに、あんなに巨大な獲物は初めてだったし。
まあ、あれだけ巨大なやつとやりあったから、疲れている。それに、そもそも空を飛ぶ魔術は今のハイデル王国には存在しない。
どの道、俺は徒歩で帰るしかないわけで。
「……まあ、勝てたからいいか」
一応、元から勝算はあった。あのドラゴンはかなりデカかったが、それは見た目だけ。
俺の溜め込んでいた魔力の量が上回っていたのだ。
そうじゃなきゃ、あんな人間ミサイルみたいな真似はしないよ。
……ああ、そう。ミサイル。
俺はミサイルのある世界からやってきた。ちょっとした事故で『あ、これ死んだわ』って思った次の瞬間に、俺は赤ん坊になってたってわけだ。
転生ってやつだね。
とにかく、日本に生きてた俺は、この世界に生まれてきた。
ハイデル王国、待望の王太子……の、忌むべき双子の弟として。
天賦の才を持つ証である赤い瞳がなかったら、俺はたぶん殺されてたと思う。あるいは、良くて王都のはずれに捨てられてたか、もうちょっと良くて遠縁に養子に出されていただろう。
だから、俺は感謝している。
生まれ持った魔術の才能と、俺を生かしておいてくれているハイデル王国の寛大な措置に。別に虐められているとか、冷遇を受けているとかではない。たぶん。
「ああ、いらっしゃった! 王弟殿下、いや、大賢者殿!」
「……近衛伝令団長?」
ほら、その証拠に、墜落した俺を探しに来てくれる人がいた。
颯爽と馬に跨がってやってきたのは、俺に撤退を進言してきた近衛伝令団長だ。
「わざわざ迎えにきてくれたのか?」
「ええ、当然でしょう」
いつものことなのに、申し訳ない。
「みんなは無事だったのか?」
近衛伝令団長は俺の質問に答えずに、馬から下りると鞍にかけていた革袋を外して俺に手渡した。
「酒です。安物ですが」
なるほど。つまりは、万事上手くいったということだろう。
一気に安堵感に包まれて、俺はその場に立ちつくして天を仰ぐ。よかった。
「ありがたい。喉が乾いてたところだ」
酒を受け取って、近衛伝令団長に向かって軽く掲げる。
彼がわざわざ単身で俺を探しにきたということは、おそらく近衛伝令団長殿は俺を含めた前線の状況を把握して、王国中枢に報告する任務でも負っているのだろう。王というのは、アルベルト・リヒト・ハイデルベルク──俺の兄さんだね。
近衛伝令団長は、王の耳であり目だ。大変な仕事だよな。お互いに。
俺は遠慮なく酒を喉に流し込んだ。
うわ。けっこう強い酒だな。クラッとくる。
まあ、仕方がない。水は腐りやすいから、持ち歩くのは酒になっちゃうよね。十分に魔力があれば、水くらいパッと出せるんだが。
……ところで、さっきから近衛伝令団長の視線をやたらと感じる。
近衛伝令団長が、俺をガン見しているのだ。そんなに見られると恥ずかしいんだが。
喉が潤ったので、革袋を近衛伝令団長にお返しする。ねぎらいの言葉なんて零しながら。
「あなたも、どうぞ。お互いに苦労するな」
「おや、有り難く存じます」
それを受け取った彼は、溜息交じりに笑って──革袋を、地面に落とした。
「え?」
「──苦労しましたよ、ほんとに」
ぐらり、と視界が揺れる。
ああ、しまった。俺は直感した。
これは、ヤバいやつだ。
かなりデカい敵を倒したあとで、知らず知らずのうちに気分が浮ついていたようだ。白けた表情で俺を見つめる近衛伝令団長に、一言嫌味でも返してやるつもりで口を開いた。
けれど、もう遅かった。
「……あ……が……?」
全身が震えて、声もまともに出せない。寒いのに、ねばついた汗が噴き出してくる。もう、間違いないだろう。
毒だ。それも即効性の。
ガクガクと痙攣する筋肉。全身が制御不能に陥った。
俺はそのまま、為す術もなく崩れ落ちる。
「……ぅ」
ぐいと頭を掴まれる。
近衛伝令団長は俺の髪を乱暴に切った。
「あなたは祖国を救うため、見事討ち死にされました」
そういうカバーストーリーてわけか。
俺はもう呻くことすらできずに、近衛伝令団長の──いや、人殺しの声を聴いていた。
「すみませんね、頼まれ事なもので」
近衛伝令団長は、地面に倒れた俺に告げた。
へえ、頼まれ事か。冥土の土産ってやつかな。ちょっとした成功に気を良くして易々と情報漏洩するなんて、ろくな社会人じゃない。
俺の毒殺を画策したのは誰だ?
脳裏に浮かぶのは──。
俺の、脳裏に、浮かんだ顔は。
(いや、まさか。だって、俺は兄さんを……助ける、ために……)
近衛伝令団長に直接命令できる人間は誰だ?
ハイデル国の王である、俺の兄だ。
必死で否定した。
だって、俺はずっと影に徹してきたはずだ。
弟である俺が兄に疎まれていることも、俺の魔術をいいように使われていることも、そんなこと、そんなことが。
……ああ、そういうことか。
俺はお払い箱ってことか。
あの巨大なドラゴンを──つまりは、魔王国軍の最高戦力っぽいやつを撃破したから。
いいタイミングってことかよ。俺を、切り捨てるのに。
失望。絶望。それから、痛嘆。
ふざけんな!
そんな叫びすら奪われてしまった。息が出来ない。
もう、かなり毒が回っているようだ。
理不尽すぎる現実への、怒り──いや、その現実から目を背けていた自分自身への怒りで、脳を焼き切れそうだった。最悪の気分だ。だが、もうすべてが遅い。
俺は意識を手放した。
ハイデル王国の防衛線は、隣国との国境線にあたる山脈へ向かってただ広がっていく荒野だ。
その地平に無数の下級魔族が蠢いている。彼らは知能じみたものを持つ人型の魔性で、彼らとほぼ同数の言葉を解さない獣型の魔性──魔獣たちとともに、ハイデル王国の首都を目指して猛然と進軍する。
対するハイデル王国の軍勢もの、かき集めた傭兵団や近隣の国々からの義援隊も含めた大規模なもの。ほとんど総力戦に近い。地上は騎兵と歩兵が必死に抗い、数少ない魔術の使い手は空を飛ぶ魔獣と交戦している。
魔王国ヴァル=ネクルとハイデル王国の間では小競り合いが頻発しているが、今回のコレは大規模な衝突だ。それも、かなり。
「ルーデンス王弟殿下!」
俺の名を呼ぶ声がして、振り返る。イケメンがいた。
馴染みの近衛伝令団の団長だ。ああ、まだ生きていたんだ。彼が率いる近衛伝令団は、危険な魔獣が蠢き味方の矢と弾が雨と降る前線をメッセンジャーとして駆け回る精鋭部隊だ。当然、腕が立つ。それに誰にでも気さくな男だ。俺のような腫れ物にもね。
「王弟殿下はやめてくれ。簡潔に呼んでくれてかまわないよ」
「では、大賢者殿」
こっぱずかしい呼び名だった。周囲が勝手に呼びはじめたときに、ちゃんと止めておけばよかったな。俺ごときに大げさすぎる二つ名だ。
先ほどかっこつけて「簡潔に呼んでくれてかまわない」とか芝居がかったことを言った手前、今更やめてくれとも言い出しにくくて、俺は黙って続きを促した。
「……うん。用件は」
「ここは危険です、退避を」
「はは。退避か」
思わず乾いた笑いが漏れ出る。
無理だろ。この局面で逃げるなんて。
「俺だって王家の人間で、一応は魔術師だ。その俺が尻尾を巻いて逃げ出して、君たちが命がけで戦うと? 妙な話だ、理不尽極まりない」
本心だった。
俺が逃げれば、我が国には間違いなく甚大な被害が出る。
「大賢者様、木は確かですか」
「ごめん、やっぱりその大賢者って呼び方もなしで」
連呼されると、やっぱり恥ずかしかった。
近衛伝令団長は、噛みしめるように俺の名を呼んで、なおも食い下がってきた。
「では、ルーデンス・ハイデルベルク殿下」
「うん」
「お逃げください」
「ダメだ」
俺はゆっくりと首を横に振る。
「……俺はここから、逃げてはいけない」
◆◇◆
ハイデル王国と国境を接する魔王国ヴァル=ネクル──魔族の形成する国との泥沼の紛争は、俺が生まれる前から続いている。
激化と小康状態を繰り返している戦いで、見知った顔が次々に命を落としているのだ。誰が生きていて、誰が命を落としたか。たまにわからなくなる。
まあ、俺が前線に立つようになってからは、ハイデル王国の死傷者はかなり減少したはずだが。
とにかく、この大隊長さんは生きていた。伊達に何百人もの部下を率いているわけではない。その何百人のうち、どれくらいがこの修羅場を生き残っているのだろう。
「王家は君たちにこの国を背負って戦えと、その命を賭けろと命じてるんだ。そんなハイデルベルク家の人間が逃げるわけにはいかないだろう」
「しかし」
近衛伝令団長が少し口ごもる。
「アルベルト国王陛下はすでに退避しております」
「……ああ、そう」
本当に、理不尽だ。
いや、この世の中には理にかなっていることのほうが少ないか。
アルベルトは俺の兄だ。輝く金髪と華やかな笑顔、整った容姿──理想的な若き国王だ。少なくとも、表向きは。
──俺は生まれたときからアルベルトの影で、あの兄が背負うべきものを押しつけられてきた。
アルベルトが『理想の若き国王』でいられるように、周囲は奔走している。
もちろん、俺にも。
責任、重圧、そして、国のためにすべてを捧げる人生。もちろん、俺には輝かしい王座も王冠も与えられない。変に目立って面倒な政治や後継争いに巻き込まれるよりはいい。俺は納得してるんだ……本当に。
「それは良い知らせだ。国王陛下に何かあれば、下らない政争で国内がゴタつくだろうし」
これも本心だ。
魔王国との戦いが続く状態でも──いや、だからこそかもしれないけれど、ハイデル王国は儀式や様式を重んじる。時間と資金は有限なのにね。
「どうされますか、ルーデンス殿下」
「国王陛下が安全な場所にあらせられるのであれば、なおさら俺が退くわけにはいかないな」
俺の兄──アルベルト・ハイデルベルクは若くして王位についた、ハイデル王国の『陽光王』だ。金髪に碧眼を持った見目麗しい姿は、国民を魅了してやまない。
それに対して双子の弟である俺は、黒髪に一筋の銀髪、赤い眼を持った日陰者だ。影に、陰に、兄を支えるために奔走している。日向とか、ない。
というわけで、この局面でも俺は逃げるわけにはいかないのだ。
「兄が無事なのであれば、それはハイデルにとって僥倖だな」
「……御意」
近衛伝令団長はそれ以上は何も言わなかった。
彼もわかっているのだろう。王家の人間が矢面に立っていることの意味を。
──俺のような陰気な人間であっても、王弟という立場の人間が前線に立っていれば、兵士たちが少しは踏みとどまれる。自分たちに戦いを命じた人間が、ぬくぬくと安全な場所にいるのにいるのではなく、一緒に命がけで現場に立っているという実感は彼らにとってのせめてもの救いになっているのだ。
だからこそ俺が退くわけにはいかない。
いや、そりゃそうだろう。
兵士のみなさんの気持ちを考えたら、逃げるなんて不可能だ。自分たちが命がけで戦っているのに、自分たちよりも力のある人間が尾っぽ巻いて逃げているなんて、考えるだけでも腹が立つ。そして、俺には力がある。残念なことに。
この世界では、魔術を使える人間は希少だ。
そして俺は、魔術を使う才にだけは恵まれた。
「理不尽だが、それが俺の人生か」
貧乏くじを誰かが引かなくてはいかないのならば、俺が引こう。人間は降りかかる理不尽と残酷な運命には逆らえない。
そう。耐えることこそ、人生の本質だ。
……ぞく、と首筋が疼いた。俺の勘が告げている。巨大な魔力を持った何かが近づいてきている、と。
「ああ、そろそろデカいのが来るな」
俺は大きく息を吸う。
雑魚どもを退けてきたハイデル王国の結界は、すでに綻び始めている……そろそろ修理しないとな。この戦いが終わったら、また徹夜続きの作業かな。
巨大機構をワンオペで修理するのつらい。まあ、俺以外にいじれる人間がいないので仕方がないのだけれど。この国においては、魔術を使える人間はそれだけで貴重な人材なのだ。
「……っ! この気配は」
お、さすが手練れの近衛伝令団長。危機察知能力に優れている。
すでに逃げる体勢になっているし。
──ハイデル王国と魔王国ヴァル=ネクルとの国境線である、大山脈アルデバラン。
その稜線を何かが悠々と超えてくる──巨大なドラゴンだった。魔獣のなかでも際だって強力で凶暴な存在。魔獣のなかの魔獣。人類を蹂躙するもの。
「まじか」
その姿を目にして、俺は思わず声を漏らす。
「あー……まずいな」
大きい。大きすぎる。
人の足では超えるのに数日かかる大山脈を、その巨大な魔獣は軽々と超えてきた。
翼を使うこともなく、ただ、歩いて。
要するに、こういうことだ。
──あのドラゴンは、ただ歩くだけでハイデル王国の軍勢をすべて磨り潰すことができる。アレが山を降りててきたら、それでおわり。あの黒々とした炎を揺らめかせる体躯の下で、俺たちはぷちっと潰される。
俺に「逃げろ」と進言してきた近衛伝令団長の姿は、すでにどこにも見えない。
さすがの逃げ足、いや、判断力だ。
まだドラゴンを見上げている人達は、少々判断が遅いかな。いや、兵士達も、将校達も、足がすくんでいるのか。俺が言うのもなんだけれど、これは一刻も早く逃げた方がいい。犠牲は少ないほうがいいから。
俺は大きく深呼吸をした。やるしかない。
──瞼を下ろして、呼吸に集中する。
身体から余計な力を抜きながら、頭のてっぺんから足の先まで、俺は俺自身を点検する。
溜め込んできた魔力は足りている。よし。
筋肉や関節が不具合を起こしている箇所もない。よし。
心拍数も、呼吸も、問題ない。よし、よし、よし。
──さて、やろうか。
俺は大きく深呼吸をして──全魔力を放出する。
アレを倒せる、イメージを、何度も何度も頭の中で反復する。
俺が何をしようとしているのか、それに気づいた兵士達の鬨の声が聞こえてきた。
それと同時に、痛切に叫ぶ声も聞こえた。俺の名を呼ぶのは、清らかなハスキーボイス。相反する二つの性質を兼ね備えた類い希なる声。まずい奴に見とがめられたみたいだ。
「師匠! 何してるんですか!」
視界の端に灰色の髪の少女が飛び込んできて、俺を叱りつける。敬意と怒りと呆れと、少しの心配を滲ませた声色。
コルネリア・グレージュ。
俺と同じく魔導師で、一応は俺の弟子だ。
この子はいつも、いいところに来てくれる。
「ちょうどよかった。コーデリア、ありったけの防御魔術を展開できるように準備しておいてくれ。こっちでも善処するが、念のために」
「何をされるおつもりですか! どうして、あなたはいつも無茶を……」
「すまん、小言はあとで聞くよ」
「ちょっと、師匠!? お待ちください、ルーデンス様──」
悪いけれど、時間がない。
危険で厄介な仕事だが、やれる奴がやるべきだ。
──跳躍。
俺は上空に向かって、まっすぐに飛んだ。
向かう先は、あの馬鹿でかいドラゴン。
今から実行するのは、とても単純な攻撃だ。
膨大な魔力をまとった体当たり。小細工もなにもない、ただ放物線を描いて飛んでいく。
山脈レベルで巨大な魔獣に、ただの体当たりで勝てるのかって?
勝てるよ。たぶん。
あの無駄に禍々しいドラゴンを見た瞬間に、俺は勝ち筋が描けた。描けてなきゃ、無謀な特攻なんてしない。
巨大ドラゴンを、俺はこの攻撃で撃破できる。
──痛いとか辛いとか、死ぬ可能性とか、そういうことを考えなければ。
着弾。
衝撃。
轟音、断末魔。
巨大ドラゴンの土手っ腹に風穴をあけて、俺は──墜落した。
全魔力を放出した、って言っただろ。あれ、比喩じゃないから。
でも、まだ仕事は残っている。
「吹きすさべ……!」
俺は墜落しながらも、ドラゴンが纏っていた真っ黒い炎──いわゆる瘴気が舞い上がるのを、魔術で吹かせる特大の突風で山脈の向こうに押し返す。
これでいい。
これで兵士の皆さんへの被害はないはずだ。多少のお漏らしはあるかもしれないが、コルネリアがどうにかするだろう。若いけれど、彼女は腕がいいんだ。よし、大丈夫。
──俺は、安心して墜ちた。
ああ、念のため言っておくけれど。
いつものことだから、問題ない。
◆◇◆
「はあ、さすがに徒歩は疲れるな」
数時間後、俺は森の中を彷徨っていた。
ドラゴン撃破のために魔力を全放出したので、魔力はからっけつだ。さすがに、あんなに巨大な獲物は初めてだったし。
まあ、あれだけ巨大なやつとやりあったから、疲れている。それに、そもそも空を飛ぶ魔術は今のハイデル王国には存在しない。
どの道、俺は徒歩で帰るしかないわけで。
「……まあ、勝てたからいいか」
一応、元から勝算はあった。あのドラゴンはかなりデカかったが、それは見た目だけ。
俺の溜め込んでいた魔力の量が上回っていたのだ。
そうじゃなきゃ、あんな人間ミサイルみたいな真似はしないよ。
……ああ、そう。ミサイル。
俺はミサイルのある世界からやってきた。ちょっとした事故で『あ、これ死んだわ』って思った次の瞬間に、俺は赤ん坊になってたってわけだ。
転生ってやつだね。
とにかく、日本に生きてた俺は、この世界に生まれてきた。
ハイデル王国、待望の王太子……の、忌むべき双子の弟として。
天賦の才を持つ証である赤い瞳がなかったら、俺はたぶん殺されてたと思う。あるいは、良くて王都のはずれに捨てられてたか、もうちょっと良くて遠縁に養子に出されていただろう。
だから、俺は感謝している。
生まれ持った魔術の才能と、俺を生かしておいてくれているハイデル王国の寛大な措置に。別に虐められているとか、冷遇を受けているとかではない。たぶん。
「ああ、いらっしゃった! 王弟殿下、いや、大賢者殿!」
「……近衛伝令団長?」
ほら、その証拠に、墜落した俺を探しに来てくれる人がいた。
颯爽と馬に跨がってやってきたのは、俺に撤退を進言してきた近衛伝令団長だ。
「わざわざ迎えにきてくれたのか?」
「ええ、当然でしょう」
いつものことなのに、申し訳ない。
「みんなは無事だったのか?」
近衛伝令団長は俺の質問に答えずに、馬から下りると鞍にかけていた革袋を外して俺に手渡した。
「酒です。安物ですが」
なるほど。つまりは、万事上手くいったということだろう。
一気に安堵感に包まれて、俺はその場に立ちつくして天を仰ぐ。よかった。
「ありがたい。喉が乾いてたところだ」
酒を受け取って、近衛伝令団長に向かって軽く掲げる。
彼がわざわざ単身で俺を探しにきたということは、おそらく近衛伝令団長殿は俺を含めた前線の状況を把握して、王国中枢に報告する任務でも負っているのだろう。王というのは、アルベルト・リヒト・ハイデルベルク──俺の兄さんだね。
近衛伝令団長は、王の耳であり目だ。大変な仕事だよな。お互いに。
俺は遠慮なく酒を喉に流し込んだ。
うわ。けっこう強い酒だな。クラッとくる。
まあ、仕方がない。水は腐りやすいから、持ち歩くのは酒になっちゃうよね。十分に魔力があれば、水くらいパッと出せるんだが。
……ところで、さっきから近衛伝令団長の視線をやたらと感じる。
近衛伝令団長が、俺をガン見しているのだ。そんなに見られると恥ずかしいんだが。
喉が潤ったので、革袋を近衛伝令団長にお返しする。ねぎらいの言葉なんて零しながら。
「あなたも、どうぞ。お互いに苦労するな」
「おや、有り難く存じます」
それを受け取った彼は、溜息交じりに笑って──革袋を、地面に落とした。
「え?」
「──苦労しましたよ、ほんとに」
ぐらり、と視界が揺れる。
ああ、しまった。俺は直感した。
これは、ヤバいやつだ。
かなりデカい敵を倒したあとで、知らず知らずのうちに気分が浮ついていたようだ。白けた表情で俺を見つめる近衛伝令団長に、一言嫌味でも返してやるつもりで口を開いた。
けれど、もう遅かった。
「……あ……が……?」
全身が震えて、声もまともに出せない。寒いのに、ねばついた汗が噴き出してくる。もう、間違いないだろう。
毒だ。それも即効性の。
ガクガクと痙攣する筋肉。全身が制御不能に陥った。
俺はそのまま、為す術もなく崩れ落ちる。
「……ぅ」
ぐいと頭を掴まれる。
近衛伝令団長は俺の髪を乱暴に切った。
「あなたは祖国を救うため、見事討ち死にされました」
そういうカバーストーリーてわけか。
俺はもう呻くことすらできずに、近衛伝令団長の──いや、人殺しの声を聴いていた。
「すみませんね、頼まれ事なもので」
近衛伝令団長は、地面に倒れた俺に告げた。
へえ、頼まれ事か。冥土の土産ってやつかな。ちょっとした成功に気を良くして易々と情報漏洩するなんて、ろくな社会人じゃない。
俺の毒殺を画策したのは誰だ?
脳裏に浮かぶのは──。
俺の、脳裏に、浮かんだ顔は。
(いや、まさか。だって、俺は兄さんを……助ける、ために……)
近衛伝令団長に直接命令できる人間は誰だ?
ハイデル国の王である、俺の兄だ。
必死で否定した。
だって、俺はずっと影に徹してきたはずだ。
弟である俺が兄に疎まれていることも、俺の魔術をいいように使われていることも、そんなこと、そんなことが。
……ああ、そういうことか。
俺はお払い箱ってことか。
あの巨大なドラゴンを──つまりは、魔王国軍の最高戦力っぽいやつを撃破したから。
いいタイミングってことかよ。俺を、切り捨てるのに。
失望。絶望。それから、痛嘆。
ふざけんな!
そんな叫びすら奪われてしまった。息が出来ない。
もう、かなり毒が回っているようだ。
理不尽すぎる現実への、怒り──いや、その現実から目を背けていた自分自身への怒りで、脳を焼き切れそうだった。最悪の気分だ。だが、もうすべてが遅い。
俺は意識を手放した。



